更科 功
生物がどのように進化したのか、についての考察。
更科功氏の本を読むのは『絶滅の人類史』に続いて二冊目だが、前作に続いてこちらも論旨が明快でおもしろい。
我々は、ついついヒトが全生物の頂点に立つ存在だと考えてしまう。
ユダヤ教やキリスト教の創世記でも、神は五日目に魚と鳥をつくり、六日目に獣と家畜を、そして最後に神に似せたヒトをつくったことになっている。
創世記を信じている人は少なくても、ヒトがもっとも優秀な動物だと考える人は少なくないだろう。もちろん頭の良さとか手先の器用さとかコミュニケーションの複雑さでいえばヒトが一位だろうが(たぶんね)、だからといってヒトが進化の究極系であるわけではない。
たとえば肺。哺乳類の肺は、息を吸うときも吐くときも同じ管を使っている。だから吸うのと吐くのを同時におこなうことはできない。だが鳥類の呼吸器は後気嚢から息を吸って前気嚢から空気を押し出す仕組みになっている。
たしかにね。ふだんはあまり意識しないが、長距離走をしているときや水泳をしているときには「吸う」と「吐く」を強く意識する。新鮮な空気を吸いこみたい。しかし肺の中に溜まった空気を吐きだしたい。同時にできたらどれほど便利だろう。きっと一流マラソン選手になれるだろう。
鳥はそれができるのか。いいなあ。高性能の肺があって。
生物は進化するのでどんどん機能が向上していくようにもおもえるが、そうかんたんな話でもないらしい。
迷走神経は脳と喉をつなぐ神経だ。脳から喉に最短距離でつなげば数センチで済むが、心臓の下を経由しているためキリンの場合は6メートルもの遠回りをしているのだ。
めちゃくちゃ無駄だが、修正することはできない。突然変異で「迷走神経が切れてるやつ」が誕生して、その後また突然変異で「迷走神経を最短距離でつなぐやつ」が誕生すればいいのだが、「迷走神経が切れてるやつ」が誕生しても生き残れない(=子孫を残せない)のでそれ以上進化することはない。
言ってみれば、家に住みつづけながらその家をリフォームするようなものだ。壁紙を変えるぐらいならできるが、「トイレの位置を別の場所に移す」みたいなおもいきった改築はできない。そんなことしたら、改修中はトイレが使えなくなって住めなくなるから。
「100代後の子孫が便利になるために今のあんたたちは不自由を強いられるけど我慢してね」というわけにはいかないのだ(仮に我慢したとしても100代後がもっと良くなる保障なんかどこにもない)。
というわけで、我々の身体はぜんぜん最適な機能をしていない。つぎはぎだらけのパッチワークをだましだまし使っているのだ。
「人類は直立歩行をすることによって腰痛に悩まされるようになった」と聞いたことがある。腰は本来直立歩行を支えられるようにできていないから、無理が生じて腰痛になるのだという。
だったら四足歩行ならいいのかというと、そんなことはないようだ。犬も腰痛になるらしいし、結局のところ身体にガタがくるのは「長く生きすぎた」からなんだろう。四十歳ぐらいでほとんどの人が死んでいた時代であれば、腰痛なんてほとんど問題にならなかっただろうから。
生物の身体はよくできているが、「いろいろ触ってたらよくわかんないけどなぜかちゃんと動くようになったプログラム」みたいなもんで、合理的に設計されたものとはまったく違う。絶妙なバランスの上に成り立っている奇跡のプログラムなので、ほんのちょっとしたことで壊れてしまうのだ。
人類の祖先が四足歩行から二足歩行に進化した過程について。
当然ながら、はじめから今のように上手に二足歩行ができたわけではない。当初は赤ちゃんのようにヨタヨタ歩きだっただろう。
だがこのヨタヨタ歩きにはなんのメリットもない。そのうち慣れて歩けるようになるのかもしれないが、自然界においては慣れるようになる前に他の動物に食べられてしまうはずだ。
ではどうやって二足歩行が進化したのか。
歴史の教科書には、人類の進化のイラストが載っていた。
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こんなやつ |
こういう絵を見ると最初から二足で歩いていたようにおもってしまうが、左のやつなんかはほとんど直立二足歩行をしていなかったんだろう。ほとんど樹の上にいて。
たしかに樹の上にいるのであれば、四足歩行よりも二足歩行の方が圧倒的にいい。チーターやトラも樹の上にいるけど、落ちそうで不安になるもん。二足で立って一本の手で離れた場所にある枝をつかめば安定するし、残った一本の手を自由に使える。
進化のイラストの左端は、枝につかまってる絵にすべきかもしれないね。
その他の読書感想文は
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