2022年11月29日火曜日

【読書感想文】特掃隊長『特殊清掃 死体と向き合った男の20年の記録』 / 自宅で死にたくなくなる本

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特殊清掃

死体と向き合った男の20年の記録

特掃隊長

内容(e-honより)
人気ブログ『特殊清掃「戦う男たち」』から生まれた書籍が携書となって登場!「特殊清掃」とは、遺体痕処理から不用品撤去・遺品処理・ゴミ部屋清掃・消臭・消毒・害虫駆除まで行う作業のこと。通常の清掃業者では対応できない業務をメインに活動する著者が、孤立死や自殺が増え続けるこの時代にあって、その凄惨な現場の後始末をするなかで見た「死」と、その向こう側に見えてくる「生」のさまざまな形。


「特殊清掃」とは、主に孤独死した遺体が見つかった現場で清掃をする仕事のこと。その特殊清掃(特掃)に従事している著者のブログ記事をまとめたもの。

 ぼくが実際に見たことのある遺体は祖父母のものだけ。病院で息を引き取り、ちゃんと死化粧してもらっていたので、まるで人形のようなきれいな遺体だった。

 だが実際の死はそんなきれいなものばかりではない。孤独死して誰にも気づかれないと、遺体は腐る。聞くところによると、とんでもない悪臭が発生するという。おまけに遺体は腐敗し、虫が集まってくる。とんでもなく凄惨な現場になるだろうというのは想像がつく。

 ……とはおもっていたのだが、想像を超えてくる内容だった。

 腐呂の特掃には一定の手法がある。
 汗と涙と試行錯誤の末に導き出された、私なりのやり方があるのだ。だから、いまは、特掃をはじめたころの悪戦苦闘ぶりと比べればずいぶんとスマートにできるようになった。そうはいっても、その過酷さは特掃のなかでもハイレベル。
 手や腕はもちろん、身体はハンパじゃなく汚れるし、作業中に気持ちがくじけそうになることも何度となくある。そして、悪臭なんかは、身体のなかに染み込んでいるんじゃないかと思うくらいに付着する。心を苦悩まみれにし、身体を汚物まみれにしてこその汚腐呂特掃なのだ。

「ん? なんだ?」
 作業も終盤になり、浴槽内のドロドロもだいぶ少なくなってきたころ、底の方に銀色に光るものが見えてきた。
「は? 歯?」
 指で摘み上げてみると、それは白く細長い人間の歯だった。
 それには銀色の治療痕があり、故人が、間違いなく生きた人間であったことをリアルに伝えてきた。

「うあ! こんなにある」
 よく見ると、銀色の歯は浴槽の底に散在。手で探してみると、次から次へと出てきた。その数は、遺体の腐敗がかなり進んでいたことを物語っていた。

 おおお。

 浴槽の底に歯が溜まるということは、身体はどれだけ溶けているのか……。ほとんどゼリー状になっているということだろう。人体がゼリー状に溶けた風呂の水……。どれほどの悪臭を放つのか想像すらできない。

 家の中での死は風呂場での死が多いという。転倒事故や、血圧の変化によるショック死のせいで。ひとり暮らしで浴槽で死に、そのまま長期間気づかれないと、こんなことになってしまうのか……。風呂に入るのがおそろしくなるな。




 よく「自宅の布団の上で死にたい」という言葉を耳にする。

 しかし、特殊清掃の仕事について知れば、そうも言っていられなくなる。

「死ぬことは怖くないけれど、長患いして苦しむのはイヤだね」
「そうですね……」
 望み通り、長思いもせず住み慣れた我が家でポックリ逝くことは、本人にとってはいいかもしれない。しかし、場合によっては残された人が長患いしてしまう可能性がある。
「〝部屋でポックリ死にたい〟なんて、気持ちはわかるけどお勧めはできないよなぁ……」
 内心、私はそう思った。

 男性の頭には、死んだ人の身体がどうなっていくかなんて、まったくないみたいだった。そして、男性同様、一般の人も、自分が死んだ後に残る身体については、あまり深くは考えないのかもしれない。せいぜい、〝最期はなにを着せてもらおうかな?〟などと考えるくらい。あとは、〝遺骨はどうしようか〟などと思うくらいか。やはり、自分の身体が腐っていく状況を想定している人は少ないだろう。だから、自宅でポックリ逝くことを安易に(?)望むのかもしれない。その志向自体が悪いわけではないが、残念ながら、現実はそう簡単でなかったりするのだ。

 家族と同居していて、死んでもすぐに発見してもらえるのであれば、自宅で死ぬのあ幸せかもしれない。しかし、孤独死して、誰にも気づかれず、腐り、ウジが湧き、悪臭を放つことを考えれば、とても自宅での死がいいとは言えない。いくら死んだら意識はないとはいえ、やっぱり死んだ後に己の身体が腐るのは嫌だ。掃除をする人にも申し訳ないし。




 ぼくはわりと死に対してはドライなところがあって、死ぬこと自体はそんなに怖くない。特に子どもが生まれてからは「もう生物としての役目は果たしたのでいつ死んでもあきらめはつくかな」という心境になった。生命保険にも入ってるし。

 仮に余命一ヶ月を宣告されても、それなりに落ち着いて死ねるんじゃないか、とおもっている。まあ実際そうなったらめちゃくちゃうろたえるのかもしれないけど。

 その代わり、子どもの死が怖くなった。考えたくないけど、ついつい考えてしまう。特に娘が赤ちゃんの頃は毎日びくびくしていた。落っことしただけで死んでしまいそうな、あまりにかよわい生き物と暮らすのはなかなかおそろしい。自分の余命一ヶ月は「そんなものか」と受け入れられるかもしれないが、子どもの余命一ヶ月はとても平静ではいられないだろう。

 自分の子だけでなく、よその子、さらには見ず知らずの子ですら死はつらい。子どもが自己や事件で死ぬニュースを見ると、気持ちが落ち着かない。たぶんぼくだけではないのだろう、特に子どもの死に関するニュースは人々の反応も過剰になっている。


 何か特別なことがない限り、納棺式には遺族が立ち会うことがほとんど。なのに、この男児の家族は誰も来なかった。
 それでも私は「冷たい家族だ」なんて思わなかった。
 亡くなった子どもに対して愛情がないから来ないのではないことを、痛いほど感じたからだ。
 遺体のかたわらに置かれた山ほどのオモチャやお菓子が、両親の想いを代弁しているようでもあった。

 具体的な事情を知る由もない私は、黙々と仕事をするしかなかった。
 両親がこの場に来ることができない理由を考えると切なかった。

 両親は、我が子の死が受け入れ難く、とても遺体を見ることができなかったのかも……。
 温かみをもって動いていた息子が、死を境に冷たく硬直していったことを、頭が理解しても心が理解しなかったのかも……。
 我が子を手厚く葬ってやりたい気持ちと、その死を認めざるを得ない恐怖とを戦わせていたのかもしれなかった。
 他人の私には、胸を引き裂かれたに値する両親の喪失感を計り知ることはできなかったが、単なる同情を越えた胸の痛みを覚えた。

「他人の不幸を蜜の味とし、他人の幸せを妬ましく思う」
 私という汚物は、そんな心の影を持っている。
「他人の不幸を真に気の毒に思わず、他人の幸せを真に喜ばず」
 それが、私の本性なのだ。

 しかし、他人の喜びを自分の喜びとし、他人の悲しみを自分の悲しみとするような人間に憧れもある。ほんの少しでいい、死ぬまでにはそんな人間になってみたいと思う。

 もし自分だったら。冷たくなった我が子に向き合えるだろうか。遺体を目の前にして死を受けいれられるだろうか。

 自分の死は「受けいれられるだろうな」とおもうぼくでも、イエスと答える自信はない。




 清掃作業についてそこまで克明に描写しているわけではないが、とんでもなくハードな仕事だということは容易に想像がつく。給料がいくらかは知らないが「いくらもらってもやりたくない」という人が大多数だろう。

 そんな中、著者はさすがプロだけあって、できるだけ感情を抑えながら特殊清掃という仕事に取り組んでいる様子がこの本からうかがえる。

 そんな著者が、めずらしく取り乱した状況。

 何枚かあった写真を一枚一枚顔に近づけて、何度も何度も見直した。
なんと、写真に写っていた人物は、私が見知った人だった!

 いきなり、心臓がバクバクしはじめて、「まさか! 人違いだろ!?」「人違いであってくれ!」と思いながら夢中で名前を確認できるものを探した。
 氏名はすぐに判明し、力が抜けた。残念ながら、やはり故人はその人だった。
 心臓の鼓動は不規則になり、呼吸するのも苦しく感じるくらいに気が動転した!

 故人とは、二人で遊ぶほどの親しい間柄ではなかったが、あることを通じて知り合い、複数の人を交えて何度か飲食したり話をする機会があった。見積り時は、縁が切れてからすでに何年も経っていたが、関わりがあった当時のことが昨日のことにように甦ってきた。

 彼は当時、かなり羽振りがよさそうにしていて、高級外車に乗っていた。
 高級住宅街に住んでいることも自慢していた。
 自慢話が多い人で、自分の能力にも生き様にも自信満々。
 かなりの年齢差があったので軽く扱われるのは仕方がなかったけれど、正直言うとあま好きなタイプの人物ではなかった。
 しかし、「(経済的・社会的に)自分もいつかはこういう風になりたいもんだなぁ」と羨ましくも思っていた。

 その人が、首を吊って自殺した。  そして、目の前にはその人の腐乱痕が広がり、ウジは這い回りハエは飛び交っている。
 自分がいままで持っていた価値観の一つが崩れた瞬間でもあった。
 しかも、よりによってその後始末に自分が来ているなんて……。気分的にはとっとと逃げ出して、この現実を忘れたかった。
 身体に力が入らないまま、とりあえず見積り作業を済ませて、そそくさと現場を離れた。
 そのときの私は、「この仕事は、やりたくない……」と思っていた。

 数々の凄惨な遺体を見てきたプロでも、やはり生前の姿を知っている人の遺体はまた別のようだ。好きじゃない人であっても。

 聞くところによれば、外科医は決して自分の身内の手術は担当しないという。百戦錬磨の名医でも、身内に対しては冷静でいられないそうだ。


 遺体ってなんだろうね。

 心は脳にあって、身体は代えの利く物体。理屈としてはそうでも、やはり人間は知人の身体を「物体」とはおもえないらしい。たとえとっくに死んでいても。

 ニュースで、戦死した人、震災で行方不明になった人、拉致被害者などの「遺骨を見つけて遺族が喜ぶ」という報道を見る。もちろん生きているほうがいいから喜ぶというのは適切な表現ではないかもしれないけど、残された身内の心境としては「生きている > 死んでいて遺骨が見つかる > 死んでいて遺骨も見つからない」なのだろう。

 ここでも、遺体はただの物体ではない。


 星新一の短篇に『死体ばんざい』という作品がある。それぞれの事情で死体を欲する人たちが、一体の死体の争奪戦をくりひろげるというブラックユーモアに満ちた小説だ。あの小説を読んで楽しめるのは、それが「誰なのかわからない」死体だからだ(最後には明らかになるが)。キャラクターのある死体であれば、嫌悪感のほうが強くてとても楽しめないだろう。

 人間にとって「知っている人の死体」と「知らない人の死体」はまったく別物のようだ。


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