2023年1月16日月曜日

【読書感想文】本渡 章『大阪古地図パラダイス』 / 地図の説明は読むもんじゃない

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大阪古地図パラダイス

本渡 章

内容(e-honより)
古地図はなんだか面白い。現代の地図は便利で正確で、役に立つが、面白くはない。古地図は無くても困らない。でも、無いと淋しい。役に立たない、だけど心をゆたかにする。だから古地図はとても面白い。眺めて、迷って、想像して楽しい。古地図パラダイスへご案内。大阪はもちろん、京都・江戸の古地図もたっぷり収録!


 大阪の古地図(江戸時代~大正ぐらい)についての本。

 大学での講義を本にしたものらしく、うーん、とにかく読みづらい。地図を見ながらあれこれ解説を聞いたりするとわかるのかもしれないが、本を読みながら地図を見るのは不可能なんだよなあ……。

 そういや以前『ブラタモリ』の本を読んでみたことがあるのだが、あれもわかりづらかった。テレビで観るとあんなにわかりやすくておもしろいのに。

 本には小さい地図も載っているのだが、文章を読んで、地図で該当の場所を探して、また文章を読んで、また探して……とやっていると疲れてしまう。そうまでしても結局よくわからない。

「地図」と「本で解説」はとにかく相性が悪いことがわかった。




 地図そのものはよくわからなかったが、その制作背景の話はおもしろかった。

 交通機関や測量技術が未発達の時代に、日本全体を地図にするのは、難事業でした。地図はたいへん貴重なものでした。単に大事なものだったというのとは、ちょっと違う。宗教的な感情にも通じていると、さきほど述べましたが、かつての人々がどんなふうに、この日本図を見ていたかを想像させるエピソードがあります。
 この図は、鎌倉時代の原図を江戸時代に筆写したものですが、日本を囲むようにしてギザギザの模様が見えますね。シミだろうか、誰かお茶でもこぼしたんでしょうか。実はこれ、原図の紙がボロボロになった部分です。それを忠実に書き写している。いったい、そんなことをして何になるのか、まったくの無駄じゃないか。現代人はそう思うでしょう。
 しかし、この時代の人たちにとっては、元の地図のちぎれたり、破れたりしたところまで、そっくりそのまま書き写すのが大事。まったく同じであることに、深い意味がある。地図を新たにもう1枚、世に生み出すのは、秘儀に近い行為だったと考えると、ギザギザ模様の意味も腑に落ちます。
 今、日本地図は書店に手頃な値段のものが何種類も出ています。誰でも気軽に、手に入る。インターネットなら無料です。しかし、かつて地図を見るというのは限られた人々の限られた体験だった。地図を広げて日本という国の姿を見るのは、現代におきかえると、人工衛星から撮った地球の映像を初めて見たのと同じくらい、強烈なインパクトのある体験だったのではないか。そうでないと、わざわざ手間ひまかけてギザギザ模様まで筆写する気にはならない。私はそんなふうに想像します。

 ほとんどの現代人にとって地図は単なる〝ツール〟でしかない。目的地にたどりつくことが目的なので、その手段は紙の地図でもカーナビでもGoogleマップでもいい。より便利なものがあればそちらを使う。

 しかしこの「ボロボロになった部分まで忠実に描き写した地図」は単なるツールではない。持ち主にとっては、アルバムや日記のような、いろんな感情を想起させてくれるものだったのだろう。




 古地図にもいろいろあるが、ほとんどの場合は、縮尺や方角はかなりいいかげんだ。なので、古地図を見ても正確な地形情報は得られない。

 しかし正確でないからこそ伝わる情報もある。

 たとえばお寺が地図に描かれている。現代でも残っているお寺。大きさは今と同じだ。だが、古地図では今の地図よりもずっと大きくそのお寺が描かれている。そうすると、当時の人々にとってはそのお寺の存在が今よりずっと重要だったのだろうとわかる。


 日本史で地図と言えば伊能忠敬だ。

 伊能忠敬の地図を見ると、今から三百年前の測量機もGPSもなかった時代にこんなに正確な地図を作れたのかと驚かされる。

 だが、伊能忠敬の地図が実際に使われることはほとんどなかったそうだ。

 実地測量で日本地図を作ったのは、伊能忠敬が初めてです。
 というと、不思議に思われる読者がいるかもしれません。実地測量がはじめて、ということは、それまでの日本地図は実際に測量していなかったのか。
 実地測量が各地で行われるようになったのは、江戸時代の後半です。伊能忠敬の時代には、ほかにも優秀な測量家がいた。ただ、伊能忠敬は誰よりも綿密な測量を積み重ねた結果、日本全体の地図を作る偉業を達成した。それまでに流布していた日本地図は、測量が行われていても部分的な範囲に限られていた。それで、どうして日本列島の形がわかったのか。幕府が作った日本地図は、各藩に提出させた領国の地図を付け合わせ、編集したものです。民間で作られた日本地図は、作成者が集めた各地の地図をやはり編集してかたちを整えたものです。
 江戸時代に最も普及したとされる日本地図は水戸藩の儒学者、長久保赤水が作った「改正日本輿地路程全図」で、通称を赤水図といいます。安永8年(1779)発行。経度・緯度の線が引かれ、色分けされた諸国、町村や河川などの主な地名、さらに街道筋が描きこまれていた。実測なしで作られたため経緯線に誤差があったが、実用性には富んでおり、情報量も充分で、江戸時代を通して広く利用されました。
 対して、伊能忠敬の日本地図は、海岸線の測量を精密に行い、非常に正確な日本列島の形を描いた。反面、内陸部については簡略化し、一部を絵師に描かせた。赤水図と比べると、どちらがより優れているかは一概に言えない。一長一短があったわけです。
 しかし、江戸時代に用いられたのは圧倒的に赤水図の方でした。伊能忠敬が日本中を歩いて精魂込めて作った日本地図は、無事に幕府に納められたものの、実際に使用される機会はなかった。仕事ぶりは認められたはずなのに、こんなことになろうとは。

 伊能忠敬の地図は形状は正確だったが、人々の住んでいる町や村の情報は乏しかった。

 だから人々は正確な伊能忠敬の地図よりも、不正確だが身の周りの情報が豊富な長久保赤水の地図が選ばれた。

 おもしろい話。ビジネス書なんかに載ってそうな話だよね。「重要なのは品質ではなく、クライアントが求めている価値を提供できることです」なんつって。


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