2020年2月6日木曜日

「無難」を選ぶ生き方

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娘の通う保育園のすぐ横に園長先生の住宅があるのだが、今朝その前に救急車が停まっていた。
何かあったのかとおもったが、救急隊員たちもあわてている様子はない。しばらくすると救急車はそのまま走り去った。大したことはなかったようだ。

保育園に入ると、男の子がぼくに向かって言った。
「園長先生の家で事故があったんやでー」

すると横にいた保育士が「そういうことを大きな声で言ったらあかん」と言った。

また別の女の子が言った。
「園長先生の家で事故があったんやでー」

保育士がきつく叱る。
「そういうことを言ったらだめでしょ! まだはっきりわかんないのに!」


聞いていたぼくはおもう。
「保育士さんの言わんとすることはわかるけど、その言い方では子どもに伝わらないだろう」と。



まず抽象的すぎる。
「そういうことを言ったらあかん」と言われたって、五歳ぐらいの子には「そういうこと」が「どういうこと」なのかわからないだろう。

保育士は「不確かな情報を広めるな」「仮に真実だとしても本人が隠したがる情報かもしれないのだからむやみに広めるな」と言いたいのだろうけど、「そういうことを言ったらあかん」の一言で五歳児が理解できるわけがない。

なにしろ言ってる子どもに悪気はないのだから。
ただ園長先生の家に救急車が停まっているのを見た。だから怪我か急病が発生したにちがいない。それしか考えていないのだ。
「さっき猫が園庭に入ってきてたよ」とか「明日雪が降るんだってー」とかと同じぐらいの意味合いで「園長先生の家で事故があったんやでー」と言っているのだ。
園長先生をおとしめようとしているわけではないのだ。

もちろん「今の時点でむやみに話を拡散すべきでない」というのはわかる。
ぼくが大人だから。

ぼくが園長先生だったら、「階段から落ちて脚の骨を折った」ならどうせ近いうちに明らかになることなのだから広められたっていい。
でも「興味本位で便座を下げずに便器に腰をおろしてみたらすっぽりはまってしまって抜けだせなくなって救急車を呼んだ」なら恥ずかしいから広めないでほしい。
だから本人が言うまでは話を広げるべきではない。大人のたしなみだ。

しかしいずれにしても
「言われた当人が傷つくか傷つかないかはわからないような情報で、言わなくてもいいことならとりあえず黙っておいたほうがいい」
ことを五歳児に理解させるのはむずかしいだろうな。



ぼくが中学一年生のとき。
クラスにSさんという休みがちな女の子がいた。毎週のように休む。出席したときは明るくてまじめな子だったので、サボっているわけではなく身体が弱かったのだろう。

その日もSさんは休んでいた。三日連続だ。
日直だったぼくは、日誌の [欠席者] の欄にSさんの名前を書いた。そして余白に「三日連続!」と書いた。

翌朝、担任から職員室に呼びだされた。
ぼくには呼びだされた理由がさっぱりわからなかった。担任から日誌を見せつけられても、やはりわからなかった。

「こんなこと書いて、Sが読んだときにどういう気持ちになるかわからんのか?」
と叱られた。
ぼくにはわからなかった。心から。
だって「三日連続!」は事実を書いただけだったのだから。Sさんを傷つけようという意図はまったくなかったし。
仮にぼくが三日連続欠席したときに同じことを書かれたらどうだろうと想像してみても、やっぱりぜんぜんイヤじゃなかったから。

「三日連続!」をSさんが見たら、イヤな気持ちになっていたかもしれない。イヤな気持ちにならなかったかもしれない。
それは誰にも分からない(「三日連続!」は担任に叱られてすぐ跡形もなく消したのでSさんの目には触れていないはず)。

今ならわかる。担任の言いたかったことが。
「言われた当人が傷つくか傷つかないかはわからないような情報で、言わなくてもいいことならとりあえず黙っておいたほうがいい」
処世術としては正しい。
今のぼくが担任だったとしても「書かないほうがいいんじゃない?」という。「たとえSさんを傷つけてでも書かずにいられないことならむりには止めないけど、そこまでじゃないでしょ? だったらやめといたほうが無難だよ」と。

しかし「無難」を選ぶには人生経験がいるんだよね。
中学一年生のぼくにはできなかった。
もちろん五歳児も無理だろう。


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