愛と狂瀾のメリークリスマス
なぜ異教徒の祭典が日本化したのか
堀井 憲一郎
なぜキリスト教国でもない日本で、クリスマスだけが国民的行事になったのか――。
せいぜい戦後日本の文化史でも書かれているのかとおもって手に取ったのだが、『愛と狂瀾のメリークリスマス』ではクリスマスの発祥や江戸時代のクリスマスの様子などから丹念に調べられている。
これは、絶妙に中二心をくすぐってくれる話だなあ。聖ニコラウスがサンタクロースになったという説もあるので、信憑性はともかく。
仮に「サンタクロースは冥府の使い」説が正しかったとしても、この説が公式の見解になることはないだろうな。
戦後時代に日本にきたルイス・フロイスの著した『日本史』についての話。
たしかに、中世のキリスト教が十字軍や新大陸遠征で異教徒たちにしてきた蛮行をおもえば、日本にやってきた宣教師たちの目的は「キリスト教以外の宗教を徹底的に破壊し、日本をキリスト教の国にすること。そのためなら暴力的な手段をとってもいっこうにかまわない」だとしてもいっこうにふしぎはないよなあ。
隠れキリシタンだとか踏み絵だとか『沈黙』だとか、まるでキリスト教側が被害者であるかのような描かれ方をすることが多いけれど(そしてそれはある面では事実だけど)、一歩まちがえれば逆に神道や仏教のほうが迫害されていた可能性もあったわけだ。
「キリスト教を弾圧しないとキリスト教に弾圧される」ぐらいのせっぱつまった状況にあったんだろうな。
鎖国もしかり。
外国と交易のある現代の感覚からすると、国を鎖すなんてまるで北朝鮮のような独裁国家みたいに見えるけど(北朝鮮はけっこう外交やってるけど)、じっさいのところは「キリスト協会に侵略されないために自衛でやってた」ことなんだなあ。新型コロナウイルスが大流行してるから国外渡航者の入国を禁止する、ってのとマインドはそれほど変わらないのかもしれない。
堀井さんの書く「あまり中世の宗教をなめないほうがいい」は決して大げさな表現ではない。
このあたりの「キリスト教が日本を侵略しそこなった話」や「戦前や戦後すぐのほうがクリスマスで大騒ぎしていた話」などは、自分も知らなかったこともあって読みごたえがあった。
大の大人がクリスマスだからといって酔って暴れて、標識が倒されたり、いたずら110番通報が続出したり、さながら令和の渋谷のハロウィンといった様子。
歴史の教科書を読んでいると「戦争によって日本はまったく別の国に生まれ変わった」かのような印象を受けると、じっさいに当時の風俗を描いた本を読むと、ぜんぜんそんなことないことがわかる。たしかに昭和十八年と二十八年はまったく別の国だろう。だが昭和八年と二十八年はそれほどかわらない。サラリーマンが街で酔っ払い、ばかげた流行に右往左往し、なにかと理由をつけてくだらないことで大騒ぎしている。そのへんは、戦前も、戦後も、高度経済成長期も、バブル期も、バブル崩壊後も、そして今も、そんなに変わらない。服装や音楽や所持品など細かいことは変わっても、人々の行動は大きく変わっていない。
ということで、戦後はクリスマスが「大人のもの」から「若い恋人たちのもの」になっていったぐらいで、やっていることはさほど変わらない。明治~戦前ぐらいの話のほうがずっと興味深かった。
冒頭の話に戻るけど、なぜキリスト教国でもない日本で、クリスマスだけが国民的行事になったのか。
堀井憲一郎さんによると、伝統的な祭りや行事を取り扱った研究は多いのに、クリスマスを研究している人はすごく少ないという。なんとなく人々の意識に「クリスマスなんてまともな研究者がまじめに研究するもんじゃない」という意識があるのかもしれない。そして、その「まじめに取り扱うようなもんじゃない」ポジションこそが、クリスマスが非キリスト教国の日本で普及した要因だという。
まじめに論ずるようなもんじゃない。だったらクリスマスをやったっていいじゃない。浮かれてもいいじゃない。そういう論理も成り立つ。
よくよく考えたら、とある宗教の開祖の誕生日(正確にはクリスマスはキリストの誕生日でもないらしいが)を祝うのってなかなかトリッキーなことだ。隣人が「うちでは一家を挙げてモルモン教の設立者の生誕日を祝っています」なんて言いだしたら確実に距離を置く。モルモン教の教義なんてまったく知らないけど、反射的に「ヤバそうだな」とおもってしまう。
本来、クリスマスだってそういうあぶなっかしい行事だったはずだ。異教徒の宗教行事。でも「子どもたちがプレゼントをもらえる日」だったり「子どもたちが劇や歌で楽しむ日」だったり「若いカップルたちがいちゃつく日」だったりといった形をとることで、「まあいい大人が目くじら立てて非難するほどのもんでもねえわな」ってとこに落ち着いている。うまいこと批判をかわしている。
クリスマスを祝うことは「キリスト教に染まること」ではなく、逆に「キリスト教に染まらない」ための手段だと堀井さんは喝破する。
子どもの楽しみの日だったり、酔っ払いがバカ騒ぎをしたり、あ若いカップルがいちゃつく日だったり、といった形をとることで宗教的な意味は形骸化してしまう。
江戸時代のように完全に拒絶するのではなく、キリスト教のどうでもいいところだけをどうでもいい形で文化の中に取り込んでしまうことで、「キリスト教とるに足らず」というイメージを植えつけてしまうわけだ。なるほど、すごい戦略だよね。誰も狙ってやってるわけじゃないところがよけいに。
議論の信憑性については賛否あるとおもうけど、ひとつの説としては非常におもしろい論だった。「キリスト教徒でもねえくせにクリスマスの日だけ浮かれやがって」とまゆを広める人もいるが、キリスト教徒じゃないからこそクリスマスの日に浮かれるんだよね。
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