2021年7月30日金曜日

いじめる側にまわるいじめられっ子

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 中学三年生の春、転校生がやってきた。
 転校生の名前はイソダくん(仮名)。
 イソダくんは太っていて、もちろん運動は苦手で、勉強はあまりできなくて、特におもしろいことを言うわけでもなく、早い話がぱっとしない子だった。
 転校生は関心を持たれるものだが、みんなは早々にイソダくんに対する興味を失った。とはいえイソダくんは何人かの友だちもできて、教室の隅でカードゲームなんかをしていた。

 イソダくんは優しい子ではなかった。スネ夫タイプというか。先頭を切って誰かをいじめることはないが、誰かが攻撃されていたら周囲に便乗して攻撃に参加するタイプ。安全な位置から安全な相手に対してだけ攻撃を加えるタイプ。
 べつにめずらしくもない。世の中の大多数がこういうタイプだ。


 さて。
 イソダくんが転校して一年が経った。ぼくらは卒業式を迎えた。
 卒業式の後、三年生の保護者と担任の教師で謝恩会なるものが開かれた。先生ありがとうございましたと言っておしゃべりをする場だ。

 謝恩会に出席したぼくの母は、帰ってきてから言った。
「転校生のイソダくんって子がいたんだって?」
「うん」
「あの子、前の学校でいじめられてたんだって。だから転校してきたんだけど、『こっちの学校の子はみんな優しくてぜんぜんいじめられなかったから良かったです』ってイソダくんのお母さんが涙ぐみながら言ってた。すごく感謝してた」

 それを聞いて、ぼくは納得感と意外な気持ちの両方を味わった。

 イソダくんがいじめられていたというのはわかる気がする。太っているし、頭も良くないし、性格も良くないし、実際うちの学校でも「イソダ嫌いやわ」というやつはいた。ぼくも好きじゃなかった。どっちかっていったら嫌いなぐらい。
 うちの学校ではイソダくんはいじめられていなかったが、それはべつにぼくらが高潔だったからではなく、担任の先生がこわもての体育教師だったとか、二年生の後半ぐらいからヤンキーが学校にあまり来なくなったのでクラスの雰囲気が良くなったとか、イソダくんよりむかつくやつがいたからとか、そういうちょっとしたことによる結果にすぎない。うちの学校の生徒が優しかったわけではない。めぐりあわせが悪ければイソダくんはいじめられていただろう。

 意外だったのは「いじめられてたやつがあんなふうにふるまうんだ」ということ。
 前の学校で何をされたのかは知らないが、家族で引っ越して転校するぐらいだから相当ひどい目に遭っていたのだろう。
 ぼくの想像するいじめられっ子は〝気が弱くて何をされても言いかえせないおとなしい子〟だったが、イソダくんは決してそういうタイプではなかった。みんなといっしょになって、弱い子にからかいの言葉をぶつけるような生徒だった。


 でも今ならわかる。
 イソダくんはいじめられないためにいじめる側にまわっていたのだと。いじめられていたからこそ、いじめる必要があったのだと。
 長期化するいじめ、深刻化するいじめって、「クラスで弱いほうのやつがやっぱり弱いほうのやつをいじめる」みたいなパターンが多い。

 動物が闘うのって、「餌や異性を狙っているとき」か「自分の立場が脅かされるとき」じゃない。後者は、命を狙われたり、群れから追いだされそうになった場合。

 人間の場合もあまり変わらない。中学生のいじめなんて「金品を狙う」か「こいつより上に立ちたい」かのどっちかしかないとおもう。極端に言えば。
 で、自分より圧倒的に強いやつや、あるいは逆に圧倒的に弱いやつに対しては「こいつより上に立ちたい」とおもうことはない。
 闘う必要があるのは、上から2番目~下から2番目のやつらだけだ。


 いじめられるつらさを知っているから優しくなれる、なんてことはない。
 逆だ。
 いじめられるつらさを知っているからこそ、いじめる側にまわるのだ。


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