最近、二回寄附をした。
ひとつは、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)への寄附。世界各国の難民援助に使われるのだという。
駅前で寄附を呼びかけていたので、ちょうどシリア難民の本を読んでいたこともあり、月々2,000円ずつ寄附をする手続きをした。
もうひとつは、娘の通っている保育園。
園舎が老朽化しているが保育料だけでは改修・補強費用を捻出するのが厳しいので5,000円の寄附をお願いします、というお便りが来た。5,000円を支払った。
どちらも自分で意志でしたことだ。お願いはされたが断っても良かった。
でも、少しでも貢献できるなら、という思いで寄附をした。自己満足のためだ。
しかしどうも満足感が得られない。自己満足のためにやったのに。
後悔しているわけではないが、「やった! いいことした! ぼくえらい!」という感触が得られない。
「おかげで難民の家族で二ヶ月分食べていく食糧が手に入りました」
とか
「保育園の階段のこのくずれかけていた部分は〇〇さんの寄附金で修復しました」
みたいな成果がわかりやすく目に見えればいいんだけど。
が、まあそれはむりな話だ。
難民がぼくと会うことはないだろうし、難民だっていちいち寄附した人に感謝なんかしてないだろう。ぼくも道路を歩くたびに納税者に感謝なんかしない。
思うに、何ももらえないのが「満足感のなさ」につながっている気がする。
いや寄附ってそういうもんでしょと言われたらそれまでなんだけど、やっぱり何かほしい。
「寄附してない人と寄附した人が同じ」ってのが嫌なんだろうな。なんか損した気分になる。
市場経済にどっぷり浸かって暮らしているぼくとしては、お金を払った以上は何かもらいたい。品物なりサービスなり。「何ももらえないけど2,000円寄附する」よりも「UNHCR限定ボールペンを3,000円で買う」のほうが心理的抵抗が少ない。100円で売ってるような安いボールペンでもいいから。
ほら、赤い羽根共同募金みたいなの。あんなんでいいのよ。赤い羽根。あんなのべつにいらないでしょ? あんなのつけてるの小学生と代議士だけでしょ。でもあれをもらえることで、寄附への抵抗がぐっと下がる。
海外の映画を観ていると、子どもたちが「恵まれない子どもたちのためにクッキーを買ってください」なんて言いながら家をまわるシーンが出てくる。
あれ、すごくいい。「寄附してくれ」じゃなくて「クッキー買って」というのがいい。あれならお願いする側も卑屈にならなくてすむし、お願いされる側も応えやすい。
ハロウィンのトリックオアトリートとかどうでもいいから、ああいう習慣を日本でも取り入れたらいいと思う。
「いやいや見返りがないからこそ寄附という行為は価値があるのだ」と高邁な精神をお持ちの方はいうかもしれないけど、ぼくみたいな俗物はやっぱり見返りがほしいんだよ。
ああ、小さい人間さ。
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