2018年6月15日金曜日

将棋をよく知らない人が書いた将棋小説

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 ユミ女流七段の劣勢は誰の目にも明らかだった。王将はほとんど丸裸だったし、持ち駒も残り二枚。おまけに一対局につき二回までと定められている「待った」を序盤で使いはたしていた。

 アキヒロ六段は余裕たっぷりの笑みを浮かべ、アイスコーヒーを飲んだ。
「ふっふっふ。どうやらこの勝負、ぼくの勝ちらしいな。将棋界には『桂馬も成れば金になる』という格言があることを知らなかったようだな」
 しかしユミ女流七段は動じる様子もなかった。
「格言を勉強すべきはあなたのほうね。『囚われの香車の矢、王の甲冑をもつらぬく』という格言があるのを知らないの?」
 女流七段は千代紙で折ったお手製の駒箱の中から一枚の駒を取りだし、剛速球投手のような勢いで盤に叩きつけた。衝撃でいくつかの駒が盤上にこぼれ落ちたが、気に留める様子もなかった。

 その剣幕にひるんだアキヒロ六段だが、置かれた駒を見てすぐに苦笑した。
「ははっ、その手は二歩だ。知らないのかい? 二歩は反則負けなんだぜ」
 そういってアキヒロ六段が手にしていた扇子を広げようとした瞬間、ユミ女流七段は不敵に笑った。
「二歩が反則負け? そんなことは百も承知よ。私の手をよく見てごらんなさい」
 盤上に広がった駒たち、そこに仕組まれたユミ女流七段の意図に気づいたとき、アキヒロ六段の顔から笑みが消えた。手から扇子がこぼれ落ちた。
「これは……二歩じゃない……!?」
 扇子を落とした場合は次回の対局を香車落ちでスタートしなければならないルールだったが、そんなことはもはやどうでもよかった。
「そう、わたしの狙いははじめっからこれ。三歩よ」

 国立将棋スタジアムの動きが止まった。観客、レフェリー、はてはビールの売り子にいたるまで、誰もが茫然としていた。
 一瞬の沈黙の後、いち早く状況を把握した実況アナウンサーが叫んだ。「これは二歩じゃない、三歩、まさかの三歩だぁ!」
 その言葉を合図に地鳴りのようなどよめきが起こった。誰も見たことのない手だった。
 「いや、これは驚きましたね。ルールの盲点ですね。たしかに三歩はだめというルールはありませんが……」
 解説席に座っている元朱雀級チャンピオンの趙八段がハンカチで額の汗を拭きながら絶句した。あとはうわごとのように「いや、これは……」とくりかえすばかりだった。

 この日のために、この瞬間のために、周到に準備してきた手だった。先ほどユミ女流七段が5二に捨てた龍は、三歩をさとらせないための布石だった。勝ちを確信した瞬間は誰でも気が緩む。アキヒロ六段と格言のやりとりをしている間に、一瞬の隙をついてふたつめの歩をそっと配置したのだった。

「おい、マチムラ準二級!」
 アキヒロ六段がほとんど悲鳴に近い声で付き人を呼んだ。
「すぐにルールブックを引いて、三歩が反則に該当しないか調べろ!」
「しかしルールブックなんてここには……」
 付き人の棋士が困った様子でいった。すかさずアキヒロ六段の平手打ちが炸裂した。
「ばかやろう! ルールブックがなかったらWikipediaでもYahoo!知恵袋でもなんでもいいから調べるんだよ。知恵袋で質問するときは『大至急』のタグをつけるのを忘れるなよ!」
 すっかり平静を失ったアキヒロ六段を、ユミ女流七段は冷ややかな目で見つめた。
「無駄よ。そっちはもう手回ししてある。Yahoo!知恵袋に書いてあることはルールとして認められないし、昨日のうちにWikipediaは荒らしておいたわ。今は凍結されて編集もできない状態よ」
「くそっ。三歩が許されるのなら、こちらも同じ手を……」
 言いかけて、アキヒロ六段は何かに気づいたように口をつぐんだ。ユミ女流七段は薄笑いを浮かべた。
「どうやら気づいたようね。そう、さっきあなたが場に流した三枚の歩、あれがあればまだ逆転の目はあった。でもあなたは私の挑発に乗って、歩を盤外へと捨ててしまった。あの行動が明暗を分けたのよ」
 アキヒロ六段はまだ何か手はないかと純銀の駒箱を探っていたが、使える駒は見当たらなかった。飛車と角は山ほどあるのに、肝心の歩だけがなかった。
「時間切れよ」
 女流七段は卓上のストップウォッチを指さした。持ち時間いっぱいを知らせるピピピピピ……という音が無情に鳴りひびいた。

「時間切れだからもう一度わたしの番ね。覚悟しなさい、2九角!」
 ユミ女流七段は駒箱に残っていた最後の一枚を盤上に乗せた。駒の側面にはべったりと血がついていた。
「その血まみれの駒は……」
「そう、この駒がなかったらこの作戦は成立しなかった……」
 ユミ女流七段が二回戦で戦ったフミヤ序二段の駒だった。それを受け取ってから、ずっと胸ポケットの中に隠しもっていたのだ。
「あの死闘の結果、フミヤ序二段は命を落とした。でも彼の意思はこの駒の中に生きている!」
 アキヒロ六段はがっくりと肩を落とした。ぎゅっと噛みしめたためだろう、唇から血が滴りおちて座布団を紅く染めた。
「参りました……」絞りだすようにいって、アキヒロ六段は玉将の駒をユミ女流七段に差しだした。
 解説者は言葉を失ったままだった。実況のアナウンサーが放心したように、それでもはっきりとした口調で「投了です、手数は約四百八十手、決まり手は2九角による『曲がり弓矢』でした!」といった。スタジアムは大歓声に包まれた。

二週間に及ぶ激しい闘いが、ようやく終わった瞬間だった。


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