サピエンス全史
文明の構造と人類の幸福
ユヴァル・ノア・ハラリ(著) 柴田 裕之(訳)
勘違いされがちだが、我々ホモ・サピエンスは最も優れた種ではない。大型哺乳類の中では圧倒的に弱いほうだし、人類の中でも決して優れているわけではなかった。たとえばネアンデルタール人はホモ・サピエンスよりも体格が良く、脳も大きかった。けれど生き残って現在反映しているのはネアンデルタール人ではなくホモ・サピエンスのほうだ。
そんなホモ・サピエンスがなぜ生き残ったのか、なぜ人口が増えたのか、なぜ科学を発達させたのか、そして今後ホモ・サピエンスはどうなっていくのか……。という人類200万年の歴史を一気にひも解く一冊。
ううむ、おもしろい。が、おもしろすぎる。良くも悪くも。
いや物語として読んだらめちゃくちゃおもしろいんだよね。わかりやすいし、新鮮な見解が次々に紹介されるし、論旨は明快だし。
小説ならおもしろければそれでいいんだけど、ノンフィクションに関してはおもしろすぎる本は要注意だ。なぜなら、おもしろすぎるノンフィクションはえてして枝葉末節をばっさりと刈りとってしまい、それどころか細い細い幹の上に大きな枝や葉や花をむりやり咲かせているからだ。
異論や都合の悪い反証をばっさばっさと切り捨てて「これしかない! これに決まっている!」と書いている。これは科学的立場からするときわめて不誠実だ。まして何千年も何万年も前のことを扱っているのに、こんなに見てきたように語れるはずがない。つまり筆者が見たいように見ているということで、やっていることは司馬遼太郎といっしょだ。
つまり単純化しすぎなんだよね。
たとえばさ、
「科学革命以前は、人類のほとんどは進歩を信じていなかった。黄金時代は過去にあり、世界は衰退・停滞していると考えていた」
ってなことが書いてるのね。キリスト教やイスラム教の考えだと「神が世界を完璧につくったが、人間が不完全であるせいで世界は必ずしも良くなっていない」となるから、というのがその根拠だ。
なるほどとおもうし、十分説得力のある意見ではあるけれど、その一方であんた見てきたんですかいと言いたくなる。数百年前の人たちに1万人をあつめて意識調査をおこなったんですかい。でなかったらどうして「科学革命以前は、人類のほとんどは進歩を信じていなかった」なんて言いきれるんですかい。
ということで、物語としてはすこぶるおもしろいし、人類史に関心を抱くきっかけとしてはいい本だけど、ここに書いてあることを鵜呑みにしちゃあいけないよ。これはあくまで著者が紡いだ物語だからね。
話半分に受け取るにはめっぽうおもしろいけどね。
なぜホモサピエンスは他の動物にはない大きな力を持つことができたのか。
それは「虚構」のおかげだと著者は言う。
群れで狩りをする動物はたくさんいるが、群れの構成数はせいぜい数十頭までだ。個体を認識できる限界がそれぐらいだからだ。ハチやアリのように、数千の個体と協力をする生物もいるが、彼らの集団は血縁関係にある。まったくの赤の他人が、それも数百、数千、数万という数の個体がひとつの目的のために協力できるのはヒトだけだ。それは言葉を使って「虚構」を生みだすことができるからだ。
たとえば我々は日本という国のために税金を支払っている。だが「日本」も「国家」も「財政」も「税金」もじっさいには存在しない。それ自体目に見えない。
けれど我々は「日本」があるとおもい、「税」が「日本人」の暮らしを良くすると信じて納税をする。
このように、虚構をつくりだし、虚構のために力を合わせて努力をすることができる。ときには虚構のために命を投げだすこともある。これによって他の生物よりもはるかに強い結びつきを生みだし、ヒトは地球上で最も繁栄する動物のひとつになった。
そして、ヒトが生みだした虚構の最たるものが「貨幣」だ。貨幣はただの紙切れや金属の塊で、それ自体にはほとんど価値はない。もっといえば現代社会で流通している貨幣のほとんどは電子データだ。紙切れですらない。
にもかかわらず我々は貨幣を信じている。政府を打ち壊そうとするテロ組織ですら貨幣を信じていて、それを欲する。
たしかにねえ。貨幣は格差を拡大したかもしれないが、貨幣自体はきわめて平等なものだ。
たとえば小さな集落で誰かひとりが村八分にされるとする。周囲の人は彼に何も協力しない。彼が何かを依頼しても何も渡さないし、何もしてあげない。よほどのことがないかぎり、村八分にされた人は生きていけないだろう。
だが貨幣は彼を差別しない。貨幣があれば、財やサービスを買うことができる。現代社会では、どれだけ友だちが少なくて、どれだけ周囲から嫌われていても、金があれば生きていける。
今、我々は見ず知らずの人にお金を渡すことで、ごはんをつくってもらったり、髪を切ってもらったり、服を作ってもらったりできる。あたりまえのようにやっているけど、これはすごいことだ。貨幣がなければ、知り合いでもない人のために労働を提供してくれる人はほとんどいないだろう。たとえこちらが「今度あんたが困ってるときは助けるからさ」と言ったって、こちらの素性がわからなければ依頼を受けてくれないだろう。
いやあ、お金ってすごい仕組みだよね。もちろん悪い面もあるけど、見知らぬ人同士をつないでくれる絆の役割を果たしてくれるんだもんね。
ヒトの活動が他の動植物を絶滅に追いやっていることはみなさんご存じの通り。だが、それを科学文明のせいにするのは思慮が浅すぎる。
ヒトが他の動物を絶滅させるようになったのは、ここ数百年の話じゃない。産業革命前から、いやもっと前、農業をするようになったときから、いやもっともっと前、狩猟採集をしていた時代からどんどん他の動物を絶滅させていた。
こうなるともう、ヒトとは他の動物を狩りつくすことで生きている生物と言っていいかもしれない。文明の発展とか関係なく。生まれながらにしてそういう生き物なのだ。「他の生物を守ろう」というのは「人間やめますか?」と言っているのに等しいのかもしれない。
歴史の教科書には「ヒトは農耕によって豊かな暮らしを手に入れた」と書いてあるけれど、それは真実ではなかったようだ。
たしかに総量で見れば、人間が手に入れる食物の量は増えた。でも、農耕を始めたことで食物が増える以上のスピードで人口が増え、結果的にひとりあたりの量にすると狩猟採集生活よりも貧しくなった。もちろん種として見れば個体数が増えるのは成功だけどさ。
人間が農耕を始めたことで得をしたのは、穀物や野菜だった。彼らは人間に栽培されることで、労せずして遺伝子を後世に残すことができるようになった。もちろん「逆にホモ・サピエンスがそれらに家畜化されたのだ」というのは乱暴な物語ではあるけれど、結果だけを見ればそう見えないこともない。
歴史に対する姿勢について。
我々が歴史を語るとき、結果から振り返るのですべての答えを知っているような気になってしまう。「あのときあいつを選ばなければよかったのに」「あそこで負けを認めていれば今頃は」と。
だけど、我々が知っているのは無数にあった可能性のうちのたった一本だけで、他の道については何にも知らない。だから我々は、過去に「選ばなかった道」がどこにつながっているかをまったく知らない。未来がわからないのと同じように。
たとえば日本がアメリカに戦争を仕掛けたことや、その戦争を長引かせた人は失敗として語られることが多いけど(ぼくもそうおもうけど)、真珠湾攻撃をしなくても同じような結果になっていたかもしれないし、早々に降伏していればもっとひどい結果になっていた可能性だって捨てきれない。
それでもついつい歴史について語るときは、過去のすべてとまで言わなくても当時の人よりも多くのことを知っているような気になってしまう。未来について知らないように、過去についても知らないという謙虚さを持たなくてはならない。
ということで、上に引用した文章についてはたいへんすばらしいことを書いているとおもうんだけど、だったらどうしてこの本はすべてを見てきたかのような筆致なんだよー!
すっごくおもしろいんだけど、知的に傲慢なところが散見されて、信頼性という点では低めな本だったな。橘玲さんの本みたい。
物語・入門書として読む分にはいいけど、正しいことが書かれているものとしては読まない方がいいな。
その他の読書感想文はこちら
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