2023年1月16日月曜日

【読書感想文】本渡 章『大阪古地図パラダイス』 / 地図の説明は読むもんじゃない

大阪古地図パラダイス

本渡 章

内容(e-honより)
古地図はなんだか面白い。現代の地図は便利で正確で、役に立つが、面白くはない。古地図は無くても困らない。でも、無いと淋しい。役に立たない、だけど心をゆたかにする。だから古地図はとても面白い。眺めて、迷って、想像して楽しい。古地図パラダイスへご案内。大阪はもちろん、京都・江戸の古地図もたっぷり収録!


 大阪の古地図(江戸時代~大正ぐらい)についての本。

 大学での講義を本にしたものらしく、うーん、とにかく読みづらい。地図を見ながらあれこれ解説を聞いたりするとわかるのかもしれないが、本を読みながら地図を見るのは不可能なんだよなあ……。

 そういや以前『ブラタモリ』の本を読んでみたことがあるのだが、あれもわかりづらかった。テレビで観るとあんなにわかりやすくておもしろいのに。

 本には小さい地図も載っているのだが、文章を読んで、地図で該当の場所を探して、また文章を読んで、また探して……とやっていると疲れてしまう。そうまでしても結局よくわからない。

「地図」と「本で解説」はとにかく相性が悪いことがわかった。




 地図そのものはよくわからなかったが、その制作背景の話はおもしろかった。

 交通機関や測量技術が未発達の時代に、日本全体を地図にするのは、難事業でした。地図はたいへん貴重なものでした。単に大事なものだったというのとは、ちょっと違う。宗教的な感情にも通じていると、さきほど述べましたが、かつての人々がどんなふうに、この日本図を見ていたかを想像させるエピソードがあります。
 この図は、鎌倉時代の原図を江戸時代に筆写したものですが、日本を囲むようにしてギザギザの模様が見えますね。シミだろうか、誰かお茶でもこぼしたんでしょうか。実はこれ、原図の紙がボロボロになった部分です。それを忠実に書き写している。いったい、そんなことをして何になるのか、まったくの無駄じゃないか。現代人はそう思うでしょう。
 しかし、この時代の人たちにとっては、元の地図のちぎれたり、破れたりしたところまで、そっくりそのまま書き写すのが大事。まったく同じであることに、深い意味がある。地図を新たにもう1枚、世に生み出すのは、秘儀に近い行為だったと考えると、ギザギザ模様の意味も腑に落ちます。
 今、日本地図は書店に手頃な値段のものが何種類も出ています。誰でも気軽に、手に入る。インターネットなら無料です。しかし、かつて地図を見るというのは限られた人々の限られた体験だった。地図を広げて日本という国の姿を見るのは、現代におきかえると、人工衛星から撮った地球の映像を初めて見たのと同じくらい、強烈なインパクトのある体験だったのではないか。そうでないと、わざわざ手間ひまかけてギザギザ模様まで筆写する気にはならない。私はそんなふうに想像します。

 ほとんどの現代人にとって地図は単なる〝ツール〟でしかない。目的地にたどりつくことが目的なので、その手段は紙の地図でもカーナビでもGoogleマップでもいい。より便利なものがあればそちらを使う。

 しかしこの「ボロボロになった部分まで忠実に描き写した地図」は単なるツールではない。持ち主にとっては、アルバムや日記のような、いろんな感情を想起させてくれるものだったのだろう。




 古地図にもいろいろあるが、ほとんどの場合は、縮尺や方角はかなりいいかげんだ。なので、古地図を見ても正確な地形情報は得られない。

 しかし正確でないからこそ伝わる情報もある。

 たとえばお寺が地図に描かれている。現代でも残っているお寺。大きさは今と同じだ。だが、古地図では今の地図よりもずっと大きくそのお寺が描かれている。そうすると、当時の人々にとってはそのお寺の存在が今よりずっと重要だったのだろうとわかる。


 日本史で地図と言えば伊能忠敬だ。

 伊能忠敬の地図を見ると、今から三百年前の測量機もGPSもなかった時代にこんなに正確な地図を作れたのかと驚かされる。

 だが、伊能忠敬の地図が実際に使われることはほとんどなかったそうだ。

 実地測量で日本地図を作ったのは、伊能忠敬が初めてです。
 というと、不思議に思われる読者がいるかもしれません。実地測量がはじめて、ということは、それまでの日本地図は実際に測量していなかったのか。
 実地測量が各地で行われるようになったのは、江戸時代の後半です。伊能忠敬の時代には、ほかにも優秀な測量家がいた。ただ、伊能忠敬は誰よりも綿密な測量を積み重ねた結果、日本全体の地図を作る偉業を達成した。それまでに流布していた日本地図は、測量が行われていても部分的な範囲に限られていた。それで、どうして日本列島の形がわかったのか。幕府が作った日本地図は、各藩に提出させた領国の地図を付け合わせ、編集したものです。民間で作られた日本地図は、作成者が集めた各地の地図をやはり編集してかたちを整えたものです。
 江戸時代に最も普及したとされる日本地図は水戸藩の儒学者、長久保赤水が作った「改正日本輿地路程全図」で、通称を赤水図といいます。安永8年(1779)発行。経度・緯度の線が引かれ、色分けされた諸国、町村や河川などの主な地名、さらに街道筋が描きこまれていた。実測なしで作られたため経緯線に誤差があったが、実用性には富んでおり、情報量も充分で、江戸時代を通して広く利用されました。
 対して、伊能忠敬の日本地図は、海岸線の測量を精密に行い、非常に正確な日本列島の形を描いた。反面、内陸部については簡略化し、一部を絵師に描かせた。赤水図と比べると、どちらがより優れているかは一概に言えない。一長一短があったわけです。
 しかし、江戸時代に用いられたのは圧倒的に赤水図の方でした。伊能忠敬が日本中を歩いて精魂込めて作った日本地図は、無事に幕府に納められたものの、実際に使用される機会はなかった。仕事ぶりは認められたはずなのに、こんなことになろうとは。

 伊能忠敬の地図は形状は正確だったが、人々の住んでいる町や村の情報は乏しかった。

 だから人々は正確な伊能忠敬の地図よりも、不正確だが身の周りの情報が豊富な長久保赤水の地図が選ばれた。

 おもしろい話。ビジネス書なんかに載ってそうな話だよね。「重要なのは品質ではなく、クライアントが求めている価値を提供できることです」なんつって。


【関連記事】

【読書感想文】平面の地図からここまでわかる / 今和泉 隆行 『「地図感覚」から都市を読み解く』

【読書感想文】暦をつくる! / 冲方 丁『天地明察』



 その他の読書感想文はこちら


2023年1月13日金曜日

ご冥福コメント


 有名人が死ぬ。まあ有名人はよく死ぬ。毎日のように有名人は死んでいる。このままだと有名人は絶滅してしまうのではないかとおもうのだが、死ぬそばから新しい有名人が生まれていて、有名人の数はいっこうに減らない。種の繁栄とはこういうことか、とおもう。

 それはそれとして、有名人が死ぬと訃報が流れる。なぜ訃報が流れるかというと、有名人だからだ。訃報が流れなければ有名人ではない。

 訃報に対してコメントがつく。ネットニュースのコメント欄だったり、ツイッターのコメントや引用リツイートだったり。

「○○だった姿が印象に残っています。ご冥福をお祈りいたします」

「昔○○が大好きでした。ご冥福をお祈りいたします」

「いつも○○で、とても○○な方でした。ご冥福をお祈りいたします」

 まあ祈るよね。ご冥福を。

 もしくは合わせるよね。掌を。



 あれ、嫌いなんだよね。嫌いっていうか、見るたびに「はしたない」と感じてしまう。

 訃報を目にして何かしら言いたくなる気持ちはわかる。

 ぼくも「大好きとまではいかないとまでもその人の活躍を見たことがあるし、それによって多少は心を動かされたことがある程度の有名人」の訃報を見たら、何か言いたくなる。

「好きだった」「もっと活躍してほしかった」「残念だ」「早すぎる死だこの人よりもとっとと死ぬべき人間がいるはずだろたとえば■■(自粛)とか」など。


 でもさ、そこで反射的に「ご冥福をお祈りします」コメントをするのって、その胸の内を片付けてしまうわけじゃない。

 えっ、あの人亡くなったの、まだ生きていてほしかったのに、って胸にわだかまりが生じるわけでしょ。「ご冥福をお祈りいたします」コメントをつける行為ってのは、そのわだかまりをさっさと「ご冥福お祈り済み」フォルダに移動してしまうような感じがする。

 はいご冥福を祈ったよ、だからこの件はもうおしまい、はい次のネットニュース。

 そういう「やっつけ感」がご冥福コメントからは漂ってくる。


 ご冥福コメントってのはタスク処理だとおもっている。

 もちろんそうやっていろんなことにケリをつけていくことは大事だ。お通夜も、お葬式も、四十九日も、一周忌も、三回忌も、タスク処理だ。それがあるから人は嫌なことを忘れて前に進める。

 しかし、お葬式→お通夜→四十九日→……には段階があるのに対し、ご冥福コメントはワンステップだ。コメント欄にご冥福コメントをつけたらもうおしまい。なんなら「ごめいふ」ぐらいまで打ちこんだら予測変換候補に「ご冥福をお祈りいたします」が出てくるから、それを選んでおしまい。「ごめいふ」でもうタスク完了だ。

 それはあまりにはしたないっていうか、故人に対して冷たくないか。


 だからぼくは、まあまあ好きだった有名人の訃報を目にしても、ご冥福コメントはしないようにしている。あえて黙して心のもやもやに決着をつけない。ああ、あの人死んだのか。いろいろ言いたいことがある。

 その状態で寝かせておく。そうするとちょっとずつ心の中で「ご冥福をお祈りしたい」気持ちが溶けてゆく。溶けたご冥福はきっとぼくのどこかに染みついている。



2023年1月12日木曜日

【読書感想文】村田 らむ『人怖 人の狂気に潜む本当の恐怖』

人怖

人の狂気に潜む本当の恐怖

村田 らむ

内容(e-honより)
その男は社会のアンダーグランドを長年取材してきた。中には命の危険を感じることもあった。しかし、そんなものより恐怖を感じる瞬間―。それは理解不能な人間の狂気に出会ったときだった…。世の中の闇に精通する筆者が綴る、思わず背筋が凍る人怖物語。


 怖い話、といっても幽霊だのおばけではなく、生きている人の怖い話を集めた本。

 死体遺棄、悪意、暴力、動物虐待、詐欺など、個人的には「怖い」というより「胸くそ悪い」話がほとんどだった。

 ぼくもけっこう胸くそ悪い話が好きで(というと語弊があるけどついつい読んじゃう)、後味の悪い小説はよく読む。ということもあって、『人怖』に載っている話は「たしかに嫌な話だけどそこまで衝撃的なものはないな……」という印象だった。

 描写のグロテスクさでいえばこないだ読んだ『特殊清掃 死体と向き合った男の20年の記録』のほうがずっと上だったし、読後感の気持ち悪いさでいえば吉田修一氏の小説のほうがよっぽど嫌な気持ちになる。

 ハッピーな物語しか読まない人だったら『人怖』もずいぶん衝撃的な内容だとおもうけど。




 ホームレスの取材相手を探している雑誌記者の話。

「どんなホームレスを取材したいのですか?」
「死にそうな人いないですか? 取材している間に死んで欲しいんですよね」
「ええ? あ、死にそうな人ですか?」
 ……面食らった俺は、オウム返ししてしまった。
「そうなんですよ。別にその日のうちに死んでくれってわけではないですよ。うちは予算があるので、かなり長く取材ができますから。半年くらい取材をしていて、ある日小屋にいつも通り行ってみたら、彼が亡くなっているのを発見……とかが理想的ですよね。そこで、テロップで『我々はなぜ、彼を救えなかったのだろう?』って出すわけです。これ、すごい受けると思うんですよ!!」

 こういう報道関係者はいっぱいいるんだろうな。ここまであけっぴろげではなくても、うっすらと願っている記者はいっぱいいるだろう。

 こないだ読んだNHKスペシャル取材班『ルポ車上生活 駐車場の片隅で』にも近いものを感じた。記者がストーリーを作って、それにあう被取材者を探して、ストーリーにそぐわない話は切り捨てる。さらにたちの悪いことに、記者たちは「社会正義のため」と信じてやっている。「自分や視聴者の野次馬根性を満たすため」だということをすっかり忘れている。

 仕事とか社会正義という大義名分があるときのほうが、道徳心は忘れやすいんだよね。

 テレビディレクターの藤井健太郎さんが『悪意とこだわりの演出術』の中で、こんなことを書いていた。

 逆に、何かを悪く言ったりしているとき、意図的に事実をねじ曲げていることはまずあり得ません。悪く言われた対象者からは、事実だったとしてもクレームを受けることがあるくらいなのに、そこに明らかな嘘があったら告発されるのは当然です。
 そんな、落ちるのがわかっている危ない橋をわざわざ渡るわけがありません。そんな番組があったらどうかしてると思います。どうかしてる説です。

 悪ふざけだとおもっているときは、「渡っちゃいけない橋」に対して慎重になる。やりかたを間違えると、反撃されたり、訴えられたり、捕まったりすることがわかっているからだ。

 ところが〝正義〟のためならついつい暴走してしまう。先のホームレスで言うなら「ホームレスを取材して悪意たっぷりのおもしろおかしいコンテンツを作ってやろうぜ!」とおもっている人は、法や人々の道徳心にぎりぎり触れないラインを狙うだろう。

 ところが「『我々はなぜ、彼を救えなかったのだろう?』がテーマの美しくて崇高な物語をつくろう」とおもっている人は、ついついそのラインを踏み越えてしまう。正義は危険だ。




 犬を飼うのに世話をしない母親の話。

 でもある日、母から電話がかかってきて、おいおいと泣いているんです。
「犬が死んじゃって、もう悲しくて、悲しくて。あの子(義兄)も犬の亡骸を抱いて泣いていたのよ……」
 どうして急に死んでしまったのかを聞くと、

「保健所で殺処分してもらったの」

 母は、ペット不可の団地で犬を飼っているのが面倒になったらしく、保健所に連れて行って殺させたらしいです。
 つまり母は、自分で犬を殺しておいて、「犬が死んじゃった」 って泣いていたんです。

 たしかにひどい話なんだけど、こんなのめずらしくもなんともない話で、ペットを捨てたり、保健所に犬や猫を連れていくやつってたいがいこんなんじゃないの?

 自分では責任はとりたくない、でも好きなときだけかわいがりたい、でもそのために金や時間や労力を犠牲にしたくない、でも動物は好き、だけどめんどうなことを引き受けるぐらいなら動物が死んでもしかたない、でも死んだら悲しい。

 そういう思想じゃなきゃ、なにがあっても最期まで飼う覚悟もないのに犬猫をペットショップで買ってきたりしないでしょ。ペットショップ界隈には掃いて捨てるほどありそうな話だ。




 (おそらく)最近話題になっている某宗教について。

 そんなEさんの信仰が終わったのは、その教団が事件を起こしたからです。
 当該の教団は、韓国のキリスト教系の新興宗教団体でした。
 信者には「自由恋愛禁止」「合同結婚式で相手を強制的に選ぶ」という人権を無視してまでも、ピュアさを求める教団でしたが、教祖は全く逆の行動をとっていました。
 教団は、見た目がいい女性信者を多数、教祖の元へ”みつぎ物”として届けました。
 そして教祖は手当たりしだいに数多くの性的暴行をしました。
 女性を風呂場に裸で並べさせて、順番に性的暴行をしていったというスキャンダル記事も出ました。日本の女性信者も教祖の元に送り込まれ、性的暴行の被害者が出ました。
 教祖は韓国国内で刑事告発され、教祖は国外に逃亡、2007年に中国のアジトに潜伏しているところを逮捕されました。
 その段階になってEさんは、
 「え? さすがにおかしいんじゃないか?」
 と思ったそうです。
 教祖のスキャンダルさえ出なければ今も信仰を続けていた可能性があったと、Eさんは語っています
 そして僕が何より恐ろしいと思うのは、この団体は今でも活動を続けており、日本でも活発に勧誘活動をしているということです。
 つい最近になって日本で宗教法人格まで取得しています。

 2022年になって急にニュースになったけど、ずっとこういうことをやってきた団体なんだよねえ。




「人から聞いた話」がほとんどで、もちろん確かなソースなどもなく噂話とか都市伝説に近い。 掘り下げなどもなく、一冊の本として読むと少々読みごたえが薄い。

 Twitterとかで流れてきたら目を惹くような話なんだけどな。


【関連記事】

【読書感想文】特掃隊長『特殊清掃 死体と向き合った男の20年の記録』 / 自宅で死にたくなくなる本

【読書感想文】“OUT”から“IN”への逆襲 / 桐野 夏生『OUT』



 その他の読書感想文はこちら


2023年1月11日水曜日

【読書感想文】『ズッコケ芸能界情報』『ズッコケ怪盗X最後の戦い』『ズッコケ情報公開㊙ファイル』

   中年にとってはなつかしいズッコケ三人組シリーズを今さら読んだ感想を書くシリーズ第十五弾。

 今回は43・44・45作目の感想。いよいよラストに近づいてきた。

 すべて大人になってはじめて読む作品。


『ズッコケ芸能界情報』(2001年)

 女優になりたいと言いだしたタエ子さんの付き添いで、芸能プロダクションのオーディションに付き添った三人組。突然、元二枚目俳優・現プロダクション事務所の社長にスカウトされ……。


 あまりにも導入の展開が雑すぎる。初対面の芸能プロダクション社長がそのへんの小学生相手にいきなり「君たちは三人ともスターになれる! うちと契約してください!」って言ってくるんだよ。平凡な顔を見ただけ。演技も見ていなければ、話すらしていないのに。

 これが詐欺でなければなんなんだ。どう考えたって詐欺師だ。

 ははあ、じつは詐欺でしたーっていうオチだな、小学生に芸能界は魑魅魍魎が跳梁跋扈する甘くない世界だと教えるんだなとおもって読んでいたのだが、驚くことに最後まで読んでも詐欺ではないのだ。んなアホな。

 ストーリーの強引さもひどいが、キャラクターの性格が変わっていることも気に入らない。目立ちたがり屋でお調子者だったハチベエはどこへ行ったんだ。これまでのハチベエだったら一も二もなく芸能界入りの話に飛びついていただろうに、今作では妙に慎重。逆に両親が浮ついて「うちの子はスーパースターになれる」なんて言いだす始末。キャラクターを壊さないでくれよ。

 タエコさんも急に芸能界デビューしたいと言いだすし、器量がいいわけでも熱意があるわけでも演技がうまいわけでもない少女がオーディションでいいとこまでいっちゃうし。ハチベエはハチベエで、ほとんど練習すらしていないのにとんとん拍子でドラマ出演が決まるし。ほとんど夢物語だ。

 また、主役であるハチベエですら主体的に行動することはほとんどなく、エスカレーターに乗せられたかのように努力することもなくスターの道を登りつめてゆく(途中で落とされるが)。いわんや、ハチベエが東京に行ってしまった後のモーちゃんとハカセにいたってはほぼ出番なし。

 とにかく作者の立てた無理のある筋書きに、登場人物たちがいやいや付きあわされているという感じの作品だった。



『ズッコケ怪盗X最後の戦い』(2001年)

 みたび現れた怪盗Xから、新未来教なる新興宗教団体から黄金の草履を盗みだすという予告状が届く。だが新未来教の教祖は神通力があるから大丈夫と自信たっぷり。はたして怪盗Xは黄金の草履を盗みだすことに失敗したかに見えたが……。


 冒頭の、国会議員秘書が金を騙しとられるくだりは蛇足だったが、第二章からはおもしろかった。怪盗X三部作の中ではいちばんよかった。

 まず新興宗教団体を舞台にしているのがいい。神通力を持っていると自称する教祖VS天下の大泥棒。ドラマ『TRICK』を彷彿とさせる。また、怪盗Xが敗れたのでは? とおもわせておいて二転三転する展開もおもしろい。

 さらに「ハカセたちの近所に引っ越してきた男性が怪盗Xの正体なのでは?」というもうひとつの謎もストーリーにうまくからんでいて、終始飽きさせない。こっちの謎は最後まで明らかにならないところも余韻を残す感じでいい。

 一点不満があるとすれば、「Xの正体らしき人物」がハカセやモーちゃんと同じアパートに引っ越してくるのはあまりにご都合的すぎる。X側は三人組のことを知っているのだから、わざわざ近所に引っ越してくる理由がないとおもうのだが……。

『ズッコケ怪盗Xの再挑戦』がかなりひどい出来だったので期待していなかったのだが、いい意味で予想を裏切ってくれた。



『ズッコケ情報公開㊙ファイル』(2002年)

 時代劇を観て、悪いやつをこらしめる諸国お目付け役になりたいとおもったハチベエ。ハカセに話したところ、だったらオンブズマンがいいんじゃないかと言われ、女の子にもてたい一心で市民オンブズマンになることを決意。情報公開のために市役所に行った帰り道、交通事故現場を目撃。被害者の男から書類とフロッピーディスクを託される。そこにあったのは市長の写真と交通費の書類だった……。


「情報公開」というおっそろしくつまらなさそうな題材だったが、中盤以降のストーリーはスティーブンソン『宝島』に似た王道冒険物語パターン。謎を解いたり、悪者に追われたり。『謎のズッコケ海賊島』にもよく似ているね。

『海賊島』と大きく異なるのは、中期以降は準レギュラーになっている荒井陽子・榎本由美子・安藤圭子たちと行動を共にすること。これまでは不自然に女性陣が登場していたが、今回は「フロッピーディスクの中身を調べるためにパソコンを持っている荒井陽子に協力を求める」という自然な筋書き。また危険なことにかかわりたくない榎本由美子が終盤でいい働きを見せるなど、女性陣をうまく扱っている。

「つまんなそうなテーマだな」と期待せずに読んだのだが、意外とおもしろかった。まったく期待しなかったのがよかったんだろうな。ただやっぱりオンブズマン制度の説明は子どもにはむずかしすぎる。娘(九歳)はほとんど理解できていなかった。政治家とか公務員とかすらよくわかってないんだから、オンブズマンだとか開示請求だとか言ってもわかるわけない。だいたいこの物語で三人組がやっていることはオンブズマン活動ではなく、恐喝屋からゆすりのネタを預かっただけである。情報公開請求なんてしていない。

 とはいえ、こうやって他の児童文学が手を付けていない分野に挑戦する意欲は買いたい。流行っている推理物や怪談物に安易に手を出すよりはずっといいぜ。


【関連記事】

【読書感想文】『それいけズッコケ三人組』『ぼくらはズッコケ探偵団』『ズッコケ㊙大作戦』



 その他の読書感想文はこちら



2023年1月10日火曜日

【読書感想文】中脇 初枝『世界の果てのこどもたち』 / 高カロリー小説

世界の果てのこどもたち

中脇 初枝

内容(e-honより)
珠子、茉莉、美子―。三人の出会いは、戦時中の満洲だった。生まれも境遇も何もかも違った三人が、戦争によって巡り会い、確かな友情を築き上げる。やがて終戦が訪れ、三人は日本と中国でそれぞれの道を歩む。時や場所を超えても変わらないものがある―。


 いやあ、すごい小説だった。胸やけするぐらいカロリーの高い小説だ。寝る前にちょっとずつ読んでたんだけど、後半は不眠症になるぐらい刺激的な小説だった。



【ネタバレあり】

 主人公は戦時中の満洲で出会った三人の少女。開拓民の子として親しく遊ぶ仲だったが、やがてばらばらに。横浜に戻った茉莉は空襲で親や親戚を失い、美子は在日朝鮮人として差別や貧困と闘いながら生きてゆく。満洲で終戦を迎えた珠子は日本を目指すが……。

 三人ともとんでもなく苦労をするのだが、中でも珠子のおかれた境遇はつらい。戦争が終わったとたん、それまで奴隷のように扱っていた中国人たちに襲われる。

 中国人は引き揚げていた。家々は焼かれ、めぼしいものは奪われていた。城壁内のあちこちに、日本人の死体があった。 
 珠子は初めて、殺された人の死体を見た。裸にされて、槍で突かれたのか血まみれになって、野菜畑で死んでいた。珠子たちを家に住まわせてくれていた呉服屋の主人だった。 
 呆然として珠子はその死体を見下ろしていた。こどもはそんなもんを見たらいかんと言う余裕のある人間はだれもいなかった。ひとりぼっちで立っている珠子を気にかける人間もいなかった。 
 珠子は昨夜から今までのことを思いだしていた。 
 なんでわたしらあは襲われたが? 
 なんでソ連軍やのうて、満人が襲うてくるが? 
 珠子は茉莉に見せてもらった絵本の絵を思いだした。遊んでいた日本人と朝鮮人と中国人。 
 なかよしやなかったが? 
 わたしらあ。 
 広い満洲では開拓団村の城壁の中で暮らし、昨夜は襲われて城壁の中から逃げだした。 
 なぜ城壁があったのか。なぜ外へ出てはいけなかったのか。 
 あれは、けものから身を守るためのものではなかった。 
 なぜ大人たちが鉄砲を持っていたのか。鉄条網を張りめぐらせ、見張りを立てていたのか。 
 珠子は気づいた。 
 ここは日本ではなかった。珠子たちは満洲の人たちから逃げていた。この土地にもともと住んでいた満洲の人たちから。
 翌日からは、絶え間ない略奪が始まった。ついてきた中国人たちは、日本人の列に入りこんでは、ポケットというポケットを漁り、金目のものがないか探す。一緒に歩きながら、まるで他の者に取られる前に取らなくてはと焦っているかのように、上着のみならず、男のズボン、女のもんぺ、こどもの服など、手当たり次第に剝ぎとっていく。 
 略奪に加わるのは男だけではなかった。女のみならず、珠子と同じ年頃の女の子や男の子まで、寄ってきては「拿出(出せ)」「脱下(脱げ)」と言って、抵抗できない日本人の大人たちの持ち物や着物を奪う。校長先生まで女の子にズボンを脱がされていた。中国人の警察隊も見て見ぬ振りだった。 
 日本人の女は髷の中や赤ん坊のおむつの中に宝石を隠しているという噂が中国人の間で流れているらしく、女は髷を切られて髪の中まで探された。おぶった赤ん坊は奪われ、おむつまで外されて丸裸にされた。女の服を脱がせて局所まで探す者もいた。


 歴史の教科書やドラマでは、終戦は「戦争が終わった! これからは戦争のない世の中が始まる!」といった明るい転機として描かれる。だがそれは日本本土の話であって(もちろんそっちも大変だったのだが)、満洲に残された日本人にとっては終戦は過酷な戦いのはじまりだったのだ。想像したことなかったなあ。

 財産をすべて奪われ、命も奪われ、命を守るために我が子を殺し、年老いた親を見殺しにし、それでも日本を目指してあてのない旅を続ける人々。


 ある年代の人々の中には中国人を蛇蝎のごとく嫌っている人がいたが、こういう経験をしたんなら一生憎むのもわからんでもないかなあ。もちろん、それ以前に日本人が中国人に手ひどい仕打ちをしてきたからこそ仕返しをされたのだけど。

 とはいえ軍人や官憲がおこなった悪行のしかえしを開拓民が被ったわけで、開拓民からすれば「一方的にやられた」と感じるだろうなあ。

「我々はただ開拓民として農業をして平和に暮らしていたし中国人とも仲良くやっていたのに、戦争に負けたとたん中国人たちがいきなり襲ってきた」という印象なのだろう。中国人にとっては、「先祖代々の土地を奪った憎い相手だが日本軍がいばっているのでおとなしく言うことを聞いていた。その軍隊が撤退したので、奪われたものを取り返した」って感覚なんだろうけどなあ。

 こうして憎しみは受け継がれてゆくんだなあ。




 さらに敵は中国人だけではない。

 夜が更けるにつれて、霜が降りてきた。女こどもを内側にし、みなで打ち重なるように円形に身を寄せ合って眠った。珠子は光子とともに母の胸にしがみついていた。夜更けにはソ連兵がやってきて銃先で上の人間をどかし、女性をみつけだすと銃を突きつけて連れていった。幸い、珠子のところにはやってこなかった。 
 遠くから途切れ途切れに聞こえてくる、夫や両親に助けを求めて泣き叫ぶ女の声を聞きながら、珠子は眠った。

 中国人に襲われ、ソ連兵にも襲われ、さらには日本人同士でも奪いあいがくりひろげられる。

『世界の果てのこどもたち』には、空襲で親を失った子どもから食べ物を奪って我が子に与える大人や、死者の所持品を奪う人々、敵に見つからないように子どもを殺させる大人(そしてそれに従って我が子を殺す親)、弱い者をだまして少しでも多くの食料を手に入れようとする人間などが描かれる。

 彼らは、決して生まれながらの極悪非道な人間ではないのだろう、きっと。彼らは彼らで生きるか死ぬかの状況にあり、生きるため、あるいは家族を生かすために他者を騙し、攻撃し、奪うのだ。

「苦しいときこそ助け合う」なんて真っ赤な嘘だ。他人に優しくできるのは、自らに余裕があるからだ。苦しいときこそ奪いあうのだ。




 珠子は中国人の襲撃から逃げ、ソ連兵から逃れ、その途中で妹や親しい人たちを失う。やっとのことでたどりついた収容所でも劣悪な環境によりばたばたと人が死に、さらに珠子は人さらいに捕まって売られてしまう。たまたま親切な中国人夫婦に買われて、中国人として育てられるのだが、今度は日本人であることが理由で辛酸をなめる。

 中国では大躍進政策、そして文化大革命の嵐が吹き荒れていたのだ。

 その後、部長と課長クラスの人間が一斉に批判の対象となった。批判集会の後は拘束され、工場長も部長も課長も、管理職にあった人間はすべていなくなった。 
 工場の生産は滞った。主任たちも、いつ自分たちが批判されるかわからず、怯えて、共産党員の工員たちの言うなりだった。自分が告発されたくないがために、家族であろうが同僚であろうが、なにもしていない人を先に告発することも、めずらしいことではなくなった。 
 ありとあらゆることが告発の種になった。おぼえていることもいないことも。かつてしたことをおぼえている人たちによって告発された。革命は総決算だった。したことがよいことかわるいことかではなかった。それをどう思っていた人がいたかだった。親が裕福だったこと、大学に行ったこと、有能で仕事ができたこと、そんなことが批判された。あることもないことも。もはや、それが真実かどうかさえ関係がなかった。それを人がどう思ったか。どう思って見ていたか。その思いが溢れだした。これまで口にできないでいた、その思いが。 
 だれもがだれもを疑い、これまでの人間同士の信頼や親しさというものが、すべて消えた。そもそもそんなものはありえない夢だったかのように。

 やっと手に入れた平穏の末、ついに日本に帰還を果たす珠子。だが幼少期から中国人として暮らしていたために、その頃には日本語どころか日本人として暮らしていた日々の記憶もほとんど失われていた……。

 なんとも壮絶な人生だ。もちろん珠子だけでなく、孤児となった茉莉や、在日朝鮮人として生きる美子もまたそれぞれ想像を超えるほど苦しい日々を送ることになる。

「戦争の悲劇」について語るとき、どうしても死者のつらさに重点が置かれるけど、ひょっとしたら生きのびた人のほうがずっと苦しい思いをしているかもしれない。「それでも生きていただけマシ」とはかんたんに言えないなあ。


 なんとも強烈な小説だが、あの時代を経験した人々からするとさほどめずらしくもない話なんだろう。一家全員無事でした、なんてケースのほうがめずらしいぐらいかもしれない。




 ぼくの祖父母は大正後半~昭和ヒトケタの生まれだった(昨年祖母が九十九歳で死に、全員鬼籍に入った)。戦争の記憶がある最後の世代だ。この世代は生きていても百歳ぐらいなので、もうほとんど残っていない。

 ぼくはとうとう祖父母から戦争体験談を聞かずじまいだった。祖父に関してはふたりとも出征していたそうだが。

 なぜ言わなかったのだろう、と彼らの心境を想像する。単純に「聞かれなかったから言わなかっただけ」の可能性もあるが、やはり言いたくなかったんじゃないだろうか。


 きっと、ぼくの祖父母も、生きるために他者から何かを奪ったんじゃないだろうか。金銭だったり、物資だったり、ひょっとすると生命を。きれいごとだけでは生きられなかった時代だ。もちろん奪われることもあっただろうが、奪うことも多かっただろう。

 きっと平和な時代にのほほんと生きる孫には言えなかったのだろう。どうせ「そうしないと生きていけない時代だったんだよ」と言っても、平和な時代しか知らない孫には伝わらない。だから戦争の思い出をまるごと封印したんじゃないだろうか。

 すべてはぼくの勝手な想像にすぎないけど。




 ものすごくパワフルな小説だった。三冊の重厚な小説を読んだぐらいの圧倒的なウェイト。

 まだ年のはじめだけど、たぶん今年トップクラスの本になるだろうな。


【関連記事】

生きる昭和史/ 小熊 英二 『生きて帰ってきた男』【読書感想】

昭和18年の地図帳ってこんなんでした



 その他の読書感想文はこちら