2022年8月18日木曜日

【読書感想文】『ズッコケ三人組と死神人形』『ズッコケ三人組ハワイに行く』『ズッコケ三人組のダイエット講座』

   中年にとってはなつかしいズッコケ三人組シリーズを今さら読んだ感想を書くシリーズ第十二弾。

 今回は34・35・36作目の感想。

 すべて大人になってはじめて読む作品。


『ズッコケ三人組と死神人形』(1996年)

 雪山のペンションに旅行に出かけた三人組。そこに、死神の人形が届けられる。最近世間を騒がしている、受け取った者が死亡するという人形らしい。はたして焼死者が出て、ペンションは陸の孤島と化す。さらに第二、第三の事件も発生し……。


 これはひどい。中期作品のダメなところを寄せ集めたような作品。『ズッコケ三人組のミステリーツアー』よりももっとひどい。

 まず設定が不自然。クローズド・サークルものをやりたかったんだろうけど、雪山深いペンションに小学生だけで旅行させること自体が無理がある。もうちょっと自然な導入にできなかったのかね。

 そして登場人物が多い。児童文学の分量で、十人近い容疑者のいるミステリを書くのは無理がある。案の定、真犯人を聞かされても「この人どんな人だっけ?」となってしまった。

 さらに『ズッコケ三人組のミステリーツアー』と同じく、一応三人組も推理はするけど真相にはたどりつけず、最後は警察が解決しちゃうパターン。単に事件に巻きこまれただけでこれといった活躍をしてないんだよね。ただの傍観者。

 ミステリとしても粗が目立つ。第一の事件の狂言自殺トリックはいいとして、第二の事件は「たまたま被害者が鍵をかけ忘れたのを利用して」殺されてるし、第三の事件では警戒していたはずの被害者があっさり毒を飲んで殺される。しかも犯人が〝女子大生グループとして旅行に来ていた殺し屋組織の女〟ってなんじゃそりゃ。ラストで唐突に殺し屋組織の存在が明かされ、なんの説明もないまま終焉。

 これはかなりのハズレ作品や……。 



『ズッコケ三人組ハワイに行く』(1997年)

 モーちゃんがお菓子の懸賞に見事当たってハワイ旅行に行くことになった三人。はじめての海外旅行を楽しむ三人だったが、ハチベエの曽祖父を知っているという日系人が現れて……。


 ははーん。これはあれだな。作者が経費扱いでハワイ旅行に行くために書いた作品だな。

 いろいろと設定に無理がある。まずガムの懸賞で100人近くをハワイ旅行に連れていくか? そんな金を出すためにはいったいいくつガムを売らなきゃいけないんだ。

 三人一組で旅行にご招待、なんてのも聞いたことがない。ふつうは一人かペアでしょ。

 そして「子どもばっかり三十人を集めて、大人二人(それも子どもの扱いにまったく慣れていない菓子メーカーの社員)が海外に連れていく……とぞっとするようなツアー。おそろしすぎるだろ。おまけに現地で子どもたちから目を離して「今から自由行動にするので〇時にここに戻ってきてくださいね。あっちの通りは危険なので行かないように」って、海外とガキをなめすぎでしょ。近所の公園に連れていってるんじゃないぞ。案の定迷子になってるし。

 さらにハチベエが出会った見ず知らずの外国人が「ちょっと明日この子たちをお借りしたい」と言いにきたら、引率の社員はあっさり引き渡してしまう。責任感ゼロか。
 話の展開上しかたないとはいえ、引率者の危機管理体制がズタボロなところが気になって話が頭に入ってこない。

 さらにハチベエが出会ったハワイの大富豪が「私の父親が日本にいたときに君のひいおじいさんに借りをつくった。当時の罪滅ぼしも兼ねて、ホテル経営事業を君に譲りたい」という話を持ちかけてくる。こんなの100%詐欺じゃねえか!

 とまあこんな感じで、リアリティもへったくれもあったもんじゃない。日系二世はともかく三世や四世までもがぺらぺら日本語しゃべってるし。どんだけ日本語好きやねん。ハワイの観光地や歴史の描写は丁寧なだけに(丁寧に書かないと経費扱いにできないからね)、お話のずさんさがより際立つ。

 きわめつきはラスト。大富豪がお世話になった八谷良吉さんはハチベエの曽祖父ではなくまったくの他人だったというオチ。
 いやいやいや。

  • ミドリ市花山町に住んでいた(ハチベエの家は代々花山町)
  • 八百屋を経営していた(ハチベエの家は八百屋)
  • 名前が八谷良吉(ハチベエは八谷良平)

 これだけ条件がそろってたのに、赤の他人でしたってそんなアホな……。



『ズッコケ三人組のダイエット講座』(1997年)

 モーちゃんの身体測定の結果を見たハチベエとハカセは、モーちゃんを減量させるべくダイエット計画を立てる。食事制限と運動により3kg落としたモーちゃんだが、パーティーに出席したことをきっかけにあえなく挫折。そんな折、ビューティーダイエットクラブという会の存在を知り、会費十万円を払うことを決意する……。


 身体測定という小学生にとっては身近なイベントをきっかけにしてダイエットに励むという自然な導入。おっ、いいねえ。もうズッコケシリーズを三十数冊も読んでいると第一章を読んだだけで当たりはずれがわかるようになってきた。導入が不自然な作品はまずまちがいなくはずれだ。『ズッコケ三人組と死神人形』『ズッコケ三人組ハワイに行く』も導入がひどくて、そのまま最後までつまらなかった。

 身体測定というやつは誰もが経験したことのあるおなじみの行事でありながら、小学生にとってはぎょう虫検査に匹敵するぐらいのイベントだ。あいつの身長に勝ったとか、あいつは身長の割に座高が高すぎるとか(そういや最近は座高を測らないらしいね)、大人から見るとどうでもいいことで一喜一憂する。

 そこからの流れも自然で、かつそれぞれのキャラクターがよく出ている。ハチベエは運動を勧め、ハカセはカロリー計算をし、クラスの女子たちはどこからか仕入れた流行りのダイエット方法を持ちこんでくる。そして彼らに振り回されるモーちゃん。

 と、ここまでは日常的なシーンが続くのだが、ビューティーダイエットクラブの存在が明らかになるあたりから雲行きがあやしくなってくる。会費は十万円、医師でもないのに医療行為をやっているから大っぴらにはできない、マンションの一室で開催される、短期間で二十キロも痩せられる、アメリカから輸入した謎の食品……と何から何まで怪しさ満点のクラブである。そこに貯金をはたいて入会したモーちゃんは、はたして食欲が減退してみるみるうちに痩せてゆく。ところが倦怠感や貧血の症状に襲われるようになり、さらにはビューティーダイエットクラブの主催者が警察に逮捕されてしまう。

 詐欺が明らかになって一応決着したかに見えたが、モーちゃんの悲劇はまだ終わらない。会から勧められたダイエット法をやめたにもかかわらず食欲は回復せず、身体が食べ物を受けつけなくなってしまう拒食症になってしまったのだ……。

 いやあ、おそろしい。ズッコケシリーズではホラーやオカルトを扱った作品がいろいろあるけれど、ぼくはこれがいちばん怖かった(『ハワイに行く』で子ども三十人に海外で自由行動をとらせる引率者もある意味こわかったけど)。

 実際、切実な問題だしね。ぼくの親戚の女の子も、中一のときに拒食症になって入院してしまった。ぜんぜん太っていなかったのに「痩せなきゃ」と思いこんでしまい、ご飯を食べられなくなってしまったのだ。十二歳ぐらいの女の子って身長は止まるから体重は増えやすいし、周囲との違いや人の目を気にする時期だし、でも知識は未熟なのでダイエットで危ない目に遭いやすい。

 テーマもいいし、テーマに対して真正面から取り組んでいるところもいい。タイトルや表紙からコミカルな展開を予想していたのだが、いい意味で想像を裏切られた。最後はちょっとうまくいきすぎなところもあるが、まあこれぐらいのご都合主義は許容範囲内だ。

 また「ただいるだけ」になりがちなモーちゃんが主人公になっていること、それも巻きこまれただけでなく自分から積極的に行動を起こしていること、それでいてハチベエとハカセもちゃんと活躍のシーンを与えられていることなども、バランスのいい作品にしてくれている。

 この時期の作品ははずれが多いけど、これは久々の当たりだったなあ。


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2022年8月17日水曜日

【読書感想文】せきしろ・又吉 直樹『まさかジープで来るとは』 / 故で知る

まさかジープで来るとは

せきしろ  又吉 直樹

内容(e-honより)
「後追い自殺かと思われたら困る」(せきしろ)、「耳を澄ませて後悔する」(又吉直樹)など、妄想文学の鬼才せきしろと、お笑い界の奇才「ピース」又吉が編む五百以上の句と散文。著者撮影の写真付き。五七五の形式を破り自由な韻律で詠む自由律俳句の世界を世に広めた話題作『カキフライが無いなら来なかった』の第二弾。文庫用書き下ろしも収載。

 共作の自由律俳句集。


 自由律俳句といえば、高校の現代国語でちらっと習った程度だ。

 種田山頭火の

まっすぐな道でさみしい

 尾崎放哉の

咳をしても一人

などが有名だ。

 要するに、五七五という定型や季語にとらわれない俳句だ。と、授業で教わったぼくはおもった。「は? これのどこが俳句なの?」

 季語はともかく五七五のリズムも捨ててしまったら、もはや俳句でもなんでもないじゃん。「細長くもないし文字も書けないけど、この物体のことは鉛筆と呼ぶことにしましょう」って言われても納得できないよ。「まっすぐな道でさみしい」が俳句になるのなら、ありとあらゆる文章が俳句になっちゃうんじゃないの?


 ……とおもっていたのだが、この本に収められている俵万智さんの解説を読んでちょっと理解できた。要するに、無駄なものを一切そぎ落とした表現が自由律俳句なのだ。

 定型俳句は世界でいちばん定型詩などと呼ばれるが、それでも十七音使える。「や」や「かな」など、リズムを合わせるためにあまり意味のない音を入れたりもする。

 自由律俳句はもっと厳しい。無駄な文字が一文字もない。助詞ですら厳選されている。おまけにリズムが良くない。五七五だとリズムがいいので、下手な俳句でも声に出せばそれなりに聞こえるが、自由律俳句だとごまかしが聞かない。ほら、お笑い芸人のネタでもリズムに乗せてテンポよく言えば内容はいまいちでもそれなりに楽しく聞こえるじゃない。でも、ぼそっと一言ネタをしゃべるスタイルだと相当中身が良くないとおもしろくない。




『まさかジープで来るとは』には、ユーモアとペーソスがにじみ出る自由律俳句がたっぷり収められている。

 特に感心したのがこれ。

故で知る (又吉)

 なんとたった四文字(かなにしても四文字)! それなのにちゃんと意味がわかるし、心情も伝わってくる。

 新聞などで「故〇〇氏」と書かれているのを見て「ああ、あの人亡くなってたんだ」と知る。しかも「故」と書かれるということは死んだのはけっこう昔で、自分が知らなかっただけで亡くなったときはちょっとした話題になったのだろう。亡くなったこと以上に、自分だけが知らなかったことに対する一抹の寂寥感。それがこの四文字の句から伝わってくる。




楽しそうに黙とうの真似をする子供 (せきしろ)

 これもいい。子どもからしたら、大人たちが一斉に黙って同じことをする黙祷ってなんか楽しいんだよね。非日常的なイベント感があって。法事は長くてしんどいけど、黙祷はせいぜい一分だから子どもでもなんとか耐えられる。

 悲しいはずの行為である黙祷が楽しいイベントになるおかしさが伝わってくる。




自分の分は無いだろう土産に怯える (又吉)
自分が注文した料理が余っている (又吉)

 こうした句を見ると、いかに又吉氏が他人に気を遣いながら生きているかがよくわかる。

 近くの席で誰かが親しい人だけにお土産を渡しはじめたら緊張する。どんな顔をしていいのかわからない。じっと見たら物欲しげに見えて相手に気を遣わせてしまうし、かといって目を背けるのもそれはそれで不自然だ。何かに集中していて気づかないふりをするしかない。

 自分とは無関係なのに、だからこそドキドキしてしまう。まさに「怯える」だ。




孫にグーしか出さない祖母が又勝ってグリコ (又吉)

 ああ、わかるなあ。ちっちゃい子と「グリコ・チヨコレイト・パイナップル」の遊びをしたことのある人ならわかるはず。

 じゃんけんは運だから、自分ばかりが勝ってしまうことがある。こどもに勝たせてあげたい。せめて圧勝だけは避けたい。だからグー。勝っても三歩しか進めないグー。大勝ちしないためのグー。なのにそんなときにかぎって、子どもはチョキを出す。勝ちたくないのに勝ってしまう。申し訳ない。

 勝ちたくないのに勝ってしまってつらいおばあちゃんの心情が手に取るようにわかる。




こつが解ったから早くやりたいと焦っている (又吉)
筆箱を整理しなければと前も思った (又吉)

 あるよね。たしかにある。こういう心境。よくこんな些細な心の揺れをとらえられるなあ。些細すぎてあるあるネタにもならないぐらい。

「こつが解ったから早くやりたいと焦っている」は、子どもに何かを説明しているとよく味わう感覚だ。説明していると、子どものほうは途中である程度理解して、最後まで話を聞かずにうずうずしている。もうほんとに「うずうず」という文字が見えるぐらい早くやりたそうにしている。

 そしてこういうときって確実に失敗するんだよね。最後まで注意事項を聞かないから。




他の場所で会うと小さい大家 (又吉)

 いいねえ。おかしさと悲哀がまじりあっていて。

 契約をするときとか家賃を払うときには大家さんは大きく感じる。なんたって不動産オーナーなんだし、この人の機嫌を損ねたら自分は住むところを失ってしまうわけだから。

 ところが、そうじゃないところ、たとえば駅やスーパーでたまたま会ったときはごくふつうのおっちゃんだったりおばあちゃんだったりする。あたりまえだけど。あれ、この人こんなに存在感のない人だったっけ。

 その感覚を「小さい大家」と表現するあたりが絶妙。これが「小さく感じる大家」ではおもしろくない。小さい、という言い切りが気持ちいい。

「小さい大家」の字面もいい。矛盾をはらんでいるようで。

「他の場所で」も言葉足らずなのにちゃんとわかる。いやあ、いい句だ。これまた「アパート以外の場所で」ではおもしろくない。よくわからないのにわかる、それこそがおかしさを生む。




 自由律俳句だけでなく、句の背景となったエッセイも収録されていてそっちのほうも楽しめた。

 又吉氏の散文は町田康に影響を受けている香りが強くて好きじゃなかったけど(せきしろ氏のほうが好き)、自由律俳句のほうは又吉氏のほうが圧倒的に好みだったな。


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2022年8月16日火曜日

がんばっている姿に元気をもらわない

 朝のクリニックの待合室が好きだ。

 清潔感のある室内、かすかに流れるクラシック音楽、視界に入る観葉植物、さわやかな消毒液のにおい。とても居心地がいい。

 あんなに読書が進む場所もない。もちろん自分の容態がたいしたことない場合にかぎる話だが。


 クリニックの待合室の何がいいって、元気な人がいないことだ。

 クリニックだから具合が悪い人ばかりなんだろ、と言われるかもしれないが、そんなことはない。大病院ならいざしらず、クリニックに重病人は少ない。眼科や皮膚科ならなおさらだ。

 雰囲気が伝わるのか、子どもですら小声で話している。怒っていたり、声を立てて笑ったりしている人もほとんどいない(大病院にはけっこういる)。



 よく「がんばっている姿に元気をもらいました」「日本代表の活躍で、日本を元気に!」なんていうが、あんなの嘘だとぼくはおもっている。

 元気な人は他人を元気にしない。どっちかっていうと吸い取っている。

 そりゃあ周りがにぎやかにしていたら自然と自分の声も大きくなる。うるさい居酒屋とか。でもそれは周囲に元気をもらっているわけではない。元気を絞りだしているだけだ。

 元気な姿、がんばっている姿は周囲を疲れさせる。


 それでも
「いや、そんなことはない。私は他人ががんばっている姿を見ると自分も元気をもらいます」
という人がいたら、問いたい。

 あなた、選挙カー見て元気出ますか?


 選挙カーに乗っている人は例外なく元気ですよね。がんばってますよね。一生懸命声をはりあげて、目標に向かってひたむきに努力してますよね。

 どうですか。元気もらえますか。うんざりしませんか。近くに来られたらどっと疲れませんか。おまえらが走らせてるのは選挙カーだけじゃなくて虫唾だよとおもってませんか。おまえらは選挙カーに乗ってるだけじゃなくて図に乗ってるんだよとおもってませんか。ダルマに目を入れるより先に全住民に詫びを入れろとおもってませんか。国会に召集されるより天に召されろとおもってませんか。


2022年8月10日水曜日

【読書感想文】ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』/悪い意味でおもしろすぎる

サピエンス全史

文明の構造と人類の幸福

ユヴァル・ノア・ハラリ(著)  柴田 裕之(訳)

内容(e-honより)
なぜホモ・サピエンスだけが繁栄したのか?国家、貨幣、企業…虚構が文明をもたらした!48カ国で刊行の世界的ベストセラー!


 勘違いされがちだが、我々ホモ・サピエンスは最も優れた種ではない。大型哺乳類の中では圧倒的に弱いほうだし、人類の中でも決して優れているわけではなかった。たとえばネアンデルタール人はホモ・サピエンスよりも体格が良く、脳も大きかった。けれど生き残って現在反映しているのはネアンデルタール人ではなくホモ・サピエンスのほうだ。

 そんなホモ・サピエンスがなぜ生き残ったのか、なぜ人口が増えたのか、なぜ科学を発達させたのか、そして今後ホモ・サピエンスはどうなっていくのか……。という人類200万年の歴史を一気にひも解く一冊。




 ううむ、おもしろい。が、おもしろすぎる。良くも悪くも。

 いや物語として読んだらめちゃくちゃおもしろいんだよね。わかりやすいし、新鮮な見解が次々に紹介されるし、論旨は明快だし。

 小説ならおもしろければそれでいいんだけど、ノンフィクションに関してはおもしろすぎる本は要注意だ。なぜなら、おもしろすぎるノンフィクションはえてして枝葉末節をばっさりと刈りとってしまい、それどころか細い細い幹の上に大きな枝や葉や花をむりやり咲かせているからだ。

 異論や都合の悪い反証をばっさばっさと切り捨てて「これしかない! これに決まっている!」と書いている。これは科学的立場からするときわめて不誠実だ。まして何千年も何万年も前のことを扱っているのに、こんなに見てきたように語れるはずがない。つまり筆者が見たいように見ているということで、やっていることは司馬遼太郎といっしょだ。


 つまり単純化しすぎなんだよね。

 たとえばさ、
「科学革命以前は、人類のほとんどは進歩を信じていなかった。黄金時代は過去にあり、世界は衰退・停滞していると考えていた」
ってなことが書いてるのね。キリスト教やイスラム教の考えだと「神が世界を完璧につくったが、人間が不完全であるせいで世界は必ずしも良くなっていない」となるから、というのがその根拠だ。

 なるほどとおもうし、十分説得力のある意見ではあるけれど、その一方であんた見てきたんですかいと言いたくなる。数百年前の人たちに1万人をあつめて意識調査をおこなったんですかい。でなかったらどうして「科学革命以前は、人類のほとんどは進歩を信じていなかった」なんて言いきれるんですかい。


 ということで、物語としてはすこぶるおもしろいし、人類史に関心を抱くきっかけとしてはいい本だけど、ここに書いてあることを鵜呑みにしちゃあいけないよ。これはあくまで著者が紡いだ物語だからね。

 話半分に受け取るにはめっぽうおもしろいけどね。




 なぜホモサピエンスは他の動物にはない大きな力を持つことができたのか。

 それは「虚構」のおかげだと著者は言う。

 群れで狩りをする動物はたくさんいるが、群れの構成数はせいぜい数十頭までだ。個体を認識できる限界がそれぐらいだからだ。ハチやアリのように、数千の個体と協力をする生物もいるが、彼らの集団は血縁関係にある。まったくの赤の他人が、それも数百、数千、数万という数の個体がひとつの目的のために協力できるのはヒトだけだ。それは言葉を使って「虚構」を生みだすことができるからだ。

 言葉を使って想像上の現実を生み出す能力のおかげで、大勢の見知らぬ人どうしが効果的に協力できるようになった。だが、その恩恵はそれにとどまらなかった。人間どうしの大規模な協力は神話に基づいているので、人々の協力の仕方は、その神話を変えること、つまり別の物語を語ることによって、変更可能なのだ。適切な条件下では、神話はあっという間に現実を変えることができる。たとえば、一七八九年にフランスの人々は、ほぼ一夜にして、王権神授説の神話を信じるのをやめ、国民主権の神話を信じ始めた。このように、認知革命以降、ホモ・サピエンスは必要性の変化に応じて迅速に振る舞いを改めることが可能になった。これにより、文化の進化に追い越し車線ができ、遺伝進化の交通渋滞を迂回する道が開けた。ホモ・サピエンスは、この追い越し車線をひた走り、協力するという能力に関して、他のあらゆる人類種や動物種を大きく引き離した。

 たとえば我々は日本という国のために税金を支払っている。だが「日本」も「国家」も「財政」も「税金」もじっさいには存在しない。それ自体目に見えない。

 けれど我々は「日本」があるとおもい、「税」が「日本人」の暮らしを良くすると信じて納税をする。

 このように、虚構をつくりだし、虚構のために力を合わせて努力をすることができる。ときには虚構のために命を投げだすこともある。これによって他の生物よりもはるかに強い結びつきを生みだし、ヒトは地球上で最も繁栄する動物のひとつになった。


 そして、ヒトが生みだした虚構の最たるものが「貨幣」だ。貨幣はただの紙切れや金属の塊で、それ自体にはほとんど価値はない。もっといえば現代社会で流通している貨幣のほとんどは電子データだ。紙切れですらない。

 にもかかわらず我々は貨幣を信じている。政府を打ち壊そうとするテロ組織ですら貨幣を信じていて、それを欲する。

 哲学者や思想家や預言者たちは何千年にもわたって、貨幣に汚名を着せ、お金のことを諸悪の根源と呼んできた。それは当たっているのかもしれないが、貨幣は人類の寛容性の極みでもある。貨幣は言語や国家の法律、文化の規準、宗教的信仰、社会習慣よりも心が広い。貨幣は人間が生み出した信頼制度のうち、ほぼどんな文化の間の溝をも埋め、宗教や性別、人種、年齢、性的指向に基づいて差別することのない唯一のものだ。貨幣のおかげで、見ず知らずで信頼し合っていない人どうしでも、効果的に協力できる。

 たしかにねえ。貨幣は格差を拡大したかもしれないが、貨幣自体はきわめて平等なものだ。

 たとえば小さな集落で誰かひとりが村八分にされるとする。周囲の人は彼に何も協力しない。彼が何かを依頼しても何も渡さないし、何もしてあげない。よほどのことがないかぎり、村八分にされた人は生きていけないだろう。

 だが貨幣は彼を差別しない。貨幣があれば、財やサービスを買うことができる。現代社会では、どれだけ友だちが少なくて、どれだけ周囲から嫌われていても、金があれば生きていける。

 今、我々は見ず知らずの人にお金を渡すことで、ごはんをつくってもらったり、髪を切ってもらったり、服を作ってもらったりできる。あたりまえのようにやっているけど、これはすごいことだ。貨幣がなければ、知り合いでもない人のために労働を提供してくれる人はほとんどいないだろう。たとえこちらが「今度あんたが困ってるときは助けるからさ」と言ったって、こちらの素性がわからなければ依頼を受けてくれないだろう。

 いやあ、お金ってすごい仕組みだよね。もちろん悪い面もあるけど、見知らぬ人同士をつないでくれる絆の役割を果たしてくれるんだもんね。




 ヒトの活動が他の動植物を絶滅に追いやっていることはみなさんご存じの通り。だが、それを科学文明のせいにするのは思慮が浅すぎる。

 狩猟採集民の拡がりに伴う絶滅の第一波に続いて、農耕民の拡がりに伴う絶滅の第二波が起こった。この絶滅の波は、今日の産業活動が引き起こしている絶滅の第三波を理解する上で、貴重な視点を与えてくれる。私たちの祖先は自然と調和して暮らしていたと主張する環境保護運動家を信じてはならない。産業革命のはるか以前に、ホモ・サピエンスはあらゆる生物のうちで、最も多くの動植物種を絶滅に追い込んだ記録を保持していた。私たちは、生物史上最も危険な種であるという、芳しからぬ評判を持っているのだ。

 ヒトが他の動物を絶滅させるようになったのは、ここ数百年の話じゃない。産業革命前から、いやもっと前、農業をするようになったときから、いやもっともっと前、狩猟採集をしていた時代からどんどん他の動物を絶滅させていた。

 こうなるともう、ヒトとは他の動物を狩りつくすことで生きている生物と言っていいかもしれない。文明の発展とか関係なく。生まれながらにしてそういう生き物なのだ。「他の生物を守ろう」というのは「人間やめますか?」と言っているのに等しいのかもしれない。




 歴史の教科書には「ヒトは農耕によって豊かな暮らしを手に入れた」と書いてあるけれど、それは真実ではなかったようだ。

 かつて学者たちは、農業革命は人類にとって大躍進だったと宣言していた。彼らは、人類の頭脳の力を原動力とする、次のような進歩の物語を語った。進化により、しだいに知能の高い人々が生み出された。そしてとうとう、人々はとても利口になり、自然の秘密を解読できたので、ヒツジを飼い慣らし、小麦を栽培することができた。そして、そうできるようになるとたちまち、彼らは身にこたえ、危険で、簡素なことの多い狩猟採集民の生活をいそいそと捨てて腰を落ち着け、農耕民の愉快で満ち足りた暮らしを楽しんだ。
 だが、この物語は夢想にすぎない。人々が時間とともに知能を高めたという証拠は皆無だ。(中略)農業革命は、安楽に暮らせる新しい時代の到来を告げるにはほど遠く、農耕民は狩猟採集民よりも一般に困難で、満足度の低い生活を余儀なくされた。狩猟採集民は、もっと刺激的で多様な時間を送り、飢えや病気の危険が小さかった。人類は農業革命によって、手に入る食糧の総量をたしかに増やすことはできたが、食糧の増加は、より良い食生活や、より長い余暇には結びつかなかった。むしろ、人口爆発と飽食のエリート層の誕生につながった。平均的な農耕民は、平均的な狩猟採集民よりも苦労して働いたのに、見返りに得られる食べ物は劣っていた。農業革命は、史上最大の詐欺だったのだ。
 では、それは誰の責任だったのか? 王のせいでもなければ、聖職者や商人のせいでもない。犯人は、小麦、稲、ジャガイモなどの、一握りの植物種だった。ホモ・サピエンスがそれらを栽培化したのではなく、逆にホモ・サピエンスがそれらに家畜化されたのだ。

 たしかに総量で見れば、人間が手に入れる食物の量は増えた。でも、農耕を始めたことで食物が増える以上のスピードで人口が増え、結果的にひとりあたりの量にすると狩猟採集生活よりも貧しくなった。もちろん種として見れば個体数が増えるのは成功だけどさ。

 人間が農耕を始めたことで得をしたのは、穀物や野菜だった。彼らは人間に栽培されることで、労せずして遺伝子を後世に残すことができるようになった。もちろん「逆にホモ・サピエンスがそれらに家畜化されたのだ」というのは乱暴な物語ではあるけれど、結果だけを見ればそう見えないこともない。




  歴史に対する姿勢について。

歴史学者はあれこれ推測することができるが、確実なことは何も言えない。彼らはキリスト教がどのようにローマ帝国を席巻したかは詳述できても、なぜこの特定の可能性が現実のものとなったかは説明できない。
(中略)
特定の歴史上の時期について知れば知るほど、物事が別の形ではなくある特定の形で起こった理由を説明するのが難しくなるのだ。特定の時期について皮相的な知識しかない人は、最終的に実現した可能性だけに焦点を絞ることが多い。彼らは立証も反証もできない物語を提示し、なぜその結果が必然的だったかを後知恵で説明しようとする。だが、その時期についてもっと知識のある人は、選ばれなかったさまざまな選択肢のことをはるかによく承知している。

 我々が歴史を語るとき、結果から振り返るのですべての答えを知っているような気になってしまう。「あのときあいつを選ばなければよかったのに」「あそこで負けを認めていれば今頃は」と。

 だけど、我々が知っているのは無数にあった可能性のうちのたった一本だけで、他の道については何にも知らない。だから我々は、過去に「選ばなかった道」がどこにつながっているかをまったく知らない。未来がわからないのと同じように。

 たとえば日本がアメリカに戦争を仕掛けたことや、その戦争を長引かせた人は失敗として語られることが多いけど(ぼくもそうおもうけど)、真珠湾攻撃をしなくても同じような結果になっていたかもしれないし、早々に降伏していればもっとひどい結果になっていた可能性だって捨てきれない。


 それでもついつい歴史について語るときは、過去のすべてとまで言わなくても当時の人よりも多くのことを知っているような気になってしまう。未来について知らないように、過去についても知らないという謙虚さを持たなくてはならない。

 ということで、上に引用した文章についてはたいへんすばらしいことを書いているとおもうんだけど、だったらどうしてこの本はすべてを見てきたかのような筆致なんだよー!


 すっごくおもしろいんだけど、知的に傲慢なところが散見されて、信頼性という点では低めな本だったな。橘玲さんの本みたい。

 物語・入門書として読む分にはいいけど、正しいことが書かれているものとしては読まない方がいいな。


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2022年8月8日月曜日

【読書感想文】矢野 龍王『箱の中の天国と地獄』 / 詰将棋に感情表現はいらない

箱の中の天国と地獄

矢野 龍王

内容(e-honより)
閉ざされた謎の施設で妹と育った真夏。ある朝、施設内に異変が起こり、職員たちは殺戮された。収容されていた他の男女とともに姉妹は死のゲームに強制参加させられる。建物は25階、各階には二つの箱。一方の箱を開ければ脱出への扉が開き、もう一方には死の罠が待つ。戦慄の閉鎖空間!傑作脱出ゲーム小説。


 あの矢野龍王さんの書いた小説ということで購入。

 あのと言われても知らない人もいるだろうが、ペンシルパズル(クロスワードとか数独とかのパズル)界ではかなりの有名人だ。ぼくは子どものときからペンシルパズル雑誌『ニコリ』を購読しているが、パズル作家として「矢野龍王」の名前はよく目にしていた。

 パズル界では有名な人が書いた小説だけあって、パズルのような作品だった。うん、パズルとしてはたいへんよくできている。小説として見たら……。まあかなり稚拙だ。文章とか感情表現とかはおせじにもうまいとはいえない。これだったらいっそ戯曲のほうがよかったんじゃないかな。「〇〇、階段を昇る。××、困惑の顔を浮かべる」みたいに説明と会話だけに徹したほうがかえってこちらの想像力をかきたてられたかもしれない。

 せっかくストーリーはよくできていたので、これで文章もうまかったら最高の小説だった。逆にいうと、シナリオは完璧だった。いや批判から入ってしまったけどほんとにおもしろかったよ。



 謎の男・般若に拉致されて集められた、とある施設内で暮らしていた六人。周囲には施設の職員たちの死体。逃げ場のない施設に閉じ込められ、制限時間内に脱出できないと施設ごと消滅させると告げられる。脱出を目指す六人だが、各フロアには二個ずつの箱があり少なくとも一個を開けないと別のフロアに移動することができない。だが箱にはさまざまな罠が仕掛けられており、間違った箱を開けると死に至ることも……。

 という、『SAW』や『CUBE』のようなデス・ゲーム。思考実験のような小説だ。

 正直、この手の作品はいくつも見ているので、今さら新しい発見はそうないだろうなとあまり期待せずに読みはじめたのだが、これがどうしておもしろい。

 ネタバレをせずにこの本の感想を書くことは不可能なので、以下ネタバレ感想




【ここからネタバレ】


・もっとウソくさくてもよかったとおもう。なんか一応布袋への復讐とか施設への復讐とかもっともらしい理屈をつけてるけど、しゃらいくさいというか。どうせ嘘っぽさはぬぐえないわけなんだから。「複数の人物を閉じ込めて、脱出できるか死ぬかのゲームをさせる」ことにリアリティなんかもたせられるわけない。だったら説明は最小限に抑えてほしい。へたな言い訳を長々と連ねられるより、「これはほら話だからそういうものとして楽しめ!」のスタンスでいい。

・その点、登場人物の名前が記号みたいなのはよかった。アポロだとかスカイラブだとかベビーフェイスとか宇宙人だとか布袋・大黒・弁天だとか。山田とか高橋とかにしても書きわけられないのをちゃんと理解している。リアリティのない記号みたいな名前にしたのは正解だとおもう。

・バカすぎる登場人物がいなかったのはよかったな。みんなわりと合理的に行動してるもんね。ベビーフェイスは当初はバカキャラだったけど途中からは急にふつうになってたし。

・すぐ死ぬ人たちにいちいち感傷的にならないのもいい。モブキャラはどんどん消費していく。これでいいんだよ、これで。しょせんパズルなんだから。詰将棋で捨て駒にする駒に感情移入しなくていい。人間の重みを与えない方がいい。そういう小説じゃないんだから。

・ある程度はご都合主義なのも、それでいい。ゲームの一部は運任せで、登場人物はバタバタと死んでいくけど、ヒーローとヒロインだけは死なない。前半どんどん死んでいって、ちょっとずつ追加されて、また死んで、でもヒーローとヒロインだけは死なない。予定調和的だけど、詰将棋だからこれでいい。気になるのはそこじゃないからね。

・スカイラブは主人公たちが知らない間に死んでいて「ははあ、これは序盤に死んだことになってるやつが敵の黒幕っていうあのパターンね」とおもっていたら、ぜんぜんちがった。まんまと騙された。勘ぐりすぎた。

・登場することなく死んでしまった人はあまりにかわいそうすぎる。『IN』を引いて、箱からも出してもらえなかった人。運任せのゲームとはいえ、それはさすがにひどい。チャレンジさえさせてもらえていない。

・自分たちを殺そうとした大黒の意識を失わせた後、その手からライフルを取り上げないのが意味不明。「なかなか取れない」から諦めるって何それ。あまりに非合理的。

・「箱に書いてある星の数から、中身の見分け方を見出す」→「ルール変更の箱を開けてしまう」ってなるのはいいんだけど、その後星の数を調べなくなるのはまったく意味がわからない。「余計な情報をもらっても、混乱するだけだ」って何それ。ルールが変わっただけで、ルールがなくなったかどうかはわからないのに。情報は少しでもあったほうがいいだろ。重要なアイテムである電卓を使わなくなるのもまったくもって理解できない。これも非合理的。

・施設内の狭い部屋に閉じこめられて暮らしていたのに、世間についての知識がありすぎる。一応家庭教師がいたという設定はあるけど、挨拶とか人付き合いとか身体を動かすこととかはほとんどできないんじゃないの?

・ラスト1ページで「般若がスーツケースに入ってた」ということが示唆される(だよね?)けど、さすがにスーツケースに何十時間も隠れるのは無理がある。楽器ケースに隠れてたゴーンじゃないんだから。しかも人間が入ってるスーツケースをかついで投げたりしてたけど。ゴリラの遺伝子が入ってるベビーフェイスならともかく、常人には無理でしょ。そして、人間が爆死するような爆弾であればスーツケースも無事では済まないし、さらにはもしも真夏たちが脱出に失敗していたら般若も死んでたわけで、「スーツケースに隠れる」というアイデアはさすがに無理がありすぎる。最後の「実はこんなに身近なところに隠れてましたー!」をやりたかったことはわかるけどさ。


 リアリティとか人間の心の動きとかは求めず、ただストーリーのおもしろさだけを楽しみたい人にとってはいい作品だとおもう。

 無駄がないんだよね。こういう作品って中盤は冗長になりがちだけど、そのへんもうまく処理されている。新キャラを投入したり、ダイジェストにしたり、ルール変更をしたり。随所に飽きさせない工夫がある。運と知恵のバランスもいい。

 ほんとにストーリーだけを取りだしたらこれ以上ないってぐらい完成されている作品だった。


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