2020年7月15日水曜日
作者の人生を投影するな
純文学は作家そのもの、みたいな扱いされるじゃない。
作品から「作家の人生を乗せたもの」「魂を込めたもの」を読み取ろうとするでしょ。
「漱石が『こころ』を執筆した背景には私生活で〇〇だったことがある」
「幼少期のこの経験が太宰に『斜陽』を書かせることになった」
とか。
そりゃあ作者に起こったどんな出来事だって「作品にまったく影響を与えてはいない」とは言い切れないけど、考えすぎじゃない?
エッセイや自叙伝、私小説ならまだわかる。
でもフィクション作品は作者とはぜんぜん別の存在だろう。
たとえばさ。
メガネを見て、
「このフレームは小学生のときに都会から田舎に引っ越していじめられた職人にしか出せないしなりぐあいだ」
なんて言う?
言わないよね(もしメガネ業界で言ってたらごめんなさい)。
「このときトヨタは労働組合の力が弱まっている時期だった。この時期に発表されたカローラのボディのラインの自身の無さにはデザイナーの[唯ぼんやりとした不安]が投影されている」
なんて品評もしないよね?
「作品は作者の子どものようなものだ」という人もいるが、子どもだって親とは別人格だ。
子どもを見て親の内面を推しはかろうだなんておこがましい。
他のジャンルはどうだろう。
たとえば絵画。
絵画も人生と重ねられやすい。
このときのゴッホの心境が……なんて言われる。
しかしイラストや漫画だと、基本的に「作品=作者の全人生」にはならない。
たとえば『コボちゃん』なんて40年近くも連載していて植田まさし氏のライフワークと言ってもいいぐらいの作品だけど、コボちゃんから植田まさし先生の心情や人生を読み取ろうとする人はまあいない。
作品は作品、作者は作者だ。
書道や生け花、陶芸のような「芸術」作品は、作者と同一視されそうな気がする。
かといってダンスなんかは、そこで語られるのはあくまでパフォーマンスの良し悪しだ。
その裏に演者の人生そのものまでは見いだされないんじゃないかな。
でも落語だと「古今亭志ん生の生きざまが芸に表れている」なんてことを言われる。
ボーダーがよくわからない。
音楽はどうだろう。
シンガーソングライターの場合はわかりやすい。
尾崎豊や中島みゆきやさだまさしの歌には歌い手の全人生が投影されている、ような気がする。
でもまあこのへんは人によるな。
作詞作曲とボーカルが異なる場合は、まず作者の人生を投影しない。
秋元康が手がけたAKB48の曲を聴いて「この曲のBメロには秋元先生の学生時代にモテなかった記憶が濃厚に表れている」なんてことはふつう言われない。
またアイドルの歌にはアイドルたちの心情がある程度は表出しているのだろうが、それはあくまで「表現」だ。「人生そのもの」とまでは言われない。
芸術品であっても、「作品=作者そのもの」となるかのボーダーは微妙だ。
工芸品であっても人生が投影されるものがある。
たとえば仏像。
仏師の生き様みたいなものが仏様に宿りそうな気がする。
仏像にかぎらず、イエス像でも日本人形でも、手作りの人形は作者の全霊がこもっていそうにおもえる。
もしかしたらイスラム教が偶像崇拝を禁止しているのは、それがアッラー以外の存在(作り手)への崇拝につながるからかもしれない。
しかし人形でも作者の人生が投影されては困るものもある。
ラブドール(ダッチワイフ)とか。
人形に制作者のおじさんの人生が感じられてしまったら台無しだ。
料理もいやだな。
料理人がこれまで歩んできた人生や過去のトラウマなんかが料理に投影されているとおもったら食欲がなくなる。
距離の問題かもしれないな。
ちょっと距離を置いて鑑賞するものは、作者が投影されていてもかまわない。
でも近いものはいやだ。
口に入れるものと身につけるものとかは、作者が投影されてほしくない。
「開発職の人たちがこれまでの人生すべてを注ぎこんだ医薬品」とか、めちゃくちゃ効きそうだけど、効きすぎそうで逆にいやだもんね。
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