わたしたちの体は寄生虫を欲している
ロブ・ダン(著) 野中 香方子(訳)
人類の歴史をざっとなぞる第一章は正直退屈だったが(ついこないだ読んだビル=ブライソン『人類が知っていることすべての短い歴史』と内容が重複していたので)、第二章で寄生虫の話が出てきてからぐっとおもしろくなった。
医学の歴史は、基本的に体内から異物を排除することの歴史だった。
病気をもたらす細菌や寄生虫や微生物を排除するために、手を洗い、風呂に入り、殺菌し、抗生物質を飲む。
現在我々は人類史上最も清潔な暮らしをしている。
では病気とは無縁になったのか。答えはノー。
一部の病気はほぼ撲滅することに成功したが、まだまだ病気はなくならない。それどころかクローン病、糖尿病、花粉症といった病気の患者はどんどん増えている。
素人からすると、現代の医学ではほとんどの病気は原因も対処法もわかっていて対処できないのは一部の難病だけかとおもっていたが、実際は逆なのだ。
圧倒的に多くの病気は原因不明で、一部の病気以外は「なんかわからんけど〇〇をすればよくなることが多いとわかっている」「手の打ちようがないけど生命にかかわるほどではなく、ほっておけば身体が勝手に直してくれる」だけ。
コンピュータシステムで
「でたらめにあちこちさわってみたら一応正常に動くようになったけど、どこがあかんかったのか、何をしたのがよかったのか、ようわからんわ」
なんてことがあるけど、人体で起こっているのはまさに同じ。
ジェンガの後半みたいに、絶妙なバランスで立っていてどこを動かしたら倒れるのかはわからない、それが人体なのだ。
にもかかわらず我々は、薬を飲み、注射をされ、手術をされている。
数百年前の医者は手当たり次第に変な薬品や草を飲ませていたけど、今の医学もやっていることは基本的に変わらない。
ただ臨床実験を厳密にやるようになっただけで「なんかわからんけどこれをやったら病状が良くなることが多いみたい」という理由で変な薬品とか草とかを飲ませていることに変わりはない。
ここ数百年にわたって医学がやってきた「体内から異物を排除する」も、それが正しいことだったのか誰にもわからない。
プログラムコードの中の不要に見える1行を消したら動作が速くなったように見えても、実はそのコードは十年に一度だけ機能する大切なコードだったかもしれない。
ここ数十年で我々は体内から寄生虫を追いだしたが、人類の歴史を考えれば寄生虫と共存してきた時代のほうがはるかに長かった。
ヒトは寄生虫がいることを前提とした体内環境を作り、寄生虫もまたヒトが健康に生きていける環境を整えることに協力した(なぜなら宿主が死ねばいちばん困るのは寄生虫なのだから)。
たまーにごく一部の寄生虫が悪さをすることはあっても、全体としてはうまくいっていた。
が、寄生虫は駆逐された。
結果、寄生虫が攻撃していた外敵は居座るようになり、寄生虫が消化を助けていた食べ物は栄養を吸収されぬまま体外に排出され、免疫細胞は寄生虫の代わりに自らの臓器を攻撃するようになった……。
これがこの本で唱えられている説だ。
あくまで一説だが(なにしろさっきも書いたように人体はわからないことだらけなのだ)、ありそうな話だ。
自然界には相利共生関係(互いにとってメリットのある共生関係)が多数見られるので、ヒトだけが例外であるとおもうほうが不自然だ。
ヒトの内臓のひとつである虫垂も、昔は不要な器官と考えられていた(ぼくも子どもの頃そう教わった)が、今では有用なものだとわかっているらしい。
細菌を蓄えて、必要に応じて体内の最近の活動を制御するはたらきをするのだそうだ。
細菌もまた、ごく一部が悪さをするだけで大半は人体にとって有用または善でも悪でもない存在なのだ。
『奇跡のリンゴ』なる本に、木村秋則さんという人が無農薬でリンゴを作ることに成功したことが書かれている。
無農薬でリンゴを育てる秘訣は、なるべく余計なことをせずに自然に任せることだそうだ(すごくかんたんに言うとね)。
基本的にリンゴは、虫や細菌と共存しながらバランスをとって勝手に成長してくれる。それを支えてやるだけでいい。これが木村秋則さんが何十年もかかって導きだした答えだ。
人間もリンゴと同じで、手を入れすぎるとかえって調子が悪くなるのかもしれない。
はたして寄生虫を追いだしたことは健康にとっていいことだったのか。
その答えを知るためには寄生虫を体内に戻してみるしかないけど、いまさら後戻りはむずかしいだろう。ぼくも、いくら健康になるとしてもできることなら寄生虫を腸内で飼いたくない。
タイトルは『わたしたちの体は寄生虫を欲している』だが、寄生虫の話がすべてではない。
本の後半では、今もヒトの肉体が、捕食者の存在におびえ毒や伝染病を避けるよう設計されている例をいくつも挙げている。
「ここ数百年、あるいは数十年で我々の暮らしは劇的に変わったが、肉体や脳はまだ旧時代のやりかたをひきずっている。そのギャップのせいでいろんな不具合が生じている」
が全体を通しての論旨だ。
たとえば、病気が蔓延している地域の人ほど、個人主義的であり、閉鎖的な傾向があるという(因果関係は証明されていないのであくまで傾向)。
知らず知らずのうちに他人との接触を避けて病気を回避しようとしているのだ。
ふうむ。
あまり大きな声では言えないけど、ぼくは年寄りが嫌いだ。個人個人でいえば例外もあるけど、総じていえば嫌いだ。身内以外の年寄りとは関わりたくない。
たとえば電車で隣の席に年寄りや顔色の悪い人が乗ってきたとき、ぼくは不快感をおぼえる。内心でおもってるだけのつもりだけど、もしかすると顔にも出てしまっているかも。
無意識のうちに「病気を保有している可能性の高いもの」を忌避しているのかもしれない。
外国人を嫌う人は世界中にいるが、これも同じ理由なのかもしれない。
違う民族の人は「コミュニティの外の人」なわけで、新たな病原菌を持ちこむ可能性が高い。
だから接触を避け、排除することで健康を守ろうとする。
もしかすると世の中にある差別の多くは「病気になる確率を下げたい」という無意識の免疫反応から生まれているのかもしれない。
屠畜業者を避けるのも、動物の死体に触れる人は病気を持っている可能性が高いからだろうし。
だからといって差別を肯定するつもりはない。我々は生理的な欲求に打ち勝つことで文明社会を築いてきたのだから。
でも、免疫学を知ることで差別意識が生じるメカニズムを理解する一助にはなるかもしれない。
「生理的にムリ」の根っこにあるのは「健康でいたい」という自然な欲求なのかも。
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