白昼の死角
高木 彬光
舞台は戦後すぐ。
東大生の鶴岡七郎が悪の天才・隅田光一と出会い、金融会社「太陽クラブ」を結社して徐々に悪の道の魅力をおぼえはじめる。
隅田光一の失敗そして自殺により太陽クラブは解散するが、詐欺の経験と自信を手に入れた鶴岡七郎はさらなる綿密な詐欺計画を次々に実行する……。
前半は実際にあった光クラブ事件(Wikipedia)を下敷きにしている(というかほとんどそのまんま)が、隅田光一の死後に鶴岡七郎が潜在的に持っていた悪の才能を徐々に開花させてゆくのがこの小説の見どころ。
鶴岡七郎は天才・隅田光一よりもずっと人間的な深みがある(このキャラクターにも実在のモデルがいるらしい)。
「生まれもっての悪人+天才」というキャラクターは魅力的だ。
フィクションの世界にはたくさんいる。
『羊たちの沈黙』のレクター博士とか『模倣犯』のピースとか『悪の教典』の蓮実聖司とか。
どれも魅力的だが、どうも現実味がない。
「悪の大魔王」みたいなもので「こんな人が近くにいたらどうしよう」という気にはならない。だってもしいたらどうしようもないもの。ただただ逃げるしかない。
まして「自分がこうなったら」とはおもえない。自分が悪の大魔王になることを想像するのはむずかしい。
ところが『白昼の死角』の鶴岡七郎は根っからの悪ではない。
より大きな悪に触れて悪の道に引きずり込まれた、自分は周囲より頭がいいとおもっている、だが上には上がいるともおもっている、欲望を満たすためなら悪事をはたらくこともあるがその場合でも「だまされるほうが悪い」という自己正当化をおこなう。
隅田光一のほうは生まれついての悪だが、鶴岡七郎は後天的な悪。前者は悪の天才で、後者は悪の努力家。
「自分も環境によってはこうなるかも」と思わされるぐらいの悪人なのだ。
ぼくだって出会う人によっては鶴岡七郎のような生き方をしていたかもしれない。
「約束の期日までに金が用意できず、すぐに百万円を用意しなければ詐欺罪で捕まってしまう」
という状況での鶴岡七郎の言葉。
詐欺で捕まらないために詐欺をする……。
なるほど、どうせ捕まるなら少しでも助かる目があるほうに賭けたほうがいい。
最後まであきらめない。まるで高校球児のようなひたむきな姿勢だ。すばらしい!
「このままだと捕まる」という局面で、「逃れるためにさらに罪を重ねる」という選択をできるかどうかが、大悪党と小悪党を分ける境目なんだろうな。
そしてたぶんどうせやるなら大胆に行動したほうが成功する。
……だけどふつうはそれができないんだよな。
どうしても守りに入ってしまう。
やはりぼくは大悪党にはなれなさそうだ。
鶴岡七郎は詐欺行為を重ねて財産を手に入れるが、彼のような知能、演技力、大胆さと緻密さ、そして人間的魅力があれば、まっとうに働いてもきっと成功していただろう。
もしかしたらそっちのほうが稼げていたかもしれない。
それだったらもちろん警察に追われることもないし。
でも彼は詐欺をやる。
それは金儲けや名声のためではない。
詐欺をしたいから詐欺をするのだ。
好きこそものの上手なれというけれど、詐欺師でもヤクザでもマフィアでも、成功するのはその道が好きな人、その道でしか生きられないような人なんだろうな。
「楽して金を儲けたい」みたいな動機ならまっとうに働いたほうがずっと楽なんだろうとおもうよ、ほんと。
ところでこの小説、中盤まではおもしろかったんだけど、後半は退屈だったなあ。
はじめのうちこそ死角を突くような大胆な手口で詐欺を実行するのだが、中盤からはぜんぜんスマートじゃない。
「酒に酔わせて都合のいい約束をさせる」とか。
なんじゃそりゃ。どこが「白昼の死角」なんだよ。おもいっきり力技じゃねえか。
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