2018年3月8日木曜日

【読書感想】桂 米朝『上方落語 桂米朝コレクション〈四〉 商売繁盛』

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『上方落語 桂米朝コレクション〈四〉
商売繁盛』

桂 米朝

内容(e-honより)
人間国宝・桂米朝演じる上方落語の世界。第四巻は「商売繁盛」。商売の都にふさわしい商人の心意気や、珍商売の数々。落語を通じて上方の経営哲学を知り、ビジネスを学ぼう?という一冊。

桂米朝氏の落語書き起こし&解説シリーズ、第四巻。
「商売繁盛」にちなんだ噺を収録。

大阪は商売の町と言われるぐらいなので、商売の噺も多く、活気のある噺が多い。落語に出てくる商売はまともじゃない商売が多いけど……。


帯久


呉服屋を営む、与兵衛と久兵衛。与兵衛は誰からも評判がよく、店も繁盛している。久兵衛の店は閑古鳥が鳴いている状態。与兵衛はたびたび久兵衛に親切にしてやるが、不運が続き財産を失ってしまう。没落した与兵衛が久兵衛に金を借りにいくが、久兵衛は昔の恩も忘れて与兵衛を追いかえす。与兵衛は悔しさのあまり久兵衛の店に火をつけようとしたところを捕らえられ、奉行所へと引っ張られていく……。

落語には名奉行が出てくる噺がいくつかある。『鹿政談』『三方一両損』など。
『帯久』もそのひとつだが、はたしてこれを名奉行といってよいのだろうか……。たしかに久兵衛はひどいやつだし、悪いことをしているから報いを受けるのも当然だといえる。
とはいえ与兵衛が火つけをしたことは事実だし、久兵衛の評判が悪いというだけで証拠もないのにこらしめられるのも腑に落ちない。実際、盗みをはたらいたんだけど。

法治国家に住む現代人からすると「いくら悪人だからって奉行所がこんな横暴な裁きかたをしてもいいのかな」と思ってしまう。天罰が当たる、とかだったら納得いくんだけど。
どうももやもやが残る噺だ。


つぼ算


間抜けな男と買い物上手な男が、水がめを買いにいく。三円で壺を買った後、やはり大きいほうの壺(六円)に換えてもらいたいと申しでる。
瀬戸物屋に「さっき渡した三円と、この三円の壺、あわせて六円払った」という男。瀬戸物屋は何度もそろばんをはじくがどうしても計算が合わない……。

有名な噺だね。小学生のときに読んだ「日本のわらい話」みたいな本にも載っていた。
前半のテンポはいいが、瀬戸物屋が納得できずに混乱するくだりは少しくどい。とはいえこのトリックを知っているからくどいと思うけど、はじめて聴いたら何度もくりかえさないと理解できないかもしれない。
値切りかたはいかにも大阪っぽい。今でもこういう値切り方するおっちゃんおばちゃん、いるもんなあ……。



道具屋


今でいうニートの甥っ子を見かねた伯父さんが、道具屋をやってみろと持ちかける。
基本的なことを教わりやってみるが、失敗続きで客に逃げられてばかり……。

シンプルな設定、次々に放りこまれるギャグ、世間知らずな主人公と、実にわかりやすい噺。
とはいえ後半の失敗のための伏線をきちんと前半に貼っているあたり、なかなか練りこまれた落語だ。

この「道具屋」というのは店舗を構えたものではなく、夜店で古物を売っていた商売らしい。今のフリーマーケットみたいな感じだね。


 はてなの茶碗


油売りが茶店で休んでいると、京都でも有名な道具屋がしげしげと茶碗を眺めている。これはさぞかし値打ちのあるものだろうと思い、全財産をはたいて茶碗を購入した油屋。道具屋に見てもらうと、ひびもないのに水が漏れるだけで何の値打ちもない茶碗だとわかる。ところがその話が公家や帝の耳にも入り、ただの茶碗に千両の値がつく……。という噺。

関白、さらに時の帝まで出てくるスケールの大きさ、それでいて実際にあった話であるかのようなリアリティ。威勢がよくて真っ正直な油屋や風格のある茶金さん(道具屋)といった秀逸なキャラクター。そして上質なサゲ。
どこをとっても一級品で、上方落語を代表するほどの名作として知られている。
ほんとよくできた噺で、「こうしたらいいのに」と思うところがまったくない。

ふつう、落語は登場人物になりきって台詞を言うが、『はてなの茶碗』においては公家や帝の台詞は地の文(演者による説明文)と地続きであるかのような語られ方をする。落語家が真似をするのはおそれおおい、ということなんだろうね。


米揚げ笊(いかき)


笊(いかき)とは、関西弁でザルのこと………なんだそうだ。ぼくは三十年関西に住んでいるが一度も耳にしたことがない。完全に死語だね。

はじめて笊売りをすることになった男が、堂島(米相場が盛んだった場所)にやってくる。縁起を気にする相場師が「米を揚げる、米揚げ笊」の呼び声を聞き、「"あげる"とは縁起がいい」と笊売りをひいきにする……。

なにからなにまで現代ではわかりにくい噺だ。
まず米相場がわからない。米の先物取引のことらしい。米の先物取引とは……と書いていくとそれだけで長い記事になってしまうのでやめておく。ぼくは堂島で勤務していたこともあるのであのあたりは毎日歩いていたが、米相場があったことなどまったく知らなかった。そういや今でも証券会社が多いなあ。


高津の富


後に東京に渡り、東京では『宿屋の富』の題でかけられる噺。

宿屋に、自称大金持ちの男がやってくる。宿屋の主人は男の話を真に受けるが、正体は宿屋の代金を踏み倒してやろうと企んでいる文無し。男は宿屋の主人に頼まれて富くじ(今の宝くじのようなもの)を一枚買う。そのくじが見事一番富の千両に当選して、男と宿屋の主人が大慌てする……。

ばかばかしい話で、筋自体はわかりやすいのだが、どうもしっくりこない。というのは、さあこれからというところで話が終わっているから。千両に当選した後、男は口約束どおりに宿屋の主人に半分をあげるのか、大金持ちのふりをしていたことについては嘘だったと認めるのか、など「その後」が気になって仕方がない。
ずいぶん投げやりな終わり方で、感心しない。


商売根問(ねどい)


特にストーリーはない。
二人の男が会話をするだけ。金儲けをしようとあれこれやってみたけど失敗した、という話を手を変え品を変え語るだけ。
落語でありながらかけあい漫才のようだ。

「根問」とは「根掘り葉掘り問う」という意味で、『歌根問』『色事根問』などいくつかのシリーズがあるらしい。……が、ぼくは寄席などで根問物を聴いたことがない。めぐりあわせが悪かっただけなのか、そもそもあまり高座にかからない噺なのか。

どうも後者ではないかとぼくは思っている。
前座噺(経験の浅い落語家が披露する噺)らしいのだが、場面転換もないし動きも少ないので、これをうまくない人がやったら退屈きわまりない出来になるだろう。かといって師匠クラスがやるほどの風格や人間味を要する噺でもないし……。
ということでこれを単独ではやらず、ここから『鷺とり』や『天狗さし』といった他の噺につなげることも多いんだとか。


しまつの極意


しまつ(始末)とは関西弁で「ケチ、倹約」のこと。年寄りが言っているのを聞いたことがあるから、まだぎりぎり生き残っている言葉かな?

『商売根問』と同様にこれといったストーリーらしきものはなく、二人の会話だけで成り立っている噺。
小話をつなぎあわせたような噺だが、それぞれのレベルは高い。海外のジョークにもケチを扱ったものが多いし、ケチというのは古今東西笑いのタネになる存在だね。

もうこれぐらいになると、普通の人と考えることが違いますな。眼が二つあるのはもったいないちゅうて、こんなもん一つでええんや言うて、片一方なおしてしまいよった。長年のあいだ片目で生活をして、晩年この眼を患いました。わしにはこういうときにちゃんとスペアの眼がとってある、ちゅうわけで、こっち側はずしてみたら、世間みな知らん人ばっかりやったちゅうんですが……。まあ不思議な話があるもんで。

「なおしてしまいよった」は「片付けてしまった」の意味ね。落語にはよくこういうナンセンスな発想が出てくるのがおもしろい。いやでも昔の人は脳で記憶していることを知らずに、もしかしたらこれを本気で信じていたかも……。



牛の丸薬


大和炬燵(土でつくったコタツ)が壊れてしまったので、その土で丸薬をつくり、農村に持っていくふたりの男。こっそり牛の鼻に胡椒をふきかけ、うまく騙して牛の病気を治す薬として丸薬を高値で売りつける……という噺。

はやくいえば詐欺師の話で、田舎に行って善人から金を騙しとる展開なので、やりかたによっては嫌な気になりそうなものだけど、手口が巧妙でなかなか楽しい噺にしあがっている。
小説や映画にも「コンゲーム」という騙しあいのジャンルがあっていつの時代も変わらぬ人気を果たしている。人間には「人を騙したい」という根源的な欲求があるのかもしれない。

これ、実際に聴くと立て板に水でべらべらっとまくしたてるところが圧巻で、これだったらほんとに騙されるかもしれないという気にすらなる。


住吉駕籠


住吉街道で商売をする駕籠屋が、たちの悪い町人、武士、酔っ払い、相場師などに翻弄されるという噺。
長めの噺だが、登場人物がめまぐるしく変わるので退屈しない。

特に終盤の、「相場師が駕籠にこっそり二人乗りして、駕籠の底が抜けたがそのまま走る」というところは視覚的なおもしろさがある。視覚的といっても落語だから実際には見えないんだけど、自然に展開するので情景が目に浮かぶね。


厄払い


ある男が金を稼ぐために厄払いをやることになるが、金をもらうときのことばかり考えていて、肝心の厄払いがうまくできない。商家を訪問するがうまく言えず、とうとう最後まで番頭さんに教えてもらいながら厄払いの向上を並べることになる……。

今でも厄年に厄払いをする人はいるけど(ぼくはしたことないが)、この「厄払い」はそれとは違う。
米朝さんの説明にはこうある。

 正月と、この年越しというものとが昔の暦なら大体一致をいたします。今は節分というと二月で、で、年を越すのは十二月の三十一日でっさかい、それは一致しまへんけど、前方はだいたいこの立春というものと、新年とが、ほぼ一致をいたしましたんで、ほんであの年越しという。その晩には厄払いというものがこう、やっぱり町を流してまいりまして。昭和のごく初年ぐらいまではまだあったんやそうですが、わたしらは存じません。豆とお金とを包んだものをもらいましてね、ずーっと町を流して歩いてた。まあその時分のお話で。

うん、よくわかんない。
米朝さんですら「わたしらは存じません」と言ってるぐらいだから、今この厄払いをやっている人はほとんどいないだろう。
とにかく「一年の終わりに厄払いと称して向上を並びたてることでお金がもらえてた」ということらしい。
それも神主さんとかお坊さんとかでなく素人がやっていたのだとか。いいかげんだねえ。

まあ無宗教の人間からすると、神主がごちゃごちゃ言ったからって何がどうなるんだって気もするんで「どうせ迷信なら誰がやったって一緒でしょ」というこのやり方のほうがしっくりくるかも。


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