2022年11月25日金曜日

【読書感想文】岸本 佐知子『死ぬまでに行きたい海』 / ぼくにとっての世田谷代田

死ぬまでに行きたい海

岸本 佐知子

内容(e-honより)
焚火の思い出、猫の行方、不遇な駅、魅かれる山、夏の終わり―。“鬼”がつくほどの出不精を自認する著者が、それでも気になるあれこれに誘われて、気の向くままに出かけて綴った22篇。行く先々で出会う風景と脳裏をよぎる記憶があざやかに交錯する、新しくてどこか懐かしい見聞録。


 〝鬼〟がつくほどの出不精を自称する著者が、かねてより行きたかった場所に行ってみた体験をつづったエッセイ。

 といってもそこはさすが岸本さん、有名観光地や名刹古刹でもなければ、おもしろスポットでもない。「過去に働いていた会社があった街」だったり「かつて住んでいたけど嫌な思い出ばかりの土地」だったりで、岸本さん本人以外にとってはかなりどうでもいい場所だ。

 必然的に岸本さんが過ごした東京近郊が多く、この本に載っている目的地のうち、関西で生まれ育ったぼくが行ったことがあるのは丹波篠山だけだ。

 でも、行ったことのない土地の話ばかりなのに、このエッセイを読んでいてなんだか妙になつかしさを感じた。それは「岸本さんにとっての印象的な土地」のようなものがぼくにもあるからだ。忘れていた記憶を刺激してくれる文章。




 たとえばこの本で紹介されている「YRP野比駅」。京浜急行の駅だ。

 岸本さんは、この駅のことをまったくといっていいほど知らない。過去に行ったこともない。けれど気になる。なぜなら、変わった駅名だからだ。

 その独特の名前からあれこれ妄想をくりひろげる岸本さん。そしてついにその駅に降りたつ。「変な名前の駅の周辺には変な世界が広がっているのではないか」という妄想を確かめるため。


 ぼくにとってのYRP野比駅は、〝京コンピュータ前 神戸どうぶつ王国駅〟だ。

 この駅はずいぶん数奇な運命をたどっており、2006年に「ポートアイランド南駅」として誕生して以来、

 「ポートアイランド南」
→「ポートアイランド南 花鳥園前」
→「京コンピュータ前」
→「京コンピュータ前 神戸どうぶつ王国」
→「計算科学センター 神戸どうぶつ王国・「富岳」前」

と、めまぐるしく駅名を変更されている。たった15年で5回も新しい名前をつけられた駅はそうあるまい。

 ぼくが行ったのは、「京コンピュータ前 神戸どうぶつ王国駅」時代だった。仕事で近くに行く用事があり、ついでに寄ってみたのだ。なぜなら変な名前だったから。

 京コンピュータという未来っぽさと、神戸どうぶつ王国というレトロ感。そのアンバランスさがなんとも興味をそそった。マザーコンピュータが動物たちを操縦して人間たちに叛逆を企てる王国を建国、それが「京コンピュータ前 神戸どうぶつ王国駅」。そんな想像もふくらんだ。

 だが行ってみると「京コンピュータ前 神戸どうぶつ王国駅」には、駅前に閑散とした小さい動植物園がある以外は何にもない駅だった。大きなオフィスや研究施設が点在していて、通りには誰も歩いていない。住宅もなければ飲食店もない。コンビニすらない。そのあまりに無機質な感じが未来っぽくて最初はおもしろかったのだが、二分も歩くとすぐに飽きてしまった。だって何もないんだもの。

 こういうのは、じっさいに行ってみるんじゃなくて、心の中で「いつか行ってみたい」とおもうぐらいが楽しいのかもしれない。


 ぼくが気になる地名は、奈良県の「京終(きょうばて)」と滋賀県の「朽木村(くつきむら)」と和歌山県の「すさみ町」だ。どれも行ったことがないが、終末感が漂っていて味わい深い。

 京が終わると書いて京終。平城京のはずれにあったからだそうだ。しかし「終」が含まれる地名は全国でも相当めずらしいんじゃないだろうか。世界の終わりみたいな感じがする。

 朽木村のほうは平成の大合併により今は存在しない。昔、バス停で「朽木村行き」という案内を見つけ、就活で疲れていたこともあり、おもわず飛び乗ってしまいそうになった。金田一耕助の事件の舞台になりそうな名前だ、朽木村。あのときバスに飛び乗っていたら殺人事件に巻きこまれて帰らぬ人となっていたかもしれない。

 すさみ町もネーミングがいい。てっきり「人々の生活が荒(すさ)んでいるからすさみ町」かとおもったら、そうではなく(あたりまえか)由来は周参見という地名らしい。だったら漢字のままでいいのに、なぜわざわざひらがなにしてしまうのか。さらにすさみ町には「ソビエト」と呼ばれる小島がある。地元の人が「ソビエト」と呼んでいるそうだが、なぜそう呼ばれるようになったかは不明らしく、なんとも気になる存在だ。誰か、すさみ町のソビエトの由来を解き明かすSF小説を書いてくれ。




 特に共感したのは「世田谷代田」の章だ。
 世田谷代田は小田急線いち不遇な駅だ。
 新宿から見て下北沢の一つ先、急行にも準急にも素通りされる、各駅停車しか停まらない小さな駅。
 小田急線の駅は十年くらい前から徐々に地下化が進んで改装されたが、ほかの駅がつぎつぎきれいになるなか、なぜか世田谷代田は最後の最後まで放置され、いつまで経ってもホームは吹きっさらし、幅が異様に狭くて端のほうは人ひとり立つのもやっと、ベンチも壁板も古びた木製で、最果ての地の無人駅のような風情のままだった。
 三浦しをんの『木暮荘物語』に、世田谷代田駅のホームの柱から水色の男根そっくりのキノコが生えるという話が出てくる。長く小田急線を利用している人なら納得だろう。柱からキノコ、それもそんな色と形のキノコが生えてしまうような状況が、世田谷代田ほど似合う駅はない。
 何年か前にダイヤが大幅に改正され、従来の急行、準急に加えて、準急と各停の中間のような電車が導入されたが、このときも世田谷代田はコケにされた。経堂を出たその何とか準急は、豪徳寺、梅ヶ丘と停車したあと、世田谷代田だけ通過して下北沢に停まった。まるで世田谷代田をいじめるためだけに考えだされた電車のようだった。
 そう、世田谷代田駅はクラスのいじめられっ子だった。そして、そんな世田谷代田のことを気にかけながら一度も降りてみようとしなかった私も、いじめに加担したのと同じことだった。

 ぼくにとっての世田谷代田は、阪急中津駅だ。

 阪急ユーザーならわかるだろう。中津は昔から不遇をかこっている。

 じっさいのところは中津駅の乗降客数はそこそこいる。決して多いとは言えないが、中津よりも利用されない駅はたくさんある。

 じゃあなんで中津が不憫なのかというと、梅田と十三という大きな駅の間に挟まれていて、「通る電車の数はものすごく多いのに止まる電車は少ない」という状況にあるからだ。

 なにしろ、中津駅は特急や急行が止まらないのはもちろんのこと、なんと普通電車の一部も止まらないのだ。梅田と十三の間には宝塚線・神戸線・京都線という三つの路線が走っているが、京都線は中津駅を通るのに決して止まらない。すべて素通りだ。こんなひどいことがあるだろうか。

 なぜ普通電車すら中津駅に止まらないかというと、止まる場所がないからだ。中津駅はめちゃくちゃ狭い。だからこれ以上電車が止まれないのだ。


中津駅のホーム
Wikipedia「中津駅」より

 どう、このホームの狭さ。ホームでは「白線の内側にお下がりください」というアナウンスが流れるが、中津駅では白線の内側に一人やっと立てるぐらいのスペースしかない。車いすやベビーカーの人なんかは、白線の内側に下がったまますれちがうのは不可能だろう。

 だから、阪急沿線に住んでいるほとんどの人にとっては、中津駅は「素通りするためだけにある駅」なのだ。不憫であり、不憫であるがゆえにちょっぴり愛おしい。

 ぼくは一度だけ近くの病院に行くために中津駅を利用したことがあって「ついにあの中津駅に降りたっている……!」とふしぎな感動をおぼえたことを記憶している。




 ふつうは紀行文というと見知らぬ土地をテーマにするのだろうが『死ぬまでに行きたい海』で訪れる土地は、岸本さんの見知った土地が多い。

 ぼくも出不精なので、この気持ちはわかる。見ず知らずの土地に行くよりも、どっちかというとなつかしい場所に行きたい。

 そういや唐突におもいだしたんだけど、高校のときに好きだった女の子と話していて、ふたりとも生まれた場所が同じだということを知った。三つほど隣の市だ。ぼくは半ば強引に「生まれた場所を見にいこう!」と彼女を誘った。これがぼくの初デートだ。

 もっとも、そこで五歳まで育ったぼくのほうはかすかに覚えている場所もあったけど、二歳までしか住んでいなかった彼女のほうはまったく記憶がないらしく(あたりまえだ)、退屈そうにしていた。

 言うまでもないが、二度目のデートはなかった。




 岸本さんの過去エッセイの、いつのまにか異次元に連れていかれる文章とはちょっとちがって現実よりだが、それでもどこか浮世離れした語り口は健在。

あの時の私は、風呂の排水口の縁をくるくる回る虫みたいに、あやうく別の世界に吸いこまれかけたのではないか。

 名文だなあ、これ。


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2022年11月24日木曜日

混雑している電車内で奥へとお詰めできない人間にも人権を!

 どうかみなさん、混雑している電車内で奥へとお詰めできない人間を差別しないでください。

 混雑している電車内で奥へとお詰めできない人間は、混雑している電車内で奥へとお詰めしたくなくて混雑している電車内で奥へとお詰めしないわけではないのです。彼らにはその能力がないのです。ふつうの人なら難なくできる、混雑している電車内で奥へとお詰めするという行動が、彼らにとっては至難の業なのです。

 彼らには生まれもったハンデがあるだけなのです。ですから、混雑している電車内で奥へとお詰めできないことを理由に、彼らを糾弾しないであげてください。


 混雑している電車内で扉付近に立ったまま、頑として動こうとしない人。

 扉のまわりが混雑していて奥がすいているのに、一歩たりとも動こうとしない人。

 自分が一歩移動すれば他の人たちが奥に詰めることができて車内全体の混雑が緩和されるのに、その一歩を踏みださない人。

 そのくせ、大勢の人が降りる駅についてもやはり扉付近に立ち止まったまま乗降の妨げになっている人。

 たしかに多くの人に迷惑をかけています。けれどそれは彼らのせいではありません。社会全体の問題なのです。


 私たちは、ひとりひとり違います。まったく同じ人間なんてどこにもいません。

 スポーツが苦手な人、上手にしゃべれない人、うまく歌えない人、眼が見えない人、手足が不自由な人、混雑している電車内で奥へとお詰めできない人。

 ひとりひとり違いはあります。すべてにおいて完璧な人などいません。でも、だからこそこの世界はおもしろいのです。

 お互い差異を認めて、許し、助け合って生きていこうではありませんか。


 そして。

 混雑している電車内で奥へとお詰めできない人間だけでなく、人通りが多い場所で立ち止まらずにはいられない人間や、傘を振り回さずに歩くことのできない気の毒な人間や、狭い道で横に広がって歩かずにはいられない人間にもどうか我々と同じ人権を!



2022年11月22日火曜日

【読書感想文】ウォルター・ブロック(著) 橘 玲(超訳)『不道徳な経済学 転売屋は社会に役立つ』/ 詭弁のオンパレード

不道徳な経済学

転売屋は社会に役立つ

ウォルター・ブロック(著)  橘 玲(超訳)

内容(e-honより)
転売屋、ヤクの売人、売春婦、満員の映画館で「火事だ!」と叫ぶ奴…「不道徳」な人々を憎悪し、「正義」の名の下に袋叩きにする現代社会。おかしくないか?彼らこそ、そうした偏見や法の抑圧に負けず私たちに利益をもたらしてくれる「ヒーロー」なのだから!自由という究極の権利を超絶ロジックで擁護、不愉快だけれど知らないと損する「市場経済のルール」を突きつけた全米ベストセラーを、人気作家・橘玲が超訳。


 1976年にアメリカで刊行された『Defending the Undefendable』(そのまま訳すなら『擁護できないものを擁護する』かな)を、橘玲氏が超訳。超訳というのは、論旨だけは原著に忠実にしながらも、出てくる事例については現代日本人にわかりやすいように大幅改変しているからだ。

 拝金主義者を「ホリエモン」、バーモント州のメイプルシロップとフロリダ州のオレンジを「青森のリンゴと沖縄のサトウキビ」、誹謗中傷をおこなう者を「ツイッタラー」、アメリカ市場で金儲けをする日本人を「中国人」と置き換えるなど、大胆に改変を加えている。訳したというより、換骨奪胎して新たに書いたといったほうがいいかもしれない。というか橘玲さんの本ってだいたいそんな感じだもんね。海外の本のエッセンスだけを抜きだして日本に紹介する、という感じで。




 著者(橘玲さんじゃなくてウォルター・ブロックさん)は徹底したリバタリアンだ。

 リバタリアニズムとは自由至上主義と訳されることもあり、リベラリズム(自由主義)よりももっと極端に自由を信奉する人々だ。

 リベラリストは自由を愛するが、とはいえ国家権力による積極的な介入も認める。生活保護や国家による法規制も(程度の差はあれ)必要と見なす。が、リバタリアンは基本的に政府の介入を認めない。さすがに殺人や暴力までは認めない(なぜならそれらは個人の所有物である身体を侵害する行為だから)が、徴税や法規制を嫌う。

 ざっくり言うと「個人同士がお互いに同意したことであれば、何をしてもいい。だから暴力などの取り締まり以外は政府は何もするな」という極端な考えだ。


 どのくらい極端かは『不道徳な経済学』を読めばわかる。

 なにしろ、売春婦、ダフ屋、麻薬密売人、恐喝をおこなう者、偽札犯、闇金融、ポイ捨てをする者、賄賂をもらう警察官、最低賃金を守らない経営者、児童労働をさせる雇用主など、世間一般では犯罪者または悪人とされている人々を「別にいいじゃないか」と擁護しているのだ。

 めちゃくちゃ極端だ。




 まあ、わからなくもないものもある。たとえば売春婦の項。

「女性の権利を守る」と称する活動家たちのように、貧しくも虐げられた売春婦の苦境を嘆き、彼女たちの人生を屈辱的で搾取されたものと考える人々もいる。しかし売春婦は、セックスを売ることを屈辱的とは考えていないだろう。ビジネスの長所(短い労働時間、高い報酬)と短所(警官の嫌がらせ、ポン引きに支払う仲介料、気の滅入るような職場環境)を考慮した結果、売春婦は自らすすんでその仕事を選んでいるのである。でなければ、つづけるはずがない。
 もちろん売春婦の体験には、「ハッピーな売春」とはいかないさまざまなネガティヴな側面がある。シャブ中になったり、ポン引きに殴られたり、あるいは売春宿に監禁されることもあるかもしれない。
 だがこうした暗鬱な側面は、売春という職業の本質とはなんの関係もない。脱獄犯に誘拐され、治療を強制される医者や看護師だっているだろう。シャブ中の大工もいるし、強盗に襲われる経理課長だっているが、だからといってこれらの職業がうさんくさいとか、屈辱的だとか、あるいは搾取されているということにはならない。売春婦の人生は、彼女が望むほどによかったり悪かったりするだけだ。彼女は自ら望んで売春婦になり、嫌になればいつでも辞める自由がある。
 それではなぜ、売春婦への嫌がらせや法的禁止が行われるのか?
 その理由を顧客に求めるのは間違っている。彼は自らすすんで取引に参加している。もしあなたに贔屓の女の子がいたとしても、その気がなくなれば店に通うのをやめることができる。同様に、売春禁止は売春婦自身が望んだのでもない。彼女たちは好きでこの商売を選んだのだし、心変わりすればいつでも辞められる。

 似たようなことをぼくもかつて考えたことがある。

 高校の家庭科のテストで「売買春はなぜいけないのか書きなさい」という問題が出された。数学じゃないんだから「売春が悪であることを求めよ」なんて、結論が決まっている出題方法に疑問を感じた。「現代日本で違法とされている理由を書け」ならわかるが、時代や地域によっては合法とされているものを絶対悪として扱うその思考停止っぷりにいらだちをおぼえたぼくは、「悪い売春もあるが悪くない売春もある。お互いが100%リスクを理解した上で契約を交わしたのであれば、現代日本の法的には違法であっても道徳的に悪かどうかは結論するのがむずかしい」的なことを書いた。もちろん教師には×をつけられた。

 今だったらいい大人だから教師が求める模範解答を書いてあげるだろうけどさ。


 でも、今でも売春や麻薬については「法的に悪だし興味もないので手は出さないが、道徳的に悪かどうかは判断しない」という立場だ。友人が風俗店に行くという話を聞いても、いいことともおもわないが悪いことともおもわない(配偶者や恋人に嘘をつくのであればその嘘は良くないとおもう)。

 じっさい、身体を売ることでしか生きていけない人もいるわけで、そういう人に向かって「売春や風俗産業は絶対悪だからその仕事をやめて死ね!」と言える傲慢さはぼくにはない。健康リスクが高くて尊厳を失いやすい仕事なんて、風俗産業以外にもいくらでもあるし。たとえば今の日本にはもうあんまりいないけど、炭鉱夫なんてそうでしょ。それを、当の炭鉱夫たちが地位の向上を求めて立ち上がるのならいいけど、部外者が「炭鉱夫は危険だし尊厳も失うのでやるべきじゃない。今すぐやめろ! 高校生のみなさん、炭鉱夫がなぜいけないのか考えましょう」なんて言うのは失礼すぎるとおもう。


 麻薬だって、ぼくは怖いけど、はたして悪なのかというとむずかしい。依存性があって身体に悪いものが悪なら、酒もタバコも糖分たっぷりのお菓子もアウトだ。一部の麻薬は酒よりも人を凶暴にする力が弱いと聞くし。

「今の法律で禁止されている」と「道徳的に悪」はぜんぜんべつのものなのに、それを混同しちゃう人がいるんだよね。




 高利貸し、いわゆる闇金について。

 最後に、法律で定められた金利よりも高利の貸し出しを禁じる利息制限法の影響を考えてみよう。金持ちよりも貧乏人が高い金利を払っているのだから、この法律の影響はまっさきに貧困層に及ぶはずだ。
 結論から言うと、この法律は貧乏人に災難を、金持ちに利益をもたらす。法の趣旨は貧しい人々を高利貸しから保護することにあるのだろうが、その結果現実には、彼らはまったくお金を借りることができなくなってしまうのだ。
 もしあなたが金貸しで、次のうちどちらかを選べと言われたらどうするだろうか。

 ①とうてい採算が合わないと思われる金利で、貧しい人に金を貸す。
 ②そういう馬鹿馬鹿しいことはしない。

 こたえは考えるまでもないだろう。
 これまで貧乏人相手に商売をしていた金貸しは、利息制限法の制定によって、よりリスクの低い金持ち相手の商売に鞍替えするだろう。そうなると、ひとつの市場にすべての金貸しが殺到するのだから、需要と供給の法則で、金持ちはこれまでよりずっと有利な条件で融資を受けることができるようになる。

「ふつうの金融機関で金を借りられないから、金利が高くてもいいから借りたい人」と
「返済されないリスクが高い分、高金利で貸したい人」がいて、
 当人たちが合意の上で高金利で借金をするのははたして悪なのだろうか。

 返さなかった者に暴力をはたらいたり、債務者の家族に嫌がらせをしたり、返せなかった代償として肉1ポンドを要求したりしたら、それは悪いことだとおもう。でも、それは高利貸しが悪かどうかとはまた別の問題だ。


 風俗にしても闇金融にしても、不幸に通じる道の出口あたりにあるものだ(風俗嬢が全員不幸とは言わないけど)。入口のほうを改善せずに出口だけ取り締まっても、問題は解決しない。それって「トイレをなくせばウンコが減る! 食う量は変えない!」みたいなもんじゃん。なんちゅうひどい例えだ。

 ぼくはリバタリアンじゃなくてリベラリスト寄りなので、風俗や闇金融を禁止するんじゃなくて政府が「もっとリスクの少ない仕事を斡旋する」「貧困者に低金利での貸し付けをおこなう」をするべきだとおもうんだよね。

 だから著者の意見には途中まで賛成で、途中からは反対。




 とまあ、そこそこ同意できるものもあれば、まったくもって賛同できないものもある。もうあらゆる詭弁のオンパレードって感じだ。

 たとえば恐喝者を擁護する項。

 恐喝とはなんだろうか?
 恐喝は、取引の申し出である。より正確には、「なにかあるもの(通常は沈黙)と、ほかのなにか価値あるもの(通常は金)の取引の提示」と定義できる。もしこの申し出が受け入れられれば恐喝者は沈黙を守り、恐喝された者は合意した代金を支払う。もしこの申し出が拒否されれば、恐喝者は「言論の自由」を行使して秘密を公表する。
 この取引には、なんら不都合なところはない。彼らのあいだで起きたことは、沈黙の対価としていくばくかの金を請求する商談である。もしこの取引が成立しなくても、恐喝者は合法的に言論の自由を行使する以上のことをするわけではない。

「おまえが悪事をしているのを知っているぞ。ばらされたくなかったら金を払え」だったらまだわかるんだよ。それを全面的な加害者として扱っていいのか、とはおもう。

 ところが著者は「おまえが同性愛者であることをばらされたくなかったら金を払え」と脅迫する人をも擁護している。「同性愛者であることを他人が勝手に暴露したほうが、同性愛者の社会的な地位が認められることになって、結果的に暴露された人の利益になる」とか理屈をつけて。どうしようもない戯言だ。

 悪事じゃなくても人に知られたくないことはたくさんある。ぼくが妻に隠れてエロい動画を見ていることなんて、法に触れることではないけど、それでもおおっぴらにはされたくない。それを「エロい人の社会的な地位が認められるためにおまえがエロいことをばらしてやるぜ!」なんて言われて、納得できるわけがない。


 誹謗中傷をする人のことはこんなふうに擁護する。

 最後に、逆説的に言うならば、わたしたちの名声や評判は誹謗中傷を禁じる法律がないほうが安全なのである。
 現在の法律は虚偽に基づく名誉毀損を禁じているが、そのことによって、だまされやすい大衆はゴシップ雑誌に書いてあることをすべて信じてしまうし、ネット上の匿名掲示板にしても、規制が厳しくなればなるほど投稿の信用度は上がっていく。
「だって、ホントのことじゃなかったら書かないんでしょ」
 もしも誹謗中傷が合法化されれば、大衆はそう簡単に信じなくなるだろう。名声や評判を傷つける記事が洪水のように垂れ流されれば、どれが本当でどれがデタラメかわからなくなり、消費者団体や信用格付け会社のような民間組織が記事や投稿の信用度を調査するために設立されるかもしれない。

 誹謗中傷が禁止されなくなれば、誰も誹謗中傷を信じなくなるんだって。んなアホな。今のSNSがどうなっているか、考えてみればすぐにわかる。




 賄賂を受け取る警官を擁護する項。

 だが、「法に背くこと自体が悪だ」との主張には同意しかねるものがある。ナチ強制収容所の経験がわたしたちに教えてくれた事実は、それとはまったく逆だ。そこで得た教訓とは、「法そのものが邪悪であるならば、その法に従う者も邪悪である」ということだ。
「特定の法に従わないのは社会を混乱に導く悪しき先例をつくる」との主張も、同様に理解しがたい。「悪法に従わない」との先例は社会を混乱や大量殺人に導いたりはせず、逆に、道徳の確立につながるからだ。こうした先例がナチスの時代に広く認められていたならば、強制収容所の看守たちは法に従うことを拒否し、憐れなユダヤ人をガス室に送ったりはしなかっただろう。
 凡人には法を選り好みする権利はない? それもまた愚問だ。権力者であろうがホームレスであろうが、わたしたちはみな凡人以外の何者でもない。

 これまたひどい論理。ナチス政権という極端な例を挙げて「法に背くことは悪とはいえない」とうそぶく。

「先生がだめって言ってたよ」に対して「じゃあおまえ先生が死ねっていったら死ぬのか」と言う小学生と同レベル。

 よいこのみなさんは、極端なケースを挙げてそれを一般化しようとしてくる人の話を真に受けちゃだめですよ。




 この本を読んでおもうのは、リバタリアニズムってとことん強者の論理なんだなってこと。ずっと勝者でありつづける人、自分が弱者の立場に陥ることがないとおもえる人の論理だ。

 だから中学生とは相性がいいかもしれない。中学生ぐらいの根拠のない万能感を持てる年代であれば、「すべて市場の自由競争にまかせておけばうまくいく(有能なおれが市場競争で負けるはずがない)」とおもえるかもしれない。


 最低賃金を守らない経営者を擁護する項より。

 最低賃金法が最低賃金を無理やり引き上げると、価格と需要の法則がはたらいて、雇用主は熟練労働者を残し、未熟練労働者を切り捨てようとする。このようにして労働組合は、自らの雇用を守ることができる。言い換えるならば、熟練労働者と未熟練労働者は互いに代替可能であるため、彼らは競争関係にあるのである。
 市場から競争相手を叩き出すのに、最低賃金を強制することはじつにうまいやり方である。最低賃金が上がれば上がるほど、雇用主は未熟練労働者(若者)や非組合員(とくに外国人労働者)を雇う気がなくなるだろう。ということは、それがどれほど法外な金額であれ、未熟練労働者が絶対に雇われないような最低賃金を法律で決めればいいことになる(とはいえ現実には、現在の最低賃金を十倍に引き上げる法律が議会を通過すれば組合の構成員は激減するだろう。経営者は全組合員を解雇するか、それができない場合は破産するだろう)。
 労働組合は、このような有害な法律を、意図的に、そうと知っていて主張するのだろうか。だがそれは、こでわれわれが検討する事項ではない。重要なのは法律と、それが現実に及ぼす影響である。
 最低賃金法のもたらす〝災害〟はひどいものだ。この法律は、貧しい人々や就業経験のない若者たち、外国人労働者など、本来、法律が守るべきとされてきた当の人々を迫害しつづけているのである。

 ま、理論ではそうかもしれないね。

 ただ、現実問題として、資本家には資本があり、労働者には十分な資本がない。適正な賃金の仕事がなかったとしても、労働力は貯めておけないし、今日のパンを食べないと生きていけない。「自分にふさわしい仕事が見つかるまで働くのをやめる。一年働かず、次の年には二倍働く」ができればいいんだけど、それができない以上、経営者のほうが圧倒的に立場が強いんだよね。

 ラーメン屋が「うちのラーメンの値段が気に入らないならよそに行ってくれ。ラーメン屋はいくらでもあるから」って言うのと、経営者が「うちのやり方が気に入らないならおまえはクビだ。働き口はいくらでもあるから」ってのはわけが違うんだよね。


 まあ古い本だからしょうがないけど、市場にまかせておけばすべてうまくゆくってのはあまりにも古い考えだよね。完全自由経済は、完全計画経済よりはマシってだけだよね。

 こういう考えをする人もいる、って知れるのはおもしろいけど、ほとんど賛同はできない本だったな。橘玲さんもそのへんをわかってて露悪的に書いてるフシがあるけど。


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2022年11月21日月曜日

【読書感想文】『ズッコケ三人組のバック・トゥ・ザ・フューチャー』『緊急入院!ズッコケ病院大事件』『ズッコケ家出大旅行』

   中年にとってはなつかしいズッコケ三人組シリーズを今さら読んだ感想を書くシリーズ第十四弾。

 今回は40・41・42作目の感想。そろそろ終わりが見えてきた。

 すべて大人になってはじめて読む作品。


ズッコケ三人組のバック・トゥ・ザ・フューチャー』(1999年)

 自分史作りをはじめた三人。周囲の人の話から己の過去を探っていくうちに、あだ名の由来や自分の記憶の不確かさなどに気づく。そんな中、ハチベエの初恋の子の転校と、ハカセの母親が被害者となったひき逃げ事件に意外なつながりがあることがわかり……。


 まず、看板に偽りあり。過去にもいかないし、まして「未来に戻る」なんて内容は一切ない。『ズッコケ宇宙大旅行』みたいに多少盛る(日帰りだった)のはいいけど、これは大嘘タイトル。

 それはそうと、内容はわりとおもしろかった。後期作品にしてはよくできているほうだとおもう。まあ前半は既存ファン向けの内容だったけどね。ニックネーム誕生の秘密とか。

 後半は「ハカセの母親をひき逃げした男が、ハチベエの初恋の子・民ちゃんの父親だった」「民ちゃんの父親には強盗容疑もかかっていた」「民ちゃんの父親が強盗に入ったことを目撃したのはハチベエだった」と、意外な事実が明らかになってゆく。その後も、強盗は狂言強盗だったことが明らかになり「ではなぜハチベエは民ちゃんの父親が強盗だったと嘘の証言をしたのか?」というミステリーの連続で惹きつける。

 終盤には民ちゃんとの気まずい再会という展開も用意していて、派手さはないけどうまくまとまった作品だった。こういうのでいいんだよ、こういうので。神出鬼没で変幻自在の怪盗とか、閉ざされた空間での連続殺人事件とか、ズッコケにそういうの求めてないから。地に足の着いた小学生の冒険こそがシリーズの魅力なんだから。




緊急入院!ズッコケ病院大事件』(1999年)

 釣りに出かけた三人組、および同行した女の子たちが相次いで原因不明の熱病にかかる。40度を超える高熱、身体に現れる発疹、節々の痛み。チフスではないかと疑われるが、チフスの治療をしてもいっこうに熱が下がらず……。


 いきなり登場する謎の男、そしてこの男が凄腕の狙撃手(殺し屋)であることが明かされたかとおもったら、なんと彼が熱病にかかって病死してしまう。さっき「地に足の着いた小学生の冒険こそがシリーズの魅力」と書いたとたんにこれだよ……。

 さらにこの殺し屋の描写に使われるのが本文の四分の一。この間、三人組はほとんど登場しない。この男の描写にここまでページを割く必要があったのか……。

 最終的に「三人組が感染した病気の感染経路はこの殺し屋でしたー」と種明かしがされるのだが、そんなことは読者には十分わかっているので何の驚きもない。手品の種が丸見えなんですけど(『ズッコケ財宝調査隊』パターン)。

 そしてもうひとつの裏切り(?)が、「チフスかとおもったら実はデング熱でしたー」という展開なのだが、これまた何の驚きもない。だってチフスもデング熱もぜんぜん知らねえんだもん。大人のぼくですら「聞いたことある程度の病名」なんだから、読者である小学生からいたら心底「どっちでもええわ」だろう。


 とまあ、ツッコミ所の多い作品ではあるが、つまらなかったかというと決してそんなことはない。なんだろうな、著者が好きなことを書いているっていう感じが伝わってくるんだよな。

 長い釣りの説明とか(釣りの描写があるのは『探検隊』『株式会社』『海賊島』『海底大陸』に続いて五作目。ほんと釣り好きだよなあ)、詳しすぎる病気の説明とか、医師同士の会話のシーンとか、はっきりいって読者である子どものことを考えているとはおもえない。でも、そこがいいんだよ。ズッコケシリーズの魅力ってそこなんだよ。子どもにあわせるじゃなくて、「大人が本気でおもしろいとおもうものを書くから読みたいやつは読め!」みたいな感じ。初期の作品も、アメリカ大統領選挙の話とか、株式会社の制度とか、北京原人の骨だとかもうひとつの皇族とか、子ども受けなんて無視したかのように著者が好きなこと書いてたもんなあ。そういうのがおもしろいんだよな。藤子・F・不二雄の描いてた大長編ドラえもんと同じで。

 ズッコケシリーズ中期は怪談が流行ったら怪談を書いたり、推理漫画が流行ったら便乗したり、かなり「あわせにいって」いた。だがこの作品に関しては、久々に著者の筆が乗っているように感じた。子どもウケするかどうかはわからないが(うちの九歳の娘の感想は「ふつう」)、ぼくはなかなか好きな部類の作品だった。

 病気に感染した後の三人の内面や行動の違いもおもしろかった。自分の病状を観察し、原因について研究するハカセ、入院することを怖がっていたくせにのんびりした入院生活を楽しむモーちゃん、調子に乗って病院内を歩きまわって症状を悪化させるハチベエ。入院生活も三者三様でおもしろい。

 また、安藤圭子だけが発症していないこと、安藤圭子だけ虫よけスプレーをしていて蚊に刺されなかったことがハカセが病名を突き止めることに一役買うという展開もおもしろい。

 入院までの流れも緊張感がある。ただ、コロナ禍の今読むと「子どもが原因不明の感染症で隔離病棟に入院しているのに、家族は検査すらされずに日常生活を送れる」という対応だけは嘘っぽく感じてしまうな。



『ズッコケ家出大旅行』(2000年)

 勝手に塾に入会する手続きをされてしまったハカセは、親への抗議のために家出を計画する。姉さんにお菓子を勝手に食べられてしまったモーちゃん、店の手伝いをさせられることに不満を持つハチベエも同行し、三人は荷物を持って大阪へ向かう。が、道中で数々のハプニングに見舞われ……。


 おもしろかった。ズッコケシリーズをずっと読んでいるが、読んでいてわくわくしたのは久しぶりだ。ぼくが大人になってからはじめて読んだ27作目以降の作品の中でははじめてかもしれない。

 まず家出決行までが期待を盛り上げてくれる。おもいついてすぐ家出、ではなく、持ち物を用意したり、ゲームソフトを売って資金を貯めたり、計画的な家出なのがハカセらしい。「旅行は準備しているときがいちばん楽しい」なんて言うが、家出もまた同じ。計画段階がいちばん楽しい(ぼくはやったことないけど)。那須正幹先生はよくわかっている。

 家出決行後も、人命救助、電車を乗りまちがえる、神社で野宿、ふとした出会いから車で送ってもらうことになる、などイベントてんこもり。それだけではあきたらず、スリに所持金の大半をスられてしまうという展開まで用意していて読んでいてハラハラドキドキが止まらない。

 ただ、後半はちょっと失速。三人同時に財布をなくすのがいかにも予定調和っぽい。三人組にホームレス体験をさせたかったのだろうが、一万円あったのだから「会ったばかりのホームレスに一万円渡して仲間に入れてもらう」ではなく「ミドリ市までは帰れなくてもできるかぎり近くまで帰る」あるいは「家に連絡する」という選択肢を選ぶだろ、ふつうは。数日家を空けただけで十分目的は達成できてるんだし。

 気に入らないのは、中期以降の作品ではすぐに女の子を登場させること。女子読者を意識してのことなのか知らないけど、とにかく安易なんだよね。ストーリー的に必要があって出すのならいいけど、この作品なんかはかなり不自然に女の子をねじこんできた、という感じだ。さすがに子ども、それも女の子がホームレス生活をしてたら警察や行政が黙ってないとおもうぜ。

 ホームレス生活のあたりはイマイチだったが、他は十分おもしろくて、久々におもしろいズッコケ作品を読んだ気がする。「ハチベエの涙」という貴重なシーンも効果的だった。

 家出ってあこがれるもんなあ。ぼくは一度も家出をしたことがないししたいとおもったこともないけど、ほのかな憧れだけはずっと持っていた。大人になってから読んでもわくわくしたんだから、小学生のときに読んでたらものすごく楽しかっただろうなあ。


 ところで『夢のズッコケ修学旅行』の感想にも書いたけど、地名を半端にフィクションにするのをやめてほしいなあ。

 三人組が住む町が稲穂県ミドリ市(モデルは広島県広島市)となっているのはまあいいとして、岡山県倉敷市が岡島県倉橋市などになっているのは読みづらくてしかたがない。そうかとおもうと、大阪、阿倍野、天王寺といった地名はそのまま使われている。何がしたいんだ。これまでにも東京とか愛媛とかの地名はふつうに出てきてたから、ズッコケの世界では中国地方だけが仮名なんだよね。へんなの。


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2022年11月18日金曜日

おしりぺんぺん

 おしりぺんぺんってさ、改めて考えるといい体罰だとおもうんだよね。

 あ、いや、体罰推奨派じゃないんだけど、極力体罰をなくしたほうがいいとおもうんだけど。

 でもさ、じっさい子どもを育ててみると、我が子ながらものすごく憎らしくなることもあるんだよね。平然と嘘をついたり、詭弁でごまかそうとしたり、小さい子にいじわるをしたり、おもわず手が出そうになることも一度や二度ではない。

 もう手が付けられなくなるぐらい怒って暴れることや、怒って他人にやつあたりしているときなどは、言葉で説得することなど不可能だ。怒りくるっている犬を相手にするようなものだ。そんなときにいくら「いい子だからおぎょうぎよくしようねー」なんて言ってもへのつっぱりにもならない。

 そんなときぼくは「羽交い絞めにする」「押し入れに入れる」という手段をとる。

 一部の人に言わせれば、これも許されない体罰になるのだろう。でも、だったらどうしたらいいのか教えてくれ。はさみを持ったまま怒りくるっていて、一切こちらの話を聞かない子どもをどうやってなだめるのかを。


 もちろん殴る蹴るなどの体罰はよくないとおもうし、できることならぼくだって手を上げたくはない。でも、力づくで抑えないとどうにもならない状況はある。暴力絶対反対っていってる人だって、子どもが犬に噛まれてたら力づくで止めるだろ? それと同じで。

 で、おしりぺんぺんだ。

 体罰の中ではおしりぺんぺんっていちばんマシなものじゃないかとおもう。


 最大のメリットは、けがをさせないこと。子どもの身体は弱いから、体罰によって口を切ったり骨が折れたりへたすると内臓や脳に損傷を与えたりするかもしれない。ふだん人を殴らない人ほどかげんがわからない。

 その点、おしりぺんぺんでけがをさせることはまずない。少々加減をあやまったって、せいぜいおしりが真っ赤になるぐらい。おしりは身体の中でもトップクラスに衝撃に強い部位だ。


 それから実行に移すまでに時間がかかること。

 たとえば頭にげんこつを食らわすとか、頬に平手打ちをお見舞いするとかだと、かっとなってやってしまうかもしれない。感情にまかせて行動してもろくなことはない。けがをさせたり、体罰を与えた側が後悔したりする。

 その点、おしりぺんぺんはとっさには実行に移せない。このやろうとおもい、子どもを抱え、膝の上にうつぶせにして、場合によってはズボンやパンツをおろして、それからぺんぺんすることになる。どんなに熟練したおしりぺんぺナーでもその間数秒はかかる。

 この間に頭を冷やせる。

 聞くところによると、人間の怒りのピークは六秒しか持続しないという。子どもをつかまえて、膝の上に乗せ、暴れる子のズボンやパンツを脱がせて腕をふりあげているうちに怒りのピークは過ぎ去っている。

 これにより「感情に任せてつい暴力を加えてしまう」ことが避けられる。「今度やったらおしりぺんぺんだよ」と解放してやるか、あるいは「ここは教育のためにぺんぺんしといたほうがいい」と教育的指導を加えるか、冷静に判断することができる。

 感情のままにぶんなぐるのと、冷静に判断した上で手を上げるのでは、まったくちがう。後者の体罰は、推奨するまではいかなくても、黙認ぐらいはされてもいいと個人的にはおもう。


 かように、おしりぺんぺんはよくできた体罰システムである。少なくとも殴ったり蹴ったりするよりは百倍いい。さすが昔の人はいいシステムを考えたものだ。昔の子どもは今より栄養状態も悪かったし、救急医療の体制もなかった。子どもに手を上げて、けがをさせてしまうことも今よりずっと多かったにちがいない。そこで生まれたのがおしりぺんぺんシステムなのだろう。

 これを家庭内教育だけでなく、学校教育にも活かせないものか。

 もちろん教師が生徒のおしりをぺんぺんやるわけにはいかないが、教師が生徒を殴りたくなったときは、細長い風船を膨らませて、そいつでおもいっきりぶんなぐってもいいことにするとか。

 もちろん風船で殴られたってけがをすることはないし、風船をふくらませるのには時間も体力も使うから、そこまでして殴りたいということは教師としてもよほどのことなのだろう。感情にまかせた体罰ではなく、教育的見地に基づく指導が期待できる。

 風船でなぐられたって痛くもかゆくもないから、風船をうんこの形にして精神的ダメージを与えてやるぐらいはしてもいいとおもう。