2018年6月12日火曜日

ストロベリーハンター

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子どもを連れて狩りに出かけた。
まだ人類が定住生活をしていなかった時代から、子どもに狩りを教えるのは父親の役目だ。ただしぼくが教えるのはいちご狩りだが。


娘はいちごが大好きだ。

以前、義母が大粒の高級いちごを手土産に持ってきてくれたことがあった。娘は、子どもが唯一持っている武器である「いじらしさ」を存分に発揮し、その場にいた大人たち全員からいちごをせしめ、一パック十個のうち六個をひとりでせしめることに成功した。

大きくて甘いいちごだったのでほんとはぼくだってもっと食べたかったが、ほかの大人たちが高級いちごのように甘い笑顔で「もっと食べたいの? じゃあどうぞ」といちごを差しだしているのに、父親であるぼくだけが「食べたいなら自分で稼げるようになってから働いた金で買って食え」と言うわけにもいかない。泣く泣くいちごを献上した。

他人のいちごまで遠慮なく食うぐらいだからいちご食べ放題のいちご狩りに連れていったらさぞ喜ぶだろうと思い、いちご狩りができる場所を調べてみた。
わかったことは、世の中の人はいちご狩りが好きということだった。土日は予約がいっぱいで、二週先までいっぱいだった。いくつかの農園にあたってみたがどこも似たような状況だった。仮想通貨ブームが落ち着いた今、いちご狩りブームが来ているらしい。

いくつかあたった結果、予約可能な農園を見つけた。
あたりまえだがいちご農園は駅前直結ショッピングモールの中のような便利な場所にはない。車で行くべき場所なのだろう。だが都会人の悲しさ、我が家には車がない。電車で一時間、さらにバスで三十分という立地の農園を予約した。


いちご狩りは二十数年ぶりだ。幼稚園児のときに家族で出かけた記憶がある。ただしいちごを摘んだ記憶はない。ぼくがいちご狩りに行ったとき、ちょうどそこで市のイベントをやっていて、市長のおっちゃんが来ていた。そしてきれいなお姉さんがバスガイドのような恰好をして立っていた。「ミス〇〇」というたすきをかけている。まだミスコンテストが堂々とおこなわれている時代だったのだ。
そして市長がミス〇〇と握手をした。今になって思うと、農協だかいちご生産者協会だかの人が悪だくみをして「美人と握手をさせて市長の機嫌をとっておこう」みたいな企てがあったのかもしれない。幼稚園児のぼくはそこまで考えていなかったが、美人と握手をしている市長の顔が真っ赤になっていたことだけ記憶している。
以来ぼくにとって「いちご狩り」とは「美人と握手をした市長の顔が真っ赤になるイベント」だったのだが、ついにその記憶が上書きされる日がやってきた。


予約当日はあいにくの大雨だった。
いちごはビニールハウスで栽培するので狩りに天候は影響ないのだが、大雨の中電車とバスを乗り継いでいくのはおっくうなものだ。「交通費を考えれば百貨店に行って高級いちごを買ったほうが安くつくな」と不穏な考えも首をもたげてきたが、娘と「日曜日はいちご狩りにいくよ」と約束してしまっている。いちご狩りの愉しさを説いてしまった上に、この一週間は「歯みがきしないんだったらいちご狩りに行くのやめるよ」などとさんざん要求を呑ませるためのダシに使わせてもらった。今さらひっくり返すことはできない。しかたなく雨具を用意して出かけた。


いちご狩りはファミリーで楽しむものかと思っていたが、ヤンキーのカップルや大学サークルのイベントっぽい団体などもいて、若者にも人気のようだった。やはりブームが来ているらしい。
農園のおじさんから「5と6のエリア以外のイチゴは摘まないでください。他のエリアは入口に鎖がしているので入らないでください」と説明を受けたにもかかわらず、ヤンキーカップルの男は禁止エリアのいちごを摘んでいた。また彼は農園の入り口でたばこをポイ捨てしていた。
「ヤンキー」と「いちご狩り」はまるで似合わないように思うが、彼はちゃんとヤンキーらしく社会のルールを逸脱しながらいちご狩りを楽しんでいるのだ。その一貫する姿勢は清々しさすら感じられた。なんてまじめなヤンキーだ。「ヤンキー」と「いちご狩り」が両立することをぼくははじめて知った。


狩りはかんたんだった。赤く色づいたいちごを見つけ、茎をはさみでチョキンと切るだけ。熊狩り、潮干狩り、オヤジ狩り、魔女狩り、刀狩り、モンスターハント。世の中に狩りと名の付くものは数あれど、いちご狩りほど容易な狩りはないだろう。いや、紅葉狩りには負けるか。なにしろあれは見るだけだからな。
いちご狩りはかんたんだ。狙った獲物は逃がさない。誰でも百発百中の優秀なハンターになれる。四歳児ですら何の造作もなく赤いいちごを仕留めていた。

まずいちごを十個ほど狩って席についた。
いちごだけでなく、アイスクリームやケーキやプリンもあってそれがすべて食べ放題。ファミレスにあるようなドリンクバーも置いてあって、こちらも飲み放題。すばらしい。
「いちごの乗ってないショートケーキ」があって、そこに好きなだけいちごを乗せてオリジナルいちごのショートケーキを作れる。わくわくする。

なによりうれしいのが、業務用の練乳がどーんと置いてあることだ。
ぼくは甘いものと乳製品が好きだ。当然、練乳も大好きだ。
小学生のときは練乳を食べるためだけにかき氷をつくって食べていた。途中からかき氷をつくるのがめんどくさくなって練乳だけ飲んでいた。森永の練乳チューブに直接口をつけて吸いだすのだ。

おさな心にも「いけないことをしている」という背徳感があり、家族が誰もいないときを狙ってひそかに犯行に及んでいた。
松本大洋『ピンポン』で主人公のペコが練乳のチューブを吸っているのを見たとき、自分だけではなかったのだと知って少し気が楽になった。


皿に練乳を山盛りにして(さすがにいいおっさんになった今は公共の練乳チューブに直接口をつけて飲んだりしない)、いちごをつけて口に運ぶ。
うまい。だが結果からいうと、これは失敗だった。
練乳いちごが甘すぎて、それ以降いちごを食べても味気ないのだ。プリンに乗せてもものたりない。練乳いちごは甘さのチャンピオンだから、それに比べたら他のどんな食べかたも負けてしまう。
しかたなくまた練乳をつけたいちごを口に運ぶが、やはり甘いものというのはすぐに飽きる。十個も食べたら「もういちごはいいや」という気になってきた。

電車とバスで一時間半もかけて来たのに、ひとり二千円ぐらい払ったのに、いちご十個で飽きてしまう。ますます「百貨店で良かった」の思いが強くなるが、あっという間にいちごを食べ終えて新たな狩りに出かけた娘の後姿を見て、思いを改める。

いちご狩りにおいて、いちごを食べるためにお金を払うのではない。体験を買っているのだ。
娘のみずみずしい体験のためなら金銭も労力もたいしたものではない。こう考えられるようになったのは、ぼくが父親になったということなのだろう。
皿に残った練乳を指につけてなめながら、自分が大人になったことを実感していた。


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