2019年2月20日水曜日

第二次性徴の本のおもいで

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中学生のとき、友人たちと図書室で遊んでいた。
友人のひとりが、「保健体育」コーナーから第二次性徴について書かれた本を持ってきて「うわ。なんだこれ」と言った。
彼が指したページにはしゃがみこんで手鏡を持って自分の股間をのぞきこんでいる少女のイラストが描かれており、「自分の性器を知ろう」みたいなキャプチャがついていた。
「なんじゃこりゃ。この女なにやってんねん」
とぼくらはげらげら笑った。
しかしぼくは、笑いながらすごく昂奮していた。

まじめな内容の本だった。扇情的な絵ではなかった。イラストの少女はかわいくもないし無表情。股間そのものは手鏡に隠されてまったく描かれていない。
昔、ぎょう虫検査キットにキューピーちゃんが尻に検査シールをあてがっているイラストが描かれていたが、それに似ていたような気がする。色気もへったくれもない。


だが、そのことがかえってぼくの想像力を刺激した。エロいマンガに出てくる美少女だと「しょせんこれはエロ本の世界よね」というどこか醒めた目で見てしまうが、平凡な少女が股間を覗きこんでいるイラストには、かえって「ということはクラスのあの子やあの子もこんなことを……」と想像させるリアリティがあった。

同時に「女ってこんなことしないと自分の性器を見られないのか!」ということも衝撃だった。
男は自分の性器をよく知っている。鏡を使わなくても見られるし、立っておしっこをするときにも必ず目に入る。毎日何度となく顔をあわせる。いたってよく知る顔なじみだ。
ところが女は手鏡を使ってしゃがみこまないと自分のものが見えないらしい。しかも本にわざわざ「自分の性器を見てみよう」なんて書かれているということは、一度も見たことのない女も多いのだろう。

自分ですら見たことのない秘密の場所……。
その情報は、中学生にとってたまらなく刺激的だった。
「女の子は自分の性器を自分で見れない」という話は「力士が自分の尻を自分で拭けない」という話とよく似ているが、ぼくを昂奮させる度合いはまったくちがっていた。



図書室で見た第二次性徴の本が気になってしかたがなかった。
まだ精通のなかったぼくは、発散することもできず、悶々とした気持ちを抱えたまま暮らしていた。
またあの本を見たい。
だがひとりで図書館に行って第二次性徴の本を見るには、ぼくの自意識は高すぎた。

ぼくが性教育の本を見ている間、いつなんどき誰がやってくるかわからない。
しかも「保健体育」コーナーは図書カウンターから見えるところにあった。図書室が開放されている時間帯は、カウンターには教師か図書委員がいる。
誰も他の生徒の動向なんて気にしていないとは思いつつも、万が一「あいつ図書室で性教育の本を見てたぞ」なんて思われたら生きてゆけない。エロ本を拾っているところを見られるより恥ずかしい。

図書室で見るなんてできないし、まして借りるなんてもってのほか。性教育の本の貸出履歴カードに一生ぼくの名前が残ってしまう。



ぼくは図書委員になった。すべてはあの本をもう一度見るために。

誰にも見られないようにあの本を見るためには、人のいない時間を狙わなければいけない。
それには図書室にずっといてチャンスをうかがう必要があるが、それまでほとんど図書室に行ったことのないぼくが突然入りびたるようになるのは不自然だ。
図書室にずっといても不自然ではない人物、それは図書委員。

図書委員は放課後に図書室に待機して貸し借り手続きをする必要があるので、ほとんどの生徒はやりたがらない。委員決めのために手を挙げると、すんなりと図書委員になることができた。
「立候補なんてまじめだなー」
なんて友人から言われたが、
「もっとめんどくさい文化祭実行委員とかをやりたくないからな」
と言い訳をして、「ほんとはやりたくないんだけどな」というスタンスをくずさなかった。

数日後、さっそく図書委員としての仕事がまわってきた。
ぼくはTくんという隣のクラスのおとなしい生徒といっしょに貸出カウンターに座ることになった。委員は二人一組で貸出業務にあたるのだ。これは誤算だった。ひとりっきりになるチャンスがない。

初日は様子見。
ぼくが知ったのは、放課後に図書室に来る生徒は意外に多いということだった。
自分の放課後生活は、部活をやるか友人と遊びにいくか家に帰るかだったので、図書室に滞在する生徒がこんなにいるとは思いもよらなかった。常に数人が本を読んだり勉強したりしている。

その後も何度か図書委員としてカウンターに座ってチャンスをうかがっていたのだが、図書館に誰もいなくなる時間はなかった。
Tくんは決してサボることなく委員の仕事をこなし、毎日のように図書室にやってきて勉強をする三年生もいる。おまけに図書室担当の国語教師が図書室にいることも多かった。放課後の図書室はわりと繁盛しているのだ。

「他に誰もいないときを見はからってこっそり性教育の本を見る」というぼくの作戦は実現不可能のように思えた。
べつの方法を考えるしかない。

ある日、ぼくは返却された本を棚に戻しにいくついでに、そっと例の性教育の本を手に取り「誰だよこんなところにこの本入れたのは」と小さくひとりごとをつぶやきながら図書室の奥へと移動した。
誰も見ていないのに、「あるべき場所でない棚にある本を見つけた図書委員」の芝居をしながら。
そして性教育の本を、いちばん奥の棚へと移した。郷土資料があるコーナー。誰も見ないような本の棚。
そしてその日はそのまま帰った。
ほんとはすぐにでも読みたいところだが、万が一誰かに見られて「あいつ性教育の本を手にして隅っこに長時間いたぞ」と思われないために。

十日ほどたって、またぼくの貸出カウンター当番の日がまわってきた。
どきどきしながら頃合いを待った。奥の棚から人が少なくなる時間。
本を棚に返却しにいこうとするTくんをぼくは押しとどめた。「後でまとめていくからいいよ」と。

そして時はきた。何人かの生徒はいるが、自習机で読書や勉強にふけっている。そこから郷土資料コーナーは視界に入らない。
返却棚には数十冊の本。ぼくは「けっこう溜まってるなー。じゃあカウンターよろしく」とTくんに向かってクサい芝居をしながら書架へと向かった。これで少しぐらいカウンターに戻ってくるのが遅くなっても不自然に思われずに済む、はず。

そしてぼくは、何冊かの本を棚に戻してから郷土史コーナーへと向かった。隠しておいた本が本来の位置に戻されているのではないかということだけが懸念点だったが、本は依然そこにあった。やはり郷土史の本など誰も見ないのだ。

足かけ半年。ついにこの日が来た。
ぼくは、自分の姿を視認できる位置に誰もいないことを確認してから、おもむろにページを開いた。



そこから先のことはあまりおぼえていない。
とにかく、がっかりしたことだけはおぼえている。
「あれ? こんなんだっけ?」
というのが正直な感想だった。

はじめて見たときは「なんてエロいイラストなんだ!」とおもった。
その後、幾度となくこのイラストのことを思いえがいていた。その結果、ぼくの中で例のイラストのエロさがどんどん肥大化していったのだろう。
半年ぶりに実物を見てみると、「なんかおもってたほどじゃないな」としかおもえなかった。この程度のもののために半年も周到に準備してきたのが急にばかばかしくなった。

だがこの経験はぼくに大切なことを教えてくれた。
真のエロとは自分の頭の中にあるのだ、と。

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