2022年1月4日火曜日

【読書感想文】阿佐ヶ谷姉妹『阿佐ヶ谷姉妹ののほほんふたり暮らし』

阿佐ヶ谷姉妹ののほほんふたり暮らし

阿佐ヶ谷姉妹

内容(e-honより)
40代・独身・女芸人の同居生活はちょっとした小競合いと人情味溢れるご近所づきあいが満載。エアコンの設定温度や布団の陣地で揉める一方、ご近所からの手作り餃子おすそわけに舌鼓。白髪染めや運動不足等の加齢事情を抱えつつもマイペースな日々が続くと思いきや―。地味な暮らしと不思議な家族愛漂う往復エッセイ。「その後の姉妹」対談も収録。

 正月に帰省した折、母に「最近おもしろかった本ない?」と訊くと、「最近は阿佐ヶ谷姉妹にはまってる」と言われ、この本を手渡された。

 女性コンビ芸人である阿佐ヶ谷姉妹(を名乗っているが姉妹ではない)が交代でつづったエッセイ。

 そういや阿佐ヶ谷姉妹の生活がNHKでドラマ化されたと聞く。ドラマは観ていないが、おもしろいと評判だ。

 タレント本はあまり手に取らないが、阿佐ヶ谷姉妹はなんとなく気になる存在だ。




 なぜ阿佐ヶ谷姉妹が気になるのかというと、芸能人特有のギラついた感じがないからだ。

 芸人にかぎらず、役者でも歌手でもアナウンサーでも、テレビにいる人からはたいてい「おれの才能を見せつけてやろう」「チャンスをつかんでのしあがってやろう」という野心を感じる。

 べつに悪いことではなく、野心がなければ狭き門に向かって努力を続けなければテレビに出続けられるような人にはなれないのだから当然だ。

 ところが阿佐ヶ谷姉妹からはそういったギラつきを感じない。もちろんそう見えているだけで彼女たちだって野心はあるだろうし努力もしているのだろうが、観ている側にちっともそれを感じさせない。ほんとに、そのへんにいるおばさんのたたずまいなのだ。前に出る機会があっても「あたしは遠慮しときます」と一歩下がるタイプのおばさん。まず芸能界にはいないタイプだ。

 いったいどうして彼女たちが芸人を目指すことになったのだろうとずっとふしぎだったが、この本に少しだけ答えが書いてあった。

 まだ阿佐ヶ谷姉妹を始める前、姉と川秀さんに行った時、ご主人から「2人は似ているけど姉妹なの?」と聞かれ、似てますけどお友達なんですと言うと、そんなに似てるんだったら、阿佐ヶ谷に住んでいる姉妹みたいな2人、「阿佐ヶ谷姉妹」という名前で何かやったらいいのにと言われ、姉がやっていたブログに阿佐ヶ谷姉妹に何かご用命ありましたら、と書いたら、最初にお笑いライブへのお誘いがきたので、まあ1回だけならと軽い気持ちで出演したのが始まりでした。
 なので、ご主人に名付けてもらわなかったら、阿佐ヶ谷姉妹は生まれなかったのです! 不思議なものでございますね。

 なんとも人を食ったような経歴だ。今テレビに出ているお笑い芸人で、赤の他人から「お笑いやりませんか」と言われて芸人になった人は他にいないだろう。

(とはいえその前は劇団の養成所で役者をめざしていたらしいので、彼女たちにもちゃんと野心があったのだ)




 テレビでのたたずまい同様、エッセイも力が抜けている。

 一生懸命書いているらしいが(エッセイのネタがなくて苦労しているという話がよく出てくる)、それにしてはたいしたことが書いていない。いや、いい意味でね。

 仮にもテレビに出る芸能人をやっているのに、こんなすごい経験をしたとかこんなめずらしい場所に行ったとかの話はまるでなく、半径一キロメートルぐらいの日常しか出てこない。そういうコンセプトのエッセイだからなんだろうけど、それにしても地に足がつきすぎている。西友でこんなものを買ったとか、商店街の人からこんなものをもらったとか、自宅でこんな動画を見ているとか。話が阿佐ヶ谷から出ない。

 それも、ショッキングな出来事とか貴重な体験はまるでなく、そのへんのおばちゃんをつかまえて一年間エッセイを書いてもらったらこんな内容になるだろうなーというぐらいの話だ。

 文章からも「おもしろい文章を書いてやろう」というケレン味をまるで感じない。インターネットにおもしろおかしいコンテンツがあふれている今、それがかえって新鮮だ。

 書かれているのはなんとも平凡な日常なのだが、それがいい。「阿佐ヶ谷姉妹にはこういう人であってほしい」というこちらの願望そのものの生活だ。
 やらしい話だけど、テレビに出演する機会も増えて、稼ぎもなかなかのものだろう。それでもこのエッセイから伝わってくるのは「年収200万円ぐらいの人の生活」だ。どれだけ売れてもこの阿佐ヶ谷姉妹でいてほしい。というよりあまり爆発的に売れないでほしい。勝手な願いだけど。




 平々凡々とした日々がつづられるけど、第3章の『引っ越し騒動』でほんの少しだけ様相が変わる。

 6畳1間に同居していたふたりが、ついにそれぞれの部屋を求めて(とはいえ探すのは2DKでやはりいっしょに暮らせる家)阿佐ヶ谷の物件めぐりをはじめる。

 気合が入っているのか、テンションも高めだ。

 続いて伺ったのは閑静な住宅が立ち並ぶ南口。ベランダにも両部屋から出られて、過ごしやすそう。ただ、なぜか玄関のドアが、塗り直したのか内側だけすごく水色。みほさんは、「私は水色、大丈夫ですけど」とこれまた高らかに宣言。
 さてベランダに出てみると、2人の視界のすぐ先に、とある大学の有名相撲部のお稽古場が見えました。日も暮れかかった時間に、うっすら見える干されたまわし達。まわしもお相撲も嫌いではないけれど、あちらのまわしがこちらから見えるという事は、あちらから見ようとしたら、こちらのまわし的なものも見えてしまうのではないかしら。いや、こちら側のまわし的なものって何? という問いはさておき結局こちらも保留に致しました。

 だが、あちこち物件をまわったもののいろいろ欠点が目について決められず、「今の家がいいのよね」となってしまう。

 このあたりの心境、よくわかるなあ。ぼくもそういうタイプだ。妻も同じタイプなので、何度家探しをして「うーん、もう少し今のとこでいっか」となったことか。

 結局阿佐ヶ谷姉妹は引っ越し先が決められず、隣のワンルームが空いたのでそこも借りてお隣同士で暮らすことになる。今なら余裕でもっといいマンションにも住めるだろうに、それをしないところが阿佐ヶ谷姉妹の魅力なのだ。




 見た目はよく似ているのでちがいもよくわからなかった阿佐ヶ谷姉妹だけど、このエッセイを読むとふたりの性格の違いがよく見えてくる。

 細かいことを気にするけど忘れ物も多い江里子さんと、思い切りがよくてマイペースな美穂さん。

 この文章にも、江里子さんの人柄がよく表れている。いっしょに食事をしたときに、みほさんが自分の分のシチューしか持ってこなかったときの話。

 2人の部屋からみほさんの部屋になったとて、間取りは変わらず6畳1Kの狭い部屋です。コタツから立ち上がり、シチュー鍋まで5歩。自分の好きな分をよそって、また5歩。おそらく何カロリーも使わぬ動作で、シチューをゲットできます。いい歳をした女が、「なぜシチューをよそってくれないの」と、同じ位いい歳をした女につっかかるなんて、何だかあまりに器の小さい人間のようで言葉に出せず。普通に自分でよそってきて、普通のやりとりをして、ごちそうさまをして、隣の部屋に戻りました。
 自分の部屋に戻ってから、何だか無性に切ない気持ちになってしまいました。理由は間違いなく「シチューをよそってもらえなかった」という1点。こんな小さな事に引っかかっている自分も情けないのだけれど、どうにものどに刺さったお魚の骨のように、気にかかってしかたないのです。

 しばらく、みほめ~あの冷血人間め~なんてカリカリしていましたが、こう考え始めました。「私だったら、持ってくるけど」という考え方が違っているのかしら。
 私がそうしているから、あちらにもそうしてもらえるものだと思っている所から、ものさしが狂い始めるのかも、と。
 実際夫婦でも家族でもない2人が、たまたま生活様式を共にしているだけで、本来は個個。むしろ、私がみほさんにしている事は、頼まれてやっている事でもなく、こちらがよしとしてやっている事なのだから、それを相手に勝手に求めて勝手に腹を立てたりするのは、変な話で。やってもらう事は「必須」でなく「サービス」なのだ。そう思うと、落ち着いてきました。

 このエッセイを読んでいるとよくわかる。江里子さんはこういうことをいつまでもくよくよと考えているタイプで、美穂さんはたぶん気にしていない。たぶん「たまたま忘れていた」とか「なんとなくめんどくさい気分だった」とかで、深い意図があったわけではない。でも江里子さんは気になる。

「あたしの分は?」と訊けばいいのに、タイミングを逃してしまうともう訊けない。だったら気にしなきゃいいのに、気にしてしまう。余計な勘繰りで疲れてしまう。

 たぶん誰しも同じような経験があるだろう。
 ぼくも結婚生活を十年続ける中で何度も経験した。江里子さんは「夫婦でも家族でもない2人が、たまたま生活様式を共にしているだけで、本来は個個」と書いてるけど、夫婦だって同じだ。しょせんは他人。

 相手のちっちゃい行動が気になる。でもちっちゃいことだからこそ、余計に言えない。言えば「そんな細かいこと気にするなよ」とおもわれそうで。

 でもこういうのって、「言う」か「忘れる」のどっちかしかないんだよね。相手に察してもらうなんて無理だから、自分が変わるしかない。

 同居生活でうまくやっていく秘訣は「相手に心の中で求めない」だよね。つくづくおもう。


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2021年12月29日水曜日

パイナップル中毒にご用心

 夜中に腹が痛くなった。

 胃腸が弱いのでおなかを壊すのは日常茶飯事なのだが、今回のはいつもの痛みとちがう。トイレに行っても収まらない。風呂に入ってあったまっても収まらない。寝たら治るかとおもって布団に入っても、痛みが引くどころかどんどん痛くなって眠れない。


 急性盲腸炎とか? いや、でも盲腸炎は強烈な痛みっていうしな。

 食あたり? うーん、でもふだん食べているものしか食べてないしな。変わったものなんて……。


 あっ。

 食ったわ。

 干しパイナップル。

 いきつけのドライフルーツ屋さんで買った、ドライパイナップル。茶色くて、しわしわで、妻が「パイナップルのミイラ」って言ったやつ。

 あれかな。

「パイナップル 腹痛」で検索してみる。

 やっぱり。パイナップルにはプロメラインというたんぱく質を壊す成分が含まれていて、パイナップル加熱せずに食うと口内や腹が痛くなることがあるらしい。

 たんぱく質を壊す成分……。こえー!

 そういやキウイもたんぱく質を壊すからゼリーが作れない(ゼラチンが固まらない)と聞いたことがある。パイナップルも同じかな。

 これまでパイナップルで腹痛になったことはなかったが、ドライパイナップルがぼくの身体にあわなかったらしい。


 そうとわかればもう大丈夫。

 ぼくは「吐こうとおもえばわりとかんたんに吐ける」体質なので、こういうときに助かる。

 トイレに行って、水をがぶがぶ。胃の中身をゲロゲロ。

 ふうすっきり。数分すると嘘のように腹の痛みも治まった。

 ということでパイナップルのミイラにはご用心。



2021年12月28日火曜日

とりき

 よく小学生とドッチボールをする。


 ドッチボールがはじまるときの小学生たちの会話。

「チーム分けどうする?」

「じゃあ〝とりき〟な」


 とりき?

 鳥貴族?

 首をかしげていると、男の子ふたりが「とーりっき!」と言いながらじゃんけんをはじめた。
 勝ったほうから、他のメンバーを指名していく。

 ああ、あれか。
 ぼくが小学生のときは〝とりあいじゃんけん〟と呼んでいた(〝とりき〟の〝き〟ってなんだろう?)。

 要するに、代表者ふたりによるドラフト会議だ。
 じゃんけんで勝てば、好きなメンバーを自チームに引き入れることができる。負けたほうは残ったメンバーの中から、好きな子を選ぶ。
 ひとりずつ獲得するとまた「とーりっき!」とじゃんけんをおこない、ドラフト二巡目がスタートする。


 ぼくが子どものときもやってたけど、けっこう残酷なんだよなー。
 最後のほうまで残った子がかわいそうだなー。ぼくも指名されるのは後半だったなー。

 とおもいながら見ていたら、最後にひとりが残った(子どもが奇数だった)ときの反応に息を呑んだ。

「いるかいらんか、じゃんけんぽん!」


 ぞっとした。
 おいおいおい。それはさすがにひどすぎるだろう。


 じゃんけんで勝ったほうは、残りひとりを「いる」か「いらん」で選ぶというのだ。
 いくら「ドッチボールにおいて」という前提があるとはいえ「いらん」を宣告される子の身にもなってみろよ。

 あわててぼくが
「『いらん』ってのは言われた子が嫌な気持ちになるから、最後のひとりはじゃんけんで勝った方のチームに入ることにしよう」
と止めに入った。

 ふだんなるべく子どもの好きに遊ばせるようにしているが、このときはおもわずたしなめてしまった。




 ほんと、子どもって残酷だよね。
 ぼくが子どものときも同じことやってたけど。

 なにがひどいってさあ。ドッジボールだぜ。
 まだ野球ならわかるよ。メンバー全員に打順がまわってくるから、へたな子を入れるぐらいなら人数を減らして、その分うまい子に一回でも多く打席が回る方がいい。
 でもドッジボールに関しては、人数が増えて得することはあっても損することはまずない。ひとり残ったら「チームに入れる」でいいじゃん。


 まあ〝とりき〟はある意味公平ではある。
 グーパーで別れた場合は戦力が著しく偏ることがあるが、〝とりき〟であれば実力が伯仲する。強い子と弱い子がバランスよく両チームに入るので、ゲームとしては盛りあがる。

 しかしなあ。公平がいいとはかぎらんよなあ。
 最後にぽつんとひとり残されて、「おまえいらん」と宣告される子からしたら、死ねと言われるに等しいぜ。たかがドッジボールとはいえ。


〝とりき〟は絶対こうなるんだよね。
 強い子同士で〝とりき〟をした場合もそうだし、いちばん弱い子同士で〝とりき〟をさせても、結局強い子からとられてゆくから「三番目に弱い子」と「四番目に弱い子」が残ってしまう。

 なので、ぼくがドッジボールに加わるときは「大人がいるときは大人を最後に指名すること」と決めた。

 これで「最後に残されて『いらん』と言われる子」はいなくなるし、前半で目ぼしい選手が取られてしまって盛りあがりが後半失速するという〝とりき〟の構造的欠陥も軽減することができる(大人は強いからね。へへん)。


 だから、プロ野球のドラフト会議も、「その年の目玉選手は最後に指名すること」っていうルールにしたらいいよね。
 一番くじのラストワン賞みたいにさ。



2021年12月27日月曜日

2021年に読んだ本 マイ・ベスト12

 2021年に読んだ本は110冊ぐらい。

 去年は130冊ぐらいだったのでちょっと減った。おうち時間が減ったからかな。

 その中のベスト12。

 なるべくいろんなジャンルから選出。
 順位はつけずに、読んだ順に紹介。


堀江 邦夫
『原発労働記』


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 ノンフィクション。

 いくつもの原発で作業員として働いた著者による渾身のルポルタージュ。まさに命を削って書かれている。
 ここに書かれている原発の実態は、ごまかしと隠蔽ばかりだ。原発の管理がいかにずさんかがよくわかる。

 この本を読んでまだ「日本に原発は必要なんだ」と言える人がいるだろうか。



石井 あらた
『「山奥ニート」やってます。』


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 エッセイ。

 廃校になった小学校の分校で、ニートたちが集まって集団生活を送っている。その日々をつづったエッセイ。ぼくもかつては無職だったが、きっとその頃こういう人たちがいると知ったら気が楽になっただろう。

 山奥ニートという生き方に眉をひそめる人もいるだろうが、ぼくはこういう生き方を選ぶ人がいてもいいとおもう(ただし我が子が山奥ニートになりたいと言いだしたらやっぱり反対するとおもう)。本当の〝一億総活躍社会〟ってこういうことだとおもうんだよね。


前野ウルド浩太郎
『バッタを倒しにアフリカへ』


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 ノンフィクション。

 文句のつけようがないぐらいおもしろい。「おもしろい本」は多いし「すごいことをやっている本」も多いけど、「おもしろくてすごいことをやっている本」はそう多くない。これは類まれなるおもしろくてすごい本。

 近い将来、この人がアフリカを救うとぼくは信じている。


ブレイク・スナイダー
『SAVE THE CAT の法則』


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 ハウトゥー本なんだけど、なんか妙に感動してしまった。

 ロジカルに、手取り足取り脚本の書きかたを教えてくれる。
 これを読んだら自分にもハリウッド映画の脚本が書けるような気になってしまう。

 ストーリーをつむぎたいとおもっている人にとっては読んでおいて損はない本。


マルコ・イアコボーニ
『ミラーニューロンの発見』


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 ノンフィクション。

 他人の行動を観察しているときにまるで自分がその行動をとっているかのように活性化する脳細胞・ミラーニューロンについて書かれた本。

 この本を読むと、我々の行動がいかにミラーニューロンによって支配されているか気づかされる。人間はものまねによって動くのだ。笑っている人を見れば楽しくなるし、暴力映像を見れば暴力的になる。「暴力映像を観たからといって暴力的になるわけじゃない! 人間はそんなに単純じゃない!」と言いたくなる気持ちはわかる。だが、残念なことに人間は単純なのだ。目にしたものを無意識に真似してしまうのだ。


佐藤 大介
『13億人のトイレ 下から見た経済大国インド』


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 ノンフィクション。

 2020年に読んだM.K.シャルマ『喪失の国、日本』も猛烈におもしろかったが、この本もすばらしい。インドに関する本はどうしてこんなにおもしろいのか。

 インドのトイレ事情について語りはじめるんだけど、そこから話がどんどん広がっていって、政治、経済、貧困、犯罪、宗教対立、民族問題、環境問題、そして今なお根深く残るカーストなどについて斬りこんでいく。
 内容ももちろんおもしろいんだけど、なによりワンテーマを軸にいろんな問題に切りこんでいく手法が画期的。


橋本 幸士
『物理学者のすごい思考法』


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 気鋭の理論物理学者によるエッセイ。

 餃子のタネと皮を残さずに包むための最適解を求めたり、エレベーターに何人まで詰め込めるかを計算したり。最高なのは「僕は1時間、ニンニクを微分し続けていたのだ」という強力なフレーズ! これまでニンニクを微分しようとおもった人いる?

 物理学者の、常人離れした思考の一端に触れることができるエッセイ。


伊藤 計劃
『虐殺器官』


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 SF小説。

 今まで読んだSFの中でもトップクラスにおもしろかった。はじめから最後までずっと興奮した。主人公が属する暗殺組織もおもしろいが、なによりターゲットであるジョン・ポールがおこなっている「人々に殺し合いをさせる手法」のアイデアがすごい。
 ほらの吹きかたがすごくうまかった。ぜんぜん現実的じゃないのに、でも「ここじゃないどこかにはこういう世界もありそう」とおもわせてくれる。


荒井 裕樹
『障害者差別を問いなおす』


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 ノンフィクション。

 一部ではあるが、健常者社会に対して激しい闘いをしかける障害者がいる。この本を読む前のぼくは「そんなことしたらみんなから嫌われるだけじゃん。喧嘩をふっかけるんじゃなくて、友好的な関係を築かないと障害者の権利は拡がらないよ」とおもっていた。

 だがこの本を読んで、そうした考えは浅はかなものだと気づかされた。ときに差別されている側から(無意識に)差別している側に闘争をしかけないと差別は是正されないのだ。黒人奴隷が「白人から愛される存在」を目指していたら、いつまでたっても奴隷制はなくならなかっただろう。差別是正のいちばんの敵は、ぼくのような高いところから「お互い仲良くやりましょうや」と言う人間だったのだ。


奥田 英朗
『沈黙の町で』


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 小説。

 いじめをテーマにした小説はいくつも読んだことがあるが、『沈黙の町で』は今までに読んだどの小説よりもリアルに学生のいじめを描いていた。

 いじめの被害者は、小ずるく、自分より弱いものに対しては攻撃的で、平気で他人を傷つける言葉を口にし、他人を裏切る卑怯者で、すぐに嘘をつく少年。またいじめっ子グループにつきまとわれていたのではなく、むしろ逆に自分からいじめっ子グループについてまわっていた。逆に加害者とされるのは、人よりも正義感の強い少年である。

 それでも、いじめられていた子が命を落とせば「イノセントないじめられっ子」「悪いいじめっ子」という単純な構図に落としこまれてしまう。そして我々は「自分とは関係のない凶悪なやつがいじめをするのだ」と安心して目を閉じるのだ。


藤岡 拓太郎
『夏が止まらない』


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 二コマ~数コマのショートギャグ漫画。

 タイトルがおもしろくて、一コマ目がもっとおもしろくて、二コマ目でさらにおもしろいという、二コマ漫画なのに三段跳びみたいな作品もある。「適当に捕まえたおばさんに、自販機の飲み物をおごるのが趣味のおっさん」とか「仲直りをしたらしい小学生をたまたま見かけて、適当なことを言うおっさん」とか、タイトルだけでもおもしろいのに漫画はもっとおもしろい。

 二コマ漫画界の巨匠と呼んでいい。


永 六輔
『無名人名語録』


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 『無名人名語録』『普通人名語録』『一般人名語録』の三部作どれもおもしろかった。

 市井の人々(タクシードライバーとか飲み屋にいるおっちゃんとか定食屋のおばちゃんとかホームレスとか)がなにげなく言った一言を集めた本。SNSで交わされる言葉ともちょっとちがう。もっとプライベートな発言だ。これがしみじみ含蓄がある。

 ただ言葉を載せるだけで、余計な解説を挟んだりしていないところもいい。


 来年もおもしろい本に出会えますように……。


2021年12月24日金曜日

【読書感想文】横山 秀夫『ノースライト 』~建築好きに贈る小説~

ノースライト

横山 秀夫

内容(e-honより)
北からの光線が射しこむ信濃追分のY邸。建築士・青瀬稔の最高傑作である。通じぬ電話に不審を抱き、この邸宅を訪れた青瀬は衝撃を受けた。引き渡し以降、ただの一度も住まれた形跡がないのだ。消息を絶った施主吉野の痕跡を追ううちに、日本を愛したドイツ人建築家ブルーノ・タウトの存在が浮かび上がってくる。ぶつかりあう魂。ふたつの悲劇。過去からの呼び声。横山秀夫作品史上、最も美しい謎。

 バブル崩壊の影響で離婚して失意の中にあった建築士・青瀬は、「あなた自身が住みたい家を建てて下さい」という施主・吉野の依頼を受け、設計を請け負う。完成した「Y邸」は建築界から高い評価を受け、青瀬の代表作となる。だが数ヶ月後、Y邸には誰も住んでいない、それどころか引っ越した形跡すらないことが判明する。Y邸にあったのは一脚の椅子だけ。
 はたして吉野一家はどこへ行ったのか。青瀬は、残された「タウトの椅子」を手掛かりに吉野の行方を探す……。


 青瀬の少年時代の記憶、離婚前の家庭の記憶、ブルーノ・タウトの椅子、雇い主との関係、同僚の不倫のにおい、入札コンペ、かつての恋敵との再会……。様々な出来事が語られる。
 あれやこれやと詰め込んでいるが、終盤までなかなか収束しない。大丈夫か、これ風呂敷畳めるのか……とおもっていたら、ちゃあんと決着。さすが横山秀夫氏。うまい。

 うまいが、これだけの分量を割いてこれか……という気持ちも若干ある。

「吉野一家はどこへ行ったのか、なぜ青瀬にY邸の建築を依頼したのか」という最大の謎も、わかってみれば「なーんだ」というぐらいのもの。「えっ、あの人がまさか!?」「そんな意外な真実が!?」と驚くほどのものではない。
 というか「いくら父親の遺言だからってそこまでやらんだろ……」って感じなんだけどね。

 これまでの人生で数多く傷ついてきた中年の悲哀を描いた小説、とおもって読めばしみじみ味わい深いかもしれないけど、ミステリだとおもって読んだぼくにとっては正直期待外れだった。
 すごくうまく風呂敷を畳んだけど、畳んでみたらものすごくこじんまりとしてた。そんな気分。




 ミステリとして読むより、建築小説として読んだほうがいいかもしれない。

「北向きの家」を建てる。その発想が浮かりと脳に浮かんだ時、青瀬はゆっくりと両拳を握った。見つけた。そう確信したのだ。信濃追分の土地は、浅間山に向かって坂を登り詰めた先の、四方が開けた、この上なく住環境に恵まれた場所だった。ここでなら都会では禁じ手の北側の窓を好きなだけ開ける。ノースライトを採光の主役に抜擢し、他の光は補助光に回す。心が躍った。光量不足に頭を抱えたことのない建築士がいるなら会ってみたい。住宅を設計する者にとって南と東は神なのだ。その信仰を捨てる。天を回し、ノースライトを湛えて息づく「木の家」を建てる。北からしか採光できない立地条件でやむなくそうするのではなく、欲すればいくらでも南と東の光を得られる場所でそれを成す。究極の逆転プラン。まさしくそう呼ぶに相応しい家だった。
 青洲は憑かれたように図面を引いた。平面図。立面図。展開図。断面図。描いては捨て、描いては直しを繰り返した。採光のコンセプトが家の外形を決定づけたと言っていい。北面壁を最高軒高とする一部二階建て。北向きの一辺を思い切り長く引き、南側の辺を大胆に絞り込んだ台形状の片流れ屋根。縮尺二十五分の一の大きな模型を作って内部の光の当たり方を吟味した。季節ごと、時間ごとの入射角を計算し、屋内の構造と窓の位置・形状を決めていった。そして、それでも足りない光量を補うために、いや、この家を真に「ノースライトの家」たらしめるために、苦心惨憺の末考案した「光の煙突(チムニー)」を屋根に授けた。

 こんな感じで、随所に建築に関する記述が出てくる。正直言って建築に興味のないぼくにはちんぷんかんぷんだ。「よう調べたなあ」とおもうばかりだ。

 よく「医師が書いた医療ミステリ」とか「元銀行員が書いた経済小説」とかはあるじゃない。むやみに専門用語が並ぶやつ。

『ノースライト』も、油断しているとあの類かとおもってしまうんだよね。建築士が書いたんじゃないかと。横山秀夫氏の経歴を知らない人が読んだらそう信じるんじゃないかな(ちなみに横山秀夫氏は元新聞記者)。

 とにかく、「よう調べたなあ」という感想がまっさきに出てくる。建築好きならもっと楽しめるのかもね。


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