2020年5月14日木曜日

【読書感想文】貧困者との接し方の正解 / 石井 光太『絶対貧困』

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絶対貧困

世界リアル貧困学講義

石井 光太

内容(e-honより)
絶対貧困―世界人口約67億人のうち、1日をわずか1ドル以下で暮らす人々が12億人もいるという。だが、「貧しさ」はあまりにも画一的に語られてはいないか。スラムにも、悲惨な生活がある一方で、逞しく稼ぎ、恋愛をし、子供を産み育てる営みがある。アジア、中東からアフリカまで、彼らは如何なる社会に生きて、衣・食・住を得ているのか。貧困への眼差しを一転させる渾身の全14講。
アジア、中東、アフリカなどの貧困地域を歩いてきたノンフィクションライターによる、「貧困層の人々がどうやって生きているか」の講義。

貧困層の人々とすぐ近くで生活した体験をもとに、衣食住、仕事、恋愛、子育て、病気、出産、死、ギャンブル、麻薬、売春などについてミクロな視点から語っている。

当然ながら、日本でそこそこ恵まれた暮らしをしている人間からすると眼をそむけたくなるようなことも書かれているのだが、淡々と描かれているのでそこまで陰惨な感じはしない。
ヒューマニズムたっぷりに「どうですか、かわいそうでしょう、こんなことが許されていいのですか!」みたいな感じは個人的に好きじゃないので、こういうのがいい。
事実を淡々と書く方が読み手の思考が深まるとおもう。



ハンス・ロスリング、オーラ・ロスリング、アンナ・ロスリング・ロンランドの著書『FACTFULNESS』によれば、世界の(食うに困るほどの)貧困層の数はどんどん減っていっているのだという。
『絶対貧困』 の単行本刊行は2009年なのでそのときよりも貧しい人は減っているのだろう、たぶん。
とはいえ、戦争、災害、疫病などがなくならない以上、貧しい人もまたいなくならない。
また「犯罪に手を染めて生活している人」や「売春をすれば食っていける人」は、収入の数字だけ見れば深刻な貧困ではないんだろうけど、それを「食うに困らないぐらい豊かな人」に含めるのはやっぱり無理がある。

たとえばこんな話とか。
 そこでアメリカをはじめとした各国の軍隊は、途上国の貧しい人たちをリクルートするのです。先進国の人が月給二十万円で戦場に行くことは少ないでしょうが、途上国の貧しい人なら危険があっても一獲千金の機会だと思って喜んで行きます。ただ、一国の政府がこうしたリクルートを露骨にやると問題になる可能性があります。そこで、政府は専門の人材派遣会社を何社も通して途上国から労働者を集めるのです。
(中略)
 証言によれば、彼はネパールの人材会社(ブローカー)に二十万円から八十万円ぐらいの大金を支払ってイラク行きの契約をしたそうです。そして一度インドの首都ニューデリーに集まり、何ヵ月か人員の空きがでるのを待って、今度はインド人のブローカーとともにヨルダンへ飛びます。そこでまた空きを待ち、順番が来てようやくイラク人ブローカーとイラク国内へ入り、米軍基地内などで仕事を得るのです。労働者たちは数週間待つだけで仕事にありつける場合もあれば、半年待っても欠員が出ずに仕事を得られないこともあるようです。ただ、このようにいくつもの会社を通すことで「先進国が貧しい人々を戦場でリクルートしている」という事実がうやむやにされているのです。
途上国で生きている人からしたら月給二十万円は高給の仕事だろう。
だけど二十万円のために望まない危険な仕事に従事する人を「豊かな生活を送る人」と呼ぶことはできない。

健康とか安全とか尊厳とか道徳とかを切り売りしなければいけない人はたくさんいる。
途上国だけでなく、先進国にも。
堤未果さんの『貧困大国アメリカ』にも奨学金を返せない学生を軍にリクルートする、という話が出てきた。
日本も国家支出から教育費がどんどん削られている。教育費の公費負担額の対GDP比は、日本はOECD加盟国でデータの存在する34カ国中最下位だそうで、世界有数の「教育に金をかけない国家」なのだ。
学費のために自衛隊や風俗産業や非合法な職場で働く若者は増えてゆくだろう。途上国の貧困問題も他人事ではない。



いちばん胸が痛んだのはこのへんの話。
 まず犯罪組織は病院の新生児や、路上生活者の赤子を誘拐して、一箇所に集めます。生まれたての赤子から三歳児ぐらいまでが一番利用価値があるとされています。
 犯罪組織はその子供たちを町にいる物乞いたちに一日いくらという形で貸し出します。借り手は赤子のいない年老いた物乞いが多いですね。
(中略)
 私はこの商売の存在をインドのムンバイとチェンナイの二都市で確認しましたが、二〇〇二年当時の貸し賃は一日に百~二百円ぐらいでした。物乞いたちによれば、赤子を抱いていれば二百~四百円ぐらい多く喜捨をもらえるのだそうです。そうなると、赤子を借りれば五十円から百円ぐらい多く儲かるのです。
 また、赤子が障害児ですと、通行人が寄せる同情はより大きくなり、多額の喜捨得られるという現実もあります。
たしかに赤ちゃんがいたら同情しちゃうもんなあ。
でも同情してお金を渡せばこういうビジネスや誘拐を助長することになる、だけどお金を渡せばとりあえずそのうちのいくらかは目の前の赤ちゃんに渡すことができる……。

どっちを選んでも正解ではない。
著者の石井さんは「そういうときはむずかしく考えずに自分にできる範囲で目の前の人を救えばいい」と書いている。
個人にできることはそれぐらいだから、それでいいのかもしれない。
 彼らは身体の障害や怪我を見せることによって稼いでいますから、その部分を特に強調しようとします。〔9-13〕と〔9-14〕をご覧下さい。いずれの物乞いも患部を人目につくように見せて、「私は不自由なのだ」ということを強調することで、ことさら多くの同情を集めようとしています。逆に言えば、通行人はパッと見て「うわ、悲惨だ」と思った時にお金を落とすのです。そのような一瞬の駆け引きが、物乞いたちの収入を大きく左右するのです。
(中略)
 ただ、こうしたことが逆に「強制的」に行われることもあるのです。物乞いたちがケンカで負けた仲間を強引にさらしものにしたり、マフィアやチンピラのような人たちがストリートチルドレンに怪我を負わせたりして物乞いをさせるということです。この写真は、殴り飛ばされた後に無理やり物乞いをさせられているものです。
 みなさんはこれをお読みになって「残酷だな」とお思いになるでしょう。ただ、当の本人からすれば、「これで稼げているので結果オーライ」みたいな意識もあるのです。私の知っている物乞いは車に撥ね飛ばされた時、「儲けもん!」みたいな感じで血だらけのまま道路に大の字になって大金を稼いでいました。何をどう捉えるかは、本当に人それぞれなのです。
ぼくは大学生のとき中国を訪れ、北京の繁華街で脚のない物乞いを見て強いショックを受けた。
脚のない下半身を引きずり、台車に乗って移動している男性の姿に。
まるで見えないかのように楽しく談笑しながらその横を歩いている人々の姿に。
ぼくからすると「悲惨」としか言いようのない境遇なのに、笑顔を浮かべながらべつの人と話している物乞いの姿に。

日本でもホームレスを見たことはあったが、身体障碍者のホームレスは見たことがなかった(ぱっと見ただけではわからない障碍を持っていたのかもしれないが)。
もちろん日本のホームレスにもみんなそれぞれ事情はあるのだろうが、多少は自分の責任もあるだろうとおもっていた。
「働けないにしても役所に行けば住居と食べ物ぐらいは提供されるだろうに、それすらしないんだからしょうがないだろう」と。

だけど北京にいた脚のないホームレスの姿は、そんな「自己責任」の考えを打ち砕くものだった。
身体障碍者だったらまともに生きていけない世界なんて狂っている、とおもった。何が共産主義だよ、とおもった。

同時に、彼のことを「まともに生きていない」とおもってしまう自分にもすごく嫌悪感を抱いた。親の金で大学に行って高い金を出して海外旅行にきたぼくに、彼のことを憐れむ資格があるのだろうか。無意識のうちに高みから見下ろしていて「哀れな人」とおもってしまったけど、ぼくなんかよりこの男性のほうがずっと立派に生きている人じゃないか。

なんかもう何もかもが嫌になって、涙が出そうになるのをこらえながらその男性に紙幣を渡して逃げるようにその場を立ち去ったのだが、日本に帰ってからもずっとその光景が頭が離れなかったた。
安っぽい同情で紙幣を渡したのはよかったのだろうか、物乞いの彼は苦労もせずにのうのうと生きている外国人の若者からお金をもらってどう感じたのだろうか、よけいにみじめになったんじゃないだろうか、とずっと考えていた。
十年以上たった今でもときどき思いだすぐらいに。

でもこの文章を読んで、ちょっとほっとした。
ああ、べつに気にしなくてよかったんだろうな。
ぼくが気にしていた百分の一も、向こうは気にしていなかったんだろうな。
かわいそうな人だと憐れむ必要もないし立派な人だと持ちあげる必要もなかったんだろうな。そうおもえた。

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