2026年10月1日木曜日

【読書感想文】堀江 貴文『すべての教育は「洗脳」である 21世紀の脱・学校論』 / がんばって炎上芸

すべての教育は「洗脳」である

21世紀の脱・学校論

堀江 貴文

内容(e-honより)
学校とは本来、国家に従順な国民の養成機関だった。しかし、インターネットの発達で国境を無視した自由な交流が可能になった現代、国家は名実ともに“虚構の共同体”に成り下がった。もはや義務教育で学ぶ「常識」は害悪でしかなく、学校の敷いたレールに乗り続けては「やりたいこと」も「幸せ」も見つからない。では、これからの教育の理想形とはいかなるものか?「学校はいらない」「学びとは没頭である」「好きなことにとことんハマれ」「遊びは未来の仕事になる」―本音で闘うホリエモンの“俺流”教育論!

 冒頭から「学校は必要ない!」なんてカマしてくるから「やっぱり読むんじゃなかったかな……」とおもいながら読んだのだが、わざと露悪的なことを言っているだけで言っていることはわりとふつうだった。平凡すぎて逆にがっかりしたぐらい。

「親や教師から言われたことを鵜呑みにするな」とか「これからの時代、国家の重要性はどんどん下がっていく」とか「学ぶことは重要だ。何かに打ちこんでスペシャリストを目指せ」とか、書いてあることはいたってまともだ。がんばって炎上芸をやっている、という感じだ。

 これまで堀江貴文さんの書いたものをちゃんと読んだことがなく、ときどきネットニュースで「ホリエモンの暴論に賛否両論!」みたいな記事を見る程度だったので、どんな乱暴な意見が読めるかと身構えていたのに、肩透かしを食らった気分だ。



 第1章の『学校は国策「洗脳機関」である』はかなり強めの語調で書かれていたのでおもしろかった(まったく賛同はできないけど)。

 それでは、なぜ学校は恣意的な常識を人に押し付けようとするのか?その常識によってどんな人間を育てようとしているのか?
 一言でいえば、従順な家畜である。
 社会は、とくに旧来型の企業では、従順な働き手を求めている。したがってその養成段階である学校で子どもたちは道徳規範を叩きこまれ、学力という形で「従順さ」に点数がつけられていく。
 受験のため、卒業のため、就職のため、どんな理不尽な勉強にも耐え、ひたすら情報処理能力を磨いていく。そんな従順さの指標が、受験社会における「学力」だ。
 企業からすると高学歴の人間は、理不尽な作業への耐性が強いという判断になる。いまだ体育会系の学生へのニーズが高いのも、要するに「従順さ」と「理不尽への耐性」が強いとみなされているからだ。

 ま、言ってることはわかるんだけど。

 でも世の中の人ってそんなにはっきりと「従順」と「独立志向」に分かれるものじゃないとおもうんだよね。まあ「一度も人の下で働いたことがなくて起業して成功した人」もいるけど、それよりは「従順さと独立志向の両方を持ち合わせて成功した人」のほうが多いはず。

 アーティストなんかでも、成功するのは芸術的センスが優れている人ではなくプロモーションが上手な人って言うし。すべての面で卓越した技能と知識を持った人なんていないんだから、ある面ではエゴイストで、ある面では従順な人のほうがうまくやれるとおもうんだけどな。

 たしかに学校には無駄も多いけど、それをもって学校は不要とまで言い切るのは極論だぜ。せっかく多くのノウハウが詰まった教育システムがあるんだから、全否定するんじゃなくて、必要に応じてうまく学校教育を利用したらいいとおもうよ。



 教育よりも他の話のほうがおもしろかった。

「所有」の話とか。

 ネットサービスに限らない。身の回りのモノについても、「所有」という概念が消えつつある。
 モノの行き来にかかる時間的コストは、極限まで下がった。国内の製品であれば、アマゾンで注文すれば翌日届いてしまう。プライム会員ならば、数時間以内に手に入れることだって可能だ。海外の商品ですら、2~3日で届くことにもはや誰も驚かない。
 これは、アマゾンの倉庫を借りてモノを保管してもらっているのとほぼ同じだ。そこから必要な時に運んできてもらうようなものである。
 極論でもなんでもなく、アマゾンやヨドバシカメラといった優良通販サイトさえあれば、僕たちはもう、手元にいちいちモノを置いておく必要がない。モノですら、アプリのように「アクセス」すれば届くのだ。
 インターネットの登場がもたらした恩恵は、「他者と通信できる」ことではない。情報やモノ、あらゆるものの「所有」の価値を著しく下げたことなのである。これこそ、インターネットのもたらした社会変化が「情報革命」と呼ばれる所以だ。

 立川こしらさんという噺家が、家を持っていないという話を読んだことがある。ずっとホテル住まいで、服なんかは使い捨てをしてるとか。たしかに移動の多い生活をする人にとっては家がないほうが合理的かもしれない。

 ぼくはここまで合理的な考えはできないけど、インターネット以前に比べれば「モノを所有したい」という欲はずいぶん減った。昔は本やCDをたくさんコレクションしていたけど、CDはもう聴かなくなったし、どんなに好きな本だってほとんど読み返すことはない。特に情報を得るツールに関しては、所有の価値はすごく下がった。

 あとこれは経済的余裕ができたからでもあるかな。貧しい人のほうがモノが多いという話を聞く。お金に余裕があれば「また必要になったら買えばいい」とおもえるもんな。



 個人的にはあんまり共感できなかった(ぼくは古い人間なので)けど、いちばん納得できたのは以下のくだり。

 そのことを解説するために、もう一つ、実際にされた質問を紹介しよう。
「土地を持っています。巨大施設は作れなさそうな狭さなので、ラグジュアリーなホテルをここに建てようと思うのですが、周りには強豪となりそうな宿泊施設も多いです。堀江さんならどのような方法で差別化を図りますか?」
 土地がある。狭さから見てこういったことにしか使えない。どうすればそこで勝ち上がれるだろうか。
 この質問は「ホリエモンチャンネル」でも取り上げ、「順序が逆だ」と指摘した。土地があるからホテルを作るのではなく、「ホテルを作りたいから土地を探す」のが本来の順番だ。ラグジュアリーなホテルを作り、人を楽しませたいと考えている人はいくらでもいる。その中の「本気」な人たちは、必ずこう考えているだろう。
「こんな雰囲気の、素敵なホテルをつくりたい。ロケーションはこうがいい。だから、日本のこのあたりで、こういった土地を探そう!」
 手持ちのものをうまく使うことだけを考えている人と、「これを作りたい」というビジョンがはっきりしている人。
 どちらの方がパフォーマンス高く理想を実現できるだろうか。そして何より、どちらの方が、お客にとって理想的な空間になるだろうか?比べるまでもなく、後者である。
 つまり、自分のやってきたことや、すでに持っているものから「やること」を決めてはいけないのだ。

 そうだよね。「自分の強みを活かそう」と考えてしまうけど、自分でおもう自分の“強み”なんて大したことじゃないんだよね。逆に自分からしたら「えっ、そんなのあたりまえのことでしょ」とおもうようなことが強みだったりする。苦労して身につけたことよりも、自然と身についたことのほうが価値がある。

 たとえばマンガの神様・手塚治虫さんは医師免許を持っているけど、最初から「せっかく取得したこの医師免許を活かして何かできないか?」と考えていたら、あの偉大な作品たちは生まれていなかっただろう。「医師免許なんかどうでもいい、マンガを描きたいから描く!」という意識だったからこそ大成したのだろう。

「せっかく長年この仕事をやってきたからそれを活かして次の仕事を探そう」とか「せっかく資格があるからこの資格を活かした仕事を」とかのセコい考えじゃだめだってことね。これは経験上、観測上でもうなずける話だ。



 読んでいておもったんだけど、この本を読んで「なるほど、さすがホリエモン。いいこと言う。俺もこんなふうに生きよう!」とおもう人は、堀江さんが最もばかにするタイプの人だ。堀江さんが言うところの“従順な家畜”だ。

 ここに矛盾がある。堀江さんはオンラインサロンとか有料メルマガとかやってるみたいだけど、その顧客こそが最も堀江さんが目指す人間から遠い人たちなんじゃないのか。

 それを堀江さんもきっとわかっている。わかっていて、でもお金を払ってくれる大事な客だから、その人たちを気持ちよくさせるようなことを言う。

 うーん。


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