2021年3月10日水曜日

【読書感想文】戦前に戻すのが保守じゃない / 中島 岳志『「リベラル保守」宣言』

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「リベラル保守」宣言

中島 岳志

内容(e-honより)
リベラルと保守は対抗関係とみなされてきた。だが私は真の保守思想家こそ自由を擁護すべきだと考えている―。メディアでも積極的に発言してきた研究者が、自らの軸である保守思想をもとに、様々な社会問題に切り込んでゆく。脱原発主張の根源、政治家橋下徹氏への疑義、貧困問題への取り組み方、東日本大震災の教訓。わが国が選択すべき道とは何か。共生の新たな礎がここにある。

 中島岳志氏の『保守と立憲』も、『100分 de 名著 オルテガ 大衆の反逆』に寄せられた中島氏の文章もすばらしかった。

 だからこの本を手に取ったのだが、書かれていることは上記二冊と似たような内容で、ただし書かれているテーマにはまとまりがなく、時代性の強い文章もあったりして今読むと伝わりにくい箇所もある(特に橋下徹氏への批評はあの時代の空気の中で読まないとわかりづらい)。

 ということで、『保守と立憲』や『100分 de 名著 オルテガ 大衆の反逆』を読んでいる人はこっちはべつに読まなくていいかな。




 以前から政治的立場を表す「保守」という言葉に違和感があった。
「保守」と言いながら、憲法だったり政治制度だったり経済体制だったりをドラスティックに改革しようとしている。それのどこが保守なんだ? 戦前のやりかたに戻すのが保守なのか? 今ある制度や暮らしは保守しようとしないのか?

 中島岳志氏の著作を読んで、その疑問が氷解した気がした。
 そうか、保守を自称している連中(の大半)は保守ではないのだ。むしろリベラルこそが保守の立場に近いし、保守の精神を持つべきなのだ。

「選挙で勝ったんだから、どんなにラディカルな改革をおこなうのも自由だ」なんて考えは、保守の精神からもっとも遠いものなのだ、と。

 自由は、節度という「足枷」に制約されています。だからこそ、節度の拘束力が強くなればなるほど、自由の度合いは拡大してゆくのです。
 バークは、革新主義者たちの主張する反歴史的・抽象的自由に、寛大さが欠落していることを見抜きました。革命家が志向する「規制から解放された自由」は、人間の粗暴で冷酷な性格とたやすく結びつき、他者に対する不寛容な暴力となって現れることを見通していたのです。革命家たちは、様々な制約の破壊によってこそ、自由を獲得することができると考えました。彼らは歴史的に構築された制度を抜本的に覆し、長年にわたって共有されてきた固定観念を解体していきます。制約なき自由は、必ず他者の自由と衝突します。価値やモラルの基準を失った自由は暴走し、自己の自由を阻害する他者への剥き出しの暴力となって現れます。制約を失った自由こそが、人々から真の自由を奪い、世の中の秩序を破壊するのです。

 フランス革命によって寛大で誰もが生きやすい世の中が実現したかというとまったくの逆で、その後にやってきたのはナポレオンによる独裁専制時代だった。

 革命、改革、刷新、維新、ぶっ壊す、取り戻す……。
 耳あたりのいい言葉を並べて「私に任せてくれれば一気に事態をよくすることができます」と言う連中が弱者の声に耳を傾けたことが歴史上一度でもあっただろうか。

「自由」はウケのいい言葉だが、誰かの自由は必ず別の誰かの自由と衝突する。
「夜中にバイクで爆音を鳴らしながら走る自由」は「静かな環境で安眠する自由」と衝突する。

 規制緩和や自由化を訴える人がいる。自由化によって利益を得る人もいるけど、同時に別の誰かが不利益を被る。そしてそれはたいてい弱者だ。強者はうまく立ちまわって、誰かの首を差しだすことで逃げるからね。
「改革」「維新」といった言葉の目指す意味は結局、「弱者が持っている財産をおれたちによこせ!」なんだよね。




 中島さんが目指す「リベラル保守」はドラスティックな改変を好まない。かといって百年一日の停滞も良しとしない。時代の変化によって制度も変わる必要があるからだ。

 なぜ劇的な改革がだめなのかというと、不完全な存在である人間は必ずまちがえるからだ。

 保守は、このような左翼思想の根本の部分を疑っています。つまり「人間の理性によって理想社会を作ることなど不可能である」と保守思想家は考えるのです。
 保守の立場に立つものは人間の完成可能性というものを根源的に疑います。
 人間は、どうしても人を妬んだり僻んだりしてしまう生き物です。時に軽率な行動をとり、エゴイズムを捨てることができず、横暴な要素を持っています。
 保守は、このような人間の不完全性や能力の限界から目をそらすことなく、これを直視します。そして、不完全な人間が構成する社会は、不完全なまま推移せざるを得ないという諦念を共有します。
 保守は特定の人間によって構想された政治イデオロギーよりも、歴史の風雪に耐えた制度や良識に依拠し、理性を超えた宗教的価値を重視します。前者は人間の「知的不完全性」の認識に依拠し、後者は人間の「道徳的不完全性」に依拠していると言えるでしょう。

 フィリップ・E・テトロック&ダン・ガードナー『超予測力』によると、多くの人の未来予測を検証した結果、「自分が間違っているかもしれない」という前提に立って絶えず再検証をくりかえす人ほど予測の的中率が高いのだそうだ。
 逆に「おれは正しい! まちがってるはずがない!」という思想の人間はまちがえる。現実をありのままに見ることができず、己の思想信条に合致した意見だけしか見えなくなる。

 つまり、政策立案者に適しているのは
「わたしは〇〇がいいとおもうが誤っているかもしれない。くりかえし検証・反省をして〇〇が本当に正しいのか考え、必要に応じて軌道修正していくことが必要だ」
という人だ。
 こういう人が「改革」「維新」なんて叫ぶはずがない。まちがえたらとりかえしがつかなくなるからだ。
「民意が○○だから」という理由で改革もしない。なぜなら民衆も当然まちがえるから。ヒトラーを選んだのも民意なのだ。

 民衆も政策立案者は必ずまちがえるという立場に立てば、完全に信用できるものは何もない。何もないが、昔から脈々と受け継がれているものは「そこそこうまくいく可能性が高い」と言える。特に教育や医療や政治などの制度は、一度壊されると取り返しがつかなくなることがあるので、慎重に扱う必要がある。とりあえずゆとり教育やってみたけどだめでした、というわけにはいかないのだ(そうなってしまったけど)。
 古いものにパッチワークをあてて使いこなしてゆく。これが理想的な保守のありかただ。

 

「保守」の名を騙っていろんなものをぶっこわしてきた連中のせいで、「保守」はすっかり悪い響きの言葉になってしまった。
 もはや「極右」とか「排他的」とほとんど同義だ。

「リベラル保守」もいいんだけど、伝わりやすさを考えるならまったく別の言葉を持ってきたほうがいいかもしれないな。


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