2018年7月9日月曜日

【読書感想文】 西川 美和『永い言い訳』

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『永い言い訳』

西川 美和

内容(e-honより)
人気作家の津村啓こと衣笠幸夫は、妻が旅先で不慮の事故に遭い、親友とともに亡くなったと知らせを受ける。悲劇の主人公を装うことしかできない幸夫は、妻の親友の夫・陽一に、子供たちの世話を申し出た。妻を亡くした男と、母を亡くした子供たち。その不思議な出会いから、「新しい家族」の物語が動きはじめる。

あらすじを読んで、
「妻を亡くしても悲しさを感じられなかった主人公が、ふとしたことで出会った子どもたちと過ごすことで徐々に内面と向き合っていき、やがて妻の存在の大切さに気付く」
的なベタな感動ストーリーかな、と警戒していたのだけれど、予想通りに運ばなくてよかった。
そりゃそうよねえ、うまくいってなかった人が死んだからって「今までありがとう」なんてあっさり思えないよねえ。

主人公がわがままで見栄っ張りで平気で他人の気持ちを踏みにじるやつ、ってところに作者の「ありきたりなお涙ちょうだい物語にはしないぞ」という意思が感じられた。
いろんな表現メディアがあるけれど、人間のダメなところを描くという点では小説は優れた表現手法だなと『永い言い訳』を読んで思った。ほんとに主人公がダメなやつなんだよ。



幸いにして身近な人を亡くしたことがない。
祖父母の死は経験したが、八十歳ぐらいで病死したので「まあ順番的にそうなるわな」という感じで、少なくとも「なんでこの人が死ななくちゃいけないの!」という死に方ではなかった。
だからまあ悲しかったけど、卒業式の悲しさと同じで「つらいけどしかたないよね」と気持ちは醒めていた。

もっと近しい人が理不尽に死んだとき、正しく悲しめるだろうか。正しくっていうのも変だけど、号泣するとか、取り乱すとか、そういう反応ができるか自信がない。いやべつに取り乱さなくたっていいんだけど、冷静になりすぎてへらへらしてしまったりするんじゃないかと心配だ。

ぼくは感情のスイッチをかんたんに切り替えられない。
以前、友人の運転する車の助手席に乗っていた。信号を右折するとき、自転車が飛びだしてくるのが見えた。車は減速する様子がない。どうやら自転車に気づいていないようだ。
ぼくは言った。「自転車きてるでー」
運転手は自転車に気づいてブレーキを踏み、間一髪で接触はまぬがれた。あと0.1秒遅れていたらぶつかっていたかもしれない。
危なかったな、と運転手にいうと「気づいたんやったらもっと危なそうに言ってや!」と怒られた。
「あぶないっ!!」とか「ブレーキ!!」とか、なんなら「わああああー!!」でもいいから、とにかくたいへんな事態が迫っていることを警告してほしい、おまえの口調にはまったく切迫感がなかった、と。

感情の起伏の少ない人間だと言われる。まず怒らない。四歳の娘に対して怒鳴ることはあるが、かっとなって怒鳴るわけではない。「真剣に聞いてないからまずは怒っていることを伝えないといけないな」と考えて「よし、怒ろう」と決意してから怒っている。

依然の職場に一瞬でキレる人がいて(上の立場の人間だった)、ぼくはその人のことを「感情のコントロールができないんだな」と小ばかにしていたが、感情のおもむくままに行動できることをちょっとうらやましいとも思っていた。

もう何年号泣していないだろう。学生のとき、小さいときから飼っていた犬が死んだとき以来だから、十年以上は号泣していない。

突然の災害や事件に巻き込まれたときに、冷静に行動しなければいけないと思うあまり、必要以上に冷静でいすぎる人間がいるらしい。
緊急事態だから何を置いても逃げないといけないのに、自分は冷静だと思うあまりふだんどおりに行動してしまう。仕事に向かったり、現場の写真を撮ったり。そして、危険が自分の身に及んでいることに気づかぬふりをしたまま、自身も巻きこまれてしまう。
自分自身、そういう行動をとりそうな気がする。もう少し感情的に行動できるようになったほうがいいな、と思う。思ってできるようなものでもないのかもしれないけど。



『永い言い訳』主人公(中年男性、小説家、子どもなし)が、知人の娘のお迎えのために保育園に行ったときの描写。

 近辺をぐるぐる回り、ようやく保育園にたどり着いたが、昨日のうちに陽一氏がぼくらの関係を先生に説明してくれていたおかげで、「大宮灯の迎えの衣笠です」とインターホンで名乗ったら門扉の関はすんなりクリアできた。
 建物の下足場まで入って待っていると、次から次へと園児が出てきて、迎えに来た母親たちと帰って行く。中には父親もいる。彼らは互いに決まって明るく「こんにちはー」「さよならー」と挨拶を交わし、時間の無い勤め人らしく立ち話もそこそこに三々五々帰って行く。ぼくはしっかりと父親を装って、「こんにちはー」と発してみる。すると不審がる様子も無く、相手も同じように返してくれてほっと息をつく。犬猫が動物嫌いの人間を瞬時に感知するのと似て、母親という生き物は「人の親でない者」を見抜くセンサーを持っているように感じてきたが、どうやらそれも百発百中ではないようだ。よしよしよし。そうこうしているうちに灯ちゃんが奥から廊下を歩いてやってきた。ぼくが来ることは分かっているはずだが、ちょっと照れくさげな表情をしているので、思い切っておーい、と手を振って手のひらを差し出すと、てててと駆けてきて右手でぱちんとタッチしてきた。む。可愛いぞなもし。

これを読んで笑ってしまった。そうそう、ぼくもこうだった。

まだ自分に娘が生まれる前、姪っ子の保育園にお迎えに行ったことがある。会社を辞めてヒマだったからだ。
そのときの気持ちは、まさにこんな感じだった。
ちゃんと園児の母親(ぼくの姉)から頼まれて来ているんだから堂々とすればいいのに、不審者と思われるんじゃないか、まだ姪は一歳だから急に泣き出すかもしれない、そしたら怪しいおじさんだと思われて通報されるかも、じっさい無職のおっさんだしな、そんなことを考えてドキドキした。
で、ビクビクキョロキョロした結果、余計に挙動不審な怪しい人になる。

小学校や保育園って、関係のない人にとってはものすごく敷居の高い場所だよね。近寄ったり中をのぞきこんだりするだけで防犯ブザーを鳴らされそうで怖い。
ぼくが中国の大学に留学していたとき、大学の門の入り口に銃を持った人(警察か兵士かわかんないけど)がいて通るたびに銃口向けられるんじゃないかとびくびくしていたけど、それぐらいの緊張感がある。常に銃口を向けられている気分だ。

子どもが生まれてよかったと思うのは、よその子に話しかけやすくなったことだ。
「大人の男」というのはそれだけで不審者予備軍みたいな扱いを受けるから、子ども、特に女の子に話しかけることは許されない。

こないだ、公園で小学生の女の子が携帯電話を手にして困っている様子だったので
「どうしたん? あー、電話かかってきたけどとれなかったのか。ちょっと貸して。ほら、こうしたら誰からかかってきたかわかるよ。この真ん中のボタンを押せばかけなおすことができるよ」
って教えてあげたんだけど、それはぼくが娘を連れていたからできたことで、そうじゃなかったら「おっさんが女子小学生に話しかけていたら通報してもよい」という社会的規範のせいで話しかけることはできなかっただろう。



自分が父親になったからだろう、子どもとの接し方について書かれているところが印象に残った。

 察するに津村は、かのキワモノ親父の家庭の中に、自分の身の置き場を見出したんじゃないか。実際そこの子たちに愛情めいたものを感じ始めているのは本心だろうが、それに一番癒されているのは、母親を失った子供たちよりキワモノ親父より、津村本人なのではないかと思う。子供を愛することって、これまで自分がやってきたどんな疾(やま)しいことだって夢みたいに忘れさせてくれるから。これは男たちが、父親になることで手にすることのできる、一つの大きなご褒美だ。母を失った悲しみに暮れる子供たちを手助けしている、という最高な大義名分とともに、すべての忌まわしいことから実に心地よく背中をむけて過ごせるようになった津村は今、本当に快適そうだ。

この指摘はけっこうぐさっと刺さったなあ……。
ぼくも休日はほぼ毎日子どもと一緒にいるし、平日も風呂も寝るのも子どもと一緒だから「けっこう子育てやっているほう」とひそかに自慢に思っていたのだけれど、「子供たちを手助けしている、という最高な大義名分とともに、すべての忌まわしいことから実に心地よく背中をむけて過ごせる」と言われてしまうと、ううっ、たしかにそうかもしれない……と居心地の悪さを感じてしまう。

大人としてダメダメな人間である衣笠幸夫という主人公の姿を読むことで、自分の中のダメさが浮き彫りにされるような気になる。
おまえはダメなんだぞと真実を突き付けてくれる、いい小説でした。

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