2022年8月3日水曜日

【読書感想文】奥田 英朗『真夜中のマーチ』/エンタテインメントに振り切った小説

真夜中のマーチ

奥田 英朗

内容(e-honより)
自称青年実業家のヨコケンこと横山健司は、仕込んだパーティーで三田総一郎と出会う。財閥の御曹司かと思いきや、単なる商社のダメ社員だったミタゾウとヨコケンは、わけありの現金強奪をもくろむが、謎の美女クロチェに邪魔されてしまう。それぞれの思惑を抱えて手を組んだ3人は、美術詐欺のアガリ、10億円をターゲットに完全犯罪を目指す!が…!?直木賞作家が放つ、痛快クライム・ノベルの傑作。


 大金を手に入れるために主人公たちが東奔西走するコン・ゲーム小説。

 恐喝を企て、それが失敗すると窃盗を試み、それも失敗すると仲間を加えて再び窃盗を試み、また失敗すると今度はさらに仲間を増やしてもっと大金の強奪を企て、それもまた失敗すると今度は……と、めまぐるしく展開が変わる。目標は「大金を手に入れる」だが、失敗するごとに目標となる金額はどんどん膨れあがっていき、最終的には10億円をめぐって詐欺師・中国人マフィア・ヤクザを含め4チームが攻防をくりひろげる争奪戦となる。

 細かいリアリティは捨てて、疾走感を優先させたような小説。メッセージ性も哲学も倫理観もかなぐり捨ててとにかくエンタテインメントに振り切ったこの感じ、嫌いじゃないぜ。

 



【以下ネタバレ含みます】


 息もつかせぬ展開で、終盤はハラハラドキドキだったが、最終的にはこぢんまりしたハッピーエンドに着地してしまったのがちと残念。ここまでド派手な物語をくりひろげてきたのだから、最後は想像以上の大成功を収めるか、あるいはすべてを失うぐらいの大失敗か、それぐらいのラストを期待していた。

 あれだけドンパチやったり命を賭けて危ない橋を渡ったのに、最終的に手にするのがひとり三千万円とちょっと。ううむ。もともとはぐれ者のヨコケンはともかく、サラリーマンだったミタゾウや裕福な暮らしをしていたクロチェからしたら割に合わなくないか? 人生を変えられるほどの額じゃないぞ。

 個人的には、もっともっとアホな展開でもよかったとおもうな。

 小説で読むよりも映画にするほうが向いている小説かも(実際ドラマ化されたらしい)。


【関連記事】

【読書感想文】明るく楽しいポルノ小説 / 奥田 英朗『ララピポ』

【読書感想文】徹頭徹尾閉塞感 / 奥田 英朗『無理』



 その他の読書感想文はこちら


2022年8月2日火曜日

イヤイヤ期にはおうむ返し


 悲しいお知らせではあるが、次女がイヤイヤ期に突入してしまった。 

 次女は長女に比べて気性がおだやかで、一般的にイヤイヤがひどいとされる二歳(長女も二歳がひどかった)を無事に乗り切ったので「この子はイヤイヤ期がないんだ」と安心していたのだが、そんなことはなかった。ただ遅れて来ただけだった。ちぇっ。


 一度機嫌をそこねると、あれもイヤ、これもイヤ、とまったく話が通じなくなる。おまけに三歳なので、長女のときより言葉も達者だ。あれやこれやと言葉を尽くして駄々をこねる。

 しかし長女ですでに経験しているので、こちらはわりと冷静にできる。

 ぼくがよくやる対処法は「次女の言葉をおうむ返しにする」だ。


 次女が「ごはんたべたくない!」と言えば、「ごはんたべたくないなー」と言う。

「おとうさん、まねせんといて!」と言われれば、「まねせんといてほしいなー」と言う。

「まねしないでっていってるでしょ!」と言われれば、「まねしないでっていってるなー」と言う。

 当然、次女はますます怒る。

 妻や長女からも注意される。「そういうことするから余計に怒るんやで」と。

 わかっている。ぼくもわかっている。火に油だということは。


 それでもぼくが怒っている次女の真似をする理由は、ふたつある。


 ひとつは、怒りの矛先をそらすため。人間、同時に複数の対象に怒ることはできない。まねをしてわざと怒らせることで、当初の「ごはんたべたくない!」を忘れさせることができるのだ(まあできるときもあるしできないときもあるのだが)。


 もうひとつは、ぼく自身の平静を保つため。かんしゃくを起こしている子どもに何を言っても無駄だ。まともな会話など成り立つはずがないのだ。なんとかとりなそうとすれば、こっちの腹まで立ってくる。

 そうなったらもう泥沼だ。三歳児が怒り、大人も怒り、三歳児が泣き、大人は怒りが鎮まらない。何も言いことはない。

 だったら、三歳児の怒りを鎮めるのは無理でもせめてこっちぐらいは平静を保たねばならない。そのための方策が「ひたすら相手の言うことをおうむ返しにする」である。

 イヤイヤ期の幼児に腹が立つのは、まともなコミュニケーションがとれないからだ。あれもイヤ、これもイヤ、すべてイヤ、イヤだからイヤ、イヤなことがイヤ。
 ところがはなからコミュニケーションをとる気がなければ、何を言われても腹が立たない。なんせこっちは「言われたことをおうむ返しにするロボット」なのだ。


 子どものイヤイヤ期にお困りの保護者の方、「すべておうむ返し」はなかなかおすすめですよ。あんまり事態は好転しないけど、少なくとも悪化はしないから。


【関連記事】

怒りのすりかえ

力づくで子育て

2022年7月28日木曜日

【読書感想文】『ズッコケ発明狂時代』『ズッコケ愛の動物記』『ズッコケ三人組の神様体験』

   中年にとってはなつかしいズッコケ三人組シリーズを今さら読んだ感想を書くシリーズ第十一弾。

 今回は31・32・33作目の感想。

 すべて大人になってはじめて読む作品。


『ズッコケ発明狂時代』(1995年)

 夏休みの自由研究のために発明にチャレンジするハカセ。一獲千金を夢見てハチベエやモーちゃんも発明に夢中になるが、厳しい現実を知って諦めかける。そんな折、壊れたテレビと電卓をつないだ装置の付近に雷が落ち、それを機に「未来の番組が見られるテレビ」が誕生する。これで金儲けを試みる三人だったが、なんと三人組死亡のニュースが流れてきて……。


 テーマは決して悪くないのだが、これは前半と後半がまったくべつの話だよなあ……。『ズッコケ発明狂時代』といっていいのは前半までで、後半は『ズッコケ三人組と未来テレビ』だ。置いていたガラクタにたまたま雷が落ちて未来が見られるようになっただけで、まったく発明じゃない。机の引き出しから未来のロボットが出てきたのを発明という人はいないだろう。

 前半の「理論立てて考えるハカセよりも先に、適当な気持ちで手を出したハチベエやモーちゃんのほうが発明品を完成させる」あたりのハカセの心の動きの描写もいいし、後半の「自分たちの死亡を知らせるニュースを見てしまい、回避するために全力を尽くす」もおもしろい。『バック・トゥー・ザ・フューチャー』や乾くるみ『リピート』を彷彿とさせるサスペンス展開になっている。

 未来のニュースを見られるようにはなったが、バタフライ効果(とは作中で書かれてはいないが)により必ずしも実現するわけではない。未来テレビ通りの結果になることもあれば、そうでないこともある。なので三人組は助かるかもしれないし、助からないかもしれない……。この塩梅がいい。緊張感がある。

 当然ながら三人組が死亡してバッドエンドになることはないのだが、そこで終わらせずにラストに「未来テレビで観た競馬の結果」が実現するかどうかという展開を持たさているのもニクい。そしてその結末が作中で明かされず読者の想像にゆだねられるところも。

 改めて考えると、中期作品にしてはかなりの佳作といっていいだろう。それだけに、テーマである「発明」から離れてしまったのがかえすがえすも残念。



『ズッコケ愛の動物記』(1995年)

 捨て犬を拾ったモーちゃん。もらい手が見つからないので、工場の跡地で飼うことに。噂を聞きつけた子らが、飼えなくなったリスザルやニワトリやウサギやヘビなどを持ちこみ、それらもあわせて飼うことに。さらにハカセがイモリやトカゲを捕まえてきて飼育をはじめる。ところが土地の持ち主に見つかって動物たちを連れて出ていくように言われ……。


 今の子、都会の子はどうだか知らないけれど、数十年前に郊外で育った子どもなら「動物を拾って困る」は一度は経験したことがあるんじゃないだろうか。

 ぼくは三度経験した。一度は学校に犬が迷いこんできて、学校で保護したとき(昔の学校ってそんなことまでしてたのだ)。その犬は結局我が家で飼うことになった。十数年生きた。

 二度目は、父親が仔犬が捨てられているのを発見して拾って帰ったとき。家族で八方手を尽くして、どうにか貰い手を見つけた。

 三度目は、ぼくが友人たちと遊んでいるときに捨て犬を発見した。それぞれの親に訊いたり、近所の家をまわって「犬飼いませんか」と訊いてまわったりしたが、結局貰い手は見つからず。泣く泣く、元の場所に戻した。翌日その場所を訪れると、「ここに犬を捨てた人へ。あなたの身勝手な行動によって一匹の犬が殺処分されることになりました。動物を飼うなら責任を持ってください」という怒りの貼り紙がしてあった。元々は別の人が捨てたのだが、あれこれ連れまわしたあげく結局元の場所に戻したぼくらは、自分が責められているような気になった。いまだに苦い思い出だ。


 また、我が家ではいろんな動物を飼っていた。犬に加え、文鳥、ハムスター、スズムシ、カメ、トカゲ、オタマジャクシ、カブトムシ、クワガタムシ、アリ、カマキリ、アリジゴク、カミキリムシ、カタツムリ……(後半は全部ぼくが捕まえてきたやつだ)。

 子どもにとって「動物を飼う」というのは身近にして大きなイベントだ。そして「最初はがんばって世話をするけどだんだん面倒になってしまう」のも共通する体験だろう。ぼくが捕まえた小動物たちも、ほとんどが天寿を全うする前に死んでしまった。


 前置きが長くなったが、『ズッコケ愛の動物記』はそんな動物を飼うことをテーマにした話だ。身近なテーマなので親しみやすいが、身近である分、はっきりいって退屈だった。まさに動物を飼いはじめた子どもと同じように、読んでいるほうも飽きてしまうのだ。子どもが親に隠れて動物を飼っても、その先は「死なせてしまう」「逃がす」「逃げられる」のどれかしかないわけで、いずれにしてもあまり楽しい未来は待っていない。さすがにそれではかわいそうとおもったのか、『ズッコケ愛の動物記』では「家で引き取る」という道も用意するのだが、それはちょっと反則じゃねえかという気がする。それができるんなら最初から家で飼えばいいじゃねえか。

 また、ニワトリの処遇だけが最後まで決まらず、ニワトリをかわいがっていた田代信彦が行方不明になるところがクライマックスなのだが、その結末も「ニワトリが何羽がいる神社に置いてきた」というなんとも微妙な決着。「神様がニワトリを放す場所を用意してくれた」とむりやりいい話っぽくしているが、いやあ、勝手にニワトリ放してきちゃだめでしょ。

 たぶん小学生が読めばそこそこ楽しめるんだろうけど、あまりに展開が平凡すぎてぼくには退屈だったな。ズッコケシリーズ史上もっとも波風の立たない作品だったかもしれない。




『ズッコケ三人組の神様体験』(1996年)

 神社の秋祭りで手作りおみこしコンテストが開催され、三人組たちもおみこしを手作りして賞金十万円を狙う。また秋祭りでは数十年ぶりに稚児舞いが復活し、ハチベエが踊ることに。ところがこの稚児舞い、踊った子の頭がおかしくなるといういわくつきの舞いだった。実際に、ハチベエが徐々に変調をきたし……。


 これはなかなかおもしろかった。中期作品にしてはよくできている。地域のお祭りという日常生活の延長から、徐々に摩訶不思議な世界に引き込まれていく感じがいい。神や精霊と交信するシャーマニズムに踊りはつきものだし、神事としての舞いには子どもの脳に異常をきたすといわれても納得してしまう説得力がある。

 この作品が書かれた前の年である1995年には、地下鉄サリン事件を筆頭とする一連のオウム騒動がテレビをにぎわせていた。子どもの間でも「サティアン」だの「ポア」だの「グル」だのといったオウム用語がおもしろ半分に飛び交い、スピリチュアルなものの危うさが受け入れられる土壌もあった。

 超常現象を扱いながらも、不思議な体験が事実だったのかそれともハチベエの見た幻覚だったのかはわからない。これぐらいがいい。『ズッコケ妖怪大図鑑』や『ズッコケ三人組と学校の怪談』は、明確に超常現象を書いちゃってるからなあ。具体的に書くほうが嘘くさくなっちゃうんだよね。

 またオカルト一辺倒にならないように「手作りおみこしコンテスト」というもう一本の軸を用意しているところも重要だ。これにより三人のバランスもとれるし、また神がかりの異常さも際立つ。個人的にはズッコケシリーズの心霊系の作品はハズレが多かったんだけど、これはその中では一番かも。


【関連記事】

【読書感想文】『それいけズッコケ三人組』『ぼくらはズッコケ探偵団』『ズッコケ㊙大作戦』



 その他の読書感想文はこちら



2022年7月27日水曜日

【読書感想文】スティーヴン・J・グールド『人間の測りまちがい 差別の科学史』 / 先入観は避けられない

人間の測りまちがい

差別の科学史

スティーヴン・J・グールド(著)
鈴木 善次(訳) 森脇靖子(訳)

内容(e-honより)
人種、階級、性別などによる社会的差別を自然の反映とみなす「生物学的決定論」の論拠を、歴史的展望をふまえつつ全面的に批判したグールド渾身の力作にして主著。知能を数量として測ることで、個人や集団の価値を表すという主張はなぜ生まれたのか。差別の根源と科学のあり方を根底から問いかえすための必読の古典。

「人間の知能は、脳の大きさに比例する」と考えた人たちがいた。

 それ自体はすごく自然な考え方だ。ヒトの身体に対する脳の大きさはは、他の動物よりもずっと大きい。イルカのような例外はあるにせよ。

 そしてヒトは賢い。だから「脳が大きいほど賢いはず!」と考えるのはある意味当然のことだ。子どもでもそうおもう。

 しかし、種全体として「脳の大きなヒトが賢い」ことと、種の中で「脳の大きな人間は小さな人間より賢い」ことはまったくべつの話だ。


「人間の知能は、脳の大きさに比例する」説は、今ではほとんど否定されているそうだ。

 たしかに実験をすると、脳が大きいほどテストの点数が伸びることがある。
 でもそれは
「子どもの場合は年齢が低いと脳が小さく、年齢が低いとテストの点数が低い。だから脳が小さいほどテストの点数が低い」
だったり、
「栄養状態が悪いと脳が小さく、栄養状態が悪いとテストの点数が低い」
だったり、
「ある種の病気では脳が委縮して、知能も低くなる。それが平均点を下げる」
だったりして、相関関係はあっても明確な因果関係は示せないようだ。


 ところが「人間の知能は、脳の大きさに比例する」説を正しいと信じ、さらにはこれにもっともらしい裏付けを作り、「だから××はバカなのだ」と主張した科学者がいる。それもたくさん。

 彼らの多くは、差別のたえに事実をねじ曲げたつもりはなかった。本心から自分の説を信じていた。なぜ彼らは誤ったのか。

 ……ということにせまった本なのだが、とにかく読みづらい。部分的にはおもしろいことも書いてあるのだが、掲載されている例が個別的すぎる。

「■■という学者がいて、彼はこう主張した。だが彼は~という誤りを犯していた」
といった話がひたすらくりかえされるのだが、読む側の感想としては
「それって■■が間違えただけだよね?」
で終わってしまう。

「人間はこういう条件のときに誤りを犯すのです」といった一般的な話が出てこないんだよね。

 というわけで、後半はうんざりして読み飛ばしてしまった。




 様々な人種の頭蓋骨を調べて、「白人男性の脳が大きく、だからいちばん賢い」という結論を下した学者について。

 この修正値はなおも白色人種の平均値に比べて三立方インチ以上のへだたりがある。ところで、白色人種の平均を出したモートンのやり方を吟味してみると、おどろくべき矛盾があることがわかった。(中略)モートンは自分のサンプルから脳の小さいインド人を故意に除外して白色人種の高い数値を導き出している。彼はこう記している(中略)。「とはいえ、インド人のものが全数の中にわずか三個体しか含まれていないことにふれることは当を得ている。それは、これらの人々の頭蓋骨が現存する他の民族のそれよりも小さいからである。たとえば、インド人の一七個の頭蓋骨の大きさは平均七五立方インチしかなく、表の中に含めた三個体もその平均値を示している。」このように、モートンは小さな脳をもつ人々のサンプルを多くしてインディアンの平均値を低め、同じようにして、小さな頭蓋骨をもつ白色人種の多数を除外して、自分たちのグループの平均値を高めた。モートンは自分の行なったことをおおっぴらに語っているので、自分のやり方が適切でないとは思っていなかったと仮定せざるをえない。しかし、白色人種の平均値がより高いのだという前提をもたないとしたら、他にどのような理論的根拠で彼はインカの頭蓋骨は含め、インド人のそれを除外したのだろうか。というのは、インド人のサンプルを変則的なものだとして捨て去り、インカ人のサンプル(ついでに言えば、インド人のものと同じ平均値をもつ)を不利な立場の大きなグループの正常値の最低のものとして取り入れることが可能だからである。

 結論ありきで調査が進んでいることがよくわかる。

「これは例外的に小さいからサンプルから除外しよう」「これは大きすぎるから除外しよう」
とサンプルを取捨選択して、その中で比較をしたのだ。そりゃあ仮定通りの結果になるに決まっている。


 様々な職業の人に知能テストをおこなった学者について。

 ターマンは職業別IQを調査し、知能による不完全な割当がすでに自然に生じていたと満足げに結論した。彼はやっかいな例外をうまく言いぬけた。例えば、運送会社の従業員四七人を調べた。彼らはきまりきった繰返し作業の中で、「工夫したり個人的判断を発揮する機会すら非常に限られている」(一九一九年、二七五ページ)。しかし、彼らのIQ中央値は九五であり、二五パーセントがIQ一〇四以上であった。したがって、知能ランクそのものはずっと上位にあることになる。ターマンは困惑し、彼らがこのように地位の低い仕事についたことは「何らかの情緒的、道徳的、または好ましい性質」が欠けているからであると考えた。しかも、彼らがより必要とされる仕事への準備ができる前に、「経済圧」によって退学せざるを得なかったのかもしれないとも考えた(一九一九年、二七五ページ)。別の研究でターマンは、パロ・アルトの「ルンペン宿」から二五六人の浮浪者や失職者のサンプルを集めた。彼らの平均IQは一覧表の最下位にくるだろうという期待があった。それにもかかわらず、浮浪者の平均は八九であった。非常に優れた素質とは言えないが、運転手や女店員、消防夫や警察官より上位に位置していた。このやっかいな例を、ターマンは、自分の表を操作することによって巧妙に解決した。浮浪者の平均は異常に高い。しかし、浮浪者もまた他のグループより以上に変異が大きいが、むしろ低い値の人々が大勢含まれている。そこでターマンはそれぞれのグループで得点の最も低い二五パーセントのものの数値によって一覧表を再配列し、浮浪者を最下位に位置づけた。

「ブルーカラーの平均知能は低いに違いない」という仮説を立てて実験をしたところ、予想に反して運送会社の従業員のIQ平均が高くなってしまった。

 すると「彼らは他の事情があって今の仕事をやっているだけで、本当はもっと高い知能を要求される仕事につけたはずだ」と結論付けた。

 また「浮浪者のIQが予想していたほど低くない」ことがわかると、「IQの高い人」をサンプルから排除し、予想通りの結果になるよう調整した。


 いやあ、ひどい実験だ。「この人はほんとはもっと別の仕事につくはずだった人間だ」なんて言いだしたら、職種別の知能の傾向を調べるなんて実験自体が成り立たなくなるのに。

どの職業にもそういう事情があるからこそ平均を比べるのに、一部の職種だけで「この人たちには特別な事情があったに違いない」というのは明らかにフェアじゃない。


 なにもこの研究者たちだけが特別だったわけではない。誰も彼もが、都合の良いようにデータを見てしまうのだ。

 たとえば部活の是非について話すと、部活を好きな人は部活をやることのメリットについては大きく評価するが、デメリットについては過小評価する。部活によるいじめだとか深刻なけがだとかの話をされても「そりゃあ中にはそんなこともあるけど、ごく一部の例外だよ」と言う。逆に部活を通して大成功を収めたケースについては〝ごく一部の例外〟扱いはせず、だから部活はすばらしいんだと持論を強化する材料に使う。

 逆に、部活を嫌いな人はその逆で、部活がもたらす恩恵については〝ごく一部の例外〟とみなしてデメリットに重きを置くだろう。


 この本に出てくる研究者はついつい誤った道を選んでしまうけど、ぼくが研究者でもきっと同じようなことをしてしまうだろう。

 仮説を立てて、その仮説が正しいことを検証するために何年も研究して、出てきた結論が「あんたの仮説は大間違いだし、新しい発見は何もないよ」だったとしたら……。素直に受け入れられるだろうか。せっかく集めたデータから何かしらの結論を引き出そうとがんばってしまわないだろうか。そのために都合の悪いデータは見なかったことにしてしまわないだろうか。

 まったく自信がない。




 まあ間違えるだけならまだいいんだけど、「知能が高いのはどういう人々なのか」という研究は、往々にして人種や性別や職業差別と結びついてきた。

「××は知能が低い。だから××が低い階層に置かれているのは合理的な理由によるものなのだ」と、差別を正当化することに使われてきた。

 中には、こんな主張も。

 ロンブロージの主な敵対者である「古典」派は、刑罰は犯罪の性質に応じてきびしく科せられるべきであり、すべての人は自分の行動に責任を負うべきであると論じ、従前の刑の与え方のきまぐれさと戦ってきた。ロンブローゾは生物学を援用して刑罰は犯罪者に合わせるべきで、ギルバートの「ミカド」にも書かれているように、犯罪に合わせるべきではないと論じた。正常な人間も嫉妬に燃えた瞬間には殺人者になるかも知れない。しかし、この人を処刑したり、刑務所に入れておいて何の役に立つのだろうか。彼は更生する必要はないのだ。なぜなら、彼の性質は善良なのだから。社会は彼から防護する必要はない。彼が再び罪を犯すことはないだろうからである。生まれつきの犯罪者が軽い犯罪で被告席につくかも知れない。短期間の刑は何の役に立つだろうか。彼は更生されえないのだから、短期間の刑はつぎの、多分もっと重い違反までの時間を減らすにすぎないのである。

 この人は正常な人間だから犯罪をしても軽い刑罰でいい、こいつは悪いやつだから軽い犯罪でも重い刑罰にするべきだ。

 ひどい。むちゃくちゃだ。

 でも、こういう考え方をする人は決してめずらしくない。それどころか、ほとんどの人がこういう思考をする。ぼくも含めて。

 支持している政党の不祥事は「まあ事情があったんだろう」「そんなこと気にしてたら政治なんてできないよ」と擁護し、対立する政党がやらかしたときは鬼の首を取ったように大騒ぎ。よくある光景だ。

 政治にかぎらず、誰でもひいきをしてしまうものだ。よほど特別な訓練を積んだ人でないと、「行為だけを客観的に評価する」ことは不可能だろう。


「人間は、どれほど自分の見たいようにものを見てしまうか」がよくわかる本だった。気をつけなくちゃ。


【関連記事】

【読書感想文】人の言葉を信じるな、行動を信じろ/セス・スティーヴンズ=ダヴィドウィッツ『誰もが嘘をついている』

【読書感想文】いい本だからこそ届かない / ターリ・シャーロット『事実はなぜ人の意見を変えられないのか』



 その他の読書感想文はこちら


2022年7月25日月曜日

「若い子に言いたい」人たち

 SNSを見ていると、「若い子に言いたい」とか「若い人にアドバイスしたい」と書いてる人がよくいる。もちろんSNSだけでなく、オフラインでもこういうことを言う人はたくさんいる。


 それを見るたびにぼくは自分に言い聞かせる。「若い子に言いたい」年寄りになったらオシマイだぞ、と。


 誰かに何かを言うことはいい。誰しもなにかしら言いたい。言うだけでなく、できることなら自分の言葉に耳を傾けてもらい、参考になりましたと言ってもらいたい。人間ってそういう生き物だ。

 でもなあ。それを「若い子」に向けて言うようになったらオシマイだ。


 「若い子に言いたい」人は、自分でもわかっているのだ。自分は不勉強で思慮が足りなくて他者と比べてこれといって秀でたところがないことを。

 でも、えらそうにしたい。バカだけど賢いとおもってもらいたい

 だから若い子に言う。なるべく己のバカがばれなさそうな相手に言う。

 同年代には言えないから。同年代には、自分より賢くてたくさんものを知っていて深い洞察をできる人がいっぱいいるから。そんな人に言っても、余計にばかにされるだけだとわかっているから。

 なにしろ、若い子にはえらそうにできるから。

 もちろん、若くても自分より賢い子はいっぱいいる。でも、論の甘さをつっこまれたとしても若い人相手であれば「若いうちはわからないだろうけど」「君もこの歳になればわかるさ」という必殺の逃げ道がある。『生きてきた歳月の長さ』という生きているかぎりぜったいに追い越されることのないアドバンテージを手にしているのだから。それが唯一の武器なのだ。

「若い子に言いたい」コレクション。
特に最後のやつは、ぜひとも若い子じゃなくて今の自分自身に言ってあげてほしい。



 ほら。子どものとき、いたでしょ。小さい子とばかり遊ぶ五、六年生のおにいちゃん。

 最初は「小さい子と遊んでくれるなんて優しい人だ」とおもっていたら、だんだんえらそうにしだして、みんなから「この人なんかイヤだな」っておもわれて、よく見たらこいつ同級生からはばかにされてるし、なーんだ単に同級生から相手されないから自分がえらそうにできる小さい子集めていばりちらしてるだけじゃんっていうおにいちゃん。そうやって年下からも疎まれるようになるおにいちゃん。

 大人になっておもうと「あの子はあの子でつらかったんだなあ」と同情的にもなるけど、子どものときはただただ嫌いだったでしょ。

 あれだよあれ。「若い子に言いたい」人っていうのはあのおにいちゃんだよ。


 SNSで「若い子に言いたいんだけど……」というコメントを見るたびに、「こうならないように気をつけねば」とおもう。ともすればぼくも、若い子に言いたくなるから。

「小さい子の前でだけえらそうにふるまって、同級生からはばかにされ、年下からは煙たがられるおにいちゃん」にはなりたくないから。


 言いたいことがあるなら、若い人にじゃなくて年上の人に向かって言えばいいよね。自然と謙虚になれるから。

 ってことを、年をとった子らに言いたい。


【関連記事】

かー坊のこと