有名人が死ぬ。まあ有名人はよく死ぬ。毎日のように有名人は死んでいる。このままだと有名人は絶滅してしまうのではないかとおもうのだが、死ぬそばから新しい有名人が生まれていて、有名人の数はいっこうに減らない。種の繁栄とはこういうことか、とおもう。
それはそれとして、有名人が死ぬと訃報が流れる。なぜ訃報が流れるかというと、有名人だからだ。訃報が流れなければ有名人ではない。
訃報に対してコメントがつく。ネットニュースのコメント欄だったり、ツイッターのコメントや引用リツイートだったり。
「○○だった姿が印象に残っています。ご冥福をお祈りいたします」
「昔○○が大好きでした。ご冥福をお祈りいたします」
「いつも○○で、とても○○な方でした。ご冥福をお祈りいたします」
まあ祈るよね。ご冥福を。
もしくは合わせるよね。掌を。
あれ、嫌いなんだよね。嫌いっていうか、見るたびに「はしたない」と感じてしまう。
訃報を目にして何かしら言いたくなる気持ちはわかる。
ぼくも「大好きとまではいかないとまでもその人の活躍を見たことがあるし、それによって多少は心を動かされたことがある程度の有名人」の訃報を見たら、何か言いたくなる。
「好きだった」「もっと活躍してほしかった」「残念だ」「早すぎる死だこの人よりもとっとと死ぬべき人間がいるはずだろたとえば■■(自粛)とか」など。
でもさ、そこで反射的に「ご冥福をお祈りします」コメントをするのって、その胸の内を片付けてしまうわけじゃない。
えっ、あの人亡くなったの、まだ生きていてほしかったのに、って胸にわだかまりが生じるわけでしょ。「ご冥福をお祈りいたします」コメントをつける行為ってのは、そのわだかまりをさっさと「ご冥福お祈り済み」フォルダに移動してしまうような感じがする。
はいご冥福を祈ったよ、だからこの件はもうおしまい、はい次のネットニュース。
そういう「やっつけ感」がご冥福コメントからは漂ってくる。
ご冥福コメントってのはタスク処理だとおもっている。
もちろんそうやっていろんなことにケリをつけていくことは大事だ。お通夜も、お葬式も、四十九日も、一周忌も、三回忌も、タスク処理だ。それがあるから人は嫌なことを忘れて前に進める。
しかし、お葬式→お通夜→四十九日→……には段階があるのに対し、ご冥福コメントはワンステップだ。コメント欄にご冥福コメントをつけたらもうおしまい。なんなら「ごめいふ」ぐらいまで打ちこんだら予測変換候補に「ご冥福をお祈りいたします」が出てくるから、それを選んでおしまい。「ごめいふ」でもうタスク完了だ。
それはあまりにはしたないっていうか、故人に対して冷たくないか。
だからぼくは、まあまあ好きだった有名人の訃報を目にしても、ご冥福コメントはしないようにしている。あえて黙して心のもやもやに決着をつけない。ああ、あの人死んだのか。いろいろ言いたいことがある。
その状態で寝かせておく。そうするとちょっとずつ心の中で「ご冥福をお祈りしたい」気持ちが溶けてゆく。溶けたご冥福はきっとぼくのどこかに染みついている。
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