「南京事件」を調査せよ
清水 潔
『殺人犯はそこにいる』 『桶川ストーカー殺人事件』 などで知られる著者が(どちらも上質な骨太ノンフィクションなので超おすすめ)、テレビ番組の取材のために「南京事件」を調査することに。その調査報告(+清水さんの個人的な体験)。
書かれていることに目新しさはない。すでに先行研究者が明らかにしていることを、清水さんが改めて検証したという内容だ。
「裁判所や警察にもまったく知られていなかった真実」をいくつも明らかにしてきた清水さんが書いたものとしては、正直にいって新鮮さがない。
結論としては「南京大虐殺はあったとしか考えられない」というものだし、その内容はぼくが小学校のときに習ったものとほとんど同じだ。
じゃあなぜ改めて「旧知の事実」を再検証しなければいけなかったのかというと、それを認めない人がいるからだ。
「南京大虐殺」「南京事件」で検索するとわかるとおもうが、「論争」だの「嘘」だの「デマ」だの「疑念」だのといった言葉が出てくる。『南京事件論争史』なんて本もあって、論争自体が歴史を持っているのだ。
いやこれを論争といっていいのだろうか。
もちろんぼくはこの目で見たわけじゃないから「南京大虐殺は100%あった!」と断言はできないが、数々の資料や証言を見聞きするかぎり、「99.9%あったんだろう」とおもうし「なかった!」と断言することは絶対にできないとおもう。
だって中国側の証言だけでなく、日本人側にもいっぱい「あった」と言っている人がいるし、第三国の記者も証言してるし、虐殺を伝える当時の新聞や日記もある。
もちろん、細かい状況だとか人数だとかに関しては不正確な部分はあるのだろうが、大筋として「日本軍が中国人捕虜や民間人に対して残虐な行為をおこなった」という事実は否定できないだろう。
だいたい中国側はともかく、日本人には「虐殺をした」という嘘の証言をするメリットはないだろうし(隠蔽するメリットはいっぱいあるが)。
にもかかわらず「なかった!」と主張する人がいる。
写真についているキャプチャがおかしいとか、殺された人数が不正確だとか、細部の疑惑をとりあげて「だから虐殺自体がなかった!」と主張する人だ。
(ちなみによく聞く「当時の南京の人口は20万人しかいなかったのに30万人も殺されたはずがない!」という主張の有効性はこの本の中で明確に否定されている。)
この本の後半で清水さんも書いているが、求めているものが違うのだ。
「事実」ではなく「イデオロギー」や「損得」を求めている人にとっては、「虐殺があったことを指し示す証拠」なんてものは見る価値がないのだ。
そもそも「事実」や「証拠」なんて求めていなくて、「虐殺はなかったと信じさせてくれるもの」しか求めていないのだから、多くの研究者がどれだけ丁寧に証拠を並べてても否定派には届かない。
だから、この本を読んでいると徒労感がぬぐえない。
清水さんの調査方法は「そこまでやるか」というぐらいに慎重だ(一次資料にあたる、一次資料も誤りがないかあらゆる方法で検証する等)。
それでも「でもここまでやっても否定派が考えを改めることはないんだろうなあ」と感じざるをえない。
どれだけ丁寧に証拠を並べても「日本人がそんなことするはずがない」「それでも私はなかったとおもう」で否定されてしまう。はっきりいって虚しい作業だ。まともな研究者からすると、割に合わない作業だ。事実を求めてない人を相手にしなくちゃならないんだから。
それでも言いつづけなくちゃならないんだろうな。
さもないと「事実よりイデオロギー派」がどんどん増えていくばかりだから。
多くの本を読み、多くの歴史を知ったことでわかったことがある。
「人間は命じられれば平常時には信じられないぐらい残虐なことをする」
「人間の記憶は、自分が信じたいものに改変される」
ということだ。
だからぼくは自分の意思を信じていない。
南京大虐殺の場に日本兵としていたら虐殺に加担していたかもしれないし、ナチスやクメール・ルージュにいたらジェノサイドに参加していたかもしれない。山岳ベースにいたら仲間を処刑していたかもしれない。
そして矛盾しているようだけど、こういう「良心への懐疑」を持つことが、周囲に流されて暴力を振るうことへの抑止力になるともおもっている。
積極的に虐殺に加担するのは「おれはどんな状況におかれてもあんな残酷な行動はとらないぜ!」って信じてる人だとおもうよ、ぼくは。
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