2021年7月8日木曜日

【読書感想文】赤ちゃんだったときの喜び / 古泉 智浩『うちの子になりなよ ある漫画家の里親入門』

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うちの子になりなよ

ある漫画家の里親入門

古泉 智浩

内容(e-honより)
子どもがほしい…。6年間で600万円、不妊治療のどん底で見つけた希望の光。里親研修を受け、待望の赤ちゃんを預かった著者(40代・男)が瑞々しくも正直に綴る、新しいタイプの子育てエッセイ。

 里親になった漫画家によるエッセイ。

 里親といっても引き取ったのは0歳児なので、当然ながら引き取られた当人は何もわかっていない(たぶん)。
 だから書いてあることもふつうの子育てエッセイとあまり変わらない。
 同じ親として、「なつかしいなあ」とおもうだけだ。

 仕方がないので、赤ちゃんを抱っこひもで抱いて外を歩いた。(中略)歩いている途中、線路を渡ったあたりで足首を蚊に刺された。リズムを崩すと赤ちゃんを寝かせられないのでそのまま歩いた。赤ちゃんの手がだらんとした。線路の横を歩いていると、遮断機が降りて警報がカンカンなり出した。その造断機に近づくと警報の音が大きくなってしまうので、その場で赤ちゃんのお尻を手で歩くリズムで叩いた。電車が迫り来てゴーッと通り過ぎる音と窓から漏れる光で赤ちゃんが目を覚ました。頭を激しく左右に振って電車の行方を追った。せっかく眠ったのに残念に思っていたのだが、またすぐだらんと寝た。赤ちゃんが寝やすいようにゆっくりしたペースで歩いているのにも疲れて昔通の速さで歩いた。そのまま帰宅して妻のベッドに寝かせた。珍しい仰向けでの寝姿はすっかり大きくなっているように見えた。
 このようにミルクで寝ない場合は体を起こした状態で抱っこして寝かせなければならず、やはり寝そべった状態ではまったく寝ない。赤ちゃんの眠りについて考えていると不思議な気持ちになる。

 ぼくの子は小学生と二歳なので、もう赤ちゃんではなくなった。ついこの前のことのはずなのにこうして育児エッセイを読むと子どもが赤ちゃんだった時代のことをすっかり忘れていることに気づく。

 ぼくもやったなあ。赤ちゃんを寝かせるための夜の散歩。布団に置くと泣くので、抱っこする。止まっているとやはり泣くので、うろうろ歩く。家の中を歩きまわるのもつまらないので、外に出て家のまわりを歩く。
 夜中に赤ちゃんが寝るまで歩きつづけるのは当時はしんどかったけど、今おもうといい思い出になるのだからふしぎだ。こんなに苦労しているのに、当の子どもはまったくおぼえていないのだから嫌になるぜ。

 読んでいるとその頃のことをいろいろとおもいだした。
 抱っこしても動いていないと赤ちゃんに怒られるので、立ってだっこをしながら左右にゆらゆら揺れていた。本を読みながら。
 それが日常化していたので、本屋で立ち読みをするときとか、駅のホームで本を読みながら電車を待っているときとかに、気づくと左右にゆらゆら揺れていた。知らず知らずのうちに、存在しない赤ちゃんをあやしていたのだ。

 なつかしいなあ。
 ぼくも育児日記を書いてたらよかったなあ。でも当時はたいへんだったからそれどころじゃなかったんだよなあ。




 前半部分はただの子育てエッセイだったが、後半の「著者が里親になった経緯」はおもしろかった。

 正直に言ってこの人、まったく褒められた経歴じゃないんだよね。
 交際していた人が妊娠したけど婚約を破棄して結婚しなかった。元婚約者とは婚約不履行裁判になり、著者は相手に対して中絶を望んだ。だが元婚約者はひとりで出産し、著者は実子とは数回しか会っていない。
 他人がとやかく言うことではないけれど、まあそれにしても「自分勝手な男だな」とおもう。ここには書かれていないいろんな事情があったのだろうけれど。
 まあ自分にとって不利なことをあけすけに書いているところはえらいとおもうが……。

 一度は子どもを捨てた男が、別の人と結婚して子どもに恵まれなかったから里子を引き取る……。
 なんちゅうか「身勝手で無責任な話だな」とおもってしまう。かつて子どもを捨てたからって一生子どもを持ってはいけないということはないけど。人間なんてみんな身勝手なんだけど……。

 でもまあ、里親になることを考えてる人からすると「こんな身勝手な人でも里親になれるんだから自分もなっていいんだ」と自信がつくよね。知らんけど。




 子育てって、合理的に考えたらまったく「割に合わない」仕事だ。
 肉体的にも精神的にも経済的にもコストはかかるし、当然ながら報酬なんてないし、行政からの支援なんてあってないようなものだし、子どもからはちっとも感謝されないし、おまけに労力をかけたからって望む通りに育つ保証はまったくない。

 どう考えたって「やらないほうが得」だ。損得でいえば。
 それでもたくさんの人が子育てをしている。ぼくも。
 まあこれは本能に動かされてのものだし、人間が遺伝子の乗り物である証左なんだけど、やっぱり子どもを育てているとえも言われぬ全能感を感じられるんだよね。他ではぜったいに味わえない感覚。

「これまでずっと何年も真っ暗な夜道を裸足で歩いているような感覚だったのが、赤ちゃんが来てくれてから光を浴びているような感じがする。まわりが真っ暗でも自分にだけスポットライトが当たっているような感じで、そんな感覚ははじめだけだと思っていたのだが、1か月 以上経過してもなお弱まらず続いている。光の源は赤ちゃんで、今も僕をまばゆく照らしてくれている。3回しか会ったことのない娘は遠くに見える星のような存在だったのだが、うちにいる赤ちゃんは常にビカビカに、全身くまなく照らしてくれる。本当にアホみたいなんだけど、『つつみ込むように』というミーシャの歌が高らかにずっと鳴り響いているような気分です。
いい年の大人の男が自分のやりたいことだけを精いっぱいしているというのもみっともないことだ、自分以外の他者に尽くしてこそ人生ではないかとすら思うようになりました。また、厄年を過ぎるとぐっと体力や気力が激減し、自分本位の生き方すらしんどくなっています。それまでは自分さえよければいいと思っていた、その自分が満足いかなくなっています。自分の満足では自分が満足しきれない。自分のキャパシティがビールジョッキだったとすると、湯呑くらいになっているような、そのこぼれた分を他者に注ぎたいというような気持ちです。それを子どもに期待していました。自分の代わりに自分の分も頑張ってほしいし、幸福になって欲しい、いろいろなことに感動して欲しい。そんな気持ちです。人生の前半は自分のためにやり尽しました。しょぼくなった後半を他者に期待するというのも都合がいい話ですが、後半は自分以外の誰かのために生きたいと思っています。どっちにしても自分本位の利己的な「誰かのため」なので、決してほめられた話ではありません。

 子どもの頃は、存在しているだけでかわいいかわいいと言ってもらえる。ところが成長するにつれて「成果を出す」ことが求められるようになる。お利口にしていることや、がんばって勉強することや、仕事をすることや、社会貢献をすること。求められることはどんどん難しくなる。
 特におっさんなんて、何もしなければ社会の敵みたいな扱いだ。
「自分は社会から求められている、かけがえのない存在だ」と自信を持って言える中年は少ないだろう。

 ところが子どもを持つと、誰でも「誰かに必要とされる存在」になれる。小さい子どもはほとんど無条件に親を必要としてくれる。親が親であるという理由で。
 血がつながっていなくても、仕事をしていなくても、育児放棄していたとしても、ただそこにいるという理由で子どもは親を求める。

 親にしたら、こんな快楽はない。どんなだめな自分も存在を肯定してくれる人がいるんだもの。こんなことは赤ちゃんだったとき以来だ。

 人は、赤ちゃんを育てているとき、赤ちゃんだったときの喜びをもう一度味わうものなのかもしれない。


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