2025年3月27日木曜日

【ボードゲームレビュー】DORADA(ドラダ)


 DORADA(ドラダ)

 1988年にドイツで発売されたボードゲーム。発売中止になっていたらしいが、2024年に再販されたらしい。総合パズル雑誌『ニコリ』で紹介されていておもしろそうだったので購入。



【ルール】

  • 2~4人用。4人でやっても1ゲーム15分もかからないぐらい。
  • 基本的にはすごろく。1人4つの駒を持ち、サイコロを振った後にどれか1つの駒を動かし、ゴールを目指す。
  • 他人の駒や自分の駒の上に乗ることができる。上に他の駒が乗っている駒は動かすことができない。
  • 盤面中盤にはワープゾーンがあり、そこに止まると一気にゴールできる。
  • 盤面にはいくつか落とし穴があり、そこに落ちた駒はもう動かせない。ただし1つの穴につき落ちる駒は1つまでで、すでに誰かが落ちている穴は通常のマスと同じになる。
  • 盤面には「+4」「-3」などの指示があるマスがあり、止まった場合はその指示に従う。ただしこれらの指示に従って進んでいる場合にかぎり、他の駒を飛ばして移動する(このルールはちょっとややこしい)。
  • はじめは4つの駒を動かせるが、「既にゴールした」「落とし穴に落ちた」「上に他の駒が乗っている」駒は動かせないため、動かせる駒は減っていく。動かせる駒がひとつもない場合はパス。
  • すべての駒がゴール、または落とし穴に落ちたら試合終了。得点の高いプレイヤーが勝ち。落とし穴に落ちた駒は0点。ゴールした駒は、ゴール順に応じて点数が割り振られる。遅くゴールしたほうが得点は高くなる




【感想】

 シンプルなルールのすごろくなのにけっこう駆け引きが要求される。

 最後の「遅くゴールしたほうが得点は高くなる」というルールが非常にユニークかつゲームをおもしろくしている。

 これにより「いつゴールするのがベストか?」という迷いが生まれる。「ゴールできるけど、今ゴールしてもたぶん得点は低いだろうな。かといってこのチャンスを逃したらゴールできずに落とし穴に落ちてしまうかもしれない……」という葛藤が生じる。

 また「他プレイヤーの駒の上に乗ってじゃまをする(相手は選択肢が減るので落とし穴にはまりやすくなる)」という戦術が使えるので「いかに敵の駒の動きを封じるか」という攻防がくりひろげられることになる。基本的に「上に乗られて動けなくなる」のはマイナスなのだが、「すべての駒が動けなくなる」のはプラスにはたらく。なぜなら、ゴールが遅くなって高得点につながるから。ある戦略が状況次第でプラスにもマイナスにもはたらくのがおもしろい。。


 そして、いちばんいいのが運の要素が大きいこと。なんだかんだいってすごろくなので、最後はサイコロの出目で決まる。戦略をめぐらせることで勝率をある程度引き上げることはできるが、運が悪ければ負けるときは負ける。

 ぼくは子どもと遊ぶのだが手加減はしたくないので、このぐらいの「戦略も重要だが結局は運で決まる」ゲームがちょうどいい。確率も戦略もわかっていない小さい子でも勝てる(ただしわざと負けてあげることもできないので、「負けたらすぐ泣く子」と遊ぶのには向いてない)。


 あとゲームのデザインもいい。シンプルな盤面とシンプルな形の駒。材質もしっかりしている。ゴール地点には駒を10個以上積み重ねることもあるのだが、安定感があってぜんぜん倒れない。ボードゲームによっては「うっかり倒しちゃって状況がむちゃくちゃになってしまう」ことがあってけっこうなストレスなのだが、その心配も少ない。


 シンプルなルール、誰にでも勝つチャンスがある、ほどよい駆け引き、短時間で完結、とボードゲーム初心者に安心しておすすめできるゲームです。


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2025年3月25日火曜日

【読書感想文】貫井 徳郎『光と影の誘惑』 / ペンギン関係ないんかい


 光と影の誘惑

貫井 徳郎

内容(e-honより)
銀行の現金輸送車を襲い、一億円を手に入れろ―。鬱屈するしかない日常に辟易し、二人の男が巧妙に仕組んだ輸送車からの現金強奪計画。すべてはうまくいくかのようにみえたのだが…。男たちの野望が招いた悲劇を描く表題作ほか、平和な家庭を突如襲った児童誘拐事件、動物園での密室殺人など、名手・貫井徳郎が鮮やかなストーリーテリングで魅せる、珠玉の中編ミステリ4編。

 ミステリ中篇集。元は1998年刊行だそう。

 うーん、「おもしろくなりそう」な作品が多かったな……。

(以下、ネタバレ含みます)



『長く孤独な誘拐』

 息子が誘拐された。両親のもとにかかってきた誘拐犯からの電話。誘拐犯の要求は「息子を返してほしければ、今から言う子を誘拐しろ……」

 息子を誘拐された被害者が犯人になるという二重誘拐事件。これはおもしろい設定だとおもったのだが……。


 あたりまえだけど、「自分で誘拐&身代金受け渡しをやる」よりも「会ったこともない人に命じて誘拐&身代金受け渡しをさせる」ほうがはるかに難しいはず。それなのに順調に事が運ぶ。ということは……。

 かなり早い段階でオチが読めてしまう。そもそもミステリで誘拐事件が書かれる場合って、かなりの確率で狂言誘拐パターンだからね。



『二十四羽の目撃者』

 突然の海外コメディのような文体。そのわりにウィットに富んだ会話がくりひろげられるわけではなく、「怖い上司に怒られちゃったよ。とほほ……」「おっかない警察官に怒られちゃったよ。とほほ……」みたいな昭和臭の漂うやりとりが続く。

 そもそもこの人の文章は重めで、説明が多くてテンポが遅いので、こういう軽妙な文体は似合わないとおもうんだけど。

 動物園で起きた殺人事件、屋外の密室、という設定はおもしろかったんだけど、明らかになるのは「ミステリ作家が頭の中だけで考えたとうていうまくいくとはおもえないトリック」。なんだよ、「手袋に風船を結びつけておき、発砲後は風船が飛んでいくので現場に残らない」って。

 そして、意味ありげなタイトルも、動物園という舞台もぜんぜん本筋に関係なかった。ペンギン舎の横で殺人が起きてタイトルが『二十四羽の目撃者』なのに、謎解きにペンギン関係ないんかい。



『光と影の誘惑』

 現金輸送車から金を奪う計画を立てる二人の男。

 もう、「ふたりの胸中が交互に語られる」時点であのパターンだとわかる。さすがに今では手垢にまみれすぎた手法。1998年時点ではまだ古びてなかったのかなあ。

 しかも「かつて自分が騙して殺した相手と同じ苗字で顔もよく似た男が現れたのにまったく警戒しない」ってどうなのよ。雑ー!


『我が母の教えたまいし歌』

 父を亡くした大学生。葬儀を取り仕切っているうちに、一人っ子だとおもって育ってきた自分に姉がいたことを知らされる。さらに人付き合いの苦手な母がかつては社交的だったこと、両親の転居の時期にいろいろなことが起こっていたことなどが明らかに。はたして姉はどこにいるのか……。


 四篇の中ではこれがいちばんよかった。オチの切れ味もいいし、真相を明かしてすぱっと終わらせているのもいい。



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【読書感想文】安藤優一郎『百万都市を俯瞰する 江戸の間取り』 / のび太みたいなことをやる大名

百万都市を俯瞰する
江戸の間取り

安藤優一郎

内容(Amazonより)
江戸は五〇〇年以上も前から関東の港湾都市として賑わいを見せていたが、天正18年(1590)に徳川家康が居城に定めたことで、大きく変貌を遂げた。当初は軍事拠点として城の整備が進められ、関ヶ原で徳川家が勝利したのち武家人口・町人人口が急増すると、一大消費地点として発展。ついには世界最大級の百万都市にまで成長し、現代東京の礎が築かれることとなる。
本書では、そんな江戸という巨大城下町を、「間取り」を介して解説していく。具体的には江戸城のほか、武家地、町人地、寺社地、江戸郊外地という五つの土地毎に章を分け、各建物の内部構造や周辺の俯瞰図を見ながら、江戸に住む人々の暮らしに迫っている。(中略)この五つの切り口を通じて、城下町江戸で暮らす武士や町人の生活を、様々な間取り図とともに解き明かしていこう。(「はじめに」より)

「間取り」という切り口で、江戸の人々の暮らしをひも解く本。江戸城、武家、寺社などが中心。ぼくは落語は好きだけど時代小説も時代劇もほとんど見ないので、個人的には名もなき人々の暮らしぶりを知りたかった。でも紙も文字も一般的でない時代なので、一般人の暮らしぶりをわざわざ書き残したりはしない。間取り図を残すのは名のある家や金持ちだけだよね。当然だけど残念。

 

 改めて、市井の人々の暮らしって残りにくいものだと感じる。

 今の我々の暮らしも百年後の人々にとっては興味深い「歴史資料」になっているんだろうけど、わざわざ不動産広告のチラシを百年後に残したりしないもんな。子孫に残すなら貴重な金銀財宝よりも、「ごみとしかおもえないどうでもいい紙切れ」とかのほうがおもしろいかもしれない。いや、金銀財宝も欲しいけど。



 おもしろかったのが、江戸に多くあった大名屋敷について。

 各藩の大名たちが住む屋敷は、幕府から与えられた土地に建てられた。ただし与えられたのは土地だけで、建物はそれぞれで建てなければならなかったそうだ。

 だからだろうか、それぞれ趣向を凝らしてけっこう好き勝手に建てていたのだそうだ。

  別荘・倉庫・避難所として使われた下屋敷は上屋敷・中屋敷とは異なり、複数下賜される事例が珍しくなかった。尾張藩もその一つだが、江戸郊外で下賜されることが多かったため、江戸城近くで下賜された上屋敷や中屋敷よりも面積はかなり大きかった。なかでも、尾張藩の戸山屋敷(現新宿区戸山一~三丁目)の広さは群を抜いた。市谷屋敷以上の規模である八万五〇〇〇坪を下賜されたが、尾張藩では周囲の農地を購入して戸山屋敷に組み込んだため、その分を合わせると一三万坪にも達した。
 (中略)
 戸山荘二十五景の一つである龍門の滝でのアトラクションは、戸山荘の名物の一つになっていた。まず、巨大な池から滝へと流れていく水を堰き止めておく。訪問客たちが渓流に配された飛び石の上を渡り切ると、堰き止めの板を外して滝へ水を落とす。そうすると、今まで渡って来た飛び石が水中に没するという趣向であった。
 (中略)
 戸山荘(戸山屋敷)のように、とりわけ面積が大きかった下屋敷は庭園化する傾向がみられたが、楽しめたのは景観だけではない。本物そっくりの宿場町のレプリカも作られていたのだ。
 同じく二十五景の一つに数えられた「御町屋通り」は、東海道小田原宿をモデルにして造られたと伝えられる。図のように、三七軒もの町屋が七五間(約一三六メートル)にわたって立ち並んでいた。一軒の間口は平均約三間(五・五メートル)だった。
 米屋・家具屋・菓子屋・旅龍屋などの店舗や弓師・矢師・鍛冶屋などの職人の店つまり町屋が、時代劇のセットのように実寸大に造られたのである。本当に旅をしているかのような幻想を戸山荘の訪問客に湧き立たせる粋な趣向が施されていた。

 人口の滝をつくって客に見せたり、宿場町のレプリカを作ったり。

 これはあれだな。ドラえもんの道具を使ってのび太がやるやつだな。

 江戸に住む大名というと何かと不自由なイメージがあったんだけど、こんなふうにあんな夢こんな夢かなえているのを見ると、けっこう江戸生活を楽しんでいた大名も多かったのかもしれない。単身赴任で羽を伸ばすみたいな。




 さらに屋敷内の土地を貸したり農地にしたりして、生活の足しにしていたという。

 貸家もあるが、屋敷内の土地を貸して生活の足しにするのは、御徒に限らず御家人にとってはごく普通の経済行為だった。他の組屋敷の事例をみると、同じ御家人や藩士のほか、御坊主衆・学者・医師などが御徒の屋敷に地借している。
 御徒の組屋敷は深川でも与えられたが、深川の場合は個々の屋敷の規模は一三〇坪ほどであった。建坪二〇~三〇坪ほどの建物の構造も山本政恒の屋敷と似たようなものだが、裕福な者は土蔵や湯殿を持っていた。
 空いた土地は農地にする一方、地代を取って貸し付けた。農地には茄子や胡瓜を植え、自家用にしている。
 組屋敷は組単位で活用する方法もあった。東京の初夏の風物詩として入谷(現台東区)の朝顔市は有名だが、御徒などの御家人が内職として栽培した朝顔を市場に出したことがはじまりである。栽培するとなると相応の土地が必要だが、そこで活用されたのが組屋敷だった。組屋敷として与えられた土地を朝顔の栽培地として共同利用したわけだ。
 現在の東京都新宿区大久保周辺に住んでいた鉄砲百人組の同心が組屋敷で共同して栽培したツツジに至っては、江戸のガーデニングブームのなかで名産品となる。東京都新宿区の花はツツジだが、その由緒は大久保の百人組同心のツツジ栽培にまでさかのぼるのである。
 他の御家人の組屋敷では鈴虫や金魚の飼育も盛んであった。養殖には巨大な池が必要だが、組単位で土地活用すれば、それも可能だ。こうした御家人によるサイドビジネスが、江戸の庭園・ペット文化を支えていた。

 武士は武士としてふるまっていたようにおもってしまうけど、武士は武士でけっこう商売をやっていたのだ。

 江戸時代の人々はつつましい生活をしていたようなイメージを持っていたけど、我々と同じように経済活動をしたり、趣味にお金を使ったりしていたことがわかる。ガーデニングをしたりペットを飼ったり。歴史の教科書には書かれないし時代劇にもあんまり出てこないけどさ。

 ひょっとすると江戸の町人のほうがぼくらより贅沢な生活を送っていたのかもね。


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2025年3月21日金曜日

【映画感想】『映画ドラえもん のび太の絵世界物語』


『映画ドラえもん のび太の絵世界物語』

内容(映画.comより)
国民的アニメ「ドラえもん」の長編映画44作目で、「映画ドラえもん」シリーズ45周年記念作品。絵の中の世界に飛び込んだドラえもんとのび太たちが、幻の宝石を巡って時空を超えた冒険を繰り広げる。
数十億円の価値がある絵画が発見されたというニュースを横目に、夏休みの宿題である絵に取り組んでいるのび太。そんな彼の前に、突然絵の切れ端が落ちてくる。ひみつ道具「はいりこみライト」を使い、その絵の中に入って探検をしていると、不思議な少女クレアと出会う。彼女の頼みを受けて「アートリア公国」を目指すドラえもんとのび太たちだったが、そこはニュースで話題になっていた絵画に描かれた、中世ヨーロッパの世界だった。その世界には「アートリアブルー」という幻の宝石がどこかに眠っているという。幻の宝石を探すことになったドラえもんとのび太たちだったが、やがてアートリア公国に伝わる世界滅亡の伝説がよみがえってしまい、大ピンチに陥る。

 映画館にて視聴。

 事前にレビューサイトをちらっと見たらかなり評判が良かった。「ドラえもん映画史上最高傑作」とまで書いている人もいた。期待しながら鑑賞。

 うん、これは噂にたがわぬ名作。史上最高傑作を決めるのはむずかしいが(ドラえもん映画のNo.1はたいてい子どものときに観た作品になる)、上位に入ることはまちがいない。

(以下、わずかにネタバレを含みます)



そんなに新しいことはしていないのがいい

 何がいいって、そんなに新しいことはしてないんだよね。

 ドラえもんの道具を使って非日常の世界に行って、そこで友だちができて、その世界になじんできたところで悪いやつが現れて、みんなで力を合わせて、ドラえもんの道具を使い、強大な敵と立ち向かう。最後は知恵と勇気で敵をやっつけてめでたしめでたし。

 典型的なドラえもん映画のパターンだ。40年以上前から大枠は変わっていない。

 でもこれでいい。制作者は、観客が何を求めているかをわかっている。

 ドラえもん映画を観にいく人は“ドラえもんの映画”を観たいのだ。脚本家や監督のクリエイティビティを見せつけられたいんじゃない(わかってる? 『のび太の×××××』を作った人たち)。

 いつものキャラクターたちが、いつものように行動し、いつものようにドラえもんが道具を出して解決する。そういう映画を観たいわけよ。「のび太が努力を重ねて演奏を上達させて音楽の力で敵をやっつける話」なんてやったら『ドラえもん』じゃないのよ(あっ書いちゃった)。

 ちゃんと『ドラえもん』の枠組みを守った中でおもしろい話を作ってほしい。『空の理想郷』や『絵世界物語』はそれができることを証明してくれた。マンネリと言われようと、同じところは同じでいい。なぜならドラえもん映画のメインターゲットである子どもたちは数年で入れ替わってゆくのだから。

 制約の中でいいものを作るのが真のクリエイターだとおもうよ。


秀逸なオープニング

 オープニング映像がすばらしい。『夢をかなえてドラえもん』に合わせて、のび太たちが名画の中で躍動する。いやがおうでもこれから始まる大冒険への期待をかきたてられてわくわくする。この映像だけくりかえし見たいぐらい。

 そして謎の少女、空から現れた欠けた絵。このミステリアスな導入をコミカルに描いているところもすばらしい。これからのストーリー展開に必要な導入をただの説明で処理せず、楽しいシーンとして見せてくれる。丁寧な仕事だ。

 中盤の水加工用ふりかけで家を作るシーンも、音楽ベースで楽しく見せてくれる。セリフはないけど何を言っているかがちゃんとわかる。いい仕事だ。


おなじみの道具

 原点回帰というか、今作では映画ドラえもんでおなじみの道具が数多く登場した。

 グルメテーブルかけ、着せ替えカメラ、とうめいマント、空気砲、ヒラリマント、瞬間接着銃……。

 今作のキーアイテムであるはいりこみライトは『ドラビアンナイト』などでおなじみの絵本入りこみぐつとほぼ同じ。

 ストーリー上重要な役割を果たす水加工用ふりかけ、かるがるつりざお、ころばし屋、本物クレヨン、モーゼステッキなども原作にも登場したことのある道具で、すぐに機能が理解できる。

 なので言葉による道具の説明がほとんどない。これがいい。

 小さい子にもすぐにわかるし、ストーリー進行のじゃまをしない。時空間チェンジャーみたいに「過去24時間内に行ったことがある場所と時間と範囲を指定して、現在いる空間と入れ替えることができる」なんてややこしい道具は出てこない。なんだそのごちゃごちゃした設定。『ドラえもん』読んだことあるのかよ(また『地球交響曲』の悪口になってしまった)。

「いちいちキャラクターや設定の説明をせずに済むのでストーリー展開に時間を割くことができる」というシリーズものの利点をうまく生かしている。


伏線のうまさとわざとらしさ

「わらわは風呂は嫌いじゃ」のセリフや流しそうめんのシーンが、結末に関するヒントになっているのがニクい。

 “後の展開への伏線になっているけど、それに気づかなくてもおもしろい”のがいい伏線だ。

 一方で、ボスとの戦闘で起死回生の役割を果たす道具については、少々わざとらしい。かなり強めに印象付けようとしてくるので「あ、これは終盤で使うやつだな」とわかるし、「あの道具さえあれば」なんて不自然なセリフまで出てくる。いちばんカタルシスを得られる場面だっただけに、もっとさりげなく提示してほしかったな。


 あと、ちょっと省略が効きすぎていた。

 しずかちゃんが二回目に絵世界に来たシーンとか、ジャイアンたちが眠りから覚めるシーンとかが省略されていたので、うちの子(11歳)は観終わった後に「いつジャイアンたちは目覚めたの?」となっていた。

 絵世界についての説明も短く、子どもが一度観ただけですべてを理解するのはかなりむずかしいんじゃないかとおもう。

 次から次にいろんなことが起こり、ストーリーのボリュームがあるので観ていて楽しいが、その代償として「子どもがすんなり理解できる」点が損なわれているように感じる。

 ディズニー映画もそうだけど、ターゲットが広がると同時にどんどんストーリーが複雑化して、本来のターゲットであった子どもが置いてけぼりになっているようにおもえる。少子化だからしかたないのかな……。


ほどよいメッセージ性

 ほとんどのドラえもん映画は、ただのエンタテインメントだけでなく、若干のメッセージ性も持っている。

 ほどよいメッセージは物語に深みを持たせてくれるが、それが強すぎると説教くさくておもしろくない。またメッセージが作品にあっていなくてはならない。「努力は大切だよ」というのはメッセージとして間違っていないが、それを『新恐竜』や『地球交響曲』のようにのび太が努力している姿で表現したら『ドラえもん』でなくなる。

『絵世界物語』から発される(とぼくが感じた)メッセージは、『ドラえもん』の世界にあったものだった。

 マイロが友だちとしてのび太に語る言葉、ラストシーンでテレビに映った下手な絵を見たのび太のパパのつぶやき。決して押しつけがましいものではなく、とことん優しい。教訓ではなく、ダメなものに対する肯定。

 よく落語は“業の肯定”の芸だと言われる。愚かでも、怠惰でも、狡猾でも、強欲でも、それが人間の性だとして否定しない。ぼくは『ドラえもん』も同じだとおもう。

 のび太は愚かで怠惰で狡猾で強欲だ。何度も同じ過ちをくりかえし、努力も反省も成長もしない。けれどドラえもんはとことんのび太を甘やかす。何度裏切られても、のび太の「努力せずにいい目を見たい」という欲求を叶えてやろうとする。

 穂村弘は、母親の無償の愛情を「自分に無償の愛を垂れ流している壊れた蛇口みたいなもの」と表現したが、のび太にとって、そして読者にとってドラえもんは“壊れた蛇口”だ。

 ダメでもいい。ダメだからいい。ラストのパパのセリフは、『ドラえもん』に通底する精神をきちんと汲んだものだった。


最古参のファン

 ぼくが映画館で『絵世界物語』を観たのは日曜日のお昼。当然、周りはファミリー客ばかりだった。

 その中で目を引いたのが、近くの座席に座っていた客。70歳ぐらいのじいさん二人連れだった。

『ドラえもん』の連載開始が1969年。ひょっとするとあのじいさんたち、当時からの『ドラえもん』ファンかもしれない。

 いいなあ。ぼくもじいさん同士で『ドラえもん』を観にいくようなじじいになりたいぜ。


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出木杉の苦悩

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夏休みの宿題をさっさと終わらせてしまう人の心理

 「夏休みの宿題をやっていかなくて、最初のうちは先生から早く宿題出せよと言われるのに、そのうち何にも言われなくなる。その経験が今の自分を形作っている」

と書いている人がいた。


 なんかしみじみと納得した。

 そうなんだよなあ。「早く宿題出せよ」と言われるのはつらいけど、あれは意地悪ではなく、むしろ温情だったんだよなあと大人になってから気づくんだよね。更生するなら今のうちだぞ、とチャンスをくれてるんだよね。


 今でも忘れない、小学二年生の冬休み、始業式の前日の夜になっても宿題が終わってなくて、半泣きになって両親に手伝ってもらいながら(といっても答え合わせをやってもらうとか)なんとか終わらせた。

 親からは「今度からは早めにやるんだぞ」と言われ、つくづくその通りだとおもい、それからぼくは長期休みの宿題は毎回早めにやるようになった。

 今おもうと、小二の冬休みの「始業式前日なのに宿題が終わってない」はいい経験だとおもう。あの失敗があったからこそその後の大きな失敗を回避できたのだろう。


 夏休みの宿題をやらないと、嫌なことからすぐ逃げる大人になるのかどうかはわからない。相関があるようにおもうが、もしかするとぜんぜん関係ないのかもしれない。


 大人になってわかるのは、バイト、いやそれどころか正社員であっても、「何も言わずに来なくなる大人はめずらしくない」ということだ。

 いやまあいろんな事情があるんだろう。精神的に追い詰められているのかもしれない。

 それでも、いや、だからこそ、「やめます」の連絡はしたほうがいい。だって何も言わずに辞めるほうがずっとめんどくさいことになるんだから。電話して「今日でやめます」と言ったら雇い主から文句を言われて(まあ文句っていうか当然の抗議なんだけど)嫌な思いをするかもしれないが、せいぜい数分だけだ。

 連絡せずに仕事をサボり、その後何度も電話がかかってきてそのたびに嫌な思いをして、その店や会社の近くに行くたびにびくびくしたりするほうがずっとしんどい。へたしたら一生嫌なおもいを引きずることになる。


「聞くは一時の恥、知らぬは一生の恥」という言葉があるが、「面倒ごとをやるのは一時の苦痛、やらないのは一生の苦痛」だ。


「夏休みの宿題を早めに終わらす」というと「嫌なことに耐える性格」のようにおもわれがちだが、ぜんぜんそんなことはない。

「宿題をやること」と「宿題が終わっていないこと」のどっちが嫌かを考え、後者のほうがより嫌だとおもっているから宿題をさっさとやってしまうのだ。

 つらいことに耐えたくないから、つらいことをやってしまうのだよ。



2025年3月17日月曜日

【芸能鑑賞】『座王 武道館ライブ(2025.3.11)』

 『座王 武道館ライブ(2025.3.11)』を配信で鑑賞。

 配信は4/13までだそうです。みんな観ろー!


 まず気になったのは、なんで武道館なんだ。関西ローカルの番組のライブなのに。番組ファンも関西の人が多いだろうし、大阪城ホールとかでやったほうが絶対にいいとおもうんだけどな。


 残念だったのは、見逃し配信で観たので、ネタがけっこうカットされていたこと。下ネタはまだなんとなく何を言ってるかわかるけど、歌ネタはまるまるカットされていたのが残念。

 まあこれは会場に行くか生配信で観ろよ、という話なのでしかたない。

 でもせめて、歌を流せない分、テロップを入れるとかしてほしかったな……。テレビだと入れてるんだから。

 けっこう序盤にネタカットが続いたので(チープモノマネとか)、「配信を買ったのは失敗だったか……?」と嫌な予感がしたのだが、中盤以降はカットが少なくて良かった。決勝ネタがカットとかだったら目も当てられない。



 まだ配信中なのでネタバレを避けるため、個々のネタの感想や勝敗については書かない。

 ただ、博多大吉さんの審査がなあ……。

 あまりにも日和見主義というか。強いとされている人に有利すぎる。

「アクリルスタンドの人気順でジャッジの札を上げてるんじゃないの?」とおもうぐらい、番狂わせが起きない。

 これだけ後攻がウケてたらさすがに後攻の勝ちだろう、せめてドローだろ、とおもうような場面でも先攻の札が上がる(大吉さんが配信後のトークで「時間の都合でドローにしないよう言われた」と語っていたのでドローにしなかったのはしかたないが……)。

 そりゃあウケと審査員の好みが一致しないことはあるだろうけど、それにしてもやりすぎ。

 心情はわかるけど。座王のライブに足を運ぶ人からしたら、いつものメンバーが勝ち進むところを観たいけど。ぼくだって、たとえばヤーレンズ出井さんは好きだけど、そんなに出ていない出井さんが座王ライブで優勝したら「ええ……」って気持ちにはなるけど。

 でも、そこだけは厳しくやってほしい。

 今でこそ西田さんに有利なジャッジをする人が増えたけど、初期の頃ってむしろ逆で「若手ばかりがやってる場でベテラン枠で出ている西田さんばっかり勝つのはどうなの?」って雰囲気があって(実際に西田さんも口にしていた)、それでもその空気をはねのけて、「そうはいっても西田に上げざるをえない」ってぐらい笑わせて勝ちまくったから鬼と呼ばれるようになったわけで。

 R藤本さんだって、こんなベジータ一本槍のキャラ芸人に大喜利とかできるのかよ、っていう空気の中で、オールマイティに何でもこなす(最初は一分トークだけ避けてたけど)姿がかっこよかったわけで。


 こっちは「えー人気があるのにこの人が序盤で終わっちゃうのー。まあでもたしかに相手が良かったもんね……」というジャッジがある中で、それでも競合が勝ち進む姿が見たいんだよ! 甘めの判定でもらった勝利じゃなくて!

 第一回目のライブということで守りに入っちゃったのかなあ。

 もっと、座王というコンテンツの強さを信じてほしかったな。新参者に厳しいコンテンツは衰退していくぜ。


 ジャッジに不満は残ったものの、イベントの内容自体は大満足だった。

 進行が良かったね。編集の利かないライブだから「何もしていない時間」をどれだけ減らすかがカギになるとおもうんだけど、待ちの時間は必要最小限だった。次がどのお題になるかわからない中で、あれはすごい。セットの出し入れとか相当シミュレーションしたんだろうな。

 登場シーンはわくわくさせてくれたし、広い会場だけどしっかり観客席もウケていたし、ゲストたちも盛り上げてくれた。何より、出場者みんなしっかりネタを考えてきたのだろう、派手にすべっている人がひとりもいなかったのがすごい(あっ、即興お笑いバトルというタテマエなんだっけ)。


 結果的に、配信チケットを買ってよかったとおもえるライブだった。

 次は大阪開催で、大須賀さん、武将様、西森さん、田崎さん、ゴエさん、ギブソンさんら関西常連組を呼んであげてほしい。順番が逆な気がするけど。


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座王

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2025年3月14日金曜日

【読書感想文】伊沢 拓司『クイズ思考の解体』 / こんなにも手の内を明かして大丈夫なのか

クイズ思考の解体

伊沢 拓司

内容(Amazonより)
東大卒クイズ王・伊沢拓司の待望の新刊!
執筆2年半のALL書き下ろし。クイズ業界関係者から大絶賛!
「高校生クイズ」で史上初の2連覇を果たし、「東大王」や「QuizKnock」創設で日本のクイズ界を牽引する伊沢拓司。彼の「思考過程」がまるっと見えてくる”
「クイズは無限の可能性を持つエンターテインメントです。クイズが文化として見直され注目をされている今こそ、クイズを解く時に何を考えているかという過程を解剖したい! それが私を育ててくれたクイズ界への恩返しになる。その使命感で無心に執筆を続けた、『クイズのために書いたクイズの本』です! 」(伊沢)
クイズを愛しすぎた“時代の寵児"が、「クイズ本来の姿」を長大かつ詳細に、繊細だが優しく解き明かす、クイズの解体新書。伊沢氏自らが長期間に渡って調査を行い、圧倒的な情報量を詰め込んだ超大作である。熱意のこもった、かつ親しみやすい筆致で、クイズの現在地をロジカルに体系化し、未来への発展をいざなう。クイズプレーヤーはもちろん、クイズ愛好者にはぜひとも手に取ってもらいたい、クイズ史の「マイルストーン」となる一冊になるだろう。


 最近読んだ小川 哲『君のクイズ』がめっぽうおもしろかったので、競技クイズについてもっと知りたくなって読んでみた。

 クイズメディア・QuizKnockの代表である伊沢拓司氏によるクイズ論。

 テレビ番組『東大王』で有名になった人らしいが(高校生クイズで前人未到の2連覇をしたことでも有名になったそうだが)、ぼくは『東大王』を観たことがないので、この人のことは最近まで知らなかった(別の番組で、クイズに答えた後に「どのような思考を経てこの回答にたどりついたのか」という思考の流れを説明しているのを見て、おもしろい人だとおもった記憶がある)。


『クイズ思考の解体』を読んで、あまりにあけすけに語っていることに驚いた。もうクイズから離れた人ならまだしも、今後もクイズプレイヤー・クイズ作家として活躍するであろう人がこんなにも手の内を明かしちゃって大丈夫だろうか、と他人事ながら心配になった。

 伊沢さんがここまで手の内を明かしている理由は序文で「マジックからロジックへ」というフレーズとともに丁寧に説明されている。

 だがそれを読んだ上でも、やっぱり「こんなに書いちゃって大丈夫?」とおもってしまう。個人の損得よりもクイズ界全体の発展のことを考えている人だからこそなんだろうな。



 この本で最も多くのページが割かれているのが、第2章の『早押しクイズの分類』だ。

 早押しクイズをパターン分けし、それぞれの構文を解剖し、クイズプレイヤーたちがどのような思考を経てどこでボタンを押しているのかを解説している。

 結論から述べてしまえば、「クイズ王たちの頭の中には、クイズの問題文をパターン化した『構文集』的なものがあり、それを用いることで問題文の展開をある程度予測できる」のである。そして、構文集の中から当てはまるものを引っ張ってくることで予測が可能になり、それゆえに他人より多くの情報を早い段階で手にすることができる。情報の先取りをすることで、他人より早い段階で多くのヒントを得て、正解を導き出す。これが早押しの仕組みであり、「構文の把握」が重要な理由でもあるのだ。ゆえに、この章ではそうした脳内「構文集」の可視化を目指す。こうした構文ひとつひとつがどのように成り立ち、なぜ展開が推測できるのか、というところにフォーカスしていくことで、早押しを構造的に捉え、クイズプレーヤーの技術を可視化することが本章のゴールである。

 問題文の序盤を聞いただけで構文を推測し、どこで早押しボタンを押せるかを判断する。

 この際「どこで早押しボタンを押せるか」というのは「どこで正解にたどりつくのか」とイコールではない。正解がわかってからボタンを押していたのでは、レベルの高いクイズプレイヤー同士の戦いには勝てない。「もう少し問題文を聞けば正解がわかりそう」「八割ぐらいの確率でこういう問題だろうと推測できる」ぐらいのタイミングで押しているのだそうだ。

 問題文を聞いている数秒の間に、この先に読まれる問題文を推測し、そこから答えの候補を記憶からひっぱりだし、同時に他のプレイヤーがどのあたりでボタンを押すかを読み、ボタンを押す/押さないの判断をする。

 もしクイズプレイヤーの頭の中をのぞくことができたら、きっと1秒未満の間にとんでもない量の思考をめぐらせていることだろう。もしかするとそうした処理を身体化してしまい思考より先に動作があるのかもしれない。

 ほとんどスポーツと一緒だ。


 では、具体的に「ここで押せる」を見ていきたい。
 いくつか、「ここで押せる」ポイントを並べてみよう。わかるものがひとつでもあったら素晴らしい。
 「いまにお」
 「おおかみのふ」
 「きがいっ」
 「ひゃくはちじゅうどいじょ」
 そして、対応する問題文と答えはそれぞれ以下のようになる。
 「『今に王になれ』という願いを込めて、所属する力士のしこ名に『琴』という字が〜」「佐渡ヶ嶽部屋」
 「狼の糞を混ぜていたことから、漢字では『狼の煙』と書く、~」→「狼煙(のろし)」
 「木が一本立つ舞台で、ウラジミールとエストラゴンのふたりが~」→「『ゴドーを待ちながら』」
 「180度以上の広角な範囲を撮影できるレンズのことを、~」→「魚眼レンズ」

 さて、これらは納得のいくものだろうか。それとも、思わずツッコミたくなるものだろうか。
 そこで行われるツッコミはおそらく、「いやいや、他にも答えの選択肢がありそうじゃねえか!」というものだろう。しかしながら、ここに挙げたものはどれも、他の選択肢について考え尽くされた結果として実践された「ここで押せる」なのだ。「80%を目指す」と先に述べたが、これらの場合は95%以上の確率で正解にたどり着けるようなポイントであろう。
 これらは多くのプレーヤーが別解を探し、それでもなお「高確率でこの正解になるだろう」と認識されているものである。

 このへんはほとんど競技かるたと一緒だ。

 ただし競技かるたと違うのは、「ここで押せる」でも100%正解が確定していないこと。
 百人一首で「む」と読まれたら上の句は「むらさめの つゆもまだひぬ まきのはに」しかないから下の句は「きりたちのほるあきのゆふくれ」と決まる(こういう字を“決まり字”という)。でも「きがいっ」で始まる問題の答えは『ゴドーを待ちながら』とは限らない。

「きがいっぽんなら木、木が二本なら林、では木が三本なら?」という問題かもしれない。ただしこれだとかんたんすぎるので、クイズ愛好家向けの大会ではまず出題されないだろう。そういうわけで「ここで押せる」なのだ。「ここで決まる」ではない。

 そして競技かるたと異なるのは、クイズの問題は無限にあり、ということは「ここで押せる」もまだ発見されていないだけで無限にあるということだ。

 勝負の強さだけでなく研究や勝敗を決する、そのあたりは将棋や囲碁に似ているかもしれない。




『クイズ思考の解体』ではクイズの問題だけでなく、その周辺に関する思考も開陳している。

 また、置かれた状況によっても判断が異なってくる。
 苦手なジャンルの問題だとわかったとしても、その問題が最終問題、かつ自分が負けている状況なら、勝負しなければダメだ。どうせ最後まで聞いてもわからない確率が高いなら、ひとまず早く押して、自分の中にある少ない選択肢から何か答えなければならない。まずは解答権を取るのが先決である。
 一方、序盤戦なら当然考え方が変わってくるはずだ。苦手ジャンルなんだから、余計な誤答をするわけにはいかない。得意ジャンルが来たときのためにも、ここは我慢しよう……などと考えることができるだろう。

 クイズの大会とは「多く正解することを目指すゲーム」かとおもっていたのだが、どうもそうではないらしい。

 戦略的にあえて間違えたり、確率が低い勝負に出たり。極端なことを言えば、1ポイントしかとれなくても、他のプレイヤーが全員0ポイントであればそれでいい、という考えになる。

 サッカーのリーグ戦で「この試合は引き分けでもいい」とか「1点差の負けならかまわない」みたいな状況が生まれるが、それに近い。しかもその状況が刻一刻と変わる。




 ただの知恵比べではない、クイズの本当の魅力を存分に教えてくれる本だった。

 なにしろ「どうやって知識を増やすか」という話はほとんど出てこない。一流のクイズプレイヤーにとっては知識を増やすことなんて自明のことで、そこからがスタートなのだろう。

 知識があることは、将棋で言うところの「駒の動かし方を知っている」ぐらいの話なのだ。


小ネタ 31(見たことがない踊り / 一人称 / 幸せ)

見たことがない踊り

名前は多くの人が知っているが誰も見たことがない踊り

それはアルペン踊り


一人称

ケイちゃん「ケイちゃん、きのうあそびにいってね」

担任「自分のことを『ケイちゃん』と呼ぶのは小さい子みたいでみっともないですよ。もう三年生なんだから、おうちの外では、まわりの人から呼ばれる呼び名で自分のことを呼ばないほうがいいと先生はおもいますよ」

ケイちゃん「先生の一人称は『先生』ですよね? 『先生』というのは周囲の人が使う敬称であって、敬称を一人称として使うのは名前を一人称にすること以上にみっともないとケイちゃんはおもいます」


幸せ

 あるコンテンツを褒めるときの「まだ〇〇を読んだことがない者は幸せである」という陳腐化した言い回しをまだ聞いたことがない者は幸せである。

 これから先も聞かずにすむ者はもっと幸せである。



2025年3月12日水曜日

【読書感想文】森見登美彦『四畳半王国見聞録』 / 学生時代に通っていた定食屋の味

四畳半王国見聞録

森見登美彦

内容(e-honより)
「ついに証明した!俺にはやはり恋人がいた!」。二年間の悪戦苦闘の末、数学氏はそう叫んだ。果たして、運命の女性の実在を数式で導き出せるのか(「大日本凡人會」)。水玉ブリーフの男、モザイク先輩、凹氏、マンドリン辻説法、見渡すかぎり阿呆ばっかり。そして、クリスマスイブ、鴨川で奇跡が起きる―。森見登美彦の真骨頂、京都を舞台に描く、笑いと妄想の連作短編集。


 森見登美彦の真骨頂というか、いつもの森見登美彦というか。京都(その中でも主に左京区や上京区)を舞台に、『四畳半神話大系』『【新釈】走れメロス 他四篇』『有頂天家族』の家族が登場し、ボロアパートの四畳半が舞台で、図書館警察や詭弁論部などの組織も書かれており……と、どこを切っても森見登美彦ワールド。


 内容もいつもの感じで、四畳半世界の在り方を高らかに宣言する『四畳半王国建国史』『四畳半王国開国史』、マジックリアリズム満載の『蝸牛の角』、愛に飢えた男が詭弁を弄して哀れな自己弁護の言い訳をこねくりまわす『グッド・バイ』など、「らしい」作品が並ぶ。

 いくつもの森見作品を読んできた身からすると、またこれか、とおもいつつも、これこれこの味、と安心する感覚もある。大学時代に通っていた定食屋に久しぶりに行ったら当時とまったく変わらない料理が出てきた感じに近い。

 まったく新しいものを読みたければ他の作家の本を読むので、森見登美彦作品はこれでいいのだ。




 気に入ったのは『大日本凡人會』。凡人であることを目指す、非凡人たちによる結社「大日本凡人會」。メンバーは、マンドリンを弾きながら人生論を説くことで迷える学生をさらに迷わせることのできる丹波、妄想的数学により存在を証明することで物質を出現させることのできる数学氏、モザイクを自由自在に操る能力を持つモザイク氏、気分が落ちこんだときは周囲の空間を凹ませる能力を持つ凹氏、そして存在感がなさすぎて誰にも気づいてもらえない無名君。

 これらのほとんど役に立たない能力を、決して人の役に立てないことが大日本凡人會の会則である。

 だがある日、この会則をめぐって亀裂が走り、メンバーが脱退。脱退したメンバーはその能力を駆使して他メンバーの行動を邪魔するようになる……。

 能力バトルでありながら、言うこと、やることが徹頭徹尾くだらない。

 このファンタジーとくだらなさの融合、これぞまさに森見登美彦! という感じだ。

 森見氏の他作品を楽しめた人なら迷わずおすすめできる一冊。


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2025年3月10日月曜日

【読書感想文】奥田 英朗『罪の轍』 / わからないからこそ魅力的

罪の轍

奥田 英朗

内容(e-honより)
昭和三十八年十月、東京浅草で男児誘拐事件が発生。日本は震撼した。警視庁捜査一課の若手刑事、落合昌夫は、近隣に現れた北国訛りの青年が気になって仕方なかった。一刻も早い解決を目指す警察はやがて致命的な失態を演じる。憔悴する父母。公開された肉声。鉄道に残された“鍵”。凍りつくような孤独と逮捕にかける熱情が青い火花を散らす―。ミステリ史にその名を刻む、犯罪・捜査小説。

(少しネタバレを含みます)


 息詰まる迫力のクライムサスペンス。

 北海道の礼文島で漁師をしていた青年。記憶力が悪いため周囲から「莫迦」と呼ばれ、道徳心が低くあたりまえのように窃盗をはたらく。放火と窃盗をはたらいて逃げるように東京に出てきてからも悪気なく窃盗をくりかえす。

 やがて青年の周囲で殺人事件が起きる。殺人を犯したのは窃盗常習犯の青年なのか。警察の捜査の手が青年の近くまで伸びたとき、日本中を揺るがす誘拐事件が発生。はたして誘拐事件の犯人は「莫迦」と呼ばれる青年なのか……?


 作中では「吉夫ちゃん誘拐事件」となっているが、明らかに戦後最大の誘拐事件とも呼ばれる 吉展ちゃん誘拐殺人事件(Wikipedia) をモチーフにした事件。

 ただしあくまでモチーフであり、酷似している箇所もあれば、ぜんぜんちがう創作の部分もある。

 この年に黒澤明の『天国と地獄』が公開され、その影響で身代金目的の誘拐事件が増えたそうだ。背景には電話機の普及もあるそうだ。なるほど、電話はスピーディーかつ匿名でのやりとりができるから誘拐事件に向いているのか。考えたこともなかったな。


 吉展ちゃん誘拐事件は日本で初めて報道協定が結ばれた事件であり、テレビで犯人の音声を公開して大々的に公開捜査がおこなわれた事件であり、この事件を契機に電話の逆探知が可能になった事件でもあり、様々な面で日本誘拐事件史における転換点の事件だったようだ。

 それはつまりこの時点で警察に誘拐事件捜査のノウハウがなかったということでもあり、『罪の轍』ではそのあたりの警察のドタバタを丹念に描いている。

 警察署ごとの面子争いのせいで連携がうまくとれなかったり、身代金として用意していた紙幣の番号を控えわすれたり、急な予定変更に対応できず身代金から目を離してしまいその隙に持ち逃げされたり、テレビで情報提供を呼びかけたせいで有象無象の情報が寄せられて混乱をきたしたり……。

 これらの大部分は、実際の吉展ちゃん誘拐事件でも実際にあったことだという。戦後の日本の誘拐事件で、犯人が捕まらず、身代金奪取にも成功したのは0件だそうだ(もっとも警察に知らされなかった事件があった可能性はあるが)が、それもこうした失敗を踏まえて捜査が洗練されてきたからなのだろう。



 犯人側の視点から描いたクライムサスペンスはいろいろ読んだことあるが、『罪の轍』が特異なのはその犯人像だ。

 通常、そうした小説で描かれる犯人は、知能が高く、用意周到で、落ち着いて計画を遂行する実行力を持った人物として描かれる。

 だが『罪の轍』に出てくる宇野寛治はそうした人物像とはかけ離れている。記憶力が弱く(ただし思考力が低いわけではなさそう)、いきあたりばったりに生きている。その刹那的な生き方ゆえに逮捕されることをあまり恐れておらず、それが犯罪に対する実行力につながっている。実行力があるというより理性が弱いといったほうがいいかもしれない。


 この人物像がなかなか新鮮で、悪いことをしでかしてもどこかユーモラスで憎めない。落語に出てくる滑稽な泥棒みたいな感じ。また生い立ちが不幸なのもあいまって、もちろん本人も悪いけど社会も悪いよね、という気になってしまう。

 大きな犯罪を成功させるのって周到に計画を立てる知能犯じゃなくて、案外こういういきあたりばったりのタイプなのかもしれないな。いきあたりばったりで無駄な行動が多いから警察も行動パターンが読みにくいし。自分が捜査する側だったら、「なんも考えてない犯人」がいちばん恐ろしいかもしれない。




 犯人側、その周囲の人々、警察の動き、どれも丁寧に書いていてそれぞれおもしろかった。

 ただ、ラストの復讐のための逃亡劇だけは違和感をおぼえた。ここだけ人が変わったようになるんだもの。無目的に生きてきた犯人が、突然使命感に燃えて行動しはじめる。きっかけがあるとはいえ、ころっとキャラクターが変わってしまうのにはついていけない。

 そもそも、何を考えているかわからないこそ不気味で魅力的だったのに、最後は復讐のためというわかりやすい行動。凡庸な人間になってしまった。


 ところでこの小説、同著者の『オリンピックの身代金』の登場人物がかなり登場している(書かれたのも、作中の時系列的にも『罪の轍』のほうが先)。

 単独の犯罪者 VS 警察組織 という物語の内容も似ているが、個人的には『オリンピックの身代金』のほうが好み。『オリンピックの身代金』の犯人のほうが心理がわかりづらくて不気味だったのと、国民の命よりも面子のほうを重視する警察や国家という組織の姿をも描いていたから。

 やっぱり人間も組織も、わからないからこそ魅力的だしわからないからこそ怖いんだよね。

 

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2025年3月7日金曜日

ブログにコメントをつけることについて

 このブログにはコメント投稿があるのだが、ほとんどコメントを頂戴することはない。

 数ヶ月に一度あるかどうか。明らかなスパムとかもあるので、まともなコメント(記事に対する意見や感想など)は年に十件ぐらいだろうか。

 アクセス解析ツールによると、このブログには月10,000ぐらいのアクセスがある。それだけアクセスがあってもほとんど誰もコメントをつけないのだ。


 ことわっておくが、ぼくのスタンスとしてはコメントは大歓迎だ。

 さすがに悪口雑言は勘弁してほしいが、たいていのコメントはもらえるとうれしい。


 以前やっていたブログも含め、ぼくはもう二十年近く前からブログをやっている。

 その二十年で感じたのは、ブログというのはコミュニケーションツールではなくなったということだ。

 二十年前のブログは、書き手と読み手のコミュニケーションの場だった。書き手が話題を提供して、読み手がそれに対してコメントをする。場合によっては読んだ人が自分のブログにアンサー記事を書いたりもする。そこから別の人へと話題が広がり……ということがよくあった。

 それが、SNSが普及したことで、他者とのコミュニケーションはSNSでやりましょう、ブログは書き手が一方的に見解を述べる場、という感じになった。ある日突然そうなったわけではなく、ちょっとずつそうなった。


 ブログにコメントがつかないことを嘆いているぼく自身も、他者のブログにコメントをつけることはほとんどしなくなった。

「あーわかるわかる。ここに書かれている以外にもこんな事例もあるよね」なんてことをおもったりするけど、たいていコメント欄には書かない。

「コメントを書いたら、知らない人が急に会話に参加してきたみたいでいやな気持ちにさせてしまうんじゃないかな」なんて考えてしまう。

〝ブログがコミュニケーションツールだった時代〟を知っているぼくですらそうおもうのだから、物心ついたときからSNSがあったような世代の人にとっては「ブログにコメントをつけるなんてそんな非常識な!」という気持ちかもしれない。


 だからといって「もう一度ブログをコミュニケーションの場にしよう!」なんて唱える気もないし、「このブログを読んだ人はコメントを残せよな!」なんて言う気もないのだが、でも基本的にコメントをもらえたらうれしいですよ、ということだけ書いておく。

 ぼくも他の人のブログに臆せずコメントするようにしようかな。

 コメント機能をオフにしてないってことは、知らない人がなんか書いてもいいってことだもんね。


2025年3月6日木曜日

就活詐欺

 何度か書いているが、就活がほんとに嫌だった。人生でいちばんつらかったのは就活をしていた時期だったかもしれない。


 人と話すのが得意でないとか、慣れない場所に行かないといけなかったとか、基準のよくわからない試験を受け続けないといけないといけないとか、不採用になるたびに人格否定されたような気になるとか、そもそも働きたくなかったとか、いろいろあるけど、最近ふと「丸腰で戦地に行かなくてはならなかったのがつらかったのだ」とおもい、その言葉が当時の自分の心情をうまく言い表せていることに気づく。


 もっと後になって何度か転職の面接を受けたが、そんなに嫌じゃなかった。人間的に成長したからというのもあるが、転職の面接ではわりと対等に話ができる。

「自分はこんな仕事をやってきました。これができます」と自己を開示し、企業のほうは「こんな仕事をやってもらいます。あなたに対してこれだけの給与を払います。労働条件はこうです」と条件を提示する。お互いが相手に価値を感じれば採用→入社となる。単なる交渉だ。不動産屋で部屋を借りるのとそんなに変わらない。

 ところが就職面接に関しては「自分はこんな仕事をやってきました。これができます」と伝えるべきものがない。なぜなら仕事をしていないから。

 一応「アルバイトやサークルなどの課外活動を通してこんな経験を得られました」みたいなことを語るが、そんなものが仕事に何の役に立たないことは言ってる当人だってよくわかっている。

 結局のところ「自分はこんなことができます」がないので、企業側には“可能性”を売るしかないのだ。

 これがきつい。

 可能性を売るってさ、「金貸してくださいよ。万馬券当たったら倍にして返すんで」と変わらないわけじゃない。あるんだかないんだかわからないものを売るなんてほとんど詐欺だ。

 まれにその“可能性”を買って「給与と教育与えてあげる。出世払いでいいよ」と言ってくれる企業もあるが、やっぱり対等な取引じゃないよね。

 まだないものを売ってくるんだから就活がキツいのも当然だ。投資詐欺の営業やらされてるみたいなもんだもん。


2025年3月5日水曜日

【映画感想】『映画ドラえもん のび太の地球交響曲』


『映画ドラえもん
のび太の地球交響曲(シンフォニー)』

内容(映画.comより)
国民的アニメ「ドラえもん」の長編映画43作目で、原作者である藤子・F・不二雄の生誕90周年記念作品。「音楽」をテーマに、ドラえもんとのび太たちが地球を救うための壮大な冒険を繰り広げる。 学校の音楽会に向けて、苦手なリコーダーの練習をしているのび太の前に、不思議な少女ミッカが現れる。のび太の奏でるのんびりとした音色が気に入ったミッカは、音楽がエネルギーになる惑星でつくられた「音楽(ファーレ)の殿堂」にドラえもんやのび太たちを招待する。ミッカはファーレの殿堂を復活させるために必要な音楽を一緒に演奏する、音楽の達人を探していたのだ。ドラえもんたちはひみつ道具「音楽家ライセンス」を使って殿堂の復活のため音楽を奏でるが、そこへ世界から音楽を消してしまう不気味な生命体が迫ってくる。

 Amazon Primeにて視聴。


 うーん、前々作『のび太の宇宙小戦争 2021』(コロナ感染拡大のため公開は2022年)や前作『のび太と空の理想郷』が良かっただけに、今作はがっかりな出来だった。

 細かいことはいろいろあれど、ドラえもんの映画である必要性がないんだよね。「子どもたちが音楽の力で災厄をふっとばすストーリー」なので、ドラえもんらしさがない。ドラえもん映画としてこれは致命的だ。


ドラえもん映画なのに『ドラえもん』じゃない

 まずやっぱり気になるのはジャイアンの存在。ドラえもんで音楽といえば、グレート音痴・ジャイアンの存在は避けては語れないだろう。なのにこの作品ではそこを華麗にスルーしている。ジャイアンがふつうにうまい演奏をしている。おいおい。「ジャイアンは映画のときだけいいやつになる」はもうお約束化してるからいい(原作でもいいやつになるときもあるし)として、ジャイアンがリズムや音程をちゃんととれたらだめだろ。

 もっとダメなのがのび太の造形。前半こそ「練習せずにリコーダーが上手になる道具出して~!」といつもののび太なのだが、中盤からは目標に向かってひたむきに努力を重ねる努力家の少年になっている。

 脚本家はなーんにもわかってない。のび太は何をやってもダメで、努力もせず、でも欲だけは人並みにあって、そんなダメダメなところをも愛をもって描いたのが『ドラえもん』という作品なんじゃないか。誰もが持っている、ずるくてめんどくさがりで身勝手な部分を、完全にはつきはなさずに愛するのがドラえもんという存在なんだよ。

 ほんのちょっと勇気をふりしぼったり、弱い者に対する優しさを見せたり、ごくまれに努力することはあるものの、のび太が継続的な努力をしたらそれはもうのび太じゃない(『のび太の新恐竜』でもこの失敗をやらかしていた)。

 前作『のび太と空の理想郷』ではちゃんと『ドラえもん』の通底にあるスタンスを理解して、「ダメな部分を愛そう」というメッセージを発していただけに、今作の「ダメな部分をがんばって克服せよ」というメッセージには失望した。『ドラえもん』をわかってないやつに脚本を書かせちゃだめだよ。

 ジャイアンものび太もへただけど、へたでもいいじゃない、へたでも音楽は楽しいよ、という方向こそがドラえもんの精神じゃないか?


 そして異なる者への愛の欠落。

 本作でノイズを殲滅するためにのび太たちはがんばっていたけど、むしろノイズを認め、ノイズと共存する道を探るのがのび太の生き方じゃないのか。ノイズはノイズで生きてるだけなのに、自分たちに都合が悪いからって殺しちゃっていいの? そういう人間の傲慢な姿勢にずっと警鐘を鳴らしてきたのが『ドラえもん』の漫画であり、映画であったはずなのに。

 そもそもノイズを倒すのがのび太の「の」の音ってなんじゃそりゃ。それこそノイズじゃねえか。


音楽というテーマに縛られている

『ドラえもん』なのに『ドラえもん』の世界じゃないという致命的な失敗以外にも、いろいろと粗さが目立つ作品だった。

 “音楽”というテーマを意識しすぎて、すごく窮屈な作品になっている。「音楽の力で危機を乗り越える」ことが最優先になっている。

 こっちはミュージカルを観たいんじゃないんだよ! すばらしい交響曲じゃなくてドラえもんの道具を楽しみに観てるんだよ!

 ドラえもんの道具+ちょっぴりのひらめきや勇気で危機を脱するのがドラえもん映画の醍醐味なのに、本作の勝利の決め手は、みんなで一生懸命演奏した音楽+ちょっぴりのひみつ道具である。そういうのは別の作品でやってくれ。


ひたすら雑

 ストーリーもなかなか粗雑だった。

 いきなり届く「今夜音楽室に来てください」という雑な招待状(時刻の指定すらなし!)。別々に招待状が届いたのになぜかあたりまえのように集まって、なんの疑いもなく夜の学校に集まる五人。のび太たちを招待したのも「言い伝えと同じく五人で演奏していたから」というめちゃくちゃ雑な理由。五人組なら誰でもよかったわけ? 言い伝えも完全なご都合主義。『のび太の大魔境』では言い伝えの謎がきちんと後半に解き明かされていたのと対照的だ。

 ドラえもんの映画といえばとにもかくにも「冒険!」なのだが、今作は冒険ではない。ただ巻き込まれただけだ。だから『月面探査機』や『宇宙小戦争2021』で描かれたような「怖い、でも行かなくちゃ」といった逡巡もない。

 そしてへたくそきわまりない伏線。リコーダーを忘れたのび太のために、とりよせバッグでもどこでもドアでもなく、時空間チェンジャーという大がかりな道具でリコーダーを取りにいくドラえもん。あらかじめ日記に「みんなでおふろに入った」とめちゃくちゃ不自然なことを書くのび太。

「さあ、ここが伏線ですよ! 後から回収しますよ!」と言わんばかりの白々しい伏線。

「約4万年前の世界最古の楽器」のくだりは「おおっ、それがキーアイテムとなってストーリーにつながるのか!」とわくわくしたのに、「キーアイテムを真似て作られたのが世界最古の楽器」と、なんとも微妙なつながり。肩透かしを食らった。

 ついでにいうと、細かいことだけど、作中で「4万年前のドイツで作られた」と明らかにおかしいセリフが出てくる。は? 4万年前にドイツがあったのか? よそから持ち込まれたのではなくそこで作られたものだとどうしてわかる? 科学に敬意のない人が書いたセリフなんだろうなあ。藤子・F・不二雄氏ならこんなバカなミスはしなかっただろうな。


魅力のないキャラクター

 今作の主要ゲストキャラクターはミッカだが、この少女がまたおもしろみに欠ける。思想がないのだ。故郷の星の住民たちが死滅したという過去を背負っているが、それはミッカが赤ん坊のときなので記憶がない。記憶がないのだから思想もない。迷ったり悩んだりしない。

 ミッカの隣にいるチャペックもただの説明役。過去のドラえもん映画では「ゲストキャラクターの隣にいるちょっと抜けたところのあるパートナー」が登場したものだが、そんなユーモラスな部分がチャペックにはない。

 また、ヴェントー、モーツェル、タキレンといったロボットたちも、実在の作曲家たちをモデルにしているからか、造詣に冒険心が感じられない。ただただストーリーを進めるためのキャラクターたちだった。


よそでやってよね

……とまあ、悪口雑言を書き連ねたけど、すごくつまんない映画だったかというとそうでもない。

 音楽以外には特に褒めるところもないけど、途中で観るのをやめるほどつまらなかったわけでもない。

 最大の失敗は、さっきも書いたように、ドラえもんの映画ではなかったということだけだ。『ドラえもん』のキャラクターが道具を使って活躍する映画を観たいとおもっていた期待を裏切ったこと。

 まったく別のキャラクターを作ってやったのならまあまあの映画になったのではないだろうか。

 いるんだよね。人気シリーズに乗っかって己のクリエイティビティ(笑止!)を見せつけてやろうとする出しゃばりが。『トイ・ストーリー4』とかさ。

 自分らしさを発揮したいのなら自分の作った世界でやりなよ。ドラえもんの世界を利用して表現しないでくれよ。

 それならこっちも何も言わないからさ。なぜなら観ないから。


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出木杉の苦悩

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2025年3月4日火曜日

『お料理行進曲』2番


『お料理行進曲』という曲をご存知だろうか。

 勇壮な音楽に乗せてコロッケの作り方を歌いあげるふしぎな味わいの曲で、アニメ『キテレツ大百科』のオープニング曲だったので今の中年にはなじみのある歌だ。

 テレビでは1番しか流れていなかったのであまり知られていないが、コロッケの作り方を説明した後は長尺の間奏が入り、2番ではナポリタンの作り方が歌われる。

 その中に、

炒めよう かるく 塩・コショウで
忘れるな スパゲッティ ケチャップで混ぜて

という歌詞があるのだが……。




 ナポリタンをつくるときにスパゲッティを忘れることなんてある?