幸福な監視国家・中国
梶谷 懐 高口 康太
中国で国家による監視体制が強化されているという話を聞いたことがあるだろう。
いたるところに監視カメラが置かれ、借金の返済歴や税金の滞納歴などによって各人の信用スコアが計算され、信用スコアが高い人は様々な恩恵を受けられる一方、国家(=中国共産党)から目をつけられた人は不利益を被る。
ぼくも以前、テレビで「信用スコア」の特集を見たことがある。多くの市民は「いい制度です」と褒める(本心か、それとも政府批判をおそれているのかはわからないが)一方、制度によって不利益を被っている人は悪しざまに批判していた。
テレビを観ていたぼくは「とんでもないディストピアじゃん。まるでオーウェルの『一九八四年』だ」とおもった。今考えると、その番組自体がそう思わせるような作りになっていた。
「ほら、中国ってヤバいでしょ。党の監視と相互監視で息詰まる監視社会なんですよ。日本は自由でよかったよね」という構成だった。
『幸福な監視国家・中国』は、実際に現地入りして中国の監視システム・信用スコアシステムについて紹介している。
「ほら中国は人権無視のひどい国でしょ」というスタンスではなく、メリット・デメリットを併記して、冷静に制度の功罪を観察している。
もっとも栄成市の信用スコアは設計されたものの(少なくともこの本の執筆時点では)ほとんど運用されておらず、ほとんどの市民が1000点のまま増えも減りもしていないそうだけど。
読んでいると、信用スコアも意外と悪くないんだなという気になる。
ふだんは意識しないけど、社会には「他人が信用できないから支払わなければならないコスト」がたくさんある。
各種セキュリティシステム、万引き防止ゲート、ローンや借入金の審査、契約書の作成、日報の作成……。
「盗まれないように」「ずるされないように」「逃げられないように」「騙されないように」「サボらないように」といった目的で、いろんなコストを負担している。それらの費用は仕事は全員で負担することになるため、「一部の悪いやつのためにみんながちょっとずつ損をする」システムになっている。
悪いやつがいなければ警察も警備員もいらないし、書かなくてはならない書類もずっと少なくて済むし、生産性の低い(被害を減らすだけの)仕事も削れる。
でも現実に世の中には悪いやつがいる。なぜ悪いことをするのかというと、悪いことをすることに比べて受ける罰がずっと小さい(と当人はおもっている)からだ。
もしも「盗みをはたらいたら片腕を切り落とされる」だったら窃盗はずっと少なくなるだろう(ただし万引きがばれたら店員を殺してでも逃げる、になりかねないけど)。
そこまで極端じゃなくても「駐車違反をしたらその記録が一生残って就職も結婚も不利になる」であれば、駐車違反はぐっと少なくなるに違いない。
そして駐車違反が激減すれば駐車監視員も必要なくなるし、有料駐車場は儲かるし、事故は減るし、車は走りやすくなるし、(元々駐車違反をしない)善良な市民にとっていいことづくめだ。
性善説に立てばいろんなコストを抑えられる。これはまちがいない。
功利主義の「最大多数の最大幸福」という立場に立てば、(国家あるいは国民同士の)監視を強めていく方向に進む。中国だけでなく、欧米も日本も近い将来そういう方向に進んでいくだろうと著者は指摘する。それは国家が推進するというより、国民自身が「監視される」ことを選ぶだろう、と。市民にとっては得られる利益のほうが多いから。
ぼくもそうおもう。
人間は監視したいんだよね。よく田舎は相互に監視しあっていて全部隣近所に筒抜けになるというけど、それは人間が監視が好きだから。都会人だって、できることなら監視したい。近所に怪しい人が引っ越してきたとかの情報は入手したい。ただキャパシティ的にできないからこれまでやってこなかっただけで。
ところがテクノロジーの発達によって、広範囲かつ多くの人を監視できるようになった。
ということは、これからはどの国も監視社会になる。中国こえーとか言ってる場合じゃない。
中国の状況を読んでいると、「相互監視社会・信用スコア社会も意外と悪くないな」とおもえてくる。
ぼくもGoogleやAmazonといったサービスには、積極的といってもいいほど自分の情報を提供している。なぜなら、情報を提供したほうが使い勝手がよくなるからだ。リスクもあるが、メリットの方が大きいと判断している。
だが、監視社会・相互監視社会も悪くないとおもえるのは、ぼくが日本人・男性・会社員という〝マジョリティ〟の立場に属しているからだ。
この本には中国共産党からウイグル族への弾圧についても書かれている。
よく知られているとおり、中国共産党は新疆ウイグル自治区に対して激しい弾圧を加えている。ウイグル人である、イスラム教徒であるというだけの理由で拘束・拷問・洗脳などがおこなわれている(さらに中国は経済大国なので日本政府含め諸外国は強く非難しない)。
「ウイグル族は犯罪率が高い」などのレッテルを貼り、それを根拠として監視の対象とする、自由を奪うことが正当化されているのだそうだ。抵抗すれば逮捕され、「やはりあいつらは犯罪率が高い」という主張は強化される。
映画『マイノリティ・リポート』で描かれた「将来犯罪をするやつは先に逮捕する」という未来がすでに現実化しつつあるのだ。
新疆ウイグル自治区や香港での弾圧を見ていると、監視カメラが市民の安全確保のためだけに使われるわけではないのは明らかだ。
ぼくが少数民族の人間や外国人であれば、すみずみまで監視カメラがゆきとどいた社会はきっとおそろしいものだろう。少なくとも気軽に「相互監視社会・信用スコア社会も意外と悪くないな」とは言えないだろう。
これから監視社会になるのは、たぶん止められない。
だから最大の問題点は誰が監視するのか、誰がルールを作るかだ。
ルールを作る人間は、まちがいなく自分が有利になるルールを作る。政府も警察も司法も身内には甘い。
「警察がカメラで監視」にすると、警察にとって都合のよい運用をされることが目に見えている。
だから監視社会にするのなら、おもいきって
「監視カメラの映像はリアルタイムで誰にでも見られるにする」
ぐらいにしなきゃだめだ。
それはそれで悪いこともあるだろうけど、一部機関の恣意的な監視よりはずっとマシだ。
ところでこの本、経済学者である梶谷氏とジャーナリストである高口氏による共著なのだが、ふたりの執筆スタンスや文体がまったく違う。
現地の人の声を中心に「中国の現状」を紹介する高口氏に対して、梶谷氏の文章は倫理学や行動経済学の話が中心だ。
個人的には高口氏のパートはおもしろかったが梶谷氏パートは難解で眠くなった(寝る前にこの本を読んでいたので入眠にはちょうどよかったが)。
まったく別の本って感じだったな。
その他の読書感想文はこちら
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