2017年10月5日木曜日

【作家について語るんだぜ】土屋賢二

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土屋 賢二

Wikipediaによると、土屋賢二は
日本の哲学者、エッセイスト。お茶の水女子大学名誉教授。専攻はギリシア哲学、分析哲学。
とある。

なかなか日本人で「哲学者」って呼ばれる人はいないよね。ぼくがぱっと思いつくのは三木清と西田幾多郎ぐらい。

話はそれるけど西田幾多郎の『善の研究』は昭和初期にベストセラーになったんだとか。哲学書がいちばん売れてたってすごい時代だなあ。とはいえべつに今の人がバカになったわけじゃなくて、昔は一部の教養人しか本を読まなかったし、お堅い本しか出版されてなかったってことなんでしょう。


ぼくが「おもしろい」と思うエッセイを書く人って、
  • 東海林さだお(漫画家)
  • 穂村弘(歌人)
  • 鹿島茂(フランス文学者)
  • 内田樹(フランス文学者)
あたりで、小説家でおもしろいエッセイを書く人ってほとんどいない。
小説を書く能力とエッセイの才能ってちがうんだろうなあ。
学生時代は、遠藤周作とか北杜夫とか原田宗典とかのエッセイをよく読んでたけど。


土屋賢二も「本業は物書きじゃないのに、物書きよりおもしろい文章を書く人」のひとり。
はじめて土屋賢二のエッセイを読んだときは衝撃的だった。
なんて知的なユーモアに満ちた文章を書く人だろう、と。
わたしの職業はダンス教師で、タレントの女の子たちにダンスを教えている、と言うと、たいていの男性に羨ましがられる。しかし実態は、そんなに羨ましがられるようなものではない。第一に、銀行員と同じで、価値のあるものを扱っているからといってそれを手に入れたり、自由にすることができるわけではない。第二に、価値あるものを扱っているのかどうかかなり疑問がある。第三に、わたしの職業はダンス教師ではない。

基本的におもしろいエッセイって「めずらしい体験」「ひどい失敗談」「独自性のある考察」なんかがあって、それをユーモアで肉付けすることによって生みだされる。
ところが土屋賢二の文章は、上に引用したものを読めばわかるように、そういったものが何もない。というか中身がまったくない。上の文章は、長々と書いているわりに情報量はほぼゼロだ(「わたしの職業はダンス教師ではない」という情報しかない)。

天ぷらを食べてみたら衣しかなかった、でもその衣がめちゃくちゃおいしかった、みたいな文章。
拍子抜けするんだけど、でもなんだかやめられない魅力がある。



さっき「やめられない魅力がある」と書いたそばから矛盾するけど、ぼくは最近読んでない。

だって飽きちゃうんだもん。
どの文章もはずれがなくて楽しめるんだけど、基本的に内容の少ない話なので、どうしても似てきてしまう。単行本を一冊読むと、途中から胸やけがしてくる。どんなにおいしくても、やっぱり衣は衣。形のあるものが食べたくなる。


中島義道という人(これまた哲学者)が、とある本で「土屋賢二の文章は誰も傷つけないように配慮しているので大嫌いだ」ってなことを書いていた。
「誰も傷つけないから嫌い」って言われたらもうみんな嫌われるしかないじゃんって思うんだけど(中島義道はそういう世界を望んでいるみたいだけど)、まあ毒にも薬にもならぬという指摘はそのとおりだと思う。

土屋賢二は週刊文春に連載している。週刊文春を買ったことはないけど、銀行や病院の待合室なんかに週刊文春が置いてあったりするので、たまに手に取って土屋賢二のエッセイを読む。
期待にたがわずおもしろい。
ああおもしろかった、と思う。
自分の名前が呼ばれて、医者に診察してもらい、処方箋をもらい、薬局に行って薬を受け取る。そのころには、さっき読んだ土屋賢二のことは頭の片隅にもない。ふとしたときに思い出すようなこともない。

このありようこそ、週刊誌のエッセイとして100点だと思う。


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