2021年3月26日金曜日

【読書感想文】なぜ動物に人権はないのか / 池上 俊一『動物裁判』

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動物裁判

西欧中世・正義のコスモス

池上 俊一

内容(e-honより)
法廷に立つブタ、破門されるミミズ、モグラの安全通行権、ネズミに退去命令…。13世紀から18世紀にかけてヨーロッパに広くみられた動物裁判とは何だったのか?自然への感受性の変化、法の正義の誕生などに言及しつつ革命的転換点となった中世に迫る「新しい歴史学」の旅。

 中世ヨーロッパでは、動物を被告人とした裁判がおこなわれていた。

 ブタが人間の子どもを食べたとか(昔のブタは今よりもっとイノシシに近くて凶暴だった)、ウシの角に突かれた人が怪我をしたといった事件が起こると、犯人である動物が裁判所に出頭を命じられ、法で裁かれていた。動物の飼い主が、ではない。動物が。

 しかも被告人である動物には弁護人までつき、弁護人は「積極的に罪に加担したわけではない」「やむにやまれぬ事情があった」などと述べて動物を弁護する。その結果、無罪になることもままあったという。一方的に断罪するわけではないのだ(動物からしたら一方的に裁かれていたんだろうけど)。

 さて、この世俗裁判所は、動物裁判においてどんな役割をはたしたのであろうか。
 そこでは、人や家畜を殺傷し、あるいは畑や果樹園を荒らしたブタ・ウシ・ウマ・イヌ・ネコ・ヤギ・ロバなどの家畜が裁かれた。犯罪を犯した動物たちは、その行為が土地の有力者によって確認されると、だちに逮捕され、領主裁判所ないし国王裁判所付属の監獄にほうりこまれる。監禁は、地方の領主の代訟人=検察官が証拠調べ(予審)をするあいだじゅうつづく。そしてそれがすむと、検察官は被告の起訴を請求し、受理されれば、被告の弁護士が任命されて、被告は裁判官の前に出頭を命ぜられるのである。
 裁判がはじまる。証人の証言をきき、被告に帰された事実にかんするかれらの肯定的供述をえたあとに、検察官は論告求刑をなす。それにもとづいて、裁判官は無罪または有事の判決をいいわたす。有罪ならば、たいてい、絞首のあと地域ごとの慣習にのってカシの木なり絞首台なりに後足でさかさ吊りの刑に処し、その後、調書が作成された。

 この動物裁判、かぎられた時代のかぎられた裁判所における「珍裁判」なんだろうとおもいきや、そんなことはない。記録に残るだけでも数百件、記録に残っていない(罪が確定すると裁判記録を燃やすこともよくあったという)ものも多数あったことを考えると、決してめずらしくない出来事だったようだ。

 また被告人になるのはブタやウシといった家畜だけでなく、大発生して作物に損害を与えたとしてネズミや昆虫(もちろん誰の所有でもない)が訴えられたり、植物や、さらには無生物(たとえば鐘)までもが被告人になることがあったという。

 ここで「昔の人はアホだったんだねえ」と言ってしまえばそれまでだが、ふと立ち止まって考えると「なぜ今我々は動物裁判をしないのか」という疑問に至る。


 なぜ動物裁判をしないのだろう。
 なぜ動物は罪の主体にならないのだろう。罪とは何か。

 今の日本で、罪が問われるには「責任能力」が必要になる。未成年や重度の精神障害者が罪に問われないのはこのためだ。
 とはいえ、刑法罪としての罪に問わないだけで、一般人の感覚としてはやっぱり「罪」だ。

 仮に、十歳の子が両親兄弟を皆殺しにしたとする。十歳ならやろうとおもえばそれぐらいはできる。
 その子の親に罰を与えることはできない。被害者だし、すでにこの世にいないのだから。その子自身は刑罰を受けないが、法に則って処遇が決められる。
 なぜその行為に至ったのか、被害者に落ち度はなかったのか、環境によっては殺人を避けられなかったのか。そういったことが十分に検討される。
「まあまあ子どものしたことですから。明日からまた学校に行こうね」というわけにはいかない。
 刑法の「罪」ではないかもしれないが、人々の感覚としては「罪」だ。

 だったら動物が人を傷つけた場合も、同様に裁かないと筋が通らないのではないだろうか。
 たとえば成犬だったらそこそこの知能はある。「むやみに人をかんではいけない」ぐらいのことは理解している。
 犬が飼い主をかみ殺したら、なぜその行為に至ったのか、被害者に落ち度はなかったのか、環境によっては殺人を避けられなかったのか、などを司法機関が検証する必要があるのではないだろうか。「人を殺したから殺処分します」で済ませてしまっていいのだろうか。


 つらつらと考えていると「動物裁判をやっていた中世ヨーロッパのほうがよっぽど人権(っていうのか?)意識が進歩していて、[人間だから/動物だから]で単純に線引きしている今のほうが劣ってるんじゃないか」という気になってくる。

 動物に殺されてしまうのを「不運な事故だった」とおもうか「許されない不当な行為だ」とおもうかは、結局「慣れ」でしかないんだろうな。

「子どもは何をしても罪に問わない」国の人からしたら「日本は子どものやったことでもいちいち裁判にするのか。ばかだねえ」とおもうだろうし、
「子どもも大人と同じように罪に問う」国の人からしたら「子どものしたことだろうと罪は罪だろう。日本は子どもに甘すぎる」とおもうだろう。



 この本では「なぜ動物裁判が一般的におこなわれたのは13~18世紀のヨーロッパだけなのか? それ以前、あるいはそれ以降、また別の地域で動物裁判がおこわれていないのはなぜか?」について考察しているが、それについては「ふーん。あなたの想像ではそうなのね。でも真実は誰にもわからないよね」としか言いようがない。

 著者によると、
 動物裁判がおこなわれた時代は、森を切り拓き狩りが盛んになり動物の家畜化が進んだ時代と重なるから、人間の世界の法を自然に適用しようとしたからだ、また自然を人間より下に置くキリスト教普及の影響もある、だそうだ。

 このへんについては素直に受け取ることができない。
 ぼくの考えでは「その頃たまたま誰かが動物裁判をしたから」ってだけで、大した理由はないとおもう。他の時代や地域で動物裁判がおこなわれていてもぜんぜんおかしくないとおもうな。

 動物裁判の判決のひとつにキリスト教からの「破門」があったそうだ。ネズミや昆虫が大発生すると動物にたいして破門が言いわたされるが、それはけっこう効果があったようだ。

 さらに、破門宣告はあらゆる手だてをつくしたあとにとられる最後の手段であり、その前に、祈橋・行列・十分の一程支払いなどが勧奨され、また悪魔祓いの儀式が、聖水散布・呪いの言葉などによって、しばしば破門宣告に先だっておこなわれたのである。
 記録にもとづけば、破門の効果は、ほとんどいつもてきめんだったようだ。害虫は、破門の結果全滅し、ネズミやイルカは、破門をおそれて、アタフタと退散する。そう信じられた。本当は、昆虫の寿命はもともとごく短いのだし、ネズミなどは、ひととおり穀物を荒らしたら、つぎの獲物を求めてさっさと大移動するのは、むしろ本能的行動だろう。

 なるほどね。特定の動物の大発生なんて長く続くわけないもんね。


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