2017年11月17日金曜日

ロフトのある部屋


ロフトのある部屋に住んでいたことがある。
そう、部屋の中に急な階段があって、部屋内二階みたいな小さいスペースがあるアレ。


不動産屋に連れていかれてロフトを見た瞬間、即決した。

駅から遠かったけど、マンションの前はつぶれたラブホテルだったけど、そのつぶれたラブホテルは近くの外国人パブの寮になっていて南米人のおねえさんたちがやかましかったけど、「ロフトがあるのに住まない理由はない!」と思って即決した。

その部屋にはロフトはあるけど洗面所がなかった。
なんでなかったんだろう。風呂はあるのに洗面所はない。トイレの中に手洗いスペースはついているのに洗面所はない。今考えてもふしぎだ。
吉田戦車『伝染るんです』という漫画に、隠されていた洗面所を発見して「うちにも洗面所があったんだ!」と大喜びする家族が出てくる。ぼくも「どこかに洗面所が隠れてるんじゃないだろうか」と探しまわったけど、やっぱりなかった。
決して狭い部屋ではなかった。ロフトもあったし。廊下もあったし。なのに洗面所だけがなかった。
廊下のドアを開けると、そこが浴室だった。不動産屋と内見に行ったときはなんとも思わなかったけど、引っ越してきた日の晩に風呂に入ろうとして「あれ? どこで服脱いだらいいんだ?」と困惑してしまった。
まあひとり暮らしだからいいかと思って廊下で服を脱いだけど、すごく背徳的な気分になった。あと風呂から出たらそこが廊下なわけで、ぼくはあまり身体を拭かずに風呂から出る人間なので廊下がびしょびしょになった。
洗面所がないからひげを剃るのは風呂場だった。健康とか愛する家族とか失ってはじめてそのありがたさに気づくものっていくつかあるけど、洗面所もそのひとつだと気づいた。すごく不便だった。

しかしその不便さを補って余りあるのがロフトの存在だった。
だってロフトだもの。隠れ家感すごくない? ひとり暮らしなのに誰から隠れるんだよって冷静に考えたら思うけど冷静さなんかロフトの前ではひとたまりもないよね。

引っ越した当日、さっそくロフトに布団を持ってあがって寝た。
ベッドもあったがだんぜんロフトのほうが魅力的だ。
おまけにロフトの上には天窓があった!
布団にあおむけになると、目の前に星空が広がっているのだ。最高じゃないか。もっとも裸眼だと星なんかちっとも見えないぐらい視力が悪いのだけれど。
「もしこの天窓から誰かが顔をのぞかせたら超こわいな」と思ったらめちゃくちゃ怖くなったので、それは考えないことにした。



引っ越して一週間ぐらいすると、完全にロフトを持てあますようになった。

なにしろ不便なのだ。
ロフトの上にはコンセントがなかった。テレビとかパソコンとか充電器とか、電化製品を持ちこめないのだ。

はじめはロフトの上に布団を敷いて寝ていたが、トイレに行きたくなったときに急な階段を降りるのは面倒だった。またシーツを洗ったり布団を干したりするたびに階段を昇り降りするのもたいへんだった。すぐにベッドで寝るようになった。

書斎にしようかと思ったが、ロフトの上は薄暗く、夜の読書に適していなかった。電気スタンドを持って上がってからコンセントがないことを思いだし、すごすごとスタンドを片手に階段を降りた。

物置きにしようかと思ったけど、ぼくの趣味と呼べるのは読書ぐらいだ。本がいっぱい詰まった重い段ボールを抱えてはしごを上がるのは危険きわまりない。おまけに先述したようにそこそこ広い部屋だったので、わざわざロフトに上げなくても階下に十分本を置くスペースがあった。

また、ロフトの上にある天窓を開けると風が通りぬけてすこぶる気持ちよかったのだが、すぐに天窓から大量の虫が入ってくることに気がついた。天窓には網戸がなかったのだ。
生ごみに群がる小バエを掃除機で吸いながら、二度と天窓を開けるものかと心に誓った。

そんなわけでロフトは引っ越しのときに使った段ボール置き場となり、天窓を開けることもなく、ひと月もしないうちにぼくはロフトに昇らなくなり、階段は無用の長物となった(それどころかときどき足の小指をぶつける凶器と化した)。

それからぼくはロフトと階段を見ると憎々しい気持ちになるのでなるべく見ないようにして(だから小指をぶつけたのかもしれない)、洗面所のない部屋で小バエと戦いながら暮らした(天窓を閉めてもどこからか小バエが入ってきたのだ)。
外国人パブのおねえさんたちが露出の多い服でうろうろしていること以外にいいところはない部屋にうんざりして、仕事を辞めたこともあり、わずか四カ月でロフトのある部屋を引きはらった。

たぶん二度とロフトのある部屋に住むことはないだろう。


2017年11月16日木曜日

1970年頃の人々の不安/手塚 治虫『空気の底』【読書感想】


『空気の底』

手塚 治虫

【目次】
ジョーを訪ねた男
野郎と断崖
グランドメサの決闘
うろこが崎
夜の声
そこに穴があった
カメレオン
猫の血
わが谷は未知なりき
暗い窓の女
カタストロフ・イン・ザ・ダーク
電話
ロバンナよ
ふたりは空気の底に
手塚治虫中期の短篇集。
これらの作品が発表されたのは1968~1970年。この3年間に起こった事件を調べてみると、3億円事件、学生運動による東大入試中止、人類初の月面着陸、大阪万博、よど号ハイジャック……。なんとまあ盛りだくさん。超濃密な3年間だね。
今ぼくが「昭和」という言葉から漠然とイメージするのはこのあたりの時代だな。高度経済成長で勢いがあり、公害や安保闘争といった社会のひずみが表面化した時代でもある。

で、そんな時代の空気を色濃く反映した、グロテスクで虚無的な内容の短篇が集まっている。
ベトナム戦争帰還兵と黒人差別を絡めた『ジョーを訪ねた男』、田舎の村に伝わる伝説と公害病をつなげた『うろこが崎』、東京に核爆弾が落とされる『猫の血』、人類最後の生き残りの恋愛を描いた『ふたりは空気の底に』など、なんとも救いのないショートショートが並んでいる。オチは鋭くないが、じわっとした不快感・不安感が広がる。

1970年頃の人々の不安を表しているんだろうな。
冷戦まっただなかで、いつ核戦争がはじまるかわからない世界情勢。公害や環境問題が問題視され、科学の進歩の先にあるのが希望ではなく絶望ではないかと気づきはじめた時代。それが手塚治虫の漫画ににじみ出ている。

こうした不安は今でも解消されていないけど、たぶん50年前よりはずっと軽減されている。
今でもあちこちで戦争は起こっているけど、世界中を巻きこむ大国同士の核戦争はたぶんしばらく起こらないだろう(とぼくらは思っている)。
エネルギー不足や環境問題は依然としてあるけれどひところよりは状況が改善しているし、きっとどこかの賢い人が解決してくれるだろう(と思っている)。

今のぼくたちが抱えている不安は「貧困への不安」じゃないだろうか。
50年前、それなりの会社に勤めていて、子どもにも恵まれた人は「将来自分が貧困生活を送るかもしれない」という不安はどれぐらい感じていたんだろう。想像するしかないけど、ほとんど感じていなかったんじゃないだろうか。暮らしは右肩上がりで良くなっていくし、年金はあるし、困ったら子どもが助けてくれる。そんな思いが強かったはずだ。
今それと同じように将来に対して楽観視している人はほとんどいない。会社勤めでも、そこそこの貯金があっても、年金に加入していても、子どもがいても、その不安は拭えない。
若者が減って老人が増えて人口が減っていくという人類が経験したことのない時代に直面して、ぼくらは貧困生活に転落しないかと不安でいっぱいだ。



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2017年11月15日水曜日

ヴァカンス・イン・桂林


今までいちばん贅沢な時間を過ごしたのはいつだろうと考えてみると、十数年前に中国・桂林で過ごした日々に思いあたる。

学生の貧乏旅行で友人ふたりと中国をまわり、中国南部の桂林という田舎町に数日滞在して、鉄道でベトナムに渡る予定だった。
ところがハプニングがありチケットが取れず、最終的に旅行会社と喧嘩をして「だったらいらんわ!」と日本語で啖呵を切って、ビザが切れるギリギリまで桂林に滞在することになった。今だったらスマホでささっと検索をして新しい目的地を見つけるんだろうけど、そこまでインターネットが身近でもなかった時分のこと、また中国各地を転々とする生活に疲れていたこともあり、そのまま桂林に二週間滞在することにした。

当時の北京の物価が日本の十分の一ぐらいだったが、桂林はもっと安く、三元(五十円くらい)出せば腹いっぱい飯を食えた記憶がある。外国人向けのわりと上等なホテルに泊まっていたが、それでも一泊千円くらいではなかったか。だから学生でも悠々とホテル住まいができたのだ。日本でひとり暮らしで自炊生活をするよりも中国でホテル住まい&外食のほうが安くつくぐらいだった。

ほとんどの人は桂林と聞いてもぴんと来ないだろう。それもそのはず、特に何もないからだ。
一応鍾乳洞とゾウの鼻みたいな形をした岩が有名だったが、そんなものは一日あれば見てまわれるので、あっというまにやることがなくなった。
ぼくは気管支炎になって病院に行き、そこでなぜか医者(若い兄ちゃん)に誘われて一緒に食事をして観光地をまわったり、飯を食いに行った店でなぜか料金を請求されなかったのでそのまま何食わぬ顔で店の外に出て食い逃げに成功したりしたが、めずらしい体験と呼べるのはそれぐらいであとはのんべんだらりと過ごしていた。

朝起きると、ホテルの食堂に飯を食いにいく。餃子や中華饅頭といった点心を食う。
午前中の涼しいうちに近所の商店街を散歩して、暑くなってきたらホテルに戻ってテレビ観戦(中国では人気なのか、やたらとビリヤードやモータースポーツの番組をやっていた)。昼頃近くの丼屋に行く。丼の上に好きな具をトッピングしてもらえるシステムの店で汗をかきながら昼めし。汗をかいたのでホテルに戻り、シャワーを浴びて昼寝。
夕方涼しくなってきたら街に出て、目についた店でビールを飲みながら夕食。一元(十五円ぐらい)のアイスクリームを食べながら夜の街を散歩してホテルに戻り、床に就く。

というなんとも自由気ままで自堕落な生活を送っていた。こんな暮らしを十日ばかり。今思い返しても天国のような日々だ。
史上最高に贅沢な時間だった。何が贅沢って「何もしない」ということが贅沢だった。もう二度とあんなゆとりのある暮らしはできないかもしれない。

トッピングを選べる丼屋。最高にうまかった。

とはいえ、わずか二週間ばかりの期間と数万円のお金があればできる贅沢だから、その気になればいつでもできるんだけどな。ちょっとした勇気の問題なんだが。
ヨーロッパの人たちは夏にまとまったヴァカンスをとると聞くから、毎年そんな生活をしているのだろう。なんともうらやましい。日本人にはなかなか心理的ハードルが高い。
ドラえもんのマッドウォッチ(時間の進み方を部分的に早くしたり遅くしたりできる道具)が実用化されるのをただ待つばかりだ。


2017年11月14日火曜日

行司にスカウトされた男/三十六代 木村庄之助『大相撲 行司さんのちょっといい話』【読書感想】


『大相撲 行司さんのちょっといい話』

三十六代 木村庄之助

内容(e-honより)
大相撲生活49年!その正確な裁きと美しい所作から名行司と称され行司の最高位「木村庄之助」を襲名。その後、惜しまれつつ引退した著者がコッソリ明かす、土俵のウラ話エッと驚き、フムフムと納得!大相撲ファンはもちろん、「裏方仕事」に興味津々の方も必読!

まず悪い点を言っておくと、つまんねえタイトルだってことだね。
なんかコンビニに並んでる安っぽいマンガのタイトルみたい。

まあタイトルはべつにして、内容はおもしろかった。

こないだ 『進学か、就職か、それとも行司か って記事を書いたんだけどね。
行司ってどんな人がなるんだろうと疑問に思ったよって話。力士はわかるじゃん。身体が大きくて力持ちがなるんだろうなって。でも行司を志す理由はよくわかんないなって。
この本に答えは書いてありました。今は相撲好きの少年や体格が伴わず力士になることを断念した少年が志願するらしい。でも三十六代木村庄之助さんの場合は、なんと"スカウト"だったんだって。
相撲部屋の親方のほうから鹿児島にいる少年を「君、行司になる気はないか」って誘ってきたのだとか。スカウトされて力士になったって話は聞いたことあるけど、行司もスカウトするのか。
そうやってスカウトした少年が後々行司の最高位となる木村庄之助になったわけだから、スカウトした親方の目に狂いはなかったわけだ。どこに光るものを感じたんだろうね。公平かつ迅速なジャッジをしそうとか、見る人が見ればわかるものなのかね。




一年を 二十日で暮らす いい男
って狂歌がある。
昔の相撲は年に二場所、一場所十番しかなかったから年に二十回相撲をとるだけでいいなんてうらやましい身分だ、って意味。もちろん稽古だの巡業だのあるけれど。

でも、もっといい男なのが行司だね。なんたって最高位木村庄之助ともなれば行司を務めるのは一日に一番、結びの一番だけなんだから。ハッケヨイって言っておけばいいんだから楽な商売だ。
なんて思いません? ぼくは思ってましたよ。

 行司の仕事は大きく分けて、5つあります。
 1つ目は、土俵に上がって、相撲の勝負を裁くこと。そして2つ目、本場所中は毎日、審判部と協議して、力士の取組を作ることもします。翌日の取組は、前日までの力士の星取表をあれこれ見比べながら、より盛り上がる取組を考えて、組み合わせていきます。3つ目は番付を書く(相撲字の習得)こと。また4つ目、本場所のとき「東方、稀勢の里、茨城県牛久市出身、田子ノ浦部屋」という場内アナウンスをおこなうのも、行司です。最後の5つ目には、地方巡業の時の会計や、引退相撲、力士の冠婚葬祭などのイベントごとの事務作業に携わるという業務もあります。

いろんな仕事してたんですね、ごめんなさい。
番付を書いたりアナウンスするのも行司なのね。意外。
体力、瞬発力、判断力、発声、書道、経理能力、事務処理能力などいろんなスキルが求められるわけで、これはたいへんな仕事だあ。

中でも番付を書くのはたいへんそう。
なんと手書きで、しかも下書きなしの一発勝負で書いているらしい。おまけに相撲字という独特のフォントを習得しないといけないため、番付を書くまでには何年もの修業が必要なのだとか。

 会議に立ち会った私は、自分自身で一覧表を作り、後日、相撲協会から出た正式なデータと見比べて、間違いがないかをチェックします。
 3〜4日間かけて、データをチェックした後、今度は協会に届いている改名届や引退した力士の情報をチェックして、人数を合致させる。それで、ようやく翌場所の番付を書く上でのデータが完成するのです。
 その後、助手2人と私で、データの読み合わせをおこなって、誤りがないか再度確認。「番付がすべての世界」であるがこそ、こうした作業はきっちりおこなわなければならないのです。
 番付を書くのは、10日間です。
 1日7時間から10時間程度、途中で1時間に1度は筆を休めながらの長丁場です。

ひゃあたいへんだ。しかも下書きなしで筆で書いていくわけだから、一ヶ所でもまちがえたら最初からやりなおしなのかな……。おお、おそろしい。[ ctrl ] + [ z ]で元に戻すってわかにはいかないもんね。
集中力のないぼくみたいな人間にはぜったいにできない仕事だ。こないだふざけて「行司になる道もあったのに進路指導の先生は教えてくれなかった!」って書いたけど、そうか、先生はぼくにはその資質がないと思ったからあえて行司を勧めなかったんだね。さすがだ先生、仰げば尊しわが師の恩。



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2017年11月13日月曜日

冤罪は必ず起こる/曽根 圭介『図地反転』【読者感想】


『図地反転』

曽根 圭介

内容(e-honより)
総力を挙げた地取り捜査で集められた膨大な情報。そのなかから、浮かび上がった一人の男。目撃証言、前歴、異様な言動。すべての要素が、あいつをクロだと示している。捜査員たちは「最後の決め手」を欲していた―。図地反転図形―図と地(背景)の間を知覚はさまよう。「ふたつの図」を同時に見ることはできない。ひとたび反転してしまったら、もう「元の図」を見ることはできない。
『鼻』『藁にもすがる獣たち』『熱帯夜』に次いで、曽根圭介作品を読むのは4作目。
今まで読んだ中でいちばんシリアスな話だった。
他の作品はグロテスクな描写の中にもどこか乾いたユーモアがあったのだが、『図地反転』は冤罪という重いテーマを扱っていることもあってか終始落ち着いた筆致だった。
個人的には曽根圭介のブラックユーモアが好きなのでちょっと寂しいね。

静岡県で起こった女児殺人事件を軸に、かつて妹を殺された刑事、実の娘からいわれのない罪を着せられている老人、無実の罪で服役していたと主張する元受刑者とそれぞれ立場の異なる三人の行動が語られる。
複雑にからんだプロットは曽根圭介らしいのだが、いくつかある謎は最終的に半分くらいしか解決しない。
放りだすような終わり方なのでスッキリ解決するミステリを読みたい人にはおすすめできないけど、個人的にはこういうしこりの残るエンディングは嫌いじゃない。冤罪事件という一筋縄ではいかないテーマを扱っている以上、安易なハッピーエンドにするよりも余韻を残して読者にパスして終わるほうが誠実だと思う。

とはいえ満足のいくミステリだったかというと、いやそれは……。
たぶんタイトルが良くなかったんだろうな。
タイトルの『図地反転』は、見方によってまったく異なるものが見える図形のことなんだけど(有名なのは表紙にも書かれているルヴィンの壺)、『図地反転』にそこまでの意外性のある展開はない。
あっと驚くどんでん返しを期待して読んでしまうタイトルだけに「えっ、ぜんぜん意外じゃないじゃない……」と肩透かしを食らってしまった。

たぶん同じように感じた読者が多かったのだろう、文庫版では『本ボシ』に改題されている。そのタイトルもいまいちしっくりこないけど『図地反転』よりはまだましかなあ……。



ぼくが "冤罪" について思うのは、いいかげんに冤罪は起こりうるという前提のシステムをつくろうよ、ってこと。
これまでにも多くの冤罪事件が起こっているし、まちがいなく今後も起こる。殺人事件の冤罪なんかだと大きく報道されるけど、軽微な犯罪だったらもっとたくさん起こっているんだろう。
とはいえあんまり冤罪を気にしすぎるあまり未解決事件が増えるのもそれはそれで良くない。このへんの綱引きは難しいところだ。

もちろん冤罪が起こらないに越したことがないけど、「冤罪をなくせ」ってのは意味がない話で、なくせるものならとっくにやっている。
ミスをなくすシステムは作れないのだから、ミスを減らすシステム、ミスが起こったときにリカバリーできるシステムを作らなきゃいけない。

だったら「一定数、冤罪は起こりうる」という前提で、冤罪被害をできるだけ小さくすればいい。
具体的には刑が確定するまで報道は差し控えるとか、実名報道はやめるとか。冤罪で受けるダメージって、拘束されるという時間的被害も大きいけど、著しく名誉が傷つけられてその後の人生に悪影響が出るってことも大きい。新聞でもテレビでも、無実の罪で捕まったときは実名で大きく報道されるのに、無罪だとわかった瞬間に匿名になるからね。逆だろ。

今の世の中って警察に対しても犯罪者に対しても、「一度ミスを犯した人に対して異常に厳しい社会」だよねえ。いや昔はもっとそうだったのかもしれないけど。
もうちょっと寛容であってほしいと、しょっちゅう人生の過ちを犯している人間としては切に願うばかり。

【関連記事】

清水潔 『殺人犯はそこにいる』




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2017年11月12日日曜日

おっさんにも人権を


痛ましい事件があったときにニュースで流れる「被害者の善良っぷり」がイヤだ。

小学校の同級生とかに「小さい子の面倒をよく見る優しい子だった」とか「美容師になりたいという夢を持っていた」とか語らせるアレ。

それで事件の残酷性や理不尽さを伝えたいんだろうけど、じゃあなにかい夢を持たない優しくない人だったら死んでもいいのかよ、と思ってしまう。
意地悪でその日暮らしの生活を送っている人は殺されても仕方ないのかよ、と。

「優しい少女の命がある日突然奪われるなんて絶対に許せない」というのは裏を返せば「優しくない少女が死ぬのはまあ許せる範囲か」ということだろう。そんなことあるかい。

被害者の人間性にかかわらず犯した罪の重さによって裁かれるのが法治国家というものだ。
気に入らないから石を投げてやれ、という前近代的な姿勢がまかりとおっていることには違和感をおぼえる。


あと「子どもや女性を狙った卑劣な犯行」って表現にも納得できない。
大人の男を狙った犯行は潔いのかよ。おっさんも庇護してくれよ。
善良なおっさんにも、あんまり善良じゃないおっさんにも人権をくれよ。


2017年11月11日土曜日

タイムカプセルの中にはシャケのおにぎり


高校三年生の秋。卒業まであと半年。
ぼくらは勝手にタイムカプセルを埋めた。

テスト期間中だった。
部活もないし、試験が終わるとみんなさっさと帰ってしまう。教師たちは採点や翌日以降の試験の準備に追われている。校門とは反対方向の北グラウンドに行く人なんて誰もいない。そのタイミングを狙ってやった。計画犯だ。
六人ぐらいで埋めたと思う。

タイムカプセルとして埋めたのは未来の自分に宛てた手紙と、成績表と、食べかけのおにぎりだった。おもしろいと思ったのだ。愉快犯だ。
タイムカプセルは湿気でダメになるという話を聞いていたので、缶の箱に手紙とおにぎりを入れ、セロテープで密封し、ビニール袋で二重にくるんだ。

北グラウンドにはちょうどいい具合に大きめのスコップが置いてあった。大きな樹から十メートル南に歩いたところに一メートルくらいの穴を掘った。
そんなに掘らなくてもいいのに掘っているうちに楽しくなってしまったのだ。一メートル掘ったが、掘り起こすときのことを考えて三十センチぐらいの深さのところにタイムカプセルを埋めた。



タイムカプセルを堀りかえしたのはそれから二年後、成人式の翌日。ちょうどみんな帰省してくるのでその日にした。この機会を逃すともしかするともう一生全員そろうことはないかもしれない。一月にはめずらしいぽかぽか陽気の日だった。


高校に入り、まっすぐ北グラウンドに向かった。
さて掘りおこそうと思って気がついた。スコップがない。
埋めたときはちょうどいい塩梅に転がっていたのに、今はない。スコップがなくなったという変化に二年という時の重さを感じて愕然とした。嘘だ。
あちこち探しまわって、駐輪場にツルハシがあるのを見つけた。少し扱いづらいが、掘れないことはない。北グラウンドでツルハシを振るっていると、体育教官室のほうから体育教師五人がこちらに近づいてきた。ジャージ、スポーツ刈り、重心の低い体形。体育教師の特徴を存分に兼ね備えたおじさんたちがやってくるのはなかなか迫力がある。そのうちのひとりが大声で叫んだ。「こらー! おまえら何やっとんじゃー!」

無許可で高校に入っているところを見つかったのだから怒られてもしかたない。現行犯だ。
とはいえOBにもなって教師からこんなに怒られるとは思ってなかった。
ぼくらがびっくりして立ちすくんでいると、体育教師のひとりが「あれ? おまえらか」と言った。ぼくらの顔を思いだしてくれたらしい。ほっとした空気がチーム体育教師の間に流れたのを感じた。

よくよく聞いてみると、生徒から「若者の集団が北グラウンドで刃物をふりまわしている」という通報が入り、それで体育教師たちが集団で駆けつけたらしい。
手にしているツルハシを見た。なるほど、たしかにこれも刃物にはちがいない。そういやその二年ぐらい前に、小学校に男が侵入して小学生を殺傷するという事件があって世間をにぎわせていた。特に過敏になっていた時期だったのだろう。

ぼくらは大学生だからみんなだらしない恰好をしているし、中には金髪にピアスのやつもいる。そんなやつらが刃物を持っているという通報があったのだから、教師たちもびっくりしたことだろう。すまないことをした。でも穴を掘っているだけで怒鳴りつけられたぼくらもびっくりした。

「何やっとるんや」
 「タイムカプセルを埋めたので掘り起こしてるんです」
「おまえら、まだそんなあほなことやっとるんか。そういうのはもっと時間たってから掘りかえすもんやろが」
 「じゃあまた十年後に掘りに来てもいいですか」
「あほか。そのときは確実に警察呼ばれるわ」
 「じゃあ今掘らせてください」
「掘りおわったらちゃんと穴埋めとけよ。あとツルハシは元あったところに返しとけよ」

そういって体育教師たちは立ち去っていった。おっかなかったが目が笑っていた。



掘り起こしたタイムカプセルは、どろどろに腐食していた。
ビニール袋自体が溶けており、缶は錆びていた。人工物がたった二年でこんなにも腐食するのかと自然の力に驚いた。
缶の中身はびちゃびちゃだった。缶を開けたやつが「おえっ」とえづいた。おにぎりのにおいだった。おもしろいと思って一緒に入れたのだが、ぜんぜんおもしろくなかった。怒りしか湧いてこないにおいだった。枝でつついておにぎりをばらばらにしてみると、茶色い米の中から真っ黒になったシャケが出てきた。動物性のものだからか、特にシャケのにおいが強烈だった。
手紙は水で濡れて貼りついていたのでほとんど読めなかった。

結果を見ると、ぼくらのタイムカプセル作戦は失敗だった。
手紙は読めなかったし、体育教師から怒鳴られた。
けれどそのとき撮った写真はみんな気持ちいいぐらいの笑顔で写っている。冬の晴天の日にふさわしい、失敗したことからくるからりとした顔だった。


タイムカプセルを掘り起こした経験のおかげでいくつものことを学んだ。
素人にタイムカプセルは難しいこと。穴を掘るときはスコップを持参すること。母校といえども学校に入るときはきちんと許可をとったほうがよいこと。そしておにぎりを埋めるならシャケじゃなくて昆布ぐらいにしておいたほうがいいこと。


2017年11月10日金曜日

記憶喪失に浮かれていた


クラスメイトが記憶喪失になった。高校生のときのことだ。


担任から「昨日クラスメイトのKくんがラグビーの試合中に激しくぶつかって、その衝撃で記憶喪失になった」と聞かされたときの衝撃は忘れがたいものがある。

「心配だ」という気持ちも1%はあったが、その99倍の好奇心が胸のうちを占めた。

みんな等しくきょろきょろと周囲を見まわし、落ち着かない様子で「記憶喪失?」「記憶喪失になったの?」と担任から言われていたことをおうむ返しにしていた。


みんな同じ気持ちを持っていたのだと思う。

「あの、ドラマや漫画でおなじみの記憶喪失が、現実に……!?」という興奮だ。

"白馬に乗った王子様" や "青い光とともに降り立つ宇宙人" と同じくらい非現実的な「ここはどこ? 私はだれ?」がまさか現実に……。

もし担任が「昨日Sさんのもとに白馬に乗った王子様が迎えに来ました」と言ったとしても、きっとぼくらは同じような反応をしていただろう。


ぼくらははじめて遭遇する記憶喪失に浮かれていた。完全に浮かれていた。

だって未知との体験なんだもの。

そんなぼくらに向かって釘を刺すように、担任は云った。
「思いだしたくても思いだせない状態やからな。刺激やストレスを与えたらあかんらしい。だから無理に昔のことを思いださせようとしたらあかんで」



記憶は失ったもののそれ以外に大きな問題はなかったのだろう、一週間くらいでKくんは学校に復帰した。

ひさしぶりに登校してきたKくんを、ぼくらは遠巻きに眺めるだけだった。

「昔のことを思いださせたらいけない人」と何を話せばいいというのだろう。
以前からの知り合いが何を話したって「刺激やストレス」になるんじゃないのか。
だからといって「はじめまして」というわけにもいかないし。

腫れ物にさわるように遠くからKくんを見つめるだけのクラスメイトたち。

そこに、Nくんが登校してきた。


Nくんはとても優しい男だったのだが、ひとつ大きな問題があった。
心がきれいすぎるあまり、まったくデリカシーがなかったのだ。
友人がとある女の子にひそかな恋心を抱いていると聞いて、「よし、〇〇と××ちゃんが仲良くなれるよう協力しようぜ!」と当の女の子にも聞こえるぐらいの大きな声で言っちゃうぐらいデリカシーがないやつだった。

Nくんは、ひさしぶりに登校してきたKくんの姿を見つけ、一片の躊躇もなく彼の席に近づき、
「おうK、ひさしぶり! おまえ記憶喪失になったんやって? おれのこと覚えてるー?」
満面の笑顔で話しかけた。

遠くからその様子を見ていたぼくらは凍りついた。

こいつ……。なんてデリカシーのないやつ……。

「刺激を与えてはいけない」「無理に昔のことを思いださせようとしてはいけない」という掟を、いともかんたんに背面跳びで飛び越えてしまった。

言われたKは、泣きそうな顔を浮かべて困ったように小さく首を振った。

「そっかー。早く思いだしてくれよ!」

一切の屈託もない笑顔でさわやかに手を振るNくん。

こういうやつが、サボテンに水やりすぎて枯らしちゃうんだろうな、とそのときぼくは思った。



2017年11月9日木曜日

驚異の行動力をもった公務員/高野 誠鮮『ローマ法王に米を食べさせた男』【読書感想】

『ローマ法王に米を食べさせた男
過疎の村を救ったスーパー公務員は何をしたか?』

高野 誠鮮

内容(e-honより)
北陸・能登半島の西端に位置する石川県羽咋(はくい)市は、かつて「UFOの里」として町おこしに成功し、NASA特別協力施設の宇宙科学博物館「コスモアイル羽咋」開設等で話題を呼んだ。その仕掛け人が、科学ジャーナリスト、テレビの企画・構成作家を経て帰郷し、羽咋市役所の臨時職員となった高野誠鮮氏だ。正職員に昇格した同氏はその後、過疎高齢化で「限界集落」に陥った農村を含む神子原(みこはら)地区の再生プロジェクトに取り組む。年間予算わずか60万円ながら、数々のユニークなアイディアにより、4年間で若者の誘致や農家の高収入化に成功した。本書では、「スーパー公務員」と呼ばれた高野氏自らが、プロジェクト成功までの経緯、方法、考え方等を公開。その後の取り組みも含め、地方創生のあり方に一石を投じている。著者は現在羽咋市教育委員会文化財室長。

おもしろかった!
過疎化・超高齢化が進む石川県羽咋市の神子原地区を「UFOの里」「ローマ法王が食べた米の生産地」として有名にした市職員の話。

書かれている話題は大きく三つ。
「どうやって神子原地区の農業の収益を高めたか」「UFOを使っての町おこし」「無農薬栽培でTPPに勝つ」
最後の無農薬栽培のあたりは『奇跡のリンゴ』を読んでいたので(感想はこちら)より理解しやすくておもしろかった。併せておすすめ。

この人の話はおもしろすぎるので話半分に聞かないといけないが、それにしてもこの行動力には驚嘆。

 神子原を英語に訳すと、
「the  highlands  where  the  son  of  God  dwells」
 になる。「サン・オブ・ゴッド」は「神の子」、神の子といえば有名なのはイエス・キリストではないか。すると神子原は、キリストが住まう高原としか翻訳できないんです!
 ならば、キリスト教で最大の影響力がある人は誰か? 全世界で11億人を超える信者数がいるカトリックの最高指導者であるローマ法王(教皇)しかいない。けれどローマ法王ベネディクト16世(当時)はドイツの出身、ふだんからお米を食べているか? いいえ、そんなこと考えるまでもありません。食べてもらうんです、食べてもらうよう説得するんです! 善は急げです。すぐに手紙を出しました。
「山の清水だけを使って作った米がありますが、召し上がっていただく可能性は1%もないですか」

こんなでたらめな思いつきで行動してしまうのだから(そしてほんとにローマ法王に食べてもらえるのだから)すごい。
これを読むと、自分がいかに想像力にふたをして生きているかがわかる。ふつうはどっかでブレーキをかけちゃうと思うんだよね。「神子原だからキリスト教だなんてこじつけもいいところだ」「ローマ法王が食べてくれるわけがない」「食べてくれたとしてもだからといって米が売れるとはかぎらない」って。
でもやったことといえばローマ法王宛てに手紙を出しただけ。失敗したって損するのは切手代数百円だけ。成功すれば大きなリターンが得られる。って考えたら断然やったほうが得なんだけど、でもふつうは"良識"がじゃましちゃってできないよね。

これができたのはこの人が裁量を持って仕事をしていたからで、上司が「犯罪以外なら何をやってもおれが責任をとる」って言ってくれたからだよね。
公務員でも大企業でも意思決定に多くの人が関わるほど、奇想天外な思いつきは排除されてしまう。
「組織内の事前確認」ってほぼマイナスにしかならないよね。ぼくも「組織内でお伺いを立てて確認をとって報告する」という業務の多さに嫌気がさして仕事を辞めたことがある。すごく手間がかかるわりに何も生みださない業務だからね。結果、前例と同じことだけやるのがいちばん楽ってなっちゃうし。


あとさ。
「山の清水だけを使って作った米がありますが、召し上がっていただく可能性は1%もないですか」
この訊き方、うまいよね。
ローマ法王に手紙を出しても読むのはたぶん法王本人じゃなくてお付きの人。「召し上がっていただけないですか?」だったら「いやーたぶん無理だと思いますわー」ってなるだろうけど、「召し上がっていただく可能性は1%もないですか」だと「1%もと言われると、確認とってみないとわかりません」になるもんね。で、確認をとってみたら案外いけたり。


高野誠鮮さんってほんとにすごい人なんだけど、でも実際、同僚だったらやりづらそうだなあ。どんどん突っ走っちゃうもんね。
きっと敵も多かったんだろうなあ。出る杭は打たれるから。
組織には出る杭も必要だよね。
もっとも、すごい人が出る杭だからといって、出る杭がすごい人とはかぎらないけどね。

公務員って守旧派ってイメージがあるけど、でもほんとは公務員こそどんどん挑戦するべきだよね。
失敗したってクビにはならないし、倒産するわけでもないし。
世の中には公務員が一円でも無駄にしたら烈火のごとく怒る人がいるけど、もうちょっと寛容でもええんじゃないかな。どうせ何百兆円もの借金抱えてる国なんだから。

失敗を繰り返さないと成功事例は作れないし、それを民の代わりに公がやってくれると思ったらありがたい。良くないのは、新しいことをやって失敗した人じゃなくて、失敗しているものをそのまま続ける人だと思う。年金制度とか。



 なぜ、神子原地区のコシヒカリはおいしいのか?
 ここは碁石ヶ峰の標高150mから400mの急峻な傾斜地にあるので、山間地特有の昼夜の寒暖差が激しいことから稲が鍛えられるのです。冬は2m以上も雪が積もる豪雪地帯なので、豊富な雪解け水の清流によって育てられているからです。他の農地のように生活雑排水が混じった川から水を引き入れていません。特定された棚田での収穫量は700俵と少なく、平野と比べると65%しか穫れません。これは化学肥料などを使って無理に増産していないということです。1反(10a)で10俵以上穫っている田んぼがよそには多くありますが、そこのお米はおいしくない。化学肥料を多く使って増産させた米で、おいしいものに出会ったためしがありません。

マイナス点も見方を変えれば長所になるって話があるけど、これなんかまさにその例だよね。

過疎(=マイナス)だから川の水がきれい(=プラス)。
多く獲ろうとしていない(=マイナス)だから米がおいしい(=プラス)。
非効率な方法で栽培している(=マイナス)だから稀少(=プラス)。

こういうのって内部にいる人にはなかなかわからないんだよねえ。

そもそも高野さんが思い切った改革を断行できたのも過疎化しきった神子原地区だったからできたわけで、これが「東京都の行政改革」とかだったらとてもこんな身軽に動けなかっただろうから、それだけでも「人が少ない」ってのは大きな強みだね。

一人の人がやれること、手に入れられる情報ってのは昔よりはるかに大きくなってるから、今後はどんどん「物量作戦」よりも「小回り・スピード」のほうが大事になってくるに違いない。
これから先、大企業はどんどんつぶれていって、中小企業や個人経営が席巻する時代になってくると思うな。



最後に、おもしろかったエピソードをひとつ。

 東京の田園調布から電話があった時には絶対売りませんでした。白金の人にも売らない。成城や目白の人にも売らなかった。全部で60件近く断りました。高級富裕住宅街から電話があった時は、「先日まではございましたが、たった今、売り切れました」と答えるようにしたんです。
「行きつけのデパートにお問い合わせされてはいかがでしょうか。ひょっとするとあるかもしれません」
 と。でも、ないですよ。私たち、デパートと取り引きしていないですから。
 何をしたかったかといったら、神子原米を高級デパートの食料品売り場に置いてほしかったんです。デパートが弱いのは富裕層なんです。私たちがお断りした客は、そのような人々です。だからおそらく贔屓のデパートに問い合わせて、「なぜ神子原米を置かないの?」と聞くはずです。すると大切なお得意様からの要望だから、デパートは置こうとする──。
 つまり、物を売りたい時には売らないことが、売る方法なんだということです。

おもしろすぎるのでどこまでホンマかわかんないけど、高野さんはストーリーを作るのがうまい人だねえ。
売りこみにいくのではなく、買いにこさせる。

これはマーケティングを仕事にしているものとしては勉強になるなあ……。


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『奇跡のリンゴ 「絶対不可能」を覆した農家 木村秋則の記録』




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2017年11月8日水曜日

われら鼻だけ水面に出してた人の子孫


女の人って、恋人候補として男性を見るとき、すごく身長を気にするじゃないですか。

男としてはあの気持ち、よくわかんないんだよね。

女の人にとっての「男の身長」って男が女を見るときのおっぱいぐらい重要視されてるような気がする。や、ぼくは女性をおっぱいで判断したりしてませんけど。えへへ。

しかし身長ってそんなに大事なんですかね。
筋肉質な男がいい、とかならまだわかるんですよ。
なんかあったときに守ってくれそう、とか。無人島に流れ着いたときに頼りになりそう、とか。他の動物を見てもだいたい強いオスってモテるからね。

でも身長と強さってそんなに比例しない気がするんだよね。そりゃ小柄なマッチョよりは大柄なマッチョのほうが強いんだろうけど、でもそれはマッチョ同士で比べた場合の話であって世の中の男はそんなにマッチョマッチョしてるわけじゃないから小柄な非マッチョと大柄な非マッチョを比べたときにどっちがよりマッチョに近いかっていったら同じぐらいでしょマッチョ。

たとえば稀勢の里関は身長187cm体重184kgだけど、大半の女性は身長187cm体重84kgの男のほうを好むと思うんだよ。でも強さでいったら断然稀勢の里のほうが上でしょ。だからどうも強さで選んでるわけじゃなさそうだよね。まあ稀勢の里は一緒に無人島に流れ着いたときに頼りになるどころか「自分の食べ物まで食われそう」って心配になるけど。


ぼく自身のことをいえば、女性の身長ってだいぶどうでもいい指標なんだよね。
好きになるかの基準として、顔とか話があうかとか教養があるかとかが上位にあって、あとついでだけどおっぱいもあって、ずっと下に「身長」がある。「だいたいこれぐらいの身長がいいな」っていう範囲はあるけど、優先順位でいうと「足がくさくないか」と「かわいい妹がいるか」の間ぐらい。だいぶどうでもいい。

そりゃあ足がくさいよりはくさくない異性のほうがいいし、ほくろの形が醜い人よりもナナホシテントウみたいに美しく並んでいる人のほうがいいけど、そりゃ欲を言えばきりはないしね。
足がくさい人はイヤだけど、靴を脱いだときに15センチ以内の距離で嗅いだら強烈にくさい、ぐらいだったらべつに実害ないもんね。その瞬間に15センチ以内に入らなければいいだけだから。
だからある程度くさくてもオッケー。シャケのおにぎりを2年ぶりに掘り起こしたときのにおいみたいにきつくなければ大丈夫。しかしあのシャケのおにぎりはくさかったな。なんで掘り起こしたかは長くなるから書かんけど。
あとなんとなく勢いで書いてしまったけどナナホシテントウの形に並んでるほくろって美しいのかよ。


そうはいっても背の高い人に魅力を感じる人は多いわけで、なんかあるんだろうね。遺伝子の奥底に潜んだ何かが。生存に有利な何かが。
あれかなノアの方舟のときかな。世界が水浸しになって、地上170センチまで水に浸かっちゃったとか。背が高い人は鼻だけ水面に出して生きのびた。
そのときの記憶が遺伝子にすりこまれていて、背が高い人がモテるようになったとか。

この仮説が正しいとすれば、鼻の位置がすっごく高い人もモテることになるね。あとエラ呼吸習得してる人と。


2017年11月7日火曜日

満員電車における偉い人


満員電車って、先に乗ってたほうが偉いみたいな感覚ないですか? ぼくはあるんですけどね。

混んでる電車に乗りこむじゃないですか。すみませんすみません、混雑に加担してすみません、さしつかえなければほんのちょっとでいいんでスペース使わせてもらっていいですか。や、ありがとうございます。ぼくみたいな人間のために詰めていただいて恐縮至極。みたいな気分なんですよね。

で、次の駅に着いて何人か乗りこんでくるじゃないですか。そうすると後輩に対してはすごく厳しい目でみてしまうんですよね。
なんだよこんなに混んでるのに乗ってくんのかよ。空気読めよ。ほんとにそこまでして出かけないといけないのかよ、どうせ大した用事じゃないんだろ。六駅ぐらいだったら健康のために歩けよ。えっ後から来たくせにそんなにスペースとるの? もっと遠慮しろよ。そこ、おしゃべりすんな。生まれてきてすみませんって顔しとけよ。みたいな心境なんですよね。

どうしてあんな気分になるんでしょうね。ふしぎですね。ぼくだけですかね。
はじめの一駅ぐらいは肩身狭く乗ってるんですけど、後輩ができたとたんに先輩風吹かしたくなるんですよね。
先に乗ろうが後に乗ろうが同じ距離乗ったら同じ運賃払ってるんですけどね。なのについつい後発組を差別してしまう。


部活で二年生が一年生にやたらと偉そうにするのも同じ感覚なんでしょうね。
年寄りが偉そうにしてるのも同じ理屈ですかね。日本列島という満員電車に先に乗っていたものとして、後から乗車してきた若者に憎しみを覚えてしまうのかもしれませんね。

もっといったらゴキブリも人類に対して同じ感情持ってるかもしれませんよね。
なんだよこんなに混んでるのに新しい種が誕生しやがって。空気読めよ。ほんとにそこまでして生きないといけないのかよ。どうせ大した人生じゃないんだろ。えっ新参者のくせにそんなにスペースとるの? もっと遠慮しろよ。

そういう意識があるから人間の居住空間にずかずか入りこんでくるのかもね、ゴキブリだちは。


2017年11月6日月曜日

進学か、就職か、それとも行司か


友人・花泥棒氏と話していて、野球の話からスポーツの審判の話になり、相撲の行司の話になった。
「相撲の行司ってどういう人がなるんでしょうね」


野球のアンパイアやサッカーのレフェリーになるのは、きっと野球やサッカーの選手だった人だろう。
いろんな事情で現役続行が困難になり、それでもなんらかの形で競技に関わりたいと思い、審判を志す。そんなケースが多いのではないだろうか。想像だけど。

でも相撲の行司はちがうような気がする。
見るからに力士とは別人種だ。部屋に入門して何年か稽古を積んだけどなかなか十両になれないので行司の道へ、みたいなコースではなさそうだ。元力士の体格ではないもの。

調べてみると、行司になるためには19歳までにテストを受けなければならないらしい。年齢制限があったのだ。
厳しいと言われている将棋の世界でも「23歳の誕生日までに初段に昇格できなければプロにはなれない」というルールだ。年齢制限だけでいうなら行司はもっと厳しい。
しかし行司が19歳までなんて知らなかった。ぼくが高校生のときの進路指導の先生は一言もそんなこと言ってくれなかった。
「おまえ進路どうすんだ。進学か、就職か、それとも行司か。進学したらもう行司にはなれないんだぞ」って教えてくれなかった。ひどい。こうして若者の可能性は潰えていくのだ。
行司になりたいと思っている高校生は早く進路を決めよう。時間いっぱい、待ったなしだ。

行司の人口は力士よりずっと少ない。相当な狭き門だ。
日本相撲協会の「行司一覧」によると、現在の行司の人数は44人らしい。
日本で44人。たぶん世界でも44人。少ない。超激レアカードだ。どれぐらい少ないかっていったら、たぶんプロの蛇使いが日本に44人ぐらいじゃないかな。それぐらいのめずらしさだ。合コンの相手が行司だったら自慢していい。恋の軍配も上がるはず。なんじゃそりゃ。

さらに調べていると、同じく日本相撲協会の「床山一覧」が目に留まった。

床山というのは力士の髷を結う職業の人だ。
これまた、どういう人がこの職に就くのか、素人には想像もつかない。
美容師専門学校に「床山コース」なんてのがあって、そこで指定の教育課程を修めた人が床山になるんだろうか。それとも宝塚音楽学校みたいに恐山床山学校みたいなのがあるんだろうか。
床山の人数は現在52名。これまた険しき門だ。

力士が四股名を持つように、床山にも床山ネーム(っていうか知らんけど)があるらしい。
相撲協会のHPには、こんな名前が並んでいる。

床蜂 (とこはち)
床松 (とこまつ)
床淀 (とこよど)
床鶴 (とこつる)
床弓 (とこゆみ)
床平 (とこひら)
……

圧巻の「床」一覧だ。

「床」ではじまる名前がずらり。50人ほどの床山がいるが、全員「床」がついている。
この一覧を見て、ぼくは『おそ松くん』を思いだした。おそ松、一松、チョロ松、カラ松、ジュウシ松……(あとひとり忘れた)。
兄弟で統一感のあるネーミングにしようとしてたら思いのほか子だくさんになって名付けに苦戦している親のようで、なんとなくおかしい。

しかし「床」ではじまる名前を50以上も考えなくてはならないのはたいへんだろう。
花泥棒氏は「和尚さんはたいへんだったでしょうね」と云っていた。
いきなり苗字を持つことを義務づけられた平民のように、みんな和尚さんに床山ネームをつけてもらいにいっていると想像するととてもユーモラスだ。
いやじっさい、和尚さんはたいへんだっただろう。「床藤はもう使ったっけ?」みたいになったりして。和尚さんなのかな。床山ネームをつけるのがうまい「床上手」みたいな職業の人がべつにいるのかな。

和尚さんも、はじめはその人のパーソナリティーにあった名前をつけていただろうけど、後半はネタ切れになってきて目に留まったものをつけたりしてそうだ。豆が落ちてたから床豆、とか。
「床鶏(とこけい)」という床山がいるが、これなんかは「おまえ昼飯何食った?」「ケンタッキーです」「じゃあ床鶏だ」みたいなやりとりがあったと想像される。


力士の髷がいちばん注目されるのは、なんといっても断髪式だろう。なくなる瞬間がいちばんスポットを浴びるというのも皮肉なものだ。
断髪式では感きわまって涙を流す元関取も多いが、床山はきっとそれ以上につらいだろう。
自分が丹精を込めて結った髷が、次々に切り落とされてゆくのだ。その心中たるや、想像するに余りある。

しかし力士が引退するときは断髪式というセレモニーがあるが、床山が引退するときはどうするのだろう。
引退試合ならぬ引退結いみたいなセレモニーがあるのだろうか。渾身の髷を結って最後はステージの真ん中に櫛をそっと置く、みたいな演出があるのかもしれない。


2017年11月5日日曜日

汚い手で選挙に勝つ方法


選挙に立候補したとするよね。小選挙区で。

出馬したのは自分ともう1人(以下Aとする)。

下馬評ではAがやや有利。

このとき、選挙事務所を構えて選挙運動をするよりも「対立候補者を増やす」って戦略のほうが有利なんじゃないかと思った。


どういうことかっていうと、人を雇って立候補させるわけ。自分と同じ選挙区に(これを泡沫候補B、泡沫候補Cとする)。

泡沫候補たちの公約は、対立候補であるAとまったく同じにする

つまり味方じゃなくて敵を増やすわけね。

Aとまったく同じ政策でAより若い泡沫候補B。Aとまったく同じ政策でAとは性別の異なる泡沫候補C。みたいな感じで。

浮遊票のうちAと考え方の近い人の票はA、B、Cに割れる。

結果、特定の支持者を持たない人からのAの獲得票が3分の1になり、自分にとって圧倒的に有利になる。


……って戦略を考えたんだけど、どうでしょう。

すごく汚い手口だけど、有効なんじゃないでしょうか。

もちろん泡沫候補Bと泡沫候補Cの分の供託金は没収される可能性が高いけど、金にものを言わせられる候補者ならこの戦略をとればだいぶ勝ち目が高くなりそうですよね。

もしかしてもうやってる候補者とか、過去にやった候補者とかいるのかな。

2017年11月4日土曜日

ツイートまとめ 2017年6月


悲哀

物価

普通選挙

類似

努力

団体戦

足蹴

真実

失業期間


駅員

知的財産

苦役


2017年11月2日木曜日

家なんてしょせん家/牧野 知弘『マイホーム価値革命』【読書感想】


『マイホーム価値革命
2022年、「不動産」の常識が変わる』

牧野 知弘

内容(e-honより)
2022年、広大な面積の生産緑地が宅地となり、団塊世代の大量の「持ち家」が賃貸物件に回ることで、不動産マーケットが激変する。日本の3分の1が空き家になる時代、戸建て・マンションなどマイホームの資産価値を高める方策はあるのか?空き家問題、タワマン問題で注目を集めた不動産のプロが新たなビジョンを提示する!

数年前、家を買うことを検討していた。
父親はバブルのさなかにローンを組んで一戸建てを買ったし、ぼくが育ったのは郊外の住宅地なので周囲も分譲一戸建てだらけで、大人になったら当然家を買うものだと思っていた。

新築建売住宅を見に行ったり、新築マンションのショールームに行ったり、不動産屋といっしょに中古マンションを見てまわったりした。

でも夫婦そろって優柔不断なのと、今の家(借家)にこれといった不満もないこともあってなんとなくふんぎりがつかず「まあ今のとこでいっか」ってな感じで今も借家に住みつづけている。

いやでもさ、世の中の人ってよく土地や家やマンションを買えるよね。

だって何千万円もの買い物だよ。
ぼくなんかたかだか2,000円ぐらいの毛布買うのに、いろんなサイト見て、寝具売場にも足を運んで、1ヶ月ぐらい迷って、そんでまだ買ってないからね。そんぐらい優柔不断だからね。

毛布ですらそれなのに、マンションなんて一度も住んでみることなく、へたしたら中身を見ることもなく(新築マンションはだいたいそう)決断しなきゃいけないんだよ。

無理じゃない? 最低でも一年ぐらい住んでみないと決められなくない?

もう博打だよね。結婚と一緒で。



あとさ、新築マンションのショールームを見に行ったことある人なら知ってると思うけど、広告宣伝費えげつなくない?

電車広告出して、SUUMOとかにも広告出して、どっかの土地借りてじっさいに住めるぐらいのモデルルームつくって、そこに最高級の家具を置いて、受付の人と営業社員を常駐させて、見にきた人には電話しまくってダイレクトメール送りまくってるんだよ?

どんだけ金かけとんねんな。
そして、どんだけマンション販売価格に広告宣伝費が上乗せされとんねんな。

宣伝やめたら1,000万円ぐらい安く売れるんじゃないの?
ゼロにするのは無理でも、四分の一ぐらいにはできんじゃないの?
ぜったいそっちのほうが買う人はうれしいだろうにね。

……みたいなことを考えたら家を買うのがばかばかしくなっちゃった。




というわけで牧野知弘さんの『マイホーム価値革命』を読む。
同じ著者の 『空き家問題』がめっぽうおもしろかったので(感想はこちら)期待して読んだんだけど、期待を裏切らない本だった。
いやあ、勉強になった。

そして、やっぱり不動産なんて持つもんじゃないな、って思いを強くした。

 かつては「ファミリー向けの賃貸住宅はない」などと言われてきましたが、第一章で解説したように、2022年を境に、団塊世代が購入した郊外ベッドタウンの家が一気に賃貸物件として不動産マーケットに登場するでしょう。東京でいえば、世田谷や大田、杉並といった都区部の住宅も大量に出てくることが予想されます。
 さらに「空き家第二世代」以降は、マーケットのニーズを汲み取る不動産会社やオーナーが増え、ファミリー向け賃貸物件が多く開発されることになるはずです。ワンルーム住宅ばかりを過剰供給する時代は長く続かず、「供給者の論理」はやがて淘汰されていきます。「高齢者は賃貸物件を借りられない」というもっともらしい理屈も、それほど心配する必要はなくなるでしょう。賃貸住宅大量供給時代はもうすぐそこです。競争が激しくなれば借り手は優位に立つことになりますので、貸し手側の大家も年齢で制限するような余裕がなくなってくるはずです。
 これからの時代、生涯を賃貸住まいで暮らす生き方は選択肢の一つとして定着し、マイホームをあえて「持たない」ことは、新たなライフスタイルになります。今まで「住みたいファミリー向け物件が見つからない」と嘆いていた人にとっても、いい時代になりそうです。

家の価値がどんどん上がっていた時代は、マイホームを買えば家賃を払わずに住めるし、おまけに持っているだけで価値が上がっていたから、少々高い住宅ローンを組んででも買ったほうが得だった。

ところが今後、長期的に値上がりを続ける物件はない。
ほとんどは下がる。
日本から人はどんどん減るし、大きな家を必要とする若い人はもっともっと減るし、2022年問題っていう生産緑地制度とやらに関連するアレのせいで土地や家は余る一方になる。
いくら不動産業界の人がSUUMOに広告載せて、マンションポエム書いても、需要が少なくて供給が多いんだから売れない。価格は下がる。

となると消費者がとる選択は、消耗品と思って住みやすい家を買うか、投資と思うなら短期的に値上がりしそうなところを買って早めに売り抜けるかだ。
要は「住む」か「売る」かで(あと「貸す」もあるけど)、昔のように「住んでから売る」で儲けることはまず無理だ。

しかし「売る」で儲けるのはリスクが大きいし、いかにも難しそうだ。
先のことを読まなければならないし、おまけに海外からもかんたんに買えるようになっているので世界中の投資家と競争しなければならない状況なのに、ど素人のぼくが勝てるとはとうてい思えない。
そんな博打できるぐらい心臓強かったらとっくに家買っとるわ。



そんで自分が住む家として考えたら、買うよりも賃貸のほうがいいと思うんだよね。
以前はやっぱり「俺の家を持ちたい!」って気持ちもあって、それは今でも持ってるんだけど、それ以上に家を持つリスクって大きいなと思うんだよね。

転勤とか隣人トラブルとか自然災害とかのときにすぐ動けるほうがいいのかな、と。

「隣にめんどくさい人が越してきた」とか「子どもが学校でいじめられてる」とかなったときに、「でもせっかく買った家だから……」という理由で引越しをためらっているうちにとりかえしのつかない事態になっちゃうかもしれない。
そんなときに「しょせん家なんてただの寝るスペースだから」ってなぐらいの気軽さでさっさと動ける人間でありたいなーと思う。


そんなふうに思うようになったいちばんのきっかけは、ぼくのおばあちゃんに関する話。

おじいちゃんが死んだとき、母はおばあちゃんに「うちの近くに引っ越してきたら? 気軽に様子を見に行けるほうが安心だし」と声をかけた。
でもおばあちゃんは「せっかく買ったマンションだからここにひとりで住む。おじいちゃんの思い出もあるし。わたしは元気だし」と言って一人暮らしをして、ほとんど誰とも話さない暮らしをした結果、一年ぐらいであっという間に認知症になってしまった。
孫のことも娘のことも忘れて、しょっちゅうものがなくなった泥棒に入られたんだって警察に電話して、外出したら家に帰らなくなるような絵にかいたような認知症。
やさしいおばあちゃんだったからつらかったよ。つらかったよって過去形で書いたけどまだ生きてるんだけどさ。

たらればを言ってもしょうがないんだけど、もし「一緒に住まない?」って声をかけられたときにおばあちゃんが賃貸住宅に住んでいたら、二の足を踏むことなく早めに引っ越していて、もうちょっと頭も元気でいられたのかもしれないなーと思う。いやどっちみち引っ越さなかったかな。


マイホームでも賃貸住宅でもいいんだけど、家なんてしょせんは地面と箱なんだし、それに固執してしまうがゆえに重要な決断を誤ってしまうようなことだけは避けたいなーと思うね。


【関連記事】

牧野知弘 『空き家問題』




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2017年11月1日水曜日

全銀河系の誰が読んでもくだらない小説/ダグラス・アダムス『銀河ヒッチハイク・ガイド』【読書感想】


『銀河ヒッチハイク・ガイド』

ダグラス・アダムス (著) 安原 和見 (訳)

内容(e-honより)
銀河バイパス建設のため、ある日突然、地球が消滅。どこをとっても平凡な英国人アーサー・デントは、最後の生き残りとなる。アーサーは、たまたま地球に居た宇宙人フォードと、宇宙でヒッチハイクをするハメに。必要なのは、タオルと“ガイド”―。シュールでブラック、途方もなくばかばかしいSFコメディ大傑作。

ある日、バイパスを通すために地球が破壊される。50年も前からバイパス工事のことはアルファ・ケンタウリで告知していたのに地球人は誰も見にこず立ち退かなかったから強制撤去――。

という、なんともバカバカしい導入のSFコメディ(バカバカしいのは導入だけでなく全編通してだけど)。
オリジナルは1978年にはじまったイギリスのラジオドラマで、その小説版。

ストーリーはめちゃくちゃなんだけど、そこかしこにブリティッシュ・ユーモアがちりばめられていて、くだらないんだけどおもしろい。

たとえば「人間そっくりの人格を持ったロボットをつくろう」というコンセプトで作られた、超優秀な(はずの)ロボット・マーヴィン。

「わかりました」とマーヴィン。「なにをすればいいんです?」
「第二搭乗区画に降りていって、ヒッチハイカーふたりをここまで連行してきて」
 一マイクロ秒の間をおき、細かい計算に基づいて声の高さと調子を微調整して(人が腹を立てて当然と思う限界を越えないように)、人間のやることなすことに対する根深い軽蔑と恐怖をそのひとことに込め、マーヴィンは言った。
「それだけですか」
「そうよ」トリリアンがきっぱりと言った。
「面白くない仕事ですね」とマーヴィン。

こんなロボットがいたらぶん殴ってしまいそうだ。

「ロボットをどれだけ人間に近づけるか」ってのはよく検討すべき問題だね。
人間と同じことをさせるんだったら人間を使うほうが低コストだし。そもそも人間ってお手本にするほど性能のいいものでもないし。ぼくらみたいな低レベルな人間が目標でいいのか。よくないだろ。

しかし人間をはるかに凌駕するロボットをつくったら、もはやどっちが主人かわかんなくなる。
ロボットの性能を向上させた結果、ロボット様のためにつまんない仕事を人間がやるほうがはるかに効率的だ、ってなりそう。
じっさい、今もロボットは将棋やったり碁をさしたり、人間よりずっと高尚なご趣味をたしなんでらっしゃいますし。

ということはやっぱり、マーヴィンみたいに怠惰で後ろ向きで不満と言い訳ばっかり言ってるロボットのほうがぼくらの仲間としてはふさわしいのかもね。劣等感を味わわなくてすむから。



さっきも書いたけどこの本、ストーリーはめちゃくちゃだ。
都合のいい偶然だらけだし、行動の目的もないし、思いつきを積み重ねているかのようないきあたりばったりのストーリーだ。

ぼくは小学生のとき宇宙を舞台にした冒険小説を書いたことがあるけど、それがちょうどこんな感じだった。

しかし小学生の小説と一線を画しているのは、めちゃくちゃなストーリーなのに個々のエピソードには妙な論理性があること。

たとえば……。

この惑星では、年に百億人も訪れる観光客のせいで浸食が進むのを憂慮していて、惑星滞在中に摂取した量と排泄した量に差があると、出国するときにその正味差分を外科的に切除されることになっている。だから、トイレに行ったらなにがあってもかならずレシートをもらっておかなくてはならない。

これが「妙な論理性」。

世の中には「この人変な人だな」って思う人がたくさんいるけど、ぼくが思うに、そういう人ってじつはそれほどずれてるわけじゃないんだよね。
ほんのちょっとずれてるだけで、だからこそ小さな差異が他者との間で目立ってしまう。

ほんまにヤバイやつって一本芯が通っていて、そいつの中ではしっかりとした論理を持っているから一見まともそうに見える。ちょっと話しただけでは異常性がわからない。

「おれはナポレオンかもしれない……」って悩んでるやつはわかりやすいけど、「おれはナポレオンだ」と信じきってるやつはそれを裏付ける論理を自分の中できちんと持っているから、意外と目につかない。そんな感じ。


たとえばこないだ伊沢正名さんの『くう・ねる・のぐそ』ってエッセイを読んだ(感想はこちら)。
この人は何十年もトイレを使わずにずっとのぐそをしていて、しまいには研究のために自分のしたのぐそを数か月経ってから食べたりしている。
それだけ聞くとやばい人と思うかもしれないけど、この人の中では確固たるルールがあって、しかもそれがすべて合理的で理にかなっている。だからエッセイを読むと「トイレで用を足している自分のほうがおかしいんじゃないか」って気になってくる。

ほんとに変な人にはそれぐらいのパワーがある(伊沢さんをけなしているんじゃないですよ)。


で、「惑星滞在中に摂取した量と排泄した量に差があると、出国するときにその正味差分を外科的に切除される」というルールについてなんだけど、これもおかしいんだけどすごく筋が通っている。
たしかに質量保存の法則があるわけだから、多くの観光客がやってきてたくさん食べてたくさんのお土産を買って帰ったら、その惑星の物質はどんどんなくなっていく。
うん、その論理におかしなところなし。

だから出国時にその差分を切除するという話も……。うん、わかるようなわからないような……。明確に「このような理由でその制度はよくない」とは言い切れないよね……。


とまあ、絶妙な塩梅で常識を揺さぶってくれる小説ですわ。

全銀河系の誰が読んでも「くだらねえな」と思える物語。

あとこれだけはなんとしても言っておきたいんだけど、この小説から得られる知識とか教訓とかまったくないからな! ほんと何の役にも立たねえ小説だぞ!


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2017年10月31日火曜日

選挙、抗議、批判以外の政治との関わり方/明智 カイト『誰でもできるロビイング入門』【読書感想】


『誰でもできるロビイング入門
社会を変える技術』

明智 カイト

内容(e-honより)
本書でいう「ロビイング」とは、業界団体が「もっと金よこせ」と言って政治家に圧力をかけることではない。日本ではあまり行われてこなかった、弱者やマイノリティを守るために政治に働きかけることである。圧力団体が行うロビイングとは目的が全く異なるので、「草の根ロビイング」という名称も使用する。ロビイングはそれぞれテーマや、人によってやり方が異なるため、これまでマニュアルというものは存在しなかった。そこで本書では暗黙の了解となっていたロビイングのルールと、様々な立場からロビイングに関わってきた方たちのテクニックを紹介していきたい。

ロビイストってうさんくさい?


アメリカの政治の本を読むと「ロビイスト」という言葉がよく出てくる。
特定の政策を推し進めてもらうよう政治家にはたらきかける人物、というような意味らしいが、どうもうさんくさいものを感じていた。

選挙を通して選ばれた政治家に、どこの馬の骨とも知れない人物が圧力をかけるの?

それって結局は金に物を言わせて政治家を操ろうとしてるってことじゃないの?

みたいな印象だった。

しかしこの本では、清水康之氏、駒崎弘樹氏、荻上チキ氏、赤石千衣子氏、明智カイト氏の取り組みを通して「自殺者を減らす」「待機児童問題を解決する」「性的マイノリティが生きやすい社会をつくる」など、どちらかというと「弱者を守る」ためのロビイング活動が紹介されている。




政治と関わらざるをえない状況に陥ったら


ぼくは、なるべくなら政治に関わらずに生きていきたいと思っている。

本来、間接民主主義ってのは「一般人は政治のことなんか考えなくていいですよ。すべて専門家に任せておけば安心です」って制度なわけだから、職業政治家以外は政治のことを考えなくて済む世の中が理想だ。

しかしそうは言ってられないこともある。

こんな例が載っている。

 たとえば、失業して住む家も追われ、多重債務に陥ってうつ病を発症してしまった人がいたとする。その人が生きる道を選択するためには、単純化していえば、精神科でうつ病の治療をしつつ、法律の専門家のところで債務の法的整理を行い、福祉事務所で生活保護の利用を申請するなり、ハローワークで雇用促進住宅への入居手続きをするなどして、さらには求職活動もしなければならない。
 しかし、そうした切羽詰まった状態にある人が、自力でそれらすべての情報を探し出し、それぞれの窓口にピンポイントで辿りつくのは至難の業だ。
 支援が必要な人ほど支援から遠ざかるというジレンマは、社会的な問題を解決するための仕組み上の問題である。様々な解決策や支援策が、当事者ではなく施策者・支援者の視点で設計されているために、需要と供給の間にギャップが生じてしまうのだ。

これは「至難の業」どころか不可能だよね……。

窓口を一本化すればいいんだろうけど、行政は縦割りになっているから内部から変わることはまずない。
当事者が選挙に出馬して政治家になれば状況を変えられるかもしれないが、あたりまえだが当事者にはそんな余裕はない。出馬しても当選しないだろう。
政治家が動いてくれればいいけど、政治家もひまじゃないから要請がないとなかなか動けない。

そこで有効なのがロビイング活動。

支援者団体が政治家に対して、失業者を救済する法の策定を要請する。
それが多くの人を救う法であれば政治家にとっては票の獲得につながるから、制定に向けて動くことになる……。

つまり、ここで紹介されているロビイング活動とは、「弱者の声をすくいあげて政治家に届け、弱者を救済する仕組みを作ってもらう」という活動だ。

なんとも理想的な政治との関わり方だ。

そうかんたんにはいかないことも多いんだろうけど、少なくともデモ行進やビラ撒きをするよりは、ずっと現実的な方法だよね。



政治家をうまく使う


『誰でもできるロビイング入門』ではロビイングのいろんなケースが紹介されているけど、これを読むと与党の政治家もちゃんと仕事をしているし、野党の議員も批判ばっかりじゃなくて与党と協力して法の策定に尽力しているんだな、と実感する。

ニュースを見ていると政治家ってどうしようもないクズばっかりに見えるけど、目立たないところでちゃんと活動しているんだねえ。

権力の監視は報道機関の大事な仕事だけど、こんなふうに「業績をちゃんと伝える」ことにも紙面を割くようにしてくれたら、もっとみんなハッピーになるような気がするな。

政治家だって人だから、批判ばっかりされてたらやる気なくすでしょうよ。
「〇〇しない政治家は辞めちまえ!」って言うのと、「〇〇してくれるならこれだけの票が獲得できますよ」って言うのではどっちが人を動かせるかって考えたら明らかだよね。


大事なのは「政治家をどう動かすか」で、うまくやっている人や団体はそれをとっくに実行している。

って考えると、世の中を変えたいと思うのなら政治家になるよりロビイストになるほうがいいね。
政治家って支持母体や政党の言いなりにならざるを得ないわけだから、自分のやりたいように動ける範囲って実はすごく少ないらしいし。

 一方でロビイストには、そのような制約は一切存在しない。政治家が市民から要望のあった政策実現を行なうのに対して、ロビイストはその「要望をする側」であるため、自分自身が実現したいと願う政策のために動くことができる。バックに何か勢力があるわけでもないため、束縛されることもない。
 また、一つの選挙での当選・落選もなく、ある特定の政党に属するということもないため、普遍的に超党派的に誰とでも関わることが可能であり、より効果的に政策実現に寄与することができる。くだけた言い方をすれば、ロビイストとして政治家のバックであれやこれやと複数の議員に働きかけをしたほうが、選挙に当選して政治家になって政策実現を目指すより、自分の叶えたい政策を実現するという観点からいえば圧倒的に手っ取り早いのである。

一般人の政治との関わり方って、「政治家を批判する」か「投票によって誰かを支持する」しかないと思っていたんだけど、ロビイング活動によって「政治家をうまく利用する」って道もあるんだということに気づかされた。

政治家って、雲の上の存在ではなくて、逆にどれだけ批判してもいい存在でもなくて、「我々の代わりに動いてくれる人」だと思えばもっと有意義な接し方ができるような気がする。

たぶん政治家だって、有権者に対しては「要望を伝えてくれる」ことを望んでるんじゃないかな。

「選挙」「抗議」「批判」以外で、もっと政治家と気軽に関われたらいいな。



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2017年10月30日月曜日

タンクトップジャージャー麺


北京にいたとき、ジャージャー麺屋さんに行った。

今はたぶん様変わりしているんだろうけど、15年前の北京ってほんとに田舎街で、小さな商店がたくさんあるばかりで、マクドナルドもスターバックスも市内有数の繁華街に数店舗あるぐらいだった。

飲食店も夫婦と子どもでやっているような零細店がほとんどで、だから友人から「有名なジャージャー麺屋さんがあるらしいよ」と聞いたときも、「どうせ隣近所の間で有名ってぐらいでしょ」と半信半疑だった。

店につくと、なるほど50席ぐらいはある大きな店で、しかもほぼ満席で、たしかに北京ではめずらしいぐらいの有名店といってよさそうだった。

ぼくがまず驚いたのは、店内にはいるなり店員たちが一斉に何事かを叫んだことだった。
おそらく「いらっしゃいませー!」的なことだと思う。

それでなぜ驚くのかと思われるかもしれないが、北京の店ではまず店員があいさつなどしなかったのだ(今はどうかしらない)。

釣銭を投げて渡す、隙あらば釣銭をごまかそうとする、何か質問すると「はぁ?」という挑発的な返答がかえってくる(これは中国語で「え?」ぐらいの意味なのだが、語調が強いのもあいまってとにかく威圧感がある)など、北京人の接客態度はとても感じがいいとはいえず、まあそれはそういう文化だからべつにいいんだけど、それに慣れきっていたのでいっせいに「いらっしゃいませー!」を言われて思わずひるんでしまったのだ。

はじめてブックオフに入ったとき以来の衝撃である。

威勢の良い接客、明るく清潔な店内。日本ではあたりまえの光景だが、北京では異様に思えた。


しかし、そのジャージャー麺屋さんにはもっと驚くべきことがあった。

ホールには15人ぐらいの店員がおり(50席程度の店にしては多すぎる)、しかもそれが全員18歳ぐらいの長身のイケメン男性であり、さらには彼らの服装が一様に真っ白なタンクトップだったことだ。

一瞬、目がくらくらした。
これはどういう状況なんだろうか。
この店の情報を仕入れてきた友人に目をやると、彼もまたタンクトップについてはまったく知らなかったらしく、困り笑いを浮かべながら目を泳がせている。

風俗店なのかも、と思った。
当時の北京では風俗店が目くらましのために美容院の看板を掲げていた。
そういえば中国は宦官制度を生んだ文化の国でもある。
これはそういう性癖の人向けのいやらしい店なのかもしれぬ。ノーパンしゃぶしゃぶならぬタンクトップジャージャー麺なのかもしれぬ。

しかし見たところ、他のテーブルではみなふつうにジャージャー麺をすすっているし、ジャニーズJr.のような店員の少年たちは威勢がよいだけでちゃんとオーダーをとっているし、おさわりをされたりタンクトップの隙間に人民元紙幣をはさまれたりもしていない。

というわけでなにがなんだかよくわからぬままにジャージャー麺をオーダーし、狐につままれたような気分のままさわやかなタンクトップ少年が運んできたジャージャー麺をすすった。


めちゃくちゃうまかった。
さすがは有名店、と思った。北京滞在中に食べた食事のなかでいちばんおいしかった。

しかし疑問は余計に増した。
味だけでも十分に勝負できるだろうに、なぜこんな安っぽい話題作りのようなことをしているのだろうか。
オーナーの趣味なのだろうか。


あれから15年。
あれ以来ぼくはジャージャー麺を好きになり、機会があればジャージャー麺を注文するが、いまだにあのときのジャージャー麺を超える味には出会っていない。

日本にもタンクトップの美少年たちがあふれるジャージャー麺屋さんが上陸してくれることをぼくは心待ちにしている。いやそういう意味じゃなくて。


2017年10月29日日曜日

【DVD感想】カジャラ #1 『大人たるもの』



カジャラ #1 『大人たるもの』

内容紹介(Amazonより)
小林賢太郎の作・演出による、新しいコントブランド「カジャラ」。
旗揚げ公演となる「大人たるもの」がBlu-ray&DVDで登場!
●ラーメンズ・小林賢太郎の新作コント公演カジャラ♯1「大人たるもの」がBlu-ray&DVDで登場!
●出演は片桐仁/竹井亮介/安井順平/辻本耕志/小林賢太郎!
2009年の「TOWER」以降は本公演を実施していないラーメンズが揃って舞台に出演するのは7年ぶり!
●2016年7月27日から東京、大阪、神奈川、愛知で行われ、プレミアム公演となった模様を収録!

ラーメンズ・小林賢太郎氏が脚本・演出・出演を務めるコントユニット「カジャラ」の旗揚げ公演。

ラーメンズとしての活動は2009年を最後に休止中。小林賢太郎氏はニューヨークに住んで、NHKの『小林賢太郎テレビ』などを手掛け、片桐仁氏は役者や造形作家として活動しています。あとEテレ『シャキーン!』のジュモクさんとしてもおなじみですね。おなじみじゃないですか。あ、そう。ぼくは毎朝観てます。

そんなラーメンズが久しぶりにそろい踏みの舞台ということで楽しみに観てみたんだけど、うーん、「笑えるか」という点でみると正直いまいちだった。

コントというかちょっと笑いのある芝居、ぐらいの感じかな。


ベテラン芸人ならまずやらないベタ中のベタな設定「医者コント」をあえて数本用意していたり、時間の異なる2シーンを同時に演じてシンクロさせたり、実験的な作品をいくつか用意しているのに、それを突きつめることなくそこそこのところに着地させているのが残念。
たしかにどれもそこそこおもしろいし、細部の巧みさは感心すんだけど、小林賢太郎の舞台に求めてるのはそこそこじゃないんだよなああ。

いろんな創作表現の中でも「笑い」って特に年齢を重ねるごとに劣化しやすい部分だとぼくは思っていて、小林賢太郎も例外ではないんだろうな。『小林賢太郎テレビ』なんてほとんど笑える部分ないし。
それでも真正面から笑いにチャレンジする姿勢はすごいんだけど、だったらいっそおもいきってラーメンズとして活動再開してほしいなあとファンとしては思うばかり。
ぼくがこのライブでいちばん感心したのは片桐仁のコントアクターとしての質の高さだった。この人がいるだけで舞台の雰囲気がまったく変わるしね。
だからこそラーメンズというシンプルな枠組みで挑戦してほしい。

失敗してもいいからもっと鋭いものを、小林賢太郎に、というよりラーメンズには期待してるんだよ。



2017年10月28日土曜日

つまらない本を読もう


とある人が「世の中にはつまらない本が多い。誰だっておもしろくない本は読みたくない。だから読書離れが進んでる」と書いていた。

本好きのひとりとして、いやそれはちがうぞと思った。


うーん、どう説明したらいいんだろう。

そりゃおもしろい本を読みたいんだけど。おもしろくない本は読みたくないんだけど。

でも、つまらない本があるからおもしろい本を読む喜びがあるわけで。

本好きならみんなそれを知ってると思うんだけど。



たとえば野球観戦。

いちばん見たい展開ってどんなんかな。

僅差のゲームで終盤の逆転により贔屓チームが勝利、みたいな展開だろうか。見ていて気持ちいいよね。

でも全部がそんな試合だったら野球を観る楽しみは大幅に減少してしまう。

勝ったり負けたり、ときにはつまらないエラーで贔屓チームが負けたり、序盤に大差のついてしまうワンサイドゲームがあったり、そういう試合があるからたまに起こる逆転サヨナラゲームが楽しい。

野球観戦にかぎらず、どんな趣味でも同じだと思う。

いいときだけでないからこそおもしろい。



「誰だっておもしろくない本は読みたくない」と書いた人は、ほとんど本を読まない人だと思う。

誰にとってもおもしろい本ばかりになったら、そのとき本は死ぬだろうな。


2017年10月27日金曜日

【ショートショート】ワイルド・アクタガワ


「いたぞ、野生の芥川賞作家だ!」

まさか。そんなはずはないと思いながらも脚は勝手に駆けだしていた。

そんなわけが。いるわけない。でももしかして。

地下鉄の階段をかけあがったところで人だかりができていた。おかげで勢いのままに見知らぬおばさんの背中にぶつかってしまったがおばさんは振り向こうともしない。

群衆が取り囲んでいたのは、くしゃくしゃの髪の毛、丸眼鏡、そして右手に万年筆を持った中年男性だった。
たしかに作家であることはまちがいないようだった。

「あれですか」
隣に立っていた男性に訊いた。
「たぶん」
男性はスマホの画面を作家に向けてムービーを撮りはじめた。

「おい何か書いてみろよ」
若い男が怒鳴った。

言われた作家は少しおびえた様子を見せたが、しかしためらうこともなく「何か書くものを」と言った。
若い男は紙を持っていなかったらしく、誰かいないかと周囲を見まわした。

「iPadならあるけど」
サラリーマンが言い、隣にいた上司らしき男に「ばか野生の芥川賞作家だぞ。タブレットなんか使えるわけないだろ」と頭をこづかれた。

「便箋でもいいの?」
百貨店の紙袋を提げた老婦人が尋ねた。
作家がうなずくと、老婦人はハンドバッグから鳥の絵がはいった便箋を五枚ほどまとめて作家に手渡した。

作家は便箋を手にすると「机が……」と言った。
さっきのサラリーマンが「これ下敷きにしてください」とタブレットを差しだし、上司に「ほら役に立ったでしょ」と得意げに笑った。

作家は背中をかがめるとタブレットの上に乗せた便箋にすごい勢いで何やら書きだした。
しばらく書くとくしゃくしゃっと便箋を丸めて投げ捨て、また新しい便箋に怒涛の勢いで書きつけた。

その様子を見ていた群衆から、おぉ……というため息が漏れた。
私も驚嘆していた。
万年筆を片手に猫背で原稿用紙(便箋だが)に向かう姿勢、ぼさぼさ頭、紙を丸めて投げ捨てるしぐさ、すべてが野生の芥川賞作家のそれだった。
といっても野生の芥川賞作家はとっくに絶滅したことになっているので、あくまでテレビで見ただけのイメージなのだが。

「これは期待できそうだな」
「もし本物の野生の芥川賞作家だったらやっぱり通報したほうがいいのかな」
「言うってどこに」「テレビ局とか」「やっぱり出版社じゃないの」

人だかりはますます大きくなっていた。もはや地下鉄の階段は完全にふさがれていて、下から「早く通せよ!」という声が聞こえてくる。


「おいおいおいおい」

ざわめきを切り裂くように、男の大げさな声が響いた。
さっき「何か書いてみろよ」と言った若い男だった。
手には、作家が丸めて捨てたくしゃくしゃの便箋が握られている。

「なんだよ『ぼくが目が覚めると異世界だった。それが冴えない中学生だったぼくが魔法を武器に戦うようになったきっかけだった』って。おまえ純文学じゃねえじゃねえか!」

隣に立っていた会社員も便箋を覗きこみ、すぐにがっかりしたような怒ったような顔になった。
「ほんとだこりゃライトノベルだ!」

「おまけにすごく子どもっぽい字」
老婦人は顔をしかめて、残りの便箋をひったくってハンドバッグにしまいなおした。

「まぎらわしいまねすんじゃねえよ!」
サラリーマンが怒鳴りながらタブレットを取りかえし「今度やったら二度と書けないようにしてやるからな!」と罵声を浴びせて立ち去っていった。

車道にまであふれていた人だかりはあっというまに雲散し、気づくとニセ芥川賞作家野郎も姿を消していた。警察が来る前に逃げだしやがったのだろう。



「野生の芥川賞作家はもういない、もういないんだ……」

いつからそこにいたのだろう、隣に立っていた老人が誰に言うでもなくつぶやいた。

「おじいさんは本物の芥川賞作家を知っているんですか」

私が訊くと、老人はこちらを向いて話しはじめた。

「ああ。わたしの若いころにはまだ、年に二回、新しい芥川賞作家が見つかっとった。多いときにはいっぺんに二人見つかるようなときもあった」

「二人も」

「そう。だがやがて年に一度になり、数年に一度になり、人々が危機感を抱いたときにはもう遅かった。芥川賞作家は完全に姿を消した。やはりあれは乱獲だったんだ。高く売れるからといって、若き才能を発掘しすぎたんだ。一度消えた芥川賞作家はもう甦らん……」

老人は遠い昔を思いだすように、そっと目を閉じた。


2017年10月26日木曜日

現代人の感覚のほうが狂っているのかも/堀井 憲一郎『江戸の気分』【読書感想】

『江戸の気分』

堀井 憲一郎

目次
病いと戦う馬鹿はいない
神様はすぐそこにいる
キツネタヌキにだまされる
武士は戒厳令下の軍人だ
火事も娯楽の江戸の街
火消しは破壊する
江戸の花見は馬鹿の祭典だ
蚊帳に守られる夏
棺桶は急ぎ家へ運び込まれる
死と隣り合わせの貧乏
無尽というお楽しみ会
金がなくても生きていける
米だけ食べて生きる

落語通の堀井憲一郎氏が、落語というフィルタを通して現代社会について考えた本。
江戸の人の視点で眺める現代というか。落語に出てくる江戸の人に向かって「今から200年後、あんたたちの子孫はこんなふうに生きてるぜ」と説明するというか。

 近代人は、病気をすべて「外のもの」として捉えるのがいけないやね。
 外のものがやってきて、自分のからだを侵食していくから、これをまた外に排除してくれ、医者だったら排除できるだろう、と考えているのは、近代人の異常性だとおもう。これは江戸時代から見なくても、ふつうに異常です。
 たしかにそういう病いもある。ウイルス性の病気など、薬で体外に出せば治る病いもあるけど、もっとよくわからない身体の不都合はいっぱいある。たとえば、ガンはどう考えても外から来てないだろう。内で自分で作ってる。それを外からやってきた毒みたいに扱おうったって、それは無理だとおもうんだけど、もちろん現場の医者は痛いほどそのことは知ってるだろうけれど、近代人はそうは考えないですね。ガンを外に出してくれ、と考えてしまう。あまつさえ戦おうとしたりする。

現代人は昔の人よりもずっと正しい医学の知識を持っていると思っていて、それはじっさい正しいんだけど、根本的な考え方でいうとひょっとしたら江戸人のほうが正鵠を射ているのかもしれない。

健康的な生活をしていると「健康=正常」で、病気になることは突発的なエラーが起こっているような気になるけど、はたしてそれは正しいのだろうか。

こないだ読んだ山口雅也『生ける屍の死』(感想はこちら)にこんな台詞が出てきた。
「死じゃよ。生命のない物質から生命が発生したという事実にもかかわらず、彼らは死という言葉で生を説明しようとしない。自然界においては、死とは平衡状態のことであり、生命活動に必要な外からの補給がなくなったときすべての生命が達する自然な状態なのじゃよ。だからな、論理的に言えば、生の定義は『死の欠如』ということになろう」
死んでいる状態こそが自然な状態であり、動的に活動している生の状態こそが異状なのだ、という解釈だ。

さすがにそれは極端な考え方だが、ぼくも歳をとって身体のあちこちにガタがくるようになると「どこかしら悪いほうがふつうで、絶好調のときのほうが例外的」と思えるようになってきた。

江戸時代だったら視力が悪いのも矯正できないし虫歯になっても治せないし、たぶん今よりずっと「身体が悪くてあたりまえ」という感覚は強かったのではないだろうか。
死も今よりずっと身近に存在していたから、身体についての理想的な状態は今よりずっとハードルが低かっただろう。「とりあえず目が見えて耳が聞こえて立って歩けて生きてたらオッケー」ぐらいのものだったかもしれない。

江戸にかぎらず人類の歴史としてはそっちのほうがずっと長かったわけで、今の「具合が悪かったら病院へ」の時代のほうがずっと異常な時代なのだろう。

あと何十年かしたら「毎日身体チェックをして病気になる前にその芽をつぶす」時代が訪れるだろうから、「病気を治す時代」なんてのは長い人類の歴史においてたった100年ぐらいので終わるかもしれないね。





江戸の経済成長の話も興味深かった。

 ただ江戸期の後半は、商品経済が農村に入り込んでゆき、この制度と現実が乖離していく。「米だけでは、もう、何ともなりませんずら」ということになってゆくのだが、政府は「いやいやいや、米さえ獲れて、それをきちんとまわせば、世は安泰じゃろ」という方針を最後まで崩さなかった。となると、あまり金銭が出回ってもらっては困るし、世の中が発達してもらっても困るのである。高度に発達した資本主義社会の端っこから見てるとこれは意味のわからない風景だが、当時は本気である。民のことを考え、世間の安定を考えて、そうしていたのだ。
 つまり国総がかりで「金は不浄のものである」と示していた。政府が強く「金からものを考えるな」と言ってる社会での金銭感覚を、いまのわれわれが想像しようとしても、まあ、無理である。「発展しないことが善」というのを信じるところから想像を始めるしかない。
 金がなくても生きていける、それが江戸の理想の世の中である。
 この理念は、昭和の中ごろまではまだ残っていた。それを昭和の後半から末期にかけて、みんなで懸命に押し潰していった。何とか押し潰しきったとおもう。それがいいことか悪いことかは判断がつかない。社会全体が「金」でものごとを測ると決めたのだから、社会の端まで徹底的にそれで染めていったばかりである。ひとつ価値を社会の隅々まで広めないと気が済まないのは、うちの国の特徴であり、病気であり、また強みでもある。


江戸時代の人口は、戸籍がなかったので正確にはわからないけど、1600~1750年の間で1.5~2.5倍くらいの増加らしい。
昭和時代が約60年で倍になっているから(しかも大戦で多くの国民が死んだにもかかわらず)、150年で2倍くらいというのはだいぶ緩やかだ。1年で1.0046倍ずつ増えていけば、だいたい150年で2倍になる。
ということは年に0.5%経済成長すれば経済成長ペースが人口増加ペースを上回るわけで、単純に考えると人々の暮らしはよくなることになる。

なるほど、それなら革新的な政策を打ちだして経済成長をしようとするより、社会の安定(ひいては幕府の安定)をめざすのも納得できる。
0.5%ぐらいだったらやれ軍需だアベノミクスだと言わなくても自然に達成できそうだし。



ぼくは経済のことはさっぱりわからないけど、肌感覚としては、インフレもデフレも経済成長もなくて「今ぐらいの状態がずっと続いてくれる」のがいちばんいい。

それなら将来の備えもしやすいし。

日本はどんどん人口が減っていくわけで、もう経済成長を捨てて大きな実害が出ないようにちょっとずつ日本をシュリンクさせていきましょう、ってな方向にもっていけないもんですかね。

グローバル競争とかもういいじゃない。さっさと負けを認めて競争からおりましょうよ、と言いたい。

未来のための撤退戦、ってのはできない相談なんでしょうかね。

やっぱりあれですかね。江戸時代みたいに鎖国するしかないんですかね。


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2017年10月25日水曜日

ズゾゾゾゾゾゾゾォ


少し前にこんなことを書いたんだけどさ。



身のまわりの機械製品を考えたとき、親しみを感じるものとそうでないものがあるな、と思った。

たとえば電気髭剃りには、あまり親しみがわかない。
長く使っていたら愛着は湧くけど、電気髭剃りに名前をつけて友人やペットのように接している人は、たぶんそう多くない。
「わたしは髭剃りをブラウンって名前で読んでます。こないだ壊れたときは庭に埋葬しました」ってあなた、あなたは少数派です。



ロボット掃除機に親しみを覚える人はけっこういる。
「うちのルンバちゃん」みたいな言い方をする人もいる。
ぼくの家にはロボット掃除機がないのでわからないけど、たぶんペットに近い感覚なんだと思う。イヌやネコとまではいかなくても、飼ってるザリガニに対して湧くぐらいの親しみは湧くんじゃないだろうか。


親しみが湧くかどうかは、使う頻度とはあまり関係がない。

ふつうの人がいちばん接する時間の長い電化製品はテレビだと思うが、テレビ自体をペットのようにかわいがっている人はちょっとアレな人だ。テレビのことを「テレビのジョン」って呼んでるあなたのことです。

最近はしゃべる家電も増えているが、それも親しみとはあまり関係ない。
うちの湯沸かし器は「ノコリヤク5フンで、オフロガワキマス」「オフロガ、ワキマシタ」としゃべるが、それに対して「おうおう、ういやつじゃ」とは思わない。返事もしない。昭和の関白亭主のように黙って風呂に入る用意をするだけだ。


たぶん、ポイントは「自走するかどうか」なのだと思う。
だから、アイボやC-3POのように犬や人の形をしている機械はもちろん、ロボット掃除機のように楕円形の機械に対しても親愛の情を持つのだろう。

だって想像してみてほしい。
もしもロボット掃除機が部屋の片隅からぴくりとも動かず、超強力な吸引力を発生させて「ズゾゾゾゾゾゾゾォーーーーー!!!」と部屋中のごみを一気に吸いこむ方式をとっていたとしたら。

怖くてしかたがない。


2017年10月24日火曜日

陽当たりの悪い部屋


学生時代、陽当たりの悪い部屋に住んだことがある。

窓のすぐ向こうには別のマンションが建っていて、昼でも薄暗かった。


不動産屋と内見に行ったときから「暗い部屋だな」と思ったが、家賃が安かったのでぼくはその部屋を選んだ。

暗ければ電灯をつければいい。

どうせ布団を干さないから陽当たりなんかどうでもいい。

その前に住んでいた部屋が最上階で陽当たり良好の部屋だったためにめちゃくちゃ暑かったので「むしろ陽が当たらないほうが涼しくていい」ぐらいに思っていた。



住んでみると、はたしてその部屋は陽当たりが悪かった。

一日中陽があたることがなかった。

しかし夏場は快適だった。

窓は2か所についていたので両方とも開けはなつと風が通りぬけ、涼しくて気持ちがよかった。


だがたいへんなのは冬場だった。

その部屋に住んではじめて知ったのだが、陽当たりの悪い部屋というのは外と中の温度差が大きいから結露がすごい。

朝起きると、窓にびっしりと露がついていた。窓につくだけでなく、床にまで落ちていた。

窓際に置いていた本が濡れてびちゃびちゃになっていた。

窓を雑巾で拭くと、バケツ半分ぐらいの水がとれた。たかだか10畳ぐらいの部屋で、どこにこれだけの水があったのかと驚いた。

それが毎日である。

風を通せば多少は改善するのかもしれないが、冬場に窓を開けはなして風を通すなんて寒いからしたくない。

ずっと部屋を閉めきって、朝になると窓を拭いて水を捨てて、湿っぽい部屋で過ごした。

洗濯物は部屋干しをしていたが、どれだけ干しても乾かなかった。

実家に帰ったときに母から「あんたの服、くさいで」と言われた。

湿っぽい部屋にいると気持ちも滅入ってくるし、体にもよくないのだろう、その年はよく風邪をひいた。関係あるのかわからないけど、肺に穴があく肺気胸という病気で入院もした。

失ってその大切さがはじめてわかるものはよくあるが、陽当たりもそのひとつだと痛感した。

ほんと陽当たりの悪い部屋に住んでると心の水蒸気まで凝固しちゃうよ。なんだよ心の水蒸気って。



2017年10月23日月曜日

陰惨なのに軽妙/曽根 圭介『熱帯夜』【読書感想】

『熱帯夜』

曽根 圭介

内容(e-honより)
猛署日が続く8月の夜、ボクたちは凶悪なヤクザ2人に監禁されている。友人の藤堂は、妻の美鈴とボクを人質にして金策に走った。2時間後のタイムリミットまでに藤堂は戻ってくるのか?ボクは愛する美鈴を守れるのか!?スリリングな展開、そして全読者の予想を覆す衝撃のラスト。新鋭の才気がほとばしる、ミステリとホラーが融合した奇跡の傑作。日本推理作家協会賞短編部門を受賞した表題作を含む3篇を収録。

『熱帯夜』『あげくの果て』『最後の言い訳』の3篇を収録。

それぞれテイストの異なる不気味さがあって、いろんな「嫌な感じ」を味わえた。



『熱帯夜』


ヤクザ、借金、ひき逃げ、シリアルキラーととにかくいろんな要素が盛りだくさん。

ばらばらな要素がラストで一直線につながるのは気持ちいいんだけど、短篇でこれをやるとご都合主義っぽさが鼻についてしまうな。

「うまい」が35%、「できすぎてる」が65%。

ちょっとうますぎるね。

とはいえ小説にリアリティはなくてもいいとぼくは思っているので、「偶然が重なりすぎだろ」と言いたくなる気持ちを捨てて読めば物語の展開の軽妙さが存分に味わえて楽しい短篇だった。

残酷な事件が描かれてるのに楽しいってのも妙だけど、乾いた文章のおかげでぜんぜん陰惨な感じがしないんだよね。

曽根圭介の文章って小説としてみると決してうまくないんだけど、それはわかりづらいということではなく、むしろ逆で余計な装飾を省いているからすごくわかりやすい。

文章のうまさって、内容とあってるかどうかだよね。ミステリには過度な美辞麗句は必要ないから、これぐらいがちょうどいい。ストーリーの進行を妨げないからね。




『あげくの果て』


これは長編にしてもよかったんじゃないかな。

若者と高齢者の対立が激化した世の中を描いたディストピア小説。

「四十年か、一九六五年ってことだな。じゃあ若いころにバブルがあったろ、さぞ楽しかっただろうな。てめぇの親父は高度成長期の世代か、あ?」
 老人はアスファルトに顔を擦られて、悲鳴を上げた。
「虎之助、聞いたか。こいつらだ。こいつらが国をだめにしたんだ。昔はこの国も経済大国だったんだぞ。世界中からうらやましがられた時代があったんだ。信じられるか? それを、このジジイどもが、この世代が全部食い潰しやがったんだ」
 多田は足元に転がっていた金属バットを手に取り、振り上げた。


なにが絶望的かって、もうすぐ日本で実現してしまいそうなところだよね。

若い人も子育て世帯も老人もみんな幸せになってない。どうしたらいいんだろうね。どうにもならないんだろうね。

戦争に行くのが戦闘スーツを着た高齢者ってのはいいアイデアだね。

子孫を残せなくなった人が若い世代のために戦いにいくほうが生物学的には理にかなってるし、歳をとると戦争に行かないといけなくなるとみんな必死に戦争を避けようとするしね。




『最後の言い訳』


死者がよみがえって生者を食べたり食べなかったりする世界を舞台にした、ゾンビもののホラーコメディ。

グロテスクな描写が多いんだけど、ペーソスとユーモアにあふれた意外にも叙情的な作品だった。

 父を食べた男、父を食べるための列に並んだ女を、商店街で、公園で、僕は何度か目にした。皆、まさに「なに食わぬ顔」で、家族を連れ、恋人を伴い歩いていた。


こういうブラックユーモアが散りばめられていて、いかにも曽根圭介らしい。

オチもブラックで、藤子・F・不二雄の『ミノタウロスの皿』ってSF短篇を思いだした。

この人の小説ってとことんドライだよね。残酷なのに洒脱。陰惨なのに軽妙。ふしぎな味わいだ。


冷笑的な視点が光るから、ショートショートを書いてもおもしろいだろうなあ。


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 曽根 圭介『藁にもすがる獣たち』

 曽根 圭介『鼻』



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2017年10月21日土曜日

大学に通うことと単3電池を買うことの違い


小田嶋 隆 『超・反知性主義入門』にこんな記述があった。

 いまは、誰もが知り、誰もが使い、すべての産業の基礎を作り替えつつあるデジタルコンピュータは、20世紀の半ばより少し前の時代に、ごく限られた人間の頭の中で、純粋に理論的な存在として構想された、あくまでも理論的なマシンだった。「もっと社会のニーズを見据えた、もっと実践的な、職業教育」というところから最も遠く、実用と換金性において最弱の学問と見なされていた数理論理学(の研究者であったチューリングやノイマンの業績)の研究が、20世紀から21世紀の世界の前提をひっくり返す発明を産んだのである。
 なんと、素敵な話ではないか。
 目先の実用性や、四半期単位の収益性や見返りを追いかける仕事は、株価に右往左往する経営者がやれば良いことだ。大学ならびに研究者の皆さんには、もっと志の高い、もっと社会のニーズから離れた、もっと夢のような学術研究に注力していただきたい。
 大学は、そこに通った人間が、通ったことを懐かしむためにある場所だ。

最後の結論はべつにして、ぼくも「大学は実用的なものを学ぶ場じゃない」と思っている。


本屋で働いていたときに、外国語大学に通う学生バイトがいた。

「なんで外大選んだの?」と訊くと、

「オープンキャンパスに行ったんですよ。
 ××大学(総合大学)の文学部は、英語の理論とか文法とかが中心的だったんです。でも外大の授業は外国人の先生との会話が中心で、これなら実践的な英会話が身につくな、と思って外大を選びました」
と彼女は語っていた。

「だったら大学じゃなくて英会話スクール行けよ!」とぼくは心の中で思った(いい大人なので口には出さなかった)。



英会話を身につけたいなら英会話スクールのほうが早いし安い。

大学は実用的な道具を買うところじゃない。電器屋さんに単3電池2本を買いにいくのとはちがう。

単3電池を買うことで得られる効用は事前に予見できる。単3電池は誰に対しても同じはたらきをする。


しかし、映画館でまだ観たことのない映画を観るとか、大学で何かを学ぶということは、効用が事前に予見できない類のものだ。

ハラハラドキドキする2時間かもしれないし、退屈なだけの4年間かもしれない。

ある人にとってつまらない映画が、べつの人にとっては人生最良の1本になるかもしれない。



「いくらの資本を投下すればどれぐらいのリターンが得られるか」というマインドで行動していても、投下したものの100倍のリターンを得ることはできないだろう。

「これをやることで何にどう役に立つかわかりません。というか役に立つ可能性は低いです」
というプロジェクトは、ビジネスマンには受け入れられない。マネーの虎たちはお金を出してくれない(古いね)。

でもそういったプロジェクトが100倍の利益を生んでくれることがある。

教育とか芸術とか医療とか福祉とかインフラとかの分野は、ビジネスマインドとの相性が良くない。

ビジネス向きではないからこそ国が率先してお金を投じないといけないのに、今や国の中枢にまでビジネスマインドは入りこんでしまっている。

いくら投資したらどれぐらいのリターンがあるか、とそろばんをはじいている人ばかりだ。

たとえばオリンピックでも「限られた予算内でより多くのメダルを獲得する」という目標を立ててしまったがゆえに、柔道とか水泳とか体操とかの「比較的ローコストで多くのメダルを稼げる」競技ばかり日本は強くなった。

大学もまちがいなくそうなっていくはずだ。

「TOEICで高得点を取れる大学」とか「司法試験の合格率が高い大学」ばかりになっていって、できるかぎり低予算でTOEICの点数を買う「買い物上手な大学」ばかりになるのだろう。



こういう話は教育の世界にいる人はうんざりするぐらいしつこく言っているはずなのだが、それでも「コスパ」ばかり求めている人たちの耳には届かない。

今後日本の大学教育はどんどん没落していくばかりだ。

ぼくとしては、自分がビジネスとは無縁だった時代の最後に大学に通えたことを、ただ感謝するばかりだ(ぼくが大学4年生のとき、通っていた大学が国立大学法人になった)。

ぼくは「大学の4年間で何を学んだか?」と問われたら「いや、なんでしょうね……。なんかあるかな……」としか答えられないし、だからこそ大学に通って良かったと思う。

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 【エッセイ】国民メダル倍増計画



2017年10月20日金曜日

死者がよみがえる系ミステリの金字塔/山口 雅也『生ける屍の死』【読書感想文】

『生ける屍の死』

山口 雅也

内容(e-honより)
ニューイングランドの片田舎で死者が相次いで甦った。この怪現象の中、霊園経営者一族の上に殺人者の魔手が伸びる。死んだ筈の人間が生き還ってくる状況下で展開される殺人劇の必然性とは何なのか。自らも死者となったことを隠しつつ事件を追うパンク探偵グリンは、肉体が崩壊するまでに真相を手に入れることができるか。

本格ミステリ、なのかな……?

殺人事件があり、きちんと伏線があって、ヒントが提示されていて、矛盾のない謎解きがある。

このへんは本格派なんだけど、「死者が続々と生き返る」「主人公も殺されるがよみがえって犯人を追う」という非常識な設定が設けられている。

めちゃくちゃ異色なのに本格派、というなんとも扱いに困るミステリ作品。
自らも死者となったことを隠しつつ事件を追うパンク探偵グリンは、肉体が崩壊するまでに真相を手に入れることができるか。
内容紹介文にあるこの文章、パンクでかっこいいなあ……。



しかしこの本、テンポもいいしユーモアもあるのに、とにかく読むのがしんどかった。
小説を読んで疲れたのはひさしぶりだ。

疲れた理由としては、
  • 文庫本で650ページという分量。
  • 文章が翻訳調
  • 舞台がアメリカの葬儀会社と、なじみのない場所
  • 登場人物が多い。20人くらい出てくる。
  • 登場人物の名前がおぼえづらい。兄弟の名前がジョン、ジェイムズ、ジェイソン、ジェシカって、いやがらせとしか思えない……。
そしてもちろん、死者が次々によみがえること。

ふつう、推理小説って後半になるにつれて登場人物が減っていき(死ぬから)、容疑者が絞られていくんだけど、『生ける屍の死』では登場人物が減らないし(死んでもよみがえるから)、容疑者も絞られない。

これ、相当上級者向けだわ……。




しかし読むのがつらかった分、ラストの謎解きで得られるカタルシスは大きかった。

動機も「人がよみがえる世の中だから」という理由だし、犯行も「人がよみがえる世の中」ならではのやりかただし、謎解きも「よみがえった死者だからわかった」という手順を踏んでいる。

「――ちょっと待ってくれ。その前に、ジョンの心理をもう少し探ってみたいんだ。今度の事件が普通の殺人事件と違うのは、もとより死人が甦るということにつきる。これがあったから捜査は大混乱した。普通の事件では犯人の心理を読めば事件解決の道筋がつくんだろうが、この事件では、被害者を始めとする甦った死者たちの心の動きを掴まなければ真相は見えてこないんだ。俺は、ハース博士の示唆に従って、死者の心理を推察してみた。――同じ死者の立場でね。そうして考えてみると、ひとつおかしい点があることに気がついた。――それは遺言状の件だった」

設定は奇抜だが、その設定を十二分に活用している。

アメリカの葬儀会社を舞台にしている必然性もあるしね。これが日本を舞台にしていたらやっぱり違和感があっただろう。

「死者がよみがえる系のミステリ小説」としては、これを超えるものはそう出てこないだろうね。まずないだろうけど。




最後まで謎のまま残されるのが、物語の冒頭で語られる殺人事件の真相。

刑事の謎解きがすごい。

「いいか、お前の小賢しい奸計を俺が説明してやろうか? あの窓際の水槽のなかにつけられた砂時計、あれとケチャップを塗りたくられたピエロの人形のふたつがあったおかげで、お前のアリバイが成立した。しかしな、俺は暖炉の隅に捨てられていた萎れたサボテンの存在を見逃さなかった。あれこそ、お前のアリバイを破り、お前が殺人を犯したことを物語る重要な証拠……」

どんな事件だよ。

気になってしかたないぜ……(もちろんこれは推理小説に対するパロディなんだけど)。



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2017年10月19日木曜日

距離のとりかた

 我ながら気持ちが悪いと思うのだが、高校生のときにやっていたことがある。

 春。新しいクラスが発表されると、真新しいノートを一冊用意する。
 ノートに新しいクラスメイト全員の名前を書く。出席番号順に書いてゆく。

 名前と名前の間は10行ほどの間隔をとってある。このスペースを、数ヶ月かけて各人のパーソナルデータで埋めてゆく。

 何中学出身か。

 部活は何をやっているのか。

 誰と仲が良いのか。

 わかったことからどんどん書いてゆく。
 クラスメイトが立ち話をしていたら、会話の内容を盗み聴きしてはノートに書く。


 そして。

 ときどきノートを読み返しては、書いてある情報を頭にたたき込む。
 クラスメイトの田中くんが南中出身で、陸上部で高跳びをやっていて、渡辺くんと幼なじみで、将棋が強いなんて情報は、すべて頭に入っているのだ。
 田中くんとはまだ一度も話したことがないのに。

 おお。
 おのれのことながらなんて気持ちが悪いんだ。書きながらゾクゾクしてきた。
 どう考えても、他人との距離の取り方がわからない人間だ。
 精神科に行ったらちゃんとした病名をつけてもらえるやつだ。保険証用意しなくちゃ。

 あと、席替えのたびにクラス全員の座席表を記録して、自宅の机に置いていた。
 自宅の机の前で、教室でのふるまい方をシミュレーションしていたのだ。
 おお。なんて不安定な人格なんだ。鳥肌が立ってきた。
 親が知ったら「うちの子大丈夫かしら」と神主さんに相談するタイプのやつだ。

 そこそこ友人たちと仲良くやれていたと自分では思っていたけど、はたしてちゃんと人付き合いできていたのだろうか。今になって不安になってきた。


 まあ思春期って誰しもそんなことしちゃうよね。
 よくあることさっ。

と己を慰めた後で、もらった名刺の余白をその人のパーソナルデータで埋め尽くしている自分に気づく。

 誰か、いい神主さんがいたら紹介していただきたいものだ。

2017年10月18日水曜日

思想の異なる人に優しく語りかける文章 / 小田嶋 隆『超・反知性主義入門』【読書感想】


超・反知性主義入門

小田嶋 隆

内容(e-honより)
他人の足を引っ張って、何事かを為した気になる人々が、世の中を席巻しつつある…。安倍政権の政策から教育改革、甲子園、ニッポン万歳コンテンツにリニアまで、最近のニュースやネットの流行を題材に、日本流の「反知性主義」をあぶり出してきた「日経ビジネスオンライン」好評連載中のコラムが、大幅な加筆編集を加えて本になりました。さらに『反知性主義 アメリカを動かす熱病の正体』の著者、森本あんり・国際基督教大学副学長との、「日本の『宗教』と『反知性主義』」をテーマにした2万字対談も新たに収録。リンチまがいの炎上騒動、他人の行動を「自己責任」と切り捨てる態度、「本当のことなんだから仕方ない」という開き直り。どれにも腹が立つけれど、どう怒ればいいのか分からない。日本に漂う変な空気に辟易としている方に、こうした人々の行動原理が、最近のニュースの実例付きで、すぱっと分かります。エッセイ集として、日本の「反知性主義」の超・入門本として、お楽しみ下さい。

いっとき「反知性主義」って言葉流行ったね。

ぼくは「本ばっかり読んでても何も身につかない。会って話すことが重要だ!」「東大生は頭でっかちで社会では何の役にも立たないぜ。経験こそがすべてだ!」みたいな、「先人の知恵を否定する態度」みたいな意味かと思ってたんだけど、どうもそうではないみたいね(そういう面もあるみたいだけど)。

既存の権威主義的な論理体系に対するカウンターというか、当然のこととして受け入れられているものに疑問を投げて再定義しなおそうとする、むしろ科学的なアプローチだったりが本来の意味らしい。

ところが「反知性主義」という言葉が独り歩きしてしまい、単なる「バカ」「自分の考えを理解できないやつら」ぐらいの意味になってしまった。

まあ字面からはそう読み取れてしまうよね。


小田嶋さんの『超・反知性主義入門』は本来の意味での反知性主義に近い。

ばかなやつらを啓蒙しようという感じではなく、「みんな同じようなこと言ってるけど、おれはこっちの面から見てみたらこんなふうに見えたよ」ってなぐらいの温度感。

とはいえ世の中には「違う考えの人間がいることが許せない」人たちがけっこういるから、日経ビジネスオンライン連載時はずいぶん炎上したみたい。

そんなに過激なことを言っているようには読めないんだけどなあ。

「おれはこう思うよ?」ぐらいなんだけど。

これぐらいの意見でも多くの批判がぶつけられるなんて、職業的に物を書く人にはやりづらい世の中になったねえ。同情する。



謝罪会見について。

 「反省しているか?」「反省しています」 と、トントンと話が進めば、謝罪はそんなに難しい作業ではない。なのに、理詰めで来るから、話が複雑になってしまう。というのも、謝罪は、そもそも理詰めの情報交換ではないからだ。謝罪は、むしろ、情報のやりとりを一時的に棚上げにする手続きだ。理屈を外れた、どちらかといえば、「話をズラして曖昧にする」ことを目的としたコミュニケーションだ。とすれば、理屈っぽい質問は、謝罪の前提を台なしにするだけではないか。

ふうむ。

云われてみれば、謝罪って理性的な話し合いとはもっとも遠いところにあるコミュニケーションかもしれない。

きちんと事実経緯を述べて、原因究明と再発防止策を講じて、被害に遭った人に対して相応の賠償をしたとしても、謝罪する人間が偉そうにふんぞりかえって鼻くそをほじっていたらきっと許してもらえない。

逆に、終始しどろもどろで「すみません、すみません」の一点張りであっても額に汗かいて深く頭を下げていたら「誠意がある」ということでその場は流してもらえたりする。


ぼくも客商売をしていたときに謝罪をする機会がよくあったけど、こちらに全面的な非があるときはむしろ楽だった。

すみません、すみません、と一方的に謝罪しつづければそのうち相手は怒りの矛を収めてくれる。

こちらも誠心誠意謝ることができる。

たいへんなのは、クレームをつけている側に落ち度があるときだ。

店側は、どうしても「納得してもらおう」と説得を試みてしまう。

そうすると相手の怒りは静まらないどころかどんどんヒートアップする。

これも、謝罪を要求している側が求めているのは理屈ではないからなんだろう。



政治には関心があるが選挙は嫌いだという小田嶋さんの主張はおもしろかった。

 選挙カーの中で候補者の名前を連呼しているウグイス嬢に悪気が無いことはわかっているし、助手席から白い手袋をした手を振っている候補者が仕方なくそうしていることも知っている。でも、それにしても、ほかにやり方はないのか、と、私は毎回、選挙がはじまる度に、どうしてもそう思ってしまうのだ。
 ビールケースに立つ候補者の姿も、間抜けなタスキも、走って逃げ出したくなるような土下座芝居も、そういうことがあってこその選挙だと思い込んでいる人々のために展開されている一種の小芝居にすぎないものではあるのだろう。でも、それらが若者を政治から遠ざけていることに、そろそろ思い当たる人があらわれても良い頃合いではないか。

いわれてみれば、たしかに選挙ってクソダサいよなあ。

スマートなイメージで売っている人でも、選挙では拡声器持って大声を張りあげて、選挙カーの中から身を乗りだして必死に手を振って、握手したりバンザイしたりとぜんぜんスマートじゃない。

雨の中傘もささずに立って演説したり、真夏の選挙では真っ黒に日焼けしたり、ド根性主義が跋扈している。

うん、クソダサい。

ぼくはほとんど選挙公報を読むだけで誰に投票するかを決めているから、拡声器も選挙カーも握手もバンザイもずぶ濡れも日焼けもまったくもって「どうでもいいこと」なんだけど(というよりマイナス要因でしかない)、世の中には「意味のない努力」を重視して投票する人もいるんだろうね。

「あのセンセイは毎日立って演説しているからがんばっとる」「あの人は演説の時、日陰に入っとったから気に入らん」みたいな人が。

「高校野球は炎天下に汗水たらして全力疾走している姿が感動を呼ぶ」タイプの人が。

たぶん個人レベルではいわゆるドブ板選挙に反対している人もいるんでしょうが、きっと党本部が許さんのでしょうね。

「んまー、〇期当選の〇〇先生でも毎日演説やってらっしゃるのに新人のあなたが演説しないんですって!?」みたいな圧力がかかるんでしょう。

そういや堀江貴文さんが「自分が出馬したとき、かけずりまわるドブ板選挙なんてぜったいやるものかと思っていたのに、終盤戦になったら声をからして叫んだり応援にきてくれる人たちに頭を下げて握手したりしている自分がいた」ってなことをどこかに書いていた。

あれはお祭りなんだろうね。お祭りの熱狂が人をおかしくさせるんだろう。

だって尋常じゃないもの。声をからして叫んでるやつに理性的な判断ができるとはとうてい思えないもの。それでもやらずにはいられないんだろうね。

まあお祭りだからそれでもいいのかもしれないけど、合理性を捨てた選挙で勝ち上がった政治家が合理的で効率追求型の政治をできるかっていったら、まあ無理だよね。

選挙のやり方をもっとスマートにすれば、政治ももうちょい見栄えのするものになるんじゃないかとわりと真剣に思う。まあべつに見栄えを良くする必要もないけど。



小田嶋隆氏の文章って、その内容に同意できないことはあっても、論旨の組み立て方にはいつも感心させられる。内田樹氏もそうだけど。

難解な言葉を使わずに、軽やかな飛躍もまじえながら、論理的に文章を組み立てている。

だから結論には同意できなくても「ふむ。その考え方はよくわかる」と毎回思う。


世の中には弁の立つ人が多いけど、こういう語り方をできる人ってすごく少ないよね。

世の中を敵味方に分けて相手を言い負かすことを考えている人ばかりだ。

必要なのは、敵を攻撃することや、味方の同意を得ることではなく、「立場や思想の異なる人に優しく語りかけてほんの少しだけでも自分の考えを知ってもらう」ことだよねえ。

オダジマさんの語りにはそういう姿勢を感じる。



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2017年10月17日火曜日

正義は話をややこしくする


大学1年生のとき、サークルの同級生たちとしゃぶしゃぶを食べた。

ある程度食事も進んだとき、友人Hが言った。

「てめえ肉ばっか食ってんじゃねえよ、おれの食う分がなくなるだろうが。ぶっころすぞ!」

その言葉はKという男に向けられたものだった。

Kが野菜をほとんど食べずに肉ばかり食べていたのを腹に据えかねて、Hが注意したのだ。

Kはべつに自己中心的な人間なわけではなく、ちょっと周囲の反応に無頓着なだけで、だから「肉を食べたい」という欲望そのままに肉ばかり食べていたのだ。

Kは温厚な人間だったので、少しひるんだ様子は見せたものの「ごめん、気を付けるわ」と言って特にいさかいにはいたらなかった。




さて。

ぼくは、Hの発した「てめえ肉ばっか食ってんじゃねえよ、おれの食う分がなくなるだろうが。ぶっころすぞ!」という言葉にしびれていた。

「肉ばっかり食いやがって」という気持ちは、よくわかる。

Hが怒鳴る前からぼくもうっすらと「Kのやつ、肉ばっかり食ってるな」と思っていた。

だがぼくはそれを口には出さなかった。

それはぼくが「ええかっこしい」だったからだ。

「おれの食う分が少なくなるから肉ばっかり食うなよ」と口にするのはあさましいと思い、なんでもないようにふるまっていただけだ。

内心では、Hと同じように「肉ばっかり食うなよ」と思っていたにもかかわらず、細かい人間に思われたくないというプライドがじゃまをして、注意することができなかっただけだ。

あまりにも度を越したら注意したかもしれないが、だとしても「みんなの食う分がなくなるから控えてくれ」と言ったと思う。

「おれの食う分がなくなるだろうが」という物言いはぼくにはできなかっただろう。


だがHはきちんと自分の主張を明確にしたうえで、Kに対して要求をつきつけた。

そしてKは素直にその要求に従い、問題は解決した。




Kのように私益のために直截的な怒りをぶつけられるのは、ある種とても誠実な態度といってもいいのではないだろうか。


人は、公益のためなら相当強気になれる。

「地球環境を汚す二酸化炭素を大量に排出する企業はつぶれろ!」とか「こどもたちの健康を害する喫煙者は出ていけ!」とか、大義名分があれば過激な主張もできてしまう。

だが「おれの嫌いなデザインの服をつくっている企業はつぶれろ!」とか「あたしの飯がまずくなるから喫煙者は出ていけ!」なんてことを、顔や名前を出していう人はほとんどいない。

私利私欲のために強い主張をするのは気が引けるのだ。

それは、立場が強いものが弱いものに言うときでも同じである。

企業の経営者は「会社を大きくするためにみんなもっとがんばろう」とか「必死に働くことが自分のためになるのだ。若いときは休みを削ってでも働いたほうがいい」なんて偉そうなことを言うが、「おれの役員報酬を増やすためにみんなもっとがんばろう」とは言わない。

たぶん本心は後者だと思うのだが、どんな強欲な経営者でもそれを口に出すのは気恥ずかしいのだろう。

おそらく自分自身にも嘘をついて「社会のため」「会社の未来のため」といった、より公共性の高いものを持ちだしてくる。





こうした公共的な道徳を持ちだしてくる態度は、話をややこしくする。

たとえば騒音問題。

「おれがうるさく感じるからやめてくれ」と主張すれば、解決に持っていくことはさほど難しくないのではないだろうか。

「あなたは何デシベルまで許容できますか」と訊いて、だったら夜間は〇デシベル以下に抑えましょう、といった具体的な方策を立てることができる。

だが「みんな迷惑してるんですよ」とか「赤ちゃんが安心して眠れないじゃないですか」なんて公共的な道徳を持ちだしてくると、そうかんたんにはいかなくなる。

「みんなが許容できるデシベル数」は誰にもわからない。「うちはいいけど赤ちゃんのいるお隣はどうでしょう……」なんて言いだしたら、騒音をゼロにしないかぎりは「みんな」が騒音に悩まされる可能性はなくならない。

「世界中の貧しい人たち」だとか「未来を担うこどもたち」だとか「この地球に生きる動物たち」だとか、会ったこともないものを持ちだして主張をはじめると、その問題は永遠に解決されることがない。

だって彼らは実在してないんだもの。実在してないものが納得して許容する日は永遠に来ない。





だからぼくは、私的に怒る人でありたいと思う。

自分の怒りを、自分の要求を、自分のものとして伝える人でありたい。

誰かの怒りを代弁するして正義を主張するのは話をややこしくするだけだ。

「みんなが迷惑するから」ではなく「おれの食う分がなくなるから」肉の食いすぎを注意する人でありたいと思う。



2017年10月16日月曜日

テクニックではカバーできない衰え/阿刀田 高『脳みその研究』【読書感想】


『脳みその研究』

阿刀田 高

内容(e-honより)
昔から大ざっぱな性格の定雄は、人の名前を覚えるのが苦手だった。ところが定年を前に、急に記憶力がよくなり、却って不安を抱いてしまう。かわりに何か大事な能力を失っているのではないだろうか…。意表をつく表題作をはじめ、シチリアの夜を描く「海の中道」、母への憧れが生み出す「狐恋い」など珠玉の9篇。


「短篇の名手」を誰かひとり挙げるとするなら、ぼくなら阿刀田高を挙げる(星新一はショートショートの神様なので別格)。

奇抜なアイデア、スリリングな展開、無駄のない構成、スマートなオチ。どれをとっても一級品だ。

中高生のときは古本屋で阿刀田高の短篇集を買いあさり、50作以上あった短篇集のほぼすべてを所有していた。今でも実家にある。

阿刀田高の小説とはなんとなしにしばらく遠ざかっていたのだが10年ぶりぐらいに読んでみた。


あれ。つまんない。

いや、うまい。すごくうまいのだ。
無駄のない構成も、ほどよく散りばめられた教養知識も、テンポのよい文章も健在。
リズムよく読める。
さすがは短篇の名手。

でも、オチまで読んでがっかり。

ぜんぜん切れ味がない。読者の予想を裏切ってくれない。中にはだじゃれのオチもあって、そこまでの話運びがうまいだけに期待を裏切られたがっかり感も大きい。

短篇集だから一作ぐらいはあたりもあるだろうと思って最後まで読んだが、どれも期待外れだった。

最近の作品のレビューを読んでみると、どうやらこの作品にかぎらず衰えが目立つらしい。旧年からのファンたちの嘆きの声ばかりが並んでいる。



小説家にかぎらず、クリエイティブな仕事ってだいたい歳をとるごとに斬新な着想は衰えていく。

そのかわり経験を重ねてテクニックは上がっていくから、技巧を凝らすことで作品の完成度は高くなったりする。

阿刀田高にもそういう時期があって、たいしたことのないアイデアでも阿刀田高が巧みに味付けすることで一級品の仕上がりになっていて、これを他の作家が書いたらきっと凡作だったはずだ、さすがは短篇の名手だとうならされたものだ。

しかし名手のテクニックではカバーできないぐらいアイデアの枯渇が進行してしまったのだろう。

なんちゅうか、引退間近のスポーツ選手を見るような寂しさを感じるな……。



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2017年10月15日日曜日

なんとなくずるやすみ


朝、4歳の娘が「しんどい……。ごはん食べたくない……」と言う。

ゼリーなら食べられそう? と訊くとこくんとうなずく。
保育園おやすみする? と訊くとこくんとうなずく。

しかし熱を測ると36.2度。
咳も出ていないし昨夜は元気に跳びはねていた。

これはもしかして……と思いながらも保育園に休みますと連絡を入れて、ぼくも会社を休むことにした。
しばらくはおとなしくえほんを読んでいたが、やがて暇をもてあましたらしく「どっか行こうよー」などと云う。
「お昼何食べたい?」と訊くと、「串カツ!」と云う。

おいおまえ、それもっとも病人食と遠いやつじゃないか。
ゼリーしか食べられなかったやつが食べたいっていう食べ物じゃないだろう。

串カツを食べに外に出ると、さっそく元気よく走りはじめた。
「しんどいんじゃなかったの?」と訊くと「しんどい……」と弱々しく応じるが、1分たつとすぐに設定を忘れてまた走りはじめる。

まちがいない。これは詐病というやつだ。
もっと平易な言葉で言うならば仮病。

そういや1年前にも同じようなことがあった。
まあいいか。1年に1回ぐらい、保育園をずるやすみしたくなる日もあるだろう。
うまく表現できないけど、4歳児なりにいろいろ抱えていらっしゃるんでしょう。
保育園に行きたくない理由が具体的にあるわけじゃないけど、ただなんとなく行きたくないこともあるんでしょう。

あえて指摘せず「病気でしんどい娘」という設定に乗っかってあげることにした。

おかげでぼくも仕事を休めた。
こんなことでもないと「体調不良でもないのに休む。何の用事もないのに休む」ってできないしね。いい機会だ。
ぼくも娘のずるやすみにつきあい、本を読んだり昼寝をしたりしてごろごろと過ごした。

翌日、娘は何事もなかったかのようにいつも通りに起きて元気よく保育園に行った。
子どもも大人も、たまには「何の理由もないけどなんとなく休む日」があってもいいと思う。

2017年10月14日土曜日

うまい炭水化物を食わせる店


ご飯が大好き なので、うまいご飯を食わせる店があったらいいのにと思う。

最高級の新米を、ちょうどいい火加減で炊いたご飯。

できたら釜で。直火で。高級炊飯器で炊いたほうがおいしいのかもしれないけど、気持ち的にはやっぱり釜のほうがうまそうだ。

つやつやでふっくらとした炊きたてのご飯。メニューはそれだけ。

ご飯だけの店。ザ・めしや。
いや、ザ・めしやはすでにあるか。



さすがに ご飯好きでも、ご飯だけではそんなに食べられないからご飯のお供もほしい。

海苔、納豆、岩海苔、ちりめんじゃこ、鮭フレーク、食べるラー油、生卵、塩、肉そぼろ、バター醤油(ご飯とめちゃくちゃあうからね)なんかを置いといてほしい。全部市販のやつでいい。

ご飯のお供は食べ放題。

ご飯は一杯五百円。おかわりは二百五十円。

ご飯もお供も原価は安いし、調理の手間はほとんどない。ご飯を炊くだけ。

あとは客がつくかどうかだけだけど、職場の近くにあったらぼくなら週三で通う。

ご飯一杯五百円は高いが、外食で一食五百円と思えば安い。

なんといっても毎日のように食べても飽きないのがご飯のいいところだ。


どうなんでしょう、うまい炭水化物を食わせる店。

商売的にはかなりうまみがあるんじゃないかと思う(ご飯だけに)。


2017年10月13日金曜日

kawaii清純派


海外では「kawaii」がエロい言葉として使われている、という話を聞いた。

インターネットのおかげで海外の人もかんたんに日本のポルノにアクセスできるようになり、ポルノで「かわいい」という言葉がよく用いられているのを見て「これはエロい意味にちがいない」と思われているらしい。

なるほど。おもしろい。


逆の例でいうなら、ソープとかデリバリーとかヘルスとかも、本来エロい意味のない言葉なのに、日本においては風俗業界隈で用いられることが多いために淫猥な響きを持つようになってしまった。
そういえば「風俗」だって本来はまったくエロい言葉じゃなかったよね。


ということは、今やアダルト産業でしかまずお目にかかれない「清純」なんて言葉も、海外の人にとっては正反対の意味を持つようになるかもしれないね(もしかしたらもうなっているかも)。

2017年10月12日木曜日

3人のおかあさんと男女の違い


娘(4)の日記。

読んでいただければわかるように(読めねー!)、おままごとが最近の流行りらしい。

4歳になって「今日、保育園で何をしたか」を説明できるようになったんだけど、「おままごとをした」と「おにんぎょうであそんだ」が多い。


おままごとは誰が何の役をやったの? と訊くと、
「M(自分)はバブーちゃん(赤ちゃん)、Rちゃんがおねえちゃんで、NちゃんとSちゃんとKちゃんがおかあさん」
とのことだった。

複雑な事情のありそうな家庭環境だ。

女の子ばかりなので、みんなおかあさんをやりたがって、おとうさんをやる子がいないらしい。

「男の子はおままごとしないの?」と訊くと、「Kくんだけはやってくれるけどほかの子はプラレールとか車とかであそぶ」のだそうだ。


保育園では特に男女の区別もなく育てていると思うのだが、自然と男女グループに分かれていくのはおもしろい。


そういえば、ぼくはレゴが好きなので娘ともよくレゴであそぶ。

ブロックで家や車をつくるのだが、興味深いのはその後で、娘はつくった家や車でおままごとをはじめる。

レゴの人形を持ってきて「こんにちはー。あそびにきましたよー」などと言いはじめる。

ぼくはレゴを組み立てたりばらしたりするほうが楽しいのだが、娘は組み立て作業よりもおままごとに興じている時間のほうが長いぐらいだ。

ぼくがこどものころは、友人と「レゴでつくった車をぶつけあって先に壊れたほうが負け」「レゴの人形の首をならべて首タワーをつくる」とかやっていたので、ずいぶんと遊びかたがちがうものだ。

レゴ人の首

3歳までは男も女も同じように走りまわるだけだったのだが、4歳くらいから別々の道を進みはじめるんだねえ。


2017年10月11日水曜日

星新一のルーツ的ショートショート集/フレドリック ブラウン『さあ、気ちがいになりなさい』


『さあ、気ちがいになりなさい』

フレドリック・ブラウン (著), 星 新一 (訳)

内容(e-honより)
記憶喪失のふりをしていた男の意外な正体と驚異の顛末が衝撃的な表題作、遠い惑星に不時着した宇宙飛行士の真の望みを描く「みどりの星へ」、手品ショーで出会った少年と悪魔の身に起こる奇跡が世界を救う「おそるべき坊や」、ある事件を境に激変した世界の風景が静かな余韻を残す「電獣ヴァヴェリ」など、意外性と洒脱なオチを追求した奇想短篇の名手による傑作12篇を、ショートショートの神様・星新一の軽妙な訳で贈る。

ショートショートの神様・星新一が「大きな影響を受けた作家」と語るフレドリック・ブラウンのベスト短篇集。訳は星新一。

収録されている12作はいずれも1940年代。
アメリカは戦争中にSF小説を楽しんでいるんだから、そりゃあ戦争に負けるわなあ。余裕が違いすぎる。


どの作品も、ぜんぜんテイストが異なり、それぞれに奇想天外な設定が与えられている。

悪魔の復活をいたずら坊やが防ぐ『おそるべき坊や』

あらゆる電気や電波を奪う宇宙人が現れる『電獣ヴァヴェリ』

自身の無意識にはたらきかける新発明をめぐる顛末『ユーディの原理』

18万年生きている人物が語る、いくつもの人類の歴史『不死鳥への手紙』

どれも奇抜な設定だが、スムーズな話運びと期待を裏切らないスマートなオチで楽しませてくれる。



星新一ファンとして、特に印象に残ったのが以下の2篇。

『みどりの星へ』
緑のない星に不時着した男が、緑の地球に戻れる日だけを夢見ながら生きる。ついに男のもとに救助がやってくるが――。
という、なんとも星新一っぽいストーリー(というか星新一がこっちに影響を受けてるんだけど)。
切れ味のいいオチではないが、静かに狂気を感じさせる後味。
世界初の有人宇宙飛行より10年以上前にこういう小説が書かれてたのかと思うと、人間の想像力ってたいしたものだなと思うね。


『ノック』

 わずか二つの文で書かれた、とてもスマートな怪談がある。
「地球上で最後に残った男が、ただひとりの部屋のなかにすわっていた。すると、ドアにノックの音が……」

ではじまる作品。

星新一ファンなら誰しも『ノックの音が』を連想するね。15篇すべて「ノックの音がした」で始まる意欲的なショートショート集だ(『人形』はめちゃくちゃ怖かったなあ)。
なるほど、『ノックの音が』はこの作品にインスピレーションを受けて書かれたのか……。

『ノック』は、この短い怪談にユニークな背景を与えて思わぬ解釈を与える、というもの。
宇宙人が出てくるし、展開はコミカルだし、初期の星新一作品のような味わいだった(何度も書くけど星新一がこっちに影響を受けてるんだけど)。


SFあり、サスペンスあり、コメディあり、ブラック・ユーモアありとバラエティに富んだ作品集で、まるではるか遠くの恒星のように70年たった今でも輝く作品だねえ。



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2017年10月10日火曜日

四歳児だから流せる悔し涙


娘と 図書館に行ったら、保育園のおともだちのSちゃんと出会った。

いっしょにえほんを読むことになり、たどたどしく文字を読む子どもたち。

その様子を見ていたSちゃんのおかあさんが言った。

「わー、○○ちゃん(うちの娘)、もうカタカナ読めるんですかー。うちの子はまだひらがなも半分くらいしか読めないのに。すごいねー!」

読み書きぐらいはちゃんとできるようになってほしいと思ってぼくが毎日教えたので、うちの娘は文字を読むのは上手になった。
たぶん同い年の子の中では、かなりすらすら読めるほうだと思う。親ばかだけど。


その後もえほんを読んでいたのだが、Sちゃんの様子がおかしいことに気がついた。

さっきまではにこにこしながらえほんを見ていたのに、急にだまりこみ、ふくれっつらをしている。

明らかに不機嫌だ。

きっと、自分のおかあさんがよその子を褒めた(しかも自分ができないことを引き合いにだされて)ことに傷ついてしまったのだろう。

だがうちの娘はそんな様子を気にすることもなく、それどころかさっき褒められて調子づいたらしく、ますます元気よくカタカナを読みあげている。

さすが4歳児、まったく空気を読んでくれない。

ついにSちゃんは気持ちがいっぱいになってしまったらしく、目にじわりと涙を浮かべてしまった。




なにも 娘の自慢をしたくてこんなことを書いたわけではない(自慢したい気持ちもあるがそれはまたの機会に)。

自分が読めないカタカナを同い年の子が読めたこと。
それを自分のおかあさんが褒めたこと。
その悔しさをどう表現していいかわからないこと。
いろんな感情が混然一体となり涙となってあふれだしたSちゃんをなぐさめながら、なんて美しい涙なんだろうとぼくは感激したのだ。


4歳のときにカタカナが読めるかどうかなんて、大人からしたらどうでもいいことだ。

どうせあとちょっとしたらみんな読めるようになっているのだから。

周囲の目を惹く美貌を持って生まれたとか、4歳にして3ヶ国語を自在にあやつるとかならともかく、カタカナを読めるようになるのが半年かそこらちがったってこの先の人生には何の影響もない。 

それでもSちゃんはこらえきれずに涙を流すぐらい悔しさを感じた。

たぶん「おかあさんが褒めた」ことが小さな彼女のプライドをもっとも傷つけたのだと思う。

おかあさんは「そうはいっても自分の子がいちばん」と思ってるからこそよその子を褒めたのだが、幼い彼女にはそこが理解できなかったのかもしれない。


こんなにもひたむきな気持ちを持つことは、大人になったぼくにはもうできない。

劣等感や悔しさや嫉妬心を抱くことはあるが、自分の中でそれなりの理屈をつけてやりすごしてしまう。
「○○だからしょうがないよね」「でもぼくは□□があるし」「そもそもそこで勝負しようとは思わないし」
己を傷つけずに済む理屈は、三十数年も生きていればなんとでも見つけられる。

悔しさに対して涙がでるほどまっすぐ向きあうことがぼくにはできない。

4歳児が流した悔し涙は、逃げ方だけがうまくなったおじさんの心には深く刺さった。



数日後、Sちゃんのおかあさんと出会った。

「うちの子、あの日帰ってすぐにひらがなの勉強はじめたんですよ。以前買ったドリルにずっと手をつけてなかったのに。今日も朝からドリルやってました」

との報告を受けた。

ああ、いいなあ、とぼくは思った。

悔しさを克服するためにすぐ行動に移す。

すごくシンプルなことなんだけど、それって今しかできないことかもしれない。