2018年6月22日金曜日

【読書感想文】寺尾 紗穂『あのころのパラオをさがして』

このエントリーをはてなブックマークに追加

『あのころのパラオをさがして
日本統治下の南洋を生きた人々』

寺尾 紗穂

内容(e-honより)
1920年から終戦まで日本の統治下にあったパラオ。そこには南洋庁という役所が置かれ、作家の中島敦をはじめ、日本から移り住む者も多かった。「楽園」と呼ばれた島で、日本人移民と現地島民が織りなす暮らし。そして「戦争」のリアルとは―。各地で拾い集めた、75年前の「日常」の証言。植民地支配の歴史を、そこに暮らした人々の視点から見つめなおすルポルタージュ。

シンガーソングライターでもある寺尾紗穂氏が、『山月記』で知られる中島敦や石川達三(第一回芥川賞受賞作家)らの記述を通して、日本統治下にあったパラオの状況を書くルポルタージュ。

正直、文章は読みづらかった。おばちゃんのとりとめのないおしゃべりを聴いているような文章。
まるで会った人、あった出来事、交わした会話をすべて書いているかのように話があちらこちらにいく。時代も舞台もバラバラ。勝手に他人の気持ちを憶測する。パラオと無関係なエピソードが断片的に挿入される。『土佐日記』『おもひでぽろぽろ』のような、つまりまるでルポルタージュ的でない、アーティスティックな文章だった。もちろん悪い意味で。

テーマはおもしろかったけどね。



パラオについて、かんたんに説明。
ぼくのも付け焼刃の知識だが。

パラオは太平洋に浮かぶ島。佐渡島や淡路島より小さい。
日本のほぼ真南に位置するので、日本との時差はない。

パラオは、スペイン植民地、ドイツ植民地を経て、第一次世界大戦でのドイツの敗北を受け、1922年から日本統治領になる。日本の敗戦によりアメリカ統治となり、1994年にやっと独立国となっている。
日本統治時代には日本の軍人や移民、連行された朝鮮人など数万人が住むようになり、一時はパラオ先住民のほうが日本人より少なかったという。中島敦は南洋庁職員として、日本語教科書編纂のためにパラオに赴任している。

かつて日本統治下だった影響で日本語にちなんだ地名や人名も多く、親日国としても知られている。
国旗も日の丸と似ている(「日の丸を参考にした」という説もあるがデマらしい)。
パラオ国旗

ぼくもテレビで「パラオは日本が大好き!」とやっているのを観たことがある。
日本人のひとりとして「好きと言われるのはうれしい」とのんきに思っていたのだが、歴史を見ると単純にそうも言えない気持ちになる。

 サイパンは島全体が戦場となり、日米の軍人、民間人のみならず島民も沢山巻き添えを食って亡くなっている。一方パラオでは、日本軍がコロール島から本島に住民を移動させ、巻き添えによる死亡はやはりあったが、島民が戦闘に大規模に巻き込まれることは回避された。これは一種の美談となり、現在ネット上でも散見される。二〇一四年の終戦記念日に放送された上川隆也主演の「終戦記念スペシャルドラマ『命ある限り戦え、そして生き抜くんだ』」(フジテレビ)はパラオが舞台であり、ペリリュー島の戦いが扱われていたが、この島民を移住させるシーンはやはり美談に沿って感動的な形で描かれていた。主役はもちろん日本の軍人であり、彼らが島民をいたぶったり、銃を向けたり、畑を奪うようなは当然出てこない。パラオ人と日本人の友情だけが強調されていた。
 しかし、実際はパラオにおいてもそう単純なものではなかったことは澤地久枝の著作を読むだけでもよくわかる。
 食うや食わずの森での生活が続く中、ニーナさんが心を痛めたのは、朝鮮人など南洋群島で築かれたヒエラルキーの底辺にいる人々の姿だった。骨と皮だけになって木の下で餓死する者もいた。
「一番かわいそうだったのは、コリアン朝鮮の人。朝鮮、朝鮮、あれたちは(日本人が)いじめてやった。沖縄の人もかわいそうだった。日本人がいじめた。コリアの人はとってもかわいそうだった。日本語わからないから。インドネシアの人もいた。苦しかった」

こういう記述を読むと、とてもパラオを「親日国」の一言で表現することなどできない。
パラオの人が「日本を好き」と言ってくれるのはうれしいが、日本人の側から「パラオは親日国だ。なぜなら日本はパラオにたくさんのものを残したからだ」とは恥ずかしくて言えない。

「日本統治時代は良かった」と思っているパラオ人は少なからずいるようだ。でもかなりの部分「美化された思い出」補正が入っていると思う。『三丁目の夕陽』を観て、戦後日本は良かったと思うように。

スペイン植民地時代やドイツ植民地時代よりは日本統治時代のほうがマシだったのかもしれない。その後のアメリカ統治時代が苦しかったのかもしれない。それとの比較で「日本統治時代は良かった」と思う人はいるのかもしれない。だからといって統治して良かったとは言えない。
パラオ語の中に多くの日本語が生き残っているのも(パラオ語で弁当はbento、電話はdenwa、ビールを飲むことはtskarenaos(ツカレナオース)だそうだ)、どっちかといったら負の遺産と呼んだほうがふさわしい。

『あのころのパラオをさがして』には、日本統治時代のパラオ人が、日本軍人として戦死したこと、戦争の巻き添えになって死んだこと、日本軍に食糧を供出させられたことで飢えに苦しんだことが書かれている。
一方で日本はパラオに学校や病院、道路などのインフラを整備したという功績もあるが、それだって善意でやったわけではなく、「日本のために戦う臣民を養成するため」にやったことだ。感謝を強いるようなことではない。
こういう事実を知った上で、「日本統治のおかげでパラオは近代化して良かった」なんて、恥ずかしくてぼくには言えない。



パラオ国立博物館での記述がショッキングだった。

パラオ国立博物館のほとんどの展示物には日本語訳がついている。だが、階段の途中という読みづらい場所にある展示には日本語訳がついていない。そこには、日本兵がパラオ人に暴力を振るったことがパラオ語で書かれていた――。

というもの。
日本から受けたひどい仕打ちは記録には残すが、それをことさらに現代日本人に対して責めたてたりはしたくない、というパラオ人の気持ちの表れなのだろう。
なんと寛大な人たちなのだろうと思う。

きっと、パラオの人たちの多くは日本に好意的な感情を持っているのだろう。だが、手放しで賞賛しているわけではない。彼らはまた日本の悪いところ、日本人がした悪いおこないも知っている。あえて口には出さないが、思うところもあるはずだ。その上で、すべてをひっくるめて受け入れて好意を表してくれているのだ。赦したのではなく、目をつぶっているだけ。
こういうパラオの人たちの懐の広さに想像を及ぼすこともなく「パラオ人は日本が大好きなんです!」とかんたんに口にしてしまうテレビ番組に、ぼくはなんともいえないあぶなっかしさを感じる。



新天地を求めて日本からパラオへと入植した人たちは、戦争中はもちろん、戦後日本に帰ってきてからも相当な苦労したようだ。

「敗残兵」という言葉が切なかった。久保さんたちは兵士ではない。何に負けたというのだろうか。新天地パラオで楽園を築いた。久保さんの義父勇吉さんは会社員だったが、多くの農業移民も成功を収めた。現地の人々の畑や住まいを奪ったわけではなく、ゼロから土地を耕しての成果で、満州の一部の開拓地のように先住民から反感を買っていたわけでもなかった。しかし戦争が起きて水の泡となり、そのまま帰還、再びゼロから内地で環野の開拓となったのは北原尾の人々と同じだ。

宮城県蔵王町に北原尾という地区がある。パラオからの引揚者たちが入植した土地だ。北のパラオ、という意味を込めて北原尾(キタハラオ)と名付けられたそうだ。

彼らは周囲から差別をされてずいぶん冷たくあしらわれたらしい。
みんな余裕がなかった時代だったから、だけではないだろう。余裕があったとしても、一度この国を離れていった人が戻ってきたら冷たく当たると思う。ぼくらの多くはそういう人間だ。
同胞である日本人からさげすまれた引揚者たちが夢見たふるさとは、いろんなことを包みこんでくれるおおらかさを持ったパラオだったのではないだろうか。だからこそ北原尾という地名が生まれたのだろう。


『水木しげるのラバウル戦記』という本に、終戦後水木さんがパプアニューギニアの原住民に誘われてそこで永住しようとするエピソードが出てくる。
水木さんのような人がこのおおらかさに包まれた島で暮らしていたら、日本に帰りたくなくなるだろうなあ。
ぼくのようなせせこましい日本人は、かえって生きづらそうな気もするけど。


【関連記事】

昭和18年の地図帳ってこんなんでした



 その他の読書感想文はこちら



このエントリーをはてなブックマークに追加

0 件のコメント:

コメントを投稿