2023年2月14日火曜日

【読書感想文】岡崎 武志『読書の腕前』 / 精神がおじいちゃん

読書の腕前

岡崎 武志

内容(e-honより)
寝床で読む、喫茶店で読む、電車で読む、バスで読む、トイレで読む、風呂で読む、目が覚めている間ずっと読む…。ベストセラーの読み方から、「ツン読」の効用、古本屋との付き合い方まで。“空気のように本を吸う男”が書いた体験的読書論。

 書評家による読書エッセイ。

「本好きによる本好きのための読書エッセイ」ってのはエッセイの定番ジャンルで、いろんな人が書いている。正直どれも似たりよったりの内容だが(この本もそう)本を書く人や読む人は当然読書好きが多いので、それなりに共感を得られてそれなりにおもしろがってもらえるのだろう。




 読書の効用はいろいろ挙げられるが、結局のところ「読みたい欲を満たしてくれる」ことに尽きる。あとはすべて副産物だ。おもしろいこともあるし、つまらないこともある。勉強になることもあるし、ならないこともある。人生を豊かにしてくれることもあるし、してくれないこともある。

 本にそれ以上のものを求めるのは、決まって本好きでない人たちだ。

 しかし世の中には、お金と時間を費やすんだったら、その分だけの見返りがないと事をはじめる気にならない、という人も多いだろう。たとえば、英会話教室へ通うなら、時候のあいさつや店員とのやりとりを英語でできるようになるとか、スポーツジムに通うなら、筋肉がついたりダイエットにもなる、といった具合である。そのような目に見えるメリットは期待できない。じつは、そこにこそ読書のおもしろさがあるのだが、そのことがわかるまでには、かなりの数の本を読む必要がある。

 そうなのよね。「読みたい欲を満たしてくれる」以上の価値は期待できない。何が得られるかは読んでみるまでわからない。それこそが本のおもしろいところなのに、あまり本を読まない人は本に実利を求める。


 また永江は、「すでに知られている本ほど売れやすい」というベストセラーの法則を提示する。芸能人をはじめとする有名人が書いた本、テレビ関連の本はその顕著な例。「無名作家のすぐれた小説よりも有名作家の駄作のほうがたくさん売れる」のも同様で、「クズ本をつかまされて、カネと時間を無駄にする可能性もある。だったら名前を知っている作家の新作を選ぼうと考える。消費者はリスクを回避する」というのだ。
 二〇〇四年は七年連続して書籍の売上げが前年割れした年だった。二〇〇五年に少し上向きになるのは、先に挙げたメガヒットや「ハリー・ポッター」シリーズ(静山社)の新作邦訳が出たためだ(が、その後は二〇一三年まで順調に下がり続けている)。人々は本に割くお金を年々削るようになっている。趣味や娯楽、食事、あるいは携帯電話の使用料など、使うべき場所はほかにいっぱいある。本は、ごくたまに買うもの、失敗するのはイヤ。永江の表現で言えば、「消費者はリスクを回避する」。結果、「すでに知られている本」を買うわけだ。
 しかし、それは本を買うというより、「話題」を買うというほうが近い。ベストセラーはもともとそういうものだ、と言えばそれまでだが、『バカの壁』など最盛期は一日に二回増刷していたなどという話も聞く。売れ方も部数もいささか異常で、ちょっと無気味な気さえする。それを指して「底が抜けた」と言ったわけだ。

「みんなが読んでいる本ばかりが売れる」のも同じ現象だ。要するに、失敗を避けたいのだ。

 年間何百冊も読む人は、一冊や二冊の失敗なんて屁でもない。たくさん読めばたくさんハズレを引くことを知っている。でも、年に数冊しか読まない人は失敗をしたくない。

 毎日行く食堂で変わったメニューがあれば、興味本位で頼んでみるかもしれない。まずくてもいいや、と。でも自分の結婚式の料理は間違いのないものを選びたい。一生に一度だから。そんな感覚だ。

 ま、これは読書に限らず、どんな分野でもあることだけどね。

 ぼくも、読書に関しては「十冊やニ十冊のハズレがなんぼのもんじゃい」という感覚だが、旅行に行くのは年に一回ぐらいだから入念に下調べをして、口コミなんかも参考にして、多くの人がそこそこ高評価なものを選ぶ。「行ってみてダメだったらそのときだ」とはおもえない。




 前半はそこそこ読めたが、中盤からは自慢話が多くてうんざりした。99%の自慢話がそうであるように、当然ながらまったくおもしろくない。

 新聞社から児童書の書評を頼まれたので、「小学生の娘が書いた」という形をとってわざと拙い文章で書評を書いた、という昔の話を書いた後で。

  悪ふざけギリギリで、ひょっとしたら担当者からクレームがつくかとも思ったが、無事、そのまま掲載された。これはおもしろがってくれた人が多く、「手帳に貼って、何度も読みかえし、そのたびに笑っております」と、わざわざ手紙をくれた友人もいた。してやったり、という感じだ。

 こんな話が続く。

 ああ嫌だ嫌だ、なんで年寄りの自慢話をわざわざ読まなくちゃいけないんだよ。

 とおもっていたら、あとがきで著者がこの本を書いたのは四十代だったと知って驚く。

 おじいちゃんだとおもってたよ。精神が完全に年寄り。昔とった杵柄の自慢と、回顧録がひたすら続くんだもん。誰からも褒めてもらえなくなったおじいちゃんが過去の栄光(と自分ではおもっているもの)を自画自賛してるのかとおもったわ。

 こういう四十代にはならないようにしないとなあ。いい反面教師になりました。


【関連記事】

【読書感想エッセイ】 井上ひさし 『本の運命』

【読書感想文】本を双眼鏡で探す家 / 磯田 和一『書斎曼荼羅 1 本と闘う人々』



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2023年2月10日金曜日

【読書感想文】『ズッコケ三人組の地底王国』『ズッコケ魔の異郷伝説』『ズッコケ怪奇館 幽霊の正体』

   中年にとってはなつかしいズッコケ三人組シリーズを今さら読んだ感想を書くシリーズ第十六弾。

 今回は46・47・48作目の感想。いよいよ次がラスト。

 すべて大人になってはじめて読む作品。


『ズッコケ三人組の地底王国』(2002年)

 遠足で近所の山に登った際に迷子になってしまった三人。謎のストーンサークルに足を踏み入れたところ、なんと身体が小さくなってしまった。さらに地底にある小人族の国に連れていかれ、悪竜を退治してくれる伝説の勇者として扱われ……。


 ここにきて突然の正統派ファンタジー冒険もの。そういやこれが46作目だけど、ファンタジーはひさしぶり。初期は『時間漂流記』『宇宙大旅行』『驚異のズッコケ大時震』などSF作品もあったけど、中盤以降はほぼなくなった。『海底大陸の秘密』ぐらいか。

 突然伝説の勇者として悪竜退治を命じられる、強大な敵を知恵と勇気でやっつける、お姫様から感謝される……と、昔のRPGゲームやドラえもん大長編のようなシンプルなストーリー。ベタではあるが、それでもけっこうおもしろい。やはり王道は強い。

 ただ、ゲームならいいんだけど、小説としてはやっぱりストーリーの粗さが目立つ。

 最初から伝説の勇者として扱われる(なぜか三人の名前まで昔から小人の国に言い伝えられている。最後までその謎が明かされることはない)、警察官が迷子の捜索に拳銃を持ってくる、さらには警官が拳銃を放置する、小人になっているのに拳銃を撃っても無事(反動えげつないだろ)など、あまりにも都合が良すぎる。拳銃を使わずに知恵と勇気で解決してほしかった。せめて言い伝えの謎は解き明かしてくれよ。

 あと、ハチベエが父親を「とうちゃん」ではなく「おやじ」と呼んだり、モーちゃんが母親を「かあさん」ではなく「かあちゃん」と呼んだり、シリーズ全体との齟齬もちらほら。どうした? これを書いたときは体調でも悪かったのか? あと〝悪竜〟って呼んでるのに、表紙を見たら正体丸わかりじゃない?

 つまらなくはないけど、凡作って感じだな。小さくなると時間の経過が遅く感じる、って設定はおもしろかったけどね。




『ズッコケ魔の異郷伝説』(2003年)

 学校の行事で縄文時代の暮らしを体験することになった六年一組。古代人の暮らしを楽しんでいたが、突如荒井陽子が奇妙な言動をするようになる。そして合宿最後の夜、日本では絶滅したはずのオオカミたちが現れる。あわてて逃げた一行がたどり着いた先は、縄文時代の村だった……。


 ズッコケシリーズの中でもかなり異色な作品ではないだろうか。異世界に迷いこんでしまう作品はこれまでにもあった。だが『ズッコケ魔の異郷伝説』がとりわけ異色なのは、「最後までよくわからない」ことだ。縄文時代の暮らしをしていたらオオカミに襲われた、走って逃げたら縄文時代の村だった、そこで儀式に参加した、現代に戻ってこられた、戻ってきたのはオオカミに襲われる数時間前だった、オオカミはもう襲ってこなくなった。奇妙なことがいろいろ起こるのだが、はっきりとした説明はつけられない。一応ハカセが考察をしてそれっぽい説明をつけるが、ほとんど根拠のない、ただの妄想だ。

 奇妙な出来事が起こって、奇妙な世界に迷いこんで、奇妙な体験をして、奇妙なことに元の世界に戻ったら解決してた。なんなんだこれは。しかも「何かにとりつかれた荒井陽子に従って行動するだけ」で、知恵を働かせる場面も勇気を振りしぼる場面もない。ハチベエが縄文人といっしょに酒を呑むだけ。ただ巻きこまれただけ。

 ズッコケシリーズにはたまにこういう〝ただ巻きこまれただけ〟回があって、一様につまらないんだよね。『驚異のズッコケ大時震』『ズッコケ三人組のミステリーツアー』『ズッコケ三人組と死神人形』など。いずれも退屈だった。

 前半の縄文時代体験はけっこうおもしろかったから期待したんだけどなあ。自分も縄文体験やってみたい、とおもったし。ずっと縄文時代の生活でもよかったのになあ。著者が書きたいことを書いている、って感じが伝わってきて。

「三人組がただ事件に巻きこまれて傍観するだけ」「必然性もなくクラスの美少女三人組と行動を共にする」と、ズッコケ中期以降の悪いところが存分に出てしまった作品。



『ズッコケ怪奇館 幽霊の正体』(2003年)

 近くの山道が「暗闇坂」と呼ばれ、そこに幽霊が出るために交通事故が起こるという噂を耳にした三人。噂を確かめるために現地調査をして、幽霊の謎を解き明かしたかに見えた。が、隣のクラスの生徒が暗闇坂で交通事故に遭ったというニュースが入ってきた。はたして幽霊は存在するのか……?


 タイトルが「幽霊の正体」なので、「ああこれは『幽霊の正体見たり枯れ尾花』の話だな」とわかってしまう。で、あれこれ推理をめぐらして最後に幽霊の正体が判明するわけだが、その正体もさほど意外なものではない。

 つまらなくはないけど、とりたてて目新しいところもないな……とおもって読んでいたのだが、はたと気づいた。そうか、これは「インターネットを使って幽霊の謎を解く」というスタイルが(2003年当時としては)新しかったのか。

 幽霊の情報がインターネット上で広まっていることを知り、インターネットの掲示板で情報を仕入れる。幽霊とインターネットという異色なものが結びつくのが斬新だったのだろう、当時は。

 しかし今となってはインターネットで情報収集をするなんてのは(小学生にとっても)あたりまえすぎて、まるで新しさを感じない。そもそもホームページの開設者がたまたまモーちゃんの母さんの知り合いの娘さんだった……なんてあまりに展開に無理がありすぎる。だいたい「うちの娘が○○っていうホームページを開設しててね」なんて話しないだろう。

 このへんからも、那須正幹先生が時代についていけてなかったことがうかがえる。

 ズッコケシリーズも残り二作。まあ潮時だったんだろうね。


【関連記事】

【読書感想文】『それいけズッコケ三人組』『ぼくらはズッコケ探偵団』『ズッコケ㊙大作戦』



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2023年2月9日木曜日

ツイートまとめ 2022年8月



夏の甲子園

メンツ

比喩表現

小切手

アジア丼

チェ

メンコ

大喜利

蛮勇

第二子で長男

ミャクミャク

24時間テレビ

伊勢志摩

爆裂

二線級



2023年2月8日水曜日

ブラジャーはトイレットペーパー

 やっぱりエッチな写真や映像を見ると心躍る。

 何をエッチとおもうか、何に心ときめくかは人それぞれだとおもうが、まあたいていの男性は、女性の裸や下着姿に胸躍らせる。ぼくも同じだ。もっともぼくが好きなのは〝下着姿〟であって〝下着〟ではない。下着ドロボーの気持ちはまったくわからない。

 また、ぼくの場合、パンツ姿にはときめくがブラジャー姿にはまったく心ときめかない。


 自分でもなぜかはよくわからない。おっぱいは好きなのに。ブラジャー姿の女性を見ても「そのじゃまな布切れを早くどけてよ」とおもうだけだ。〝その後の展開〟を想像して昂奮はするが、ブラジャー姿自体にはまるで昂らない。

 だったらブラジャーがこの世からなくなったらいいかと願うかといえば、そんなことはない。もしドラゴンボールを七つ集めてシェンロンが出てきても、ブラジャー消滅は願わない。

 なぜならブラジャーは女性のおっぱいを美しい形に保つために必要なものだから。だから存続してほしい。でも、特に見たいとはおもわない。


 つまり、ぼくにとって女性のブラジャーはトイレットペーパーと同じものだ。どちらも、女性が美しくあるためには必要なものだ。だが、それ自体に美しさは感じない。

 美しい尻を保つためにトイレットペーパーは必要だけど、トイレットペーパーを鑑賞したいとはおもわない。そういうことだ。どういうことだ?


2023年2月7日火曜日

【読書感想文】広瀬 友紀『ちいさい言語学者の冒険 子どもに学ぶことばの秘密』 / エベレータ

ちいさい言語学者の冒険

子どもに学ぶことばの秘密

広瀬 友紀

内容(e-honより)
「これ食べたら死む?」どうして多くの子どもが同じような、大人だったらしない「間違い」をするのだろう?ことばを身につける最中の子どもが見せる数々の珍プレーは、私たちのアタマの中にあることばの秘密を知る絶好の手がかり。言語獲得の冒険に立ち向かう子どもは、ちいさい言語学者なのだ。かつてのあなたや私もそうだったように。


 子育て中の言語学者が、子どもの言語の発達を通して「我々はどのように日本語を習得していくのか」について書いた本。

 むずかしい用語は多くなく、身近なエピソードがふんだんに使われているので言語学への入門書としてはいいとおもう。単純におもしろかった。


 たとえばこんなの。

 「子ども語あるある」の同じく上位に、「とうもころし」(とうもろこし、『となりのトトロ』にも登場)、「さなか」(さかな)などがあります。シャワー機能のあるトイレに行くたびに「デビって何~?」(K太郎、至7歳現在)って連呼するのやめてほしい。そういえば弟が幼児のころ「あやめいけ(地名)」を「あめやいけ」と言っていたのも思い出します。
 これら「音が入れ替わる系」のエラー(「とうもろこし」の「ろ」と「こ」が入れ替わる、など)は音位転換と呼ばれています。入れ替わった結果、より発音しやすくなっているのだと解釈されています。

 あるある。「オジャマタクシ」が典型例だよね。うちの四歳児も、ずっと「おくすり(お薬)」のことを「おすくり」って言ってる。何度訂正しても直らない。あと「エベレータ(エレベーターのこと)」とか「テベリ(テレビのこと)」とか。

 これは子どもだけでなく、大人でもやってしまいがちだ。中には、音位転換されたほうが正しい表記になってしまったものもあるという。元々「あらたし」だったのが「あたらしい」になってしまったり、「したつづみ(舌鼓)」が「したづつみ」になってしまったり。「こづつみ(小包)」とかがあるからごっちゃになってしまったんだろうな。

 最近だとカタカナ語でよくあるよね。「シミュレーション」を「シュミレーション」と書いてしまったり、「コミュニケーション」を「コミニュケーション」としたり、「アニミズム」を「アミニズム」としたり。ちなみに「アニミズム」はめちゃくちゃ間違えられてて、検索すると「アミニズム」と同じぐらい使われてる。近い将来これも正解になるかもしれない。




 あと、子育てをしたことのある人ならかなりの割合が経験したことあるであろう「幼児、『死ぬ』を『死む』と言っちゃう問題」について。

 さて、マ行動詞であれナ行動詞であれ「飲んだ・読んだ・はさんだ・かんだ」あるいは「死んだ」というふうに、活用語尾が「ん」になることについては、たまたま形が共通しています。おそらく子どもは、「虫さん死んじゃったねえ」「あれ、死んでないよ」というようなやりとりを通して、「死んじゃった」は、「飲んじゃった・読んじゃった・はさんでない・かんでない」と同じ使い方をすることばなんだな、という類推を行っているのでしょう。そうして子どもは、ふだん多く触れている、いわば規則を熟知しているマ行動詞の活用形を「死ぬ」というナ行動詞にもあてはめているのだと推測できます。(「死む」でネット検索したら、同様の推理をされているママさんのブログもありました。大人の冒険仲間を発見した気分です。)

 以前にもこのブログで書いたことがあるけど、これはほんと幼児あるあるだとおもう。

なぜ「死ぬ」を「死む」といってしまうのか




 濁音問題。

「か」に点々をつけたら? → 「が」

「さ」に点々をつけたら? → 「さ」

といった問いには答えられる幼児でも、「は」に点々をつけたら? という問いに答えるのはむずかしいそうだ。

 なぜなら、「『か』と『が』」「『さ』と『ざ』」「『た』と『だ』」は口内の形が同じでのどの震わせかた(無声音か有声音か)で音を出し分けているのに対し、「『は』と『ば』」は口内の形がまったく別物だから。

『ば』の口の形のまま無声音にした音は、『は』ではなく『ぱ』である。

 つまり、「たーだ」「さーざ」「かーが」の間に成立している対応関係が成り立っているのは、「ぱ(pa)」と「ば(ba)」の間のほうなんですね。日本語の音のシステムでは「は」「ぱ」「ば」が奇妙な三角関係をつくっているようですが、「ば(ba)」の本来のパートナーは「ぱ(pa)」と考えるべきです。じつは、大昔の日本語では、現在の「は」行音はpの音であったことがわかっています(ひよこが「ぴよぴよ」鳴くのも、ひかりが「ぴかり」と光るのもそれに関係ありそう)。その後、日本語のpの音は「ふぁ」みたいな音に変化していったらしく、室町時代に日本を訪れた宣教師による報告書では、現代の日本語なら「は」行で表されるべき音が、「ふぁ」の音に対応する文字で表記されています。そして最終的には今の「は」行音となり、現代日本語における三角関係に至るわけです。
 このように歴史的な音の変化により、ある言語の中にその言語特有の不規則な部分が生じてしまうことは珍しくありません。けれども、現代の日本語ではすでに「もともとそうなっている」わけなので、それをそのまま身につけて使えば何の不自由もありません。エンピツ(いっぽん、にほん、さんぼん)や子ぶた(いっぴき、にひき、さんびき)も自然に数えることができています。

 なるほどねえ。「『は』に点々をつけたら『ば』になる」というのはルールから逸脱した例外なのだ。大人は気づかないけど、日本語を学びはじめた幼児(あるいは外国人の日本語学習者)にとってはつまづきやすいポイントなんだね。




 ぼくにも子どもがふたりいるが、子どもの言語能力の発達スピードというのはものすごい。特に二~三歳児頃の成長はすさまじい。一年前まで「ごはん」「いや」みたいな単語しかしゃべれなかったのに、たった一年で「もうおなかいっぱいだからたべたくない。でもおやつはたべる」なんていっぱしの日本語を操れるようになるのだ。

 しかも、体系立てた学習をしているわけではなく、周囲の人たちが話すことばを聞いているだけなのに。

 もうひとつ例を見てみましょう。K太郎(6歳)がテレビで「去って行く」という表現を耳にして母親に聞きました。
 「ねえ、「さう」ってどういう意味?」
 彼は何を考えてこう言ったのでしょう?
 まず「去って行く」が「さって」と「いく」というふたつの動詞に分解できるという知識を動員。さらに「さって」ということばの意味を尋ねるために、終止形に直したほうがよいと判断。「買って―買う」「言って―言う」などから類推したのか、それが「さう」であると(過剰に)一般化。最後のところは大人から見れば間違っていますが(正解は「去う」じゃなくて「去る」)、それにしても、推論の過程を考えると、かなり高度なことをするようになったものです。

 もちろんこんなに順序立てて考えているわけではないが、意識下でこういう思考をくりひろげているのだ。ほんの数秒で。

 今、AIがどんどん進化していってすごいなあと感心するけど、ほとんどの子どもはそれよりも高精度で学習をしているわけだもんね。改めて、人間の脳ってすごいと感じる。


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