2025年3月25日火曜日

【読書感想文】安藤優一郎『百万都市を俯瞰する 江戸の間取り』 / のび太みたいなことをやる大名

百万都市を俯瞰する
江戸の間取り

安藤優一郎

内容(Amazonより)
江戸は五〇〇年以上も前から関東の港湾都市として賑わいを見せていたが、天正18年(1590)に徳川家康が居城に定めたことで、大きく変貌を遂げた。当初は軍事拠点として城の整備が進められ、関ヶ原で徳川家が勝利したのち武家人口・町人人口が急増すると、一大消費地点として発展。ついには世界最大級の百万都市にまで成長し、現代東京の礎が築かれることとなる。
本書では、そんな江戸という巨大城下町を、「間取り」を介して解説していく。具体的には江戸城のほか、武家地、町人地、寺社地、江戸郊外地という五つの土地毎に章を分け、各建物の内部構造や周辺の俯瞰図を見ながら、江戸に住む人々の暮らしに迫っている。(中略)この五つの切り口を通じて、城下町江戸で暮らす武士や町人の生活を、様々な間取り図とともに解き明かしていこう。(「はじめに」より)

「間取り」という切り口で、江戸の人々の暮らしをひも解く本。江戸城、武家、寺社などが中心。ぼくは落語は好きだけど時代小説も時代劇もほとんど見ないので、個人的には名もなき人々の暮らしぶりを知りたかった。でも紙も文字も一般的でない時代なので、一般人の暮らしぶりをわざわざ書き残したりはしない。間取り図を残すのは名のある家や金持ちだけだよね。当然だけど残念。

 

 改めて、市井の人々の暮らしって残りにくいものだと感じる。

 今の我々の暮らしも百年後の人々にとっては興味深い「歴史資料」になっているんだろうけど、わざわざ不動産広告のチラシを百年後に残したりしないもんな。子孫に残すなら貴重な金銀財宝よりも、「ごみとしかおもえないどうでもいい紙切れ」とかのほうがおもしろいかもしれない。いや、金銀財宝も欲しいけど。



 おもしろかったのが、江戸に多くあった大名屋敷について。

 各藩の大名たちが住む屋敷は、幕府から与えられた土地に建てられた。ただし与えられたのは土地だけで、建物はそれぞれで建てなければならなかったそうだ。

 だからだろうか、それぞれ趣向を凝らしてけっこう好き勝手に建てていたのだそうだ。

  別荘・倉庫・避難所として使われた下屋敷は上屋敷・中屋敷とは異なり、複数下賜される事例が珍しくなかった。尾張藩もその一つだが、江戸郊外で下賜されることが多かったため、江戸城近くで下賜された上屋敷や中屋敷よりも面積はかなり大きかった。なかでも、尾張藩の戸山屋敷(現新宿区戸山一~三丁目)の広さは群を抜いた。市谷屋敷以上の規模である八万五〇〇〇坪を下賜されたが、尾張藩では周囲の農地を購入して戸山屋敷に組み込んだため、その分を合わせると一三万坪にも達した。
 (中略)
 戸山荘二十五景の一つである龍門の滝でのアトラクションは、戸山荘の名物の一つになっていた。まず、巨大な池から滝へと流れていく水を堰き止めておく。訪問客たちが渓流に配された飛び石の上を渡り切ると、堰き止めの板を外して滝へ水を落とす。そうすると、今まで渡って来た飛び石が水中に没するという趣向であった。
 (中略)
 戸山荘(戸山屋敷)のように、とりわけ面積が大きかった下屋敷は庭園化する傾向がみられたが、楽しめたのは景観だけではない。本物そっくりの宿場町のレプリカも作られていたのだ。
 同じく二十五景の一つに数えられた「御町屋通り」は、東海道小田原宿をモデルにして造られたと伝えられる。図のように、三七軒もの町屋が七五間(約一三六メートル)にわたって立ち並んでいた。一軒の間口は平均約三間(五・五メートル)だった。
 米屋・家具屋・菓子屋・旅龍屋などの店舗や弓師・矢師・鍛冶屋などの職人の店つまり町屋が、時代劇のセットのように実寸大に造られたのである。本当に旅をしているかのような幻想を戸山荘の訪問客に湧き立たせる粋な趣向が施されていた。

 人口の滝をつくって客に見せたり、宿場町のレプリカを作ったり。

 これはあれだな。ドラえもんの道具を使ってのび太がやるやつだな。

 江戸に住む大名というと何かと不自由なイメージがあったんだけど、こんなふうにあんな夢こんな夢かなえているのを見ると、けっこう江戸生活を楽しんでいた大名も多かったのかもしれない。単身赴任で羽を伸ばすみたいな。




 さらに屋敷内の土地を貸したり農地にしたりして、生活の足しにしていたという。

 貸家もあるが、屋敷内の土地を貸して生活の足しにするのは、御徒に限らず御家人にとってはごく普通の経済行為だった。他の組屋敷の事例をみると、同じ御家人や藩士のほか、御坊主衆・学者・医師などが御徒の屋敷に地借している。
 御徒の組屋敷は深川でも与えられたが、深川の場合は個々の屋敷の規模は一三〇坪ほどであった。建坪二〇~三〇坪ほどの建物の構造も山本政恒の屋敷と似たようなものだが、裕福な者は土蔵や湯殿を持っていた。
 空いた土地は農地にする一方、地代を取って貸し付けた。農地には茄子や胡瓜を植え、自家用にしている。
 組屋敷は組単位で活用する方法もあった。東京の初夏の風物詩として入谷(現台東区)の朝顔市は有名だが、御徒などの御家人が内職として栽培した朝顔を市場に出したことがはじまりである。栽培するとなると相応の土地が必要だが、そこで活用されたのが組屋敷だった。組屋敷として与えられた土地を朝顔の栽培地として共同利用したわけだ。
 現在の東京都新宿区大久保周辺に住んでいた鉄砲百人組の同心が組屋敷で共同して栽培したツツジに至っては、江戸のガーデニングブームのなかで名産品となる。東京都新宿区の花はツツジだが、その由緒は大久保の百人組同心のツツジ栽培にまでさかのぼるのである。
 他の御家人の組屋敷では鈴虫や金魚の飼育も盛んであった。養殖には巨大な池が必要だが、組単位で土地活用すれば、それも可能だ。こうした御家人によるサイドビジネスが、江戸の庭園・ペット文化を支えていた。

 武士は武士としてふるまっていたようにおもってしまうけど、武士は武士でけっこう商売をやっていたのだ。

 江戸時代の人々はつつましい生活をしていたようなイメージを持っていたけど、我々と同じように経済活動をしたり、趣味にお金を使ったりしていたことがわかる。ガーデニングをしたりペットを飼ったり。歴史の教科書には書かれないし時代劇にもあんまり出てこないけどさ。

 ひょっとすると江戸の町人のほうがぼくらより贅沢な生活を送っていたのかもね。


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