言葉の虫めがね
俵 万智
読んでいる途中で気が付いたけど、この本は過去にも読んだことがある。
高校生のときに俵万智氏の著作を読みあさっていたので、たぶんそのときに読んだのだろう。
しかし約二十年ぶりに読みかえしてみると、そのときとは違ったおもしろさがある。
後半は短歌評、前半は「最近の言葉の移り変わり」について書いているが、なにしろ二十年前の「最近」なので今読むと逆に新鮮だ。
列挙ではなく断定を避けるための「とか」や、副詞として使う「超」などが「最近の風潮」として取り上げられているが、そのあたりはすっかり定着した。
2020年の今、「超」を若者言葉とおもっている人はいないだろう(逆におじさんおばさんくさい言葉かもしれない)。
ずっと同じ言葉を使っているようで、二十年前に読んだり書いたりしていた言葉とはずいぶん変わっているんだろうな。
パソコン通信(これも時代を感じるが)について書かれた文章。
たしかにパソコン通信、インターネットの誕生って、活版印刷の誕生と同じくらい言文界にとってはエポックメイキングな出来事だよね。
「名もない人」の「特に価値があるわけでもない文章」が「校正校閲を受けずに」広く読まれる時代ってこれまでなかったわけだからね。
ぼくは、インターネットが広まったここ二十年を、「ばかが明るみに出た時代」だとおもっている。
いやこれぜんぜん悪い意味じゃなくて。
むしろすばらしいことだとおもう。
いつの時代でもどんな場所でもばかっていたわけじゃない。っていうか大半はばか。もちろんぼくやあなたもね。
歴史の教科書を見るとローマ帝国には賢人とか思想家だらけだったような気がするけど、じっさいにはその何百倍、何千倍ものばかがいたはず。
でもばかの思考はまず記録されなかった。
「おもしろいばか」とか「強烈すぎるばか」とかは何かしらの形で取りあげられることもあったかもしれないけど「笑えないタイプのばか」とか「平均をやや下回るばか」とか「一見まともなこと言っている風のばか」とか「他人の意見をそれっぽく使いまわすだけのばか」とかは履いて捨てるほどいるうえにおもしろくもないから、そいつらの発言は残らなかった。
会って話せば「ばかがばかなこと言ってら」とわかるけど、誰もそれを記録しないからそれっきり。
だけどインターネットの普及によって誰でも情報発信できるようになった。
まだパソコンを使うにはある程度の情報リテラシーが必要だったけど、スマホの登場によってそれすらも必要なくなった。
誰でも、世界に向けて情報発信できるようになった。
世界に向けて情報発信するような価値のない言葉を。
ぼくが子どものころ、大人はみんなちゃんとしているとおもっていた。
みんな思慮深くて感情をコントロールできて自制心があって少なくとも義務教育レベルのことは確実に理解しているものだと。
でも、今の子どもって昔ほどそんな幻想を抱いていないんじゃないだろうか。
インターネットに接続すれば、あほな大人、身勝手きわまりない大人、子どもより子どもっぽい大人の姿をかんたんに見ることができるのだから。
いいことなんだろうか。悪いことなんだろうか。
自作短歌の舞台裏。
『サラダ記念日』だったか『チョコレート革命』だったかに収められていた歌だと記憶しているが、なるほど個人的には「先生を万智ちゃんと呼ぶ子らがいて」のほうがしっくりくる。
ぼくが通っていた高校では、気に入らない教師は呼び捨て(または不名誉なあだ名)だったが、人望のある教師は「〇〇さん」と呼ばれていた。
「〇〇さん」は生徒たちからの最上級の敬称だった。
形式的には「〇〇先生」のほうがより敬意のある言い方ってことになるんだろうが、じっさいはそうではない。
「〇〇先生」はよそよそしさのある呼び方だ。ほとんど話したことのない教師に対する呼び方。
一方「〇〇さん」は人間として信頼できる教師に対する呼び方だった。あの人は機嫌ひとつで態度を変えたりしない、生徒によって接し方を変えたりしない、言動が一貫している、もしも誤ったときは素直に間違いを認められる人だ。そんな評価が下された教師が「〇〇さん」と呼ばれていた。
教え方がうまいとか、怒るとこわいとか、そんなことは関係がない。
授業が退屈でも、怒るとヤクザのような言葉遣いをしても、生徒に対して誠実な対応をする教師は「〇〇さん」だった。
だから俵万智先生に「万智ちゃーん、バイバーイ」と声をかけた生徒の気持ちがよくわかる。
きっと最上級の敬称だったんだろうな。
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