2020年2月5日水曜日

【読書感想文】現代日本にも起こる魔女狩りの嵐 / 森島 恒雄『魔女狩り』

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魔女狩り

森島 恒雄

内容(Amazonより)
西欧キリスト教国を「魔女狩り」が荒れ狂ったのは、ルネサンスの華ひらく十五‐十七世紀のことであった。密告、拷問、強いられた自白、まことしやかな証拠、残酷な処刑。しかもこれを煽り立てたのが法皇・国王・貴族および大学者・文化人であった。狂信と政治が結びついたときに現出する世にも恐ろしい光景をここに見る。
中世ヨーロッパにふきあれた魔女狩りの嵐。
その実情にせまるため、キリスト教の立場の変化、魔女狩りが起こった理由、魔女裁判や拷問・刑罰、収束していった背景などについて書いた本。

1970年刊ということで今から五十年も前の本だが、魔女狩りの本は他にあまり出ておらず、五十年たった今でもこれが魔女狩りについていちばんよくわかる本なのではないだろうか。



ぼくは知らなかったのだが、魔女狩りの対象となった「魔女」は女だけではなかったらしい。男も女も「魔女」にされたらしい。

魔女狩りはとにかくおそろしい。
 第三の場合の「世間のうわさ」は、裁判官の判断の有力な根拠とされ、また容疑者を逮捕する十分な理由ともされた。告発者が誰であるかを被告に知らせないことは、対決して反論する大事な機会を奪うことを意味するのだから、被告にとってはこの上なく不利だったが、ましてや「世間のうわさ」という、実体のつかめない告発者に対しては、被告は手の施しようがない。しかも『魔女の槌』によれば、この第三の場合がもっとも多かった。その上、「うわさ」の真実性を確かめるという重要な考慮を、裁判官は全く払わなかった。
「魔女の罪については、他の犯罪の場合と違って、世間のうわさの真実性を詮索することは不必要だと思う。なぜなら、魔女の罪は『格別の罪』と呼ばれる立証困難な罪であり、証人として喚問された法律学者すら、妥当な立証を行なうのに困難するほど、むずかしい罪であるからである。……」(ボゲ)
なんと「世間のうわさ」だけで逮捕され、魔女扱いされてしまうのだ。
一度魔女の疑いを持たれると、過酷な環境の牢獄に入れられさまざまな身体的苦痛を受け(しかもそれは「拷問」ではないという扱いだった)、その後は本格的に拷問を受ける。

拷問を受けても「自白」しなければ、それこそが魔女の証とされ(魔女だから痛みや苦しさを感じないという理屈)、死よりも苦しい拷問が延々続く。
自白しなければ生きたまま火あぶり、自白すれば絞首の後に焼かれる。いずれにせよ殺されることには変わりなく、また他の魔女の存在を白状するよう拷問を受け、苦しみから逃れるために別の人間を「魔女」としてでっちあげる。そしてまた拷問が……。

という終わりのない苦しみが延々と続く。
まったく罪のない人間が魔女にされ、どれだけ否定しても拷問を受け、死ぬまで、いや死後も魔女としての汚名を着せられるのだ。


……いやほんと、言葉も出ない。
我々が知っている「人間の残酷な所業」はそのほとんどが二十世紀の出来事だが、それより前の出来事は記録が乏しいからあまり伝わっていないだけで、もっとえぐいことをやっている。
そりゃあ二十世紀に虐殺された人たちもめちゃくちゃ気の毒なんだけど、魔女狩りで拷問を受けて焼かれた人からしたら「魔女狩りの拷問に比べたらぜんぜんマシじゃん」と言いたくなるんじゃないかな。
それぐらい魔女狩りのえげつなさはレベルが違う。



もともと「魔女」はごくふつうの社会の一員だったらしい。
薬を作ったり占いをしたりする人が「魔女」とされ、社会に受け入れられていたらしい。
今の時代なら薬剤師や気象予報士や経済アナリストみたいなものかもしれない。

魔女が裁かれることはあったが、それは「他人を呪い殺した」といった罪で裁かれるのであって、存在自体が罪であったわけではない。

だがキリスト教による異教徒弾圧が過激化するにともない、魔女は「存在自体が罪」「反論の余地を与える必要もないし何をしてもいい」という存在に変わっていった。

なぜ魔女狩りがエスカレートしていった理由は、宗教思想というより、意外にもカネと政治によるものが大きかったらしい。
 ヨハネスが異端審問官に魔女狩り許可を与えたばかりでなく、追いかけて魔女狩り強化令を連発したのにも、それによってヨハネス個人の身を護る私的な事情が多分にあった。彼は法皇選挙をめぐる身辺の情勢から、自分を排斥しようとする者の陰謀を恐れ、常に神経をとがらせていた。そして法皇に即位後間もなく、自分の生命を狙う疑いのある者数人を司教に命じて捕えさせ、「悪魔の力をかりて未来を占い、人を病気にし、死亡させた」という魔女的行為を拷問によって自白させ、処刑した。また同じ年、彼の出身地フランスのカオールの司教に、個人的な怨恨から終身禁固の刑を課した上に、自分の生命を狙っているという理由でその司教を官憲に引渡し、火刑に処している。ヨハネスのこの種の行動はほかにもいろいろあるが、彼が魔女狩り解禁令を発布したのは、ちょうどこのようなときであった。
 神聖ローマ帝国が財産没収を禁じた一六三〇年と一六三一年の二年間は、魔女摘発が急激に減少している。(たとえばバンベルク市では、一六二六年から一六二九年までは毎年平均一〇人が処刑されたのに比し、一六三〇年は二四人にすぎず、一六三一年にいたってはゼロとなった。) また、財産没収を禁じていたケルン市では、他の地域にくらべて、魔女の処刑数ははるかに少なかったのである。
 いずれにしろ、異端者の没収財産に対する裁判官の執着には、はなはだしいものがあった。異端者の死骸に附随する財産没収権を獲得するために、すでに腐敗しかけている屍体を聖職者同士が奪い合うことは珍しくなかった。また、審問官たちは、裁判の結果を待たずに財産没収を執行したこともある。

権力者(法皇)が、敵対する者を陥れるためや共通の敵を使って自分への支持を高めようとするためだったり。
あるいは「魔女」の財産が目的だったり。

結局、人を残忍な行為に走らせるのは思想ではなく政治(権力)とカネなのだ。

虐殺とか大規模な不正とかもたいてい裏にあるのは政治とカネだ。



もちろん二十一世紀の今、魔女を本気で糾弾する人はいないだろうが、「魔女狩り」は今後も起こるだろう。いや今でも起こっているかもしれない。

現代日本の「起訴されたら99%有罪」「逮捕されたら犯罪者扱い」なんてのはほとんど魔女裁判と一緒だ。

政府の不正を隠すために必死に隠蔽や虚偽の報告を続けている内閣府の官僚なんかは「魔女狩り令」が出たらいともかんたんに「魔女」に対して残忍な拷問をするだろう。


魔女狩りが教えてくれるのは、
「昔の人は迷信を信じていて愚かだった」でも
「キリスト教は異教徒に対して残忍なことをする」でもない。

「人間は権力とカネのためならどんなに残忍なことでもする」だ。
ぼくもあなたも。

だからこそ基本的人権という制度があるのだ。
「〇〇人が攻めてくるかもしれない」なんて言って「敵」をつくって基本的人権を制限しようとする人間が現れたときには気を付けましょう。


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