カイミジンコに聞いたこと
花井 哲郎
地質学、古生物学の研究者によるエッセイ。
なんてことのない身辺雑記を書いていたとおもったら、気づくと古生物や微生物や進化の話になっている。この流れがじつに洒脱でおもしろい。
大学広報などに書いた文章を寄せ集めたものなのでテーマはまとまりはないが、それでも生物への愛が全篇を貫いている。
年寄りに共通の「昔は〇〇だったが今の若い学生は~」というぼやきが多いのが玉にキズだが(根拠を示さない「昔は良かった」に読む価値はないとおもっている)、それ以外はいい文章。
ぼくはこの学生の気持ちがよくわかるなあ。
「命名」という作業って、人間にとってすごく大事なことなんだよね。良くも悪くも。
名前がわからないってすごく不安になるんだよね。新型コロナウイルスだってちゃんと名前がついたからまだ冷静に対応できているけど、これが「正体不明の奇病」だったらその恐ろしさは今の比じゃないだろう。ほとんどの人は「コロナ」が何を指しているか知らないわけだから(ぼくも知らない)、「新型コロナウイルス」だろうと「正体不明の奇病」だろうと理解度は大差ないわけだけど、それでも名前がついているというだけで安心するものだ。
以前にも書いたけど、知人のおかあさんが落ち着きのない息子に手を焼いていたけど、息子が発達障害だと診断されたことで安堵しているように見えた。
名前がついたからといって息子が落ち着くようになったわけじゃない。それでも「なんだかわからないけど他の子とちがう息子」よりも「発達障害の息子」のほうがまだ理解できた気になれるようだ。
みんな、わからないものが嫌いなんだよね。だから、まったく新しいことをはじめる人がいると非難される。ところがラベルを貼って「これは〇〇の仲間です」とカテゴライズすると「ああ、〇〇みたいなやつか」と安心して受け入れられる。〇〇のことを理解できているかどうかなんて関係がない。わかった気になる。
だから、何かについてじっくり考えてもらいたいとおもったら、あえて名前を伝えないってのもひとつの手かもしれないね。不安定なままにしときたくないから、あれこれ考えるもんね。
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