九歳の娘がジグソーパズルを好きなのでいっしょにやる。
ぼくも嫌いじゃない。というかやりだすととまらない。好き、というのとはちょっとちがう。
なんなんだろう、ジグソーパズルというやつは。
「あんなの何がおもしろいの。ばらばらになった部品をまた組み合わせるだけで生産性ゼロじゃない。時間さえかければ誰にだってできるし、何がおもしろいのかわからない」
という人もいるだろう。その気持ち、わかる。ぼくも何がおもしろいのかまったくわからない。でもおもしろい。やりだすと止まらなくなる。
ジグソーパズルはやめどきがわからない。風呂が沸くまでの間、ジグソーパズルをする。風呂が沸いたというアナウンスが流れる。けれど止められない。娘に「そろそろお風呂行こっか」と言う。娘が「うん」と言う。しかしふたりとも手が止まらない。あと一個だけはめたら中断しようとおもう。けれど一個はめるとその隣が気になる。ひとつ見つけると次から次に気になるパーツが見つかる。妻が呼びに来る。「早くお風呂入ってよ」と。しかし妻もジグソーパズルのパーツを手に取って「これ、ここじゃないの」とやりだす。こうして風呂が沸いてから三十分たっても家族みんなまだジグソーパズルの前から離れられない。
わざわざやろうという気にはならない。ジグソーパズルをやっていないときに「あー、無性にジグソーパズルやりたくなってきたー!」とはおもわない。しかしやりだすと止められない。それがジグソーパズルの魔力だ。
まったく、ジグソーパズルなんて二十一世紀の人間様のやることではない。こんなものはプログラムを組んでコンピュータにやらせる時代だ。我々ホモサピエンスはもっと創造性の高い仕事をしなくてはならない。
なのに人間はジグソーパズルの前から離れることができない。形や模様が合うものを探してきて並べる。それだけのことに何時間も費やしてしまう。なんて人間は愚かなんだろう。いや、ジグソーパズルが強すぎるのか。
ジグソーパズルはむずかしくておもしろいのがいい。
うちには十種類以上のジグソーパズルがある。何度もくりかえし遊ぶものもあれば、一、二回やっただけでそれっきりやっていないものもある。
その差は「作業の時間が少ないかどうか」だ。
ジグソーパズルには、たいてい〝作業〟の時間が発生する。
基本的にジグソーパズルは、
「カドや端のパーツを見つけて組みあわせる」
「特徴的なパーツ(人物など)を見つけて組みあわせる」
「特定の色のパーツを見つけて組みあわせる」
「特徴のある形のパーツを見つけて組みあわせる」
「何の特徴もないパーツを見つけて組みあわせる」
みたいな感じで進行する(もちろんこんなにきれいに分かれていなくてそれぞれがからみあっている状態だが)。
問題は「何の特徴もないパーツを見つけて組みあわせる」の部分だ。これは〝作業〟である。とにかくひたすら試行錯誤をくりかえすだけ。
ここがほんとにつまらない。ここの部分だけ時給を払って人にやらせたい。
いいパズルは、この〝作業〟の部分が少ない。
盤面全体にバランスよく人や物が配置されていて「何も描かれていないパーツ」が少ない。空や海のように一見平坦な部分であっても、影が描かれているとか、高度や深度によってグラデーションになっているとか、なんらかの変化がある。
また、絵柄の少ない部分の形がオーソドックスな「凹凸凹凸」だけではなく「凸凸凸凸」「凹凸凸凸」になっていたりして、手がかりが設けられている。
こういうパズルはずっとおもしろい。「何も考えずにひたすら試行錯誤」の部分がほとんどないからだ。
こないだやった『名探偵コナン』のジグソーパズルはよかった。
1,000ピースとちょっとしたボリュームがあったが、人物が多く描かれていて、それぞれの肌の色、瞳の色、髪の色、眼の形などが似ているようで微妙に異なる。もちろん服の色も異なる。背景部分にもステンドグラス風の模様があしらっていて、細部までノーヒントのパーツがない。
ジグソーパズルの良し悪しを買う前に見極めるのはむずかしい。たいていは絵柄の好みとかピースの数で選んでしまうが、こういった細部への配慮こそがおもしろさを決めるからだ。
ジグソーパズルは単純に見えて意外と奥が深いのだ。ただ、何がおもしろいのかはまったくわからないが。
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