真昼の悪魔
遠藤 周作
「サイコパス」という言葉が人口に膾炙するようになったのはせいぜいここ十年ぐらいの話だが、「良心を持たない人」を題材にした小説は古くからある。
有名なところではトマス・ハリス『羊たちの沈黙』。貴志 祐介『悪の教典』や手塚 治虫『MW』もそうだ。宮部 みゆき『模倣犯』の真犯人もそんな人物だった。
人は、悪を悪ともおもわない人物を題材にしたピカレスク小説に惹きつけられるらしい。
『真昼の悪魔』もそんな小説のひとつだ。
主人公である女医は、他人に対する共感を決定的に欠いている。「何が悪いことなのか」は知識としては持っているが、心では善悪の区別を持っていない。だから「悪いこと」「かわいそう」「気の毒」といったことは彼女の行動を抑制する材料にはならない。
高い知能と生まれもった美貌でカモフラージュしながら、知恵遅れの少年に少女を殺させようとしたり、入院患者で人体実験をおこなったりする女医。
彼女の目的はもちろん金や復讐ではなく、といって快楽でもない。人を傷つけても快楽を感じないことを知っていて、それでも傷つける。たいした理由もなく。
彼女がおこなうのは悪のための悪。殺人に快楽をおぼえるシリアルキラーのほうがまだ理解可能かもしれない(どっちもイヤだけど)。
主人公はかなりいかれた人物だが、読んでいてあまりうすら寒さは感じない。というのも、彼女の攻撃の矛先は中盤以降、難波という入院患者に向かうから。
女医は、難波が彼女の正体を暴こうとしていることに気づき、それを阻止するためあの手この手で難波を精神病患者扱いする。この対決が『真昼の悪魔』のハイライトなのだが、正直いってこのあたりの女医の行動はおそろしくない。なぜなら〝保身〟という明確な目的があるから。
少女を殺そうとしていたときは目的もなくほとんど興味本位で(その興味すら薄い)行動していたのに、難波に対する攻撃は「自分の立場を守るため」という明確な目的がある。目的があるから理解できる。「自分も同じ立場に置かれたら似た行動をとるかもしれない」とおもわされる。理解できるものはこわくない。
サスペンス感を出すのであれば、徹頭徹尾理解不能な人間として描いてほしかった。
ところでこの小説には、
「女医が入院中の老婆に無断で人体実験を施し、その結果実験が成功して多くの人命を救える治療法を発見する」
というエピソードが出てくる。
これは医学の抱える矛盾を端的に表している。
有名なトロッコ問題(暴走したトロッコを放置すれば三人が死ぬ。切り替えスイッチを入れれば別の一人が死ぬ。切り替えるのは正しい行いか? という問題)にも似ている。
百人を救うために一人の命を危険にさらすことは悪なのか。これは決して万人が納得のいく答えを出せない問題だ。
自身もクリスチャンである遠藤周作氏は、作中に出てくる神父に「神さまも百人のために一人を見捨てになさらないのです」と言わせている。
宗教家としてはそう答えるしかないだろうな、という回答だ。なぜなら明確な基準で善悪を決められるようになったら宗教がいらなくなるから。
とはいえ現実には「数で命の価値を量る」方向に世の中は動いている。一人の犠牲で一万人を救う方法があるのなら、現代医学はそれを放ってはおかないだろう。
善悪の判断はいったん棚上げして、結果的に多くの人命を救うために多少の犠牲はやむをえないという方針で医学は進歩してきた。
医学に犠牲がつきものである以上、『真昼の悪魔』に出てくるタイプの共感性を欠いた人物というのは医師としては有能なんじゃないかとおもう。医師がありとあらゆる患者に心からの同情をおぼえていたら仕事にならないだろうし。
ちょっとぐらいは「人の気持ちがわからない」人物のほうが医師には向いているのかもしれない。政治家も。
ところでこの小説、ミステリ要素もある。四人の女医が出てくるけどそのうちの誰が「良心を持たない女性」なのかが終盤まではわからない。
ただ、ミステリとしてはぜんぜんおもしろくない。四人の女医がみんな没個性なので「四人のうち誰でもいいわ」って感じなんだよね。謎解きがどうとかいう以前に、そもそも謎に興味が持てない。
「四人の女医」という設定がまったく生きていない。テーマはおもしろかったのだからむりにミステリ風味にせずに女医は一人でよかったんじゃないかなあ。
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