2023年1月11日水曜日

【読書感想文】『ズッコケ芸能界情報』『ズッコケ怪盗X最後の戦い』『ズッコケ情報公開㊙ファイル』

   中年にとってはなつかしいズッコケ三人組シリーズを今さら読んだ感想を書くシリーズ第十五弾。

 今回は43・44・45作目の感想。いよいよラストに近づいてきた。

 すべて大人になってはじめて読む作品。


『ズッコケ芸能界情報』(2001年)

 女優になりたいと言いだしたタエ子さんの付き添いで、芸能プロダクションのオーディションに付き添った三人組。突然、元二枚目俳優・現プロダクション事務所の社長にスカウトされ……。


 あまりにも導入の展開が雑すぎる。初対面の芸能プロダクション社長がそのへんの小学生相手にいきなり「君たちは三人ともスターになれる! うちと契約してください!」って言ってくるんだよ。平凡な顔を見ただけ。演技も見ていなければ、話すらしていないのに。

 これが詐欺でなければなんなんだ。どう考えたって詐欺師だ。

 ははあ、じつは詐欺でしたーっていうオチだな、小学生に芸能界は魑魅魍魎が跳梁跋扈する甘くない世界だと教えるんだなとおもって読んでいたのだが、驚くことに最後まで読んでも詐欺ではないのだ。んなアホな。

 ストーリーの強引さもひどいが、キャラクターの性格が変わっていることも気に入らない。目立ちたがり屋でお調子者だったハチベエはどこへ行ったんだ。これまでのハチベエだったら一も二もなく芸能界入りの話に飛びついていただろうに、今作では妙に慎重。逆に両親が浮ついて「うちの子はスーパースターになれる」なんて言いだす始末。キャラクターを壊さないでくれよ。

 タエコさんも急に芸能界デビューしたいと言いだすし、器量がいいわけでも熱意があるわけでも演技がうまいわけでもない少女がオーディションでいいとこまでいっちゃうし。ハチベエはハチベエで、ほとんど練習すらしていないのにとんとん拍子でドラマ出演が決まるし。ほとんど夢物語だ。

 また、主役であるハチベエですら主体的に行動することはほとんどなく、エスカレーターに乗せられたかのように努力することもなくスターの道を登りつめてゆく(途中で落とされるが)。いわんや、ハチベエが東京に行ってしまった後のモーちゃんとハカセにいたってはほぼ出番なし。

 とにかく作者の立てた無理のある筋書きに、登場人物たちがいやいや付きあわされているという感じの作品だった。



『ズッコケ怪盗X最後の戦い』(2001年)

 みたび現れた怪盗Xから、新未来教なる新興宗教団体から黄金の草履を盗みだすという予告状が届く。だが新未来教の教祖は神通力があるから大丈夫と自信たっぷり。はたして怪盗Xは黄金の草履を盗みだすことに失敗したかに見えたが……。


 冒頭の、国会議員秘書が金を騙しとられるくだりは蛇足だったが、第二章からはおもしろかった。怪盗X三部作の中ではいちばんよかった。

 まず新興宗教団体を舞台にしているのがいい。神通力を持っていると自称する教祖VS天下の大泥棒。ドラマ『TRICK』を彷彿とさせる。また、怪盗Xが敗れたのでは? とおもわせておいて二転三転する展開もおもしろい。

 さらに「ハカセたちの近所に引っ越してきた男性が怪盗Xの正体なのでは?」というもうひとつの謎もストーリーにうまくからんでいて、終始飽きさせない。こっちの謎は最後まで明らかにならないところも余韻を残す感じでいい。

 一点不満があるとすれば、「Xの正体らしき人物」がハカセやモーちゃんと同じアパートに引っ越してくるのはあまりにご都合的すぎる。X側は三人組のことを知っているのだから、わざわざ近所に引っ越してくる理由がないとおもうのだが……。

『ズッコケ怪盗Xの再挑戦』がかなりひどい出来だったので期待していなかったのだが、いい意味で予想を裏切ってくれた。



『ズッコケ情報公開㊙ファイル』(2002年)

 時代劇を観て、悪いやつをこらしめる諸国お目付け役になりたいとおもったハチベエ。ハカセに話したところ、だったらオンブズマンがいいんじゃないかと言われ、女の子にもてたい一心で市民オンブズマンになることを決意。情報公開のために市役所に行った帰り道、交通事故現場を目撃。被害者の男から書類とフロッピーディスクを託される。そこにあったのは市長の写真と交通費の書類だった……。


「情報公開」というおっそろしくつまらなさそうな題材だったが、中盤以降のストーリーはスティーブンソン『宝島』に似た王道冒険物語パターン。謎を解いたり、悪者に追われたり。『謎のズッコケ海賊島』にもよく似ているね。

『海賊島』と大きく異なるのは、中期以降は準レギュラーになっている荒井陽子・榎本由美子・安藤圭子たちと行動を共にすること。これまでは不自然に女性陣が登場していたが、今回は「フロッピーディスクの中身を調べるためにパソコンを持っている荒井陽子に協力を求める」という自然な筋書き。また危険なことにかかわりたくない榎本由美子が終盤でいい働きを見せるなど、女性陣をうまく扱っている。

「つまんなそうなテーマだな」と期待せずに読んだのだが、意外とおもしろかった。まったく期待しなかったのがよかったんだろうな。ただやっぱりオンブズマン制度の説明は子どもにはむずかしすぎる。娘(九歳)はほとんど理解できていなかった。政治家とか公務員とかすらよくわかってないんだから、オンブズマンだとか開示請求だとか言ってもわかるわけない。だいたいこの物語で三人組がやっていることはオンブズマン活動ではなく、恐喝屋からゆすりのネタを預かっただけである。情報公開請求なんてしていない。

 とはいえ、こうやって他の児童文学が手を付けていない分野に挑戦する意欲は買いたい。流行っている推理物や怪談物に安易に手を出すよりはずっといいぜ。


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2023年1月10日火曜日

【読書感想文】中脇 初枝『世界の果てのこどもたち』 / 高カロリー小説

世界の果てのこどもたち

中脇 初枝

内容(e-honより)
珠子、茉莉、美子―。三人の出会いは、戦時中の満洲だった。生まれも境遇も何もかも違った三人が、戦争によって巡り会い、確かな友情を築き上げる。やがて終戦が訪れ、三人は日本と中国でそれぞれの道を歩む。時や場所を超えても変わらないものがある―。


 いやあ、すごい小説だった。胸やけするぐらいカロリーの高い小説だ。寝る前にちょっとずつ読んでたんだけど、後半は不眠症になるぐらい刺激的な小説だった。



【ネタバレあり】

 主人公は戦時中の満州で出会った三人の少女。開拓民の子として親しく遊ぶ仲だったが、やがてばらばらに。横浜に戻った茉莉は空襲で親や親戚を失い、美子は在日朝鮮人として差別や貧困と闘いながら生きてゆく。満州で終戦を迎えた珠子は日本を目指すが……。

 三人ともとんでもなく苦労をするのだが、中でも珠子のおかれた境遇はつらい。戦争が終わったとたん、それまで奴隷のように扱っていた中国人たちに襲われる。

 中国人は引き揚げていた。家々は焼かれ、めぼしいものは奪われていた。城壁内のあちこちに、日本人の死体があった。 
 珠子は初めて、殺された人の死体を見た。裸にされて、槍で突かれたのか血まみれになって、野菜畑で死んでいた。珠子たちを家に住まわせてくれていた呉服屋の主人だった。 
 呆然として珠子はその死体を見下ろしていた。こどもはそんなもんを見たらいかんと言う余裕のある人間はだれもいなかった。ひとりぼっちで立っている珠子を気にかける人間もいなかった。 
 珠子は昨夜から今までのことを思いだしていた。 
 なんでわたしらあは襲われたが? 
 なんでソ連軍やのうて、満人が襲うてくるが? 
 珠子は茉莉に見せてもらった絵本の絵を思いだした。遊んでいた日本人と朝鮮人と中国人。 
 なかよしやなかったが? 
 わたしらあ。 
 広い満洲では開拓団村の城壁の中で暮らし、昨夜は襲われて城壁の中から逃げだした。 
 なぜ城壁があったのか。なぜ外へ出てはいけなかったのか。 
 あれは、けものから身を守るためのものではなかった。 
 なぜ大人たちが鉄砲を持っていたのか。鉄条網を張りめぐらせ、見張りを立てていたのか。 
 珠子は気づいた。 
 ここは日本ではなかった。珠子たちは満洲の人たちから逃げていた。この土地にもともと住んでいた満洲の人たちから。
 翌日からは、絶え間ない略奪が始まった。ついてきた中国人たちは、日本人の列に入りこんでは、ポケットというポケットを漁り、金目のものがないか探す。一緒に歩きながら、まるで他の者に取られる前に取らなくてはと焦っているかのように、上着のみならず、男のズボン、女のもんぺ、こどもの服など、手当たり次第に剝ぎとっていく。 
 略奪に加わるのは男だけではなかった。女のみならず、珠子と同じ年頃の女の子や男の子まで、寄ってきては「拿出(出せ)」「脱下(脱げ)」と言って、抵抗できない日本人の大人たちの持ち物や着物を奪う。校長先生まで女の子にズボンを脱がされていた。中国人の警察隊も見て見ぬ振りだった。 
 日本人の女は髷の中や赤ん坊のおむつの中に宝石を隠しているという噂が中国人の間で流れているらしく、女は髷を切られて髪の中まで探された。おぶった赤ん坊は奪われ、おむつまで外されて丸裸にされた。女の服を脱がせて局所まで探す者もいた。


 歴史の教科書やドラマでは、終戦は「戦争が終わった! これからは戦争のない世の中が始まる!」といった明るい転機として描かれる。だがそれは日本本土の話であって(もちろんそっちも大変だったのだが)、満州に残された日本人にとっては終戦は過酷な戦いのはじまりだったのだ。想像したことなかったなあ。

 財産をすべて奪われ、命も奪われ、命を守るために我が子を殺し、年老いた親を見殺しにし、それでも日本を目指してあてのない旅を続ける人々。


 ある年代の人々の中には中国人を蛇蝎のごとく嫌っている人がいたが、こういう経験をしたんなら一生憎むのもわからんでもないかなあ。もちろん、それ以前に日本人が中国人に手ひどい仕打ちをしてきたからこそ仕返しをされたのだけど。

 とはいえ軍人や官憲がおこなった悪行のしかえしを開拓民が被ったわけで、開拓民からすれば「一方的にやられた」と感じるだろうなあ。

「我々はただ開拓民として農業をして平和に暮らしていたし中国人とも仲良くやっていたのに、戦争に負けたとたん中国人たちがいきなり襲ってきた」という印象なのだろう。中国人にとっては、「先祖代々の土地を奪った憎い相手だが日本軍がいばっているのでおとなしく言うことを聞いていた。その軍隊が撤退したので、奪われたものを取り返した」って感覚なんだろうけどなあ。

 こうして憎しみは受け継がれてゆくんだなあ。




 さらに敵は中国人だけではない。

 夜が更けるにつれて、霜が降りてきた。女こどもを内側にし、みなで打ち重なるように円形に身を寄せ合って眠った。珠子は光子とともに母の胸にしがみついていた。夜更けにはソ連兵がやってきて銃先で上の人間をどかし、女性をみつけだすと銃を突きつけて連れていった。幸い、珠子のところにはやってこなかった。 
 遠くから途切れ途切れに聞こえてくる、夫や両親に助けを求めて泣き叫ぶ女の声を聞きながら、珠子は眠った。

 中国人に襲われ、ソ連兵にも襲われ、さらには日本人同士でも奪いあいがくりひろげられる。

『世界の果てのこどもたち』には、空襲で親を失った子どもから食べ物を奪って我が子に与える大人や、死者の所持品を奪う人々、敵に見つからないように子どもを殺させる大人(そしてそれに従って我が子を殺す親)、弱い者をだまして少しでも多くの食料を手に入れようとする人間などが描かれる。

 彼らは、決して生まれながらの極悪非道な人間ではないのだろう、きっと。彼らは彼らで生きるか死ぬかの状況にあり、生きるため、あるいは家族を生かすために他者を騙し、攻撃し、奪うのだ。

「苦しいときこそ助け合う」なんて真っ赤な嘘だ。他人に優しくできるのは、自らに余裕があるからだ。苦しいときこそ奪いあうのだ。




 珠子は中国人の襲撃から逃げ、ソ連兵から逃れ、その途中で妹や親しい人たちを失う。やっとのことでたどりついた収容所でも劣悪な環境によりばたばたと人が死に、さらに珠子は人さらいに捕まって売られてしまう。たまたま親切な中国人夫婦に買われて、中国人として育てられるのだが、今度は日本人であることが理由で辛酸をなめる。

 中国では大躍進政策、そして文化大革命の嵐が吹き荒れていたのだ。

 その後、部長と課長クラスの人間が一斉に批判の対象となった。批判集会の後は拘束され、工場長も部長も課長も、管理職にあった人間はすべていなくなった。 
 工場の生産は滞った。主任たちも、いつ自分たちが批判されるかわからず、怯えて、共産党員の工員たちの言うなりだった。自分が告発されたくないがために、家族であろうが同僚であろうが、なにもしていない人を先に告発することも、めずらしいことではなくなった。 
 ありとあらゆることが告発の種になった。おぼえていることもいないことも。かつてしたことをおぼえている人たちによって告発された。革命は総決算だった。したことがよいことかわるいことかではなかった。それをどう思っていた人がいたかだった。親が裕福だったこと、大学に行ったこと、有能で仕事ができたこと、そんなことが批判された。あることもないことも。もはや、それが真実かどうかさえ関係がなかった。それを人がどう思ったか。どう思って見ていたか。その思いが溢れだした。これまで口にできないでいた、その思いが。 
 だれもがだれもを疑い、これまでの人間同士の信頼や親しさというものが、すべて消えた。そもそもそんなものはありえない夢だったかのように。

 やっと手に入れた平穏の末、ついに日本に帰還を果たす珠子。だが幼少期から中国人として暮らしていたために、その頃には日本語どころか日本人として暮らしていた日々の記憶もほとんど失われていた……。

 なんとも壮絶な人生だ。もちろん珠子だけでなく、孤児となった茉莉や、在日朝鮮人として生きる美子もまたそれぞれ想像を超えるほど苦しい日々を送ることになる。

「戦争の悲劇」について語るとき、どうしても死者のつらさに重点が置かれるけど、ひょっとしたら生きのびた人のほうがずっと苦しい思いをしているかもしれない。「それでも生きていただけマシ」とはかんたんに言えないなあ。


 なんとも強烈な小説だが、あの時代を経験した人々からするとさほどめずらしくもない話なんだろう。一家全員無事でした、なんてケースのほうがめずらしいぐらいかもしれない。




 ぼくの祖父母は大正後半~昭和ヒトケタの生まれだった(昨年祖母が九十九歳で死に、全員鬼籍に入った)。戦争の記憶がある最後の世代だ。この世代は生きていても百歳ぐらいなので、もうほとんど残っていない。

 ぼくはとうとう祖父母から戦争体験談を聞かずじまいだった。祖父に関してはふたりとも出征していたそうだが。

 なぜ言わなかったのだろう、と彼らの心境を想像する。単純に「聞かれなかったから言わなかっただけ」の可能性もあるが、やはり言いたくなかったんじゃないだろうか。


 きっと、ぼくの祖父母も、生きるために他者から何かを奪ったんじゃないだろうか。金銭だったり、物資だったり、ひょっとすると生命を。きれいごとだけでは生きられなかった時代だ。もちろん奪われることもあっただろうが、奪うことも多かっただろう。

 きっと平和な時代にのほほんと生きる孫には言えなかったのだろう。どうせ「そうしないと生きていけない時代だったんだよ」と言っても、平和な時代しか知らない孫には伝わらない。だから戦争の思い出をまるごと封印したんじゃないだろうか。

 すべてはぼくの勝手な想像にすぎないけど。




 ものすごくパワフルな小説だった。三冊の重厚な小説を読んだぐらいの圧倒的なウェイト。

 まだ年のはじめだけど、たぶん今年トップクラスの本になるだろうな。


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2023年1月6日金曜日

【読書感想文】『各分野の専門家が伝える 子どもを守るために知っておきたいこと』 / 正論はエセ科学に勝てない

各分野の専門家が伝える
子どもを守るために知っておきたいこと

宋美玄 姜昌勲 名取宏 森戸やすみ 堀成美
Dr.Koala 猪熊弘子

内容(e-honより)
子育ては、人生の一大事業であり、社会にとっても重要なことがらです。しかし、「我が子を大切に育てるために、どうするのが最善なのだろう」と悩んだ末に、ネットや口コミで流れる怪しげな情報にすがり「よかれと思って」それを推進すると、結果的に子どもたちを不幸にしてしまいます。親、そしてすべての大人たちに必要なものは、根拠のない情報を鵜呑みにしない「知の防壁」、つまり「正しい知識」と「論理的思考能力」です。本書では、各分野の専門家たちが育児・医学・食・教育などの分野にわたり世に流布するデマを論理的に糺し、正しい知識を提供します。本書を座右に、子どもたちを守るためのスキルを身につけていきましょう。

 子育てをすると、周囲からいろんなことを言われる。あれに気をつけろ、これがいいらしい、それを早くやったほうがいい、と。病院、助産師、親、義両親、保育園、学校、親戚、他の保護者、近所の人、テレビ、SNS。

 言う方はたいてい親切心で言っているのだが、親切心ほどやっかいなものはない。営利目的での誘いなら「けっこうです!」と断れても、近しい人が親切心で言ってくる言葉ははねつけにくい。

 特に子育てに関してはほとんどの人がはじめての経験で失敗するととりかえしのつかないことになるので不安になりやすい。「よくわかんないけどやってみる。だめならもう一回」とはいかないから、正解を求めていろんな情報をさがす。いろんな人が(よかれとおもって)アドバイスをする。

 で、中にはまちがった知識、有害となる知識もある。バカな話をバカな人が信じているだけなら好きにしたらいいが、そこがバカのゆえんで、バカ知識を他人に押しつけたりバカ知識にもとづいて他人の行動を変えようとしたりする。


 子育てをする上で、そういう「エセ科学」に染まらないようにするための本。

 自然分娩、母乳育児、オーガニック食品、食品添加物、放射性物質、ホメオパシー、反ワクチン、江戸しぐさ、EM菌、水からの伝言などをテーマに、信頼のおける本やデータをもとに「正しいであろう知識」を紹介している。




 やっていることはすごく正しい。あたりまえのことを丁寧に伝えていくことは大事だ。ただ「届けなきゃいけない人には届かないだろうな」という気もする。

 正しいことっておもしろくないんだよね。この本もぜんぜんおもしろくない。教科書を読んでいるよう。正しいことをまっとうに書いている。ふーん、とおもうだけ。

「水にやさしい言葉をかけるときれいな結晶になる」とか「江戸時代の人たちに伝わっていたマナーが現代に通ずる」とかのほら話のほうがおもしろい。ほら話だからね。残念ながら。


 そもそも、エセ科学に夢中になる人って正しい知識なんて求めてないんじゃないだろうか。

 以前、ある俳優さんが語っていた。自分は陰謀論に染まりかけていた。ネットやYouTubeで仕入れてきたソースの怪しい話を知人に「どうだ知らないだろう」と話していた。だが、親しい仲間からそれは陰謀論でまともな話じゃないと指摘され、目が覚めた。改めて考えると、たしかにそのときの自分はおかしかった。陰謀論を知れば、無知でも、努力をせずに賢くなった気になれる。だからどんどん引きこまれていった、と。

 これはすごく冷静な指摘で、なかなかここまで客観的に自分を見つめることができる人はいないだろう。

 エセ科学や陰謀論にはまる人が求めているのは「楽して専門家よりも賢くなった気になれること」であって、「丹念につみあげられた証拠」や「膨大な実験結果」や「論理的に正しい可能性が高いであろう推論」などではない。ソースをあたれとか自分で調べろとかいうけど、ずいぶんトンチンカンな話だ。一獲千金を求めて馬券を買う人に「こつこつ働いて貯金しなさい」と言うようなものだ。

 ぼくだって、科学や政治経済の勉強はよくできたほうだし本を読むのも苦にならないからそれなりに科学リテラシーがあるほうだと(自分では)おもっているけど、そうじゃない分野に関していえばあっさりエセ科学的なものに染まる可能性はある。たとえばアイドルの分野にはまったく興味もないし自分で調べようとすらおもわないから「アイドルの○○は実は□□なんですよ」なんてことを、事情通っぽい人にもっともらしく言われたら「ふーんそうんなものか」と信じてしまうかもしれない。検証するのはめんどうだし。


 だから陰謀論やエセ科学を信じている人に対して、まともな議論や確かな証拠をいくらぶつけたってひっくりかえすことはできないとおもう。馬券を買う列に並んでいる人に「人間まじめに働かなきゃだめだよ」って言うのと同じで。上に挙げた俳優さんみたいなケースは、例外中の例外。

 陰謀論をひっくりかえせるのは別の陰謀論だけだとおもう。「ワクチンは身体に悪い!」って信じている人の考えを変えられるとしたら「いいや本当に危険なのはまだ世に知られていないXだ。ここだけの話、ワクチン反対論者はXの脅威を隠すために矛先をワクチンに向けているのだ!」みたいな別の陰謀論だろうね。




 保険対象となっている医療行為や薬はリスクもあるけどメリットのほうが大きい、食品添加物も基準を守っていればほぼ悪影響はないし恩恵も大きい、福島県の放射線物質はまったく心配するような量ではない、など、まああたりまえといえばあたりまえの話ばかりが続く。たぶんこういう本を手に取る人からしたら「そりゃそうでしょ」的な内容が多いだろう。

 無農薬野菜にもリスクがある、という話。

 そのリスクのひとつは、天然の有毒物質が混じる恐れがあること。天然の有毒物質をあまり意識したことがない人も多いかもしれませんが、自然界には人間が食べると毒になるものがたくさんあります。食用ではない植物の多くは有毒です。実際、この天然の有毒物質が、オーガニックでもしばしば問題になっています。本当は残留農薬よりも、様々な作物に含まれている天然の有毒物質のほうがリスクは高いのです。
 たとえば畑に生える雑草の中には、有毒なアルカロイドを含むものがあります。2014年には、輸入されたオーガニックベビーフードからナス科のアルカロイドであるアトロピンとスコポラミンが検出されてリコールされたというニュースがありました。このときに検出された量は、赤ちゃんに影響が出る可能性のある量でした。畑に雑草が多いことがオーガニックのよいところだと言う人もいますが、野生の植物は混じらないほうが安全です。
 もうひとつのリスクは、オーガニックの食品は、カビ毒汚染が多いということです。植物には真菌(カビ)が原因となる病気が多いのですが、これら真菌は植物を傷めて収穫量を減らすだけではなく、ヒトを含む動物にとって有害なマイコトキシンと呼ばれる一連の毒素を作ります。これらの種類は多く有害影響も様々ですが、有名なのはトウモロコシなどによくみられるアフラトキシン、小麦などによくみられるデオキシニバレノールなどです。実際、前出の企業のオーガニック製品から、カビ毒のオクラトキシンが検出され、回収されたこともありました。これらの残留農薬よりはるかに害が大きい自然の毒素は、農薬を適切に使うことで減らすことができます。
 もちろん、普通に販売されている商品のほとんどには問題がなく、安全性については普通の農産物も有機農産物も意味のある差はないと言えます。

 よく「○○は身体に悪い!」と言われるけど、まあたいていのものは人体に悪影響を与えることができるんだよね。どんなものでも摂りすぎは健康に良くない。

 そしてついつい「○○を摂取する」と「○○を摂取しない」で比べてしまうけど、何も食べないと死んでしまうのだから、比べるべきは「○○の害」と「○○ではないものの害」でなくてはならない。農薬を使った野菜の害と比較すべきは、無農薬野菜を食べる害だ。そして後者は決して小さくない。何人もの人が、自然にあるものを口にして命を落としてきた。

「農薬の害」はよく語られるけど「無農薬の(食べる人にとっての)害」はほとんど語られないのはフェアじゃないよなあ。




 個人的には取りあげるトピックに「早期英語教育」も入れてほしかったな。

 巷にあふれる幼児向け英語教育は、効果が怪しいものが大半だとにらんでるんだけどな……。


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【読書感想文】バトラー後藤裕子『英語学習は早いほどいいのか』

母親として、子どもに食べさせるものには気をつかいたい



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2023年1月5日木曜日

いちぶんがく その18

ルール


■ 本の中から一文だけを抜き出す

■ 一文だけでも味わい深い文を選出。



未亡人ギャグも冴える。

(竹宮 ゆゆこ『砕け散るところを見せてあげる』より)




ああ、このままずっと君に回されていたい。

(爪切男『クラスメイトの女子、全員好きでした』より)




こんなことしてて いいのです

(ニコリ編『すばらしい失敗 〜「数独の父」鍜治真起の仕事と遊び』より(鍜治 真起))




かかりつけの釈迦に相談するべきだったのだ。

(上田 啓太『人は2000連休を与えられるとどうなるのか?』より)




三角の布は、おばあちゃん同様、臭い。

(『悪童日記』より)




自分の居場所を愛した記憶がない彼にとって、怒りや苛立ちをうじうじ反芻するのは、故郷に帰るようなものだった。

(大岡 玲『亀をいじめる』より)




おめでとう、人。

(岸本 佐知子『死ぬまでに行きたい海』より)




もしもキュウリが違法化されたらどうなるか、考えてみてほしい。

(ウォルター・ブロック(著) 橘 玲(超訳)『不道徳な経済学 ~転売屋は社会に役立つ~』より)




「腐らない人間なんていやしませんよ」と一蹴。

(特掃隊長『特殊清掃 死体と向き合った男の20年の記録』より)




死人をいやがるのはしばらくの間で、白骨ともなれば話し相手にもなった。

(石野 径一郎『ひめゆりの塔』より)




 その他のいちぶんがく


2023年1月4日水曜日

【読書感想文】堀井 憲一郎『愛と狂瀾のメリークリスマス なぜ異教徒の祭典が日本化したのか』 / キリスト教徒じゃないからこそ

愛と狂瀾のメリークリスマス

なぜ異教徒の祭典が日本化したのか

堀井 憲一郎

内容(講談社BOOK倶楽部より)
「なぜキリスト教信者ではない日本人にとっても、クリスマスは特別行事になっているのか? それは実は、力で押してくるキリスト教文化の厄介な侵入を――彼らを怒らせることなく――防ぎ、やり過ごしていくための、「日本人ならではの知恵」だった! 「恋人たちが愛し合うクリスマス」という逸脱も、その「知恵」の延長線上にあったのだ――キリスト教伝来500年史から、極上の「日本史ミステリー」を読み解こう!

 なぜキリスト教国でもない日本で、クリスマスだけが国民的行事になったのか――。


 せいぜい戦後日本の文化史でも書かれているのかとおもって手に取ったのだが、『愛と狂瀾のメリークリスマス』ではクリスマスの発祥や江戸時代のクリスマスの様子などから丹念に調べられている。

 もうひとつ「サトゥルヌスの祭り」との関係も指摘されている。
 12月1日から25日まで、ローマ帝国の農耕神サトゥルヌスを祭る祝祭であった(ローマ帝国は多神教であるから、いろんな神がいた)。
「サトゥルヌスの祭り」では、7日間にわたり、すべての生産活動を停止して、喧噪と浮かれ騒ぎに明け暮れた。使用人と主人の立場も入れ替えられ、悪戯が仕掛けられ、冥界の王が担ぎ出され、どんちゃん騒ぎに終始した。この狂騒の祝祭のあいだに、贈り物のやりとりをした。サトゥルヌスは一種の悪神である(英語読みではサターンとなる)。
 クリスマスにおける贈答の習慣は、このサトゥルヌスの祭りが淵源だとされる。異教の祭りをもとにした習慣は、やがてサンタクロースが一身に背負っていくことになる。文化人類学者の説明によると、サンタクロースは冥府の使いの側面を持っているという。つまり、サンタクロースはもとは死の国の存在でもあったのだ。

 これは、絶妙に中二心をくすぐってくれる話だなあ。聖ニコラウスがサンタクロースになったという説もあるので、信憑性はともかく。

 仮に「サンタクロースは冥府の使い」説が正しかったとしても、この説が公式の見解になることはないだろうな。




 戦後時代に日本にきたルイス・フロイスの著した『日本史』についての話。

 これまた、「日本人全員をキリスト教徒にして、いつの日か日本全土をキリスト教国たらしめんための、その途中経過」という体裁で書かれているため、キリスト教徒ではない日本人の私から見れば、異様だとしかおもえない記述が目立つ。
 あらためて、イエズス会士たちの目的は「日本古来の習俗を廃し、神社も仏閣も仏像も破壊して、この島国の隅々までをキリストの国にすること」にあったのだとおもいいたる。きわめて暴力的な存在である。あまり中世の宗教をなめないほうがいいとおもう。
 フロイス自身も「日本の祭儀はすべて悪事の張本人である悪魔によって考案されたものである」(中公文庫3巻5章冒頭)と明記しており、つまりお正月のお祝いも、節分も、お盆の墓参りも、秋の収穫祭も、すべて「悪魔によって考えだされたもの」なのでやめさせなければいけない、と強く信じていたわけである。真剣に読んでいると、かれらの圧迫してくる精神に(日本の習俗をすべて廃させようとするその心根に)とても疲れてくる。ほんと、よくぞ国を鎖してキリスト教徒たちを追放してくれたものだと、個人的にではあるが、あらためて秀吉・家康ラインの政策をありがたくおもってしまう。

 たしかに、中世のキリスト教が十字軍や新大陸遠征で異教徒たちにしてきた蛮行をおもえば、日本にやってきた宣教師たちの目的は「キリスト教以外の宗教を徹底的に破壊し、日本をキリスト教の国にすること。そのためなら暴力的な手段をとってもいっこうにかまわない」だとしてもいっこうにふしぎはないよなあ。

 隠れキリシタンだとか踏み絵だとか『沈黙』だとか、まるでキリスト教側が被害者であるかのような描かれ方をすることが多いけれど(そしてそれはある面では事実だけど)、一歩まちがえれば逆に神道や仏教のほうが迫害されていた可能性もあったわけだ。

「キリスト教を弾圧しないとキリスト教に弾圧される」ぐらいのせっぱつまった状況にあったんだろうな。


 17世紀、江戸にあった中央政府は〝鎖国令〟という名の触れは出していない。
 かれらがおこなったのはキリスト教徒を日本国から締め出すことであった。
 徳川家康は1613年の暮れに「伴天連追放」を全国に公布し、その一掃をはかった。日本古来の秩序を乱すものとして、その存在を許さなかった。
 ただその信者数はかなりの数におよび、全国に広がっていた。禁教令を出したくらいでは、その影響力を途絶させることはできない。キリスト教国との貿易は継続したため、商人に身をやつした宣教師が国内に潜入するのを止めることはできなかった。
 そこで政府は徹底をはかることになる。
 まず御用商人が扱っていた外国との貿易を、中央政府の管轄においた。
 カトリック教国であるポルトガルの人は、商人とキリスト教布教者の区別がつきにくく、彼らを出入りさせているかぎりキリスト教追放は成り立たぬと判断し、ポルトガルとの国交断絶、ポルトガル人を追放し、今後の入国を禁じた。
 キリスト教国ながらプロテスタントのオランダ国は、商人と布教者の区別がついているように見えたので、長崎のみに窓口を限定し、その交易を続けることとした。もうひとつ貿易を続ける中国船の出入りも長崎に限定した。
 また、日本人の海外渡航と、在外日本人の帰国を禁じた。これを許しているかぎり、やはりキリスト教との縁が切れないからだ。
「ポルトガルとの国交断絶」「オランダ・中国との交渉を長崎に限定する」「日本人の海外渡航と海外からの帰国の禁止」、この三つの沙汰をもって鎖国令と呼ばれている。このままの状態では、日本はやがてキリスト教によって国の秩序が保てなくなる、との判断によって、こういう処置をしたまでである。国を鎖したのは結果であって「これから国を鎖すぞ」と宣言したわけではない。

 鎖国もしかり。

 外国と交易のある現代の感覚からすると、国を鎖すなんてまるで北朝鮮のような独裁国家みたいに見えるけど(北朝鮮はけっこう外交やってるけど)、じっさいのところは「キリスト協会に侵略されないために自衛でやってた」ことなんだなあ。新型コロナウイルスが大流行してるから国外渡航者の入国を禁止する、ってのとマインドはそれほど変わらないのかもしれない。

 堀井さんの書く「あまり中世の宗教をなめないほうがいい」は決して大げさな表現ではない。




 このあたりの「キリスト教が日本を侵略しそこなった話」や「戦前や戦後すぐのほうがクリスマスで大騒ぎしていた話」などは、自分も知らなかったこともあって読みごたえがあった。

 大の大人がクリスマスだからといって酔って暴れて、標識が倒されたり、いたずら110番通報が続出したり、さながら令和の渋谷のハロウィンといった様子。

 歴史の教科書を読んでいると「戦争によって日本はまったく別の国に生まれ変わった」かのような印象を受けると、じっさいに当時の風俗を描いた本を読むと、ぜんぜんそんなことないことがわかる。たしかに昭和十八年と二十八年はまったく別の国だろう。だが昭和八年と二十八年はそれほどかわらない。サラリーマンが街で酔っ払い、ばかげた流行に右往左往し、なにかと理由をつけてくだらないことで大騒ぎしている。そのへんは、戦前も、戦後も、高度経済成長期も、バブル期も、バブル崩壊後も、そして今も、そんなに変わらない。服装や音楽や所持品など細かいことは変わっても、人々の行動は大きく変わっていない。

 ということで、戦後はクリスマスが「大人のもの」から「若い恋人たちのもの」になっていったぐらいで、やっていることはさほど変わらない。明治~戦前ぐらいの話のほうがずっと興味深かった。




 冒頭の話に戻るけど、なぜキリスト教国でもない日本で、クリスマスだけが国民的行事になったのか。

 堀井憲一郎さんによると、伝統的な祭りや行事を取り扱った研究は多いのに、クリスマスを研究している人はすごく少ないという。なんとなく人々の意識に「クリスマスなんてまともな研究者がまじめに研究するもんじゃない」という意識があるのかもしれない。そして、その「まじめに取り扱うようなもんじゃない」ポジションこそが、クリスマスが非キリスト教国の日本で普及した要因だという。

 まじめに論ずるようなもんじゃない。だったらクリスマスをやったっていいじゃない。浮かれてもいいじゃない。そういう論理も成り立つ。


 よくよく考えたら、とある宗教の開祖の誕生日(正確にはクリスマスはキリストの誕生日でもないらしいが)を祝うのってなかなかトリッキーなことだ。隣人が「うちでは一家を挙げてモルモン教の設立者の生誕日を祝っています」なんて言いだしたら確実に距離を置く。モルモン教の教義なんてまったく知らないけど、反射的に「ヤバそうだな」とおもってしまう。

 本来、クリスマスだってそういうあぶなっかしい行事だったはずだ。異教徒の宗教行事。でも「子どもたちがプレゼントをもらえる日」だったり「子どもたちが劇や歌で楽しむ日」だったり「若いカップルたちがいちゃつく日」だったりといった形をとることで、「まあいい大人が目くじら立てて非難するほどのもんでもねえわな」ってとこに落ち着いている。うまいこと批判をかわしている。

 クリスマスを祝うことは「キリスト教に染まること」ではなく、逆に「キリスト教に染まらない」ための手段だと堀井さんは喝破する。


 子どもの楽しみの日だったり、酔っ払いがバカ騒ぎをしたり、あ若いカップルがいちゃつく日だったり、といった形をとることで宗教的な意味は形骸化してしまう。

 江戸時代のように完全に拒絶するのではなく、キリスト教のどうでもいいところだけをどうでもいい形で文化の中に取り込んでしまうことで、「キリスト教とるに足らず」というイメージを植えつけてしまうわけだ。なるほど、すごい戦略だよね。誰も狙ってやってるわけじゃないところがよけいに。

 議論の信憑性については賛否あるとおもうけど、ひとつの説としては非常におもしろい論だった。「キリスト教徒でもねえくせにクリスマスの日だけ浮かれやがって」とまゆを広める人もいるが、キリスト教徒じゃないからこそクリスマスの日に浮かれるんだよね。


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