うちの子になりなよ
ある漫画家の里親入門
古泉 智浩
里親になった漫画家によるエッセイ。
里親といっても引き取ったのは0歳児なので、当然ながら引き取られた当人は何もわかっていない(たぶん)。
だから書いてあることもふつうの子育てエッセイとあまり変わらない。
同じ親として、「なつかしいなあ」とおもうだけだ。
ぼくの子は小学生と二歳なので、もう赤ちゃんではなくなった。ついこの前のことのはずなのにこうして育児エッセイを読むと子どもが赤ちゃんだった時代のことをすっかり忘れていることに気づく。
ぼくもやったなあ。赤ちゃんを寝かせるための夜の散歩。布団に置くと泣くので、抱っこする。止まっているとやはり泣くので、うろうろ歩く。家の中を歩きまわるのもつまらないので、外に出て家のまわりを歩く。
夜中に赤ちゃんが寝るまで歩きつづけるのは当時はしんどかったけど、今おもうといい思い出になるのだからふしぎだ。こんなに苦労しているのに、当の子どもはまったくおぼえていないのだから嫌になるぜ。
読んでいるとその頃のことをいろいろとおもいだした。
抱っこしても動いていないと赤ちゃんに怒られるので、立ってだっこをしながら左右にゆらゆら揺れていた。本を読みながら。
それが日常化していたので、本屋で立ち読みをするときとか、駅のホームで本を読みながら電車を待っているときとかに、気づくと左右にゆらゆら揺れていた。知らず知らずのうちに、存在しない赤ちゃんをあやしていたのだ。
なつかしいなあ。
ぼくも育児日記を書いてたらよかったなあ。でも当時はたいへんだったからそれどころじゃなかったんだよなあ。
前半部分はただの子育てエッセイだったが、後半の「著者が里親になった経緯」はおもしろかった。
正直に言ってこの人、まったく褒められた経歴じゃないんだよね。
交際していた人が妊娠したけど婚約を破棄して結婚しなかった。元婚約者とは婚約不履行裁判になり、著者は相手に対して中絶を望んだ。だが元婚約者はひとりで出産し、著者は実子とは数回しか会っていない。
他人がとやかく言うことではないけれど、まあそれにしても「自分勝手な男だな」とおもう。ここには書かれていないいろんな事情があったのだろうけれど。
まあ自分にとって不利なことをあけすけに書いているところはえらいとおもうが……。
一度は子どもを捨てた男が、別の人と結婚して子どもに恵まれなかったから里子を引き取る……。
なんちゅうか「身勝手で無責任な話だな」とおもってしまう。かつて子どもを捨てたからって一生子どもを持ってはいけないということはないけど。人間なんてみんな身勝手なんだけど……。
でもまあ、里親になることを考えてる人からすると「こんな身勝手な人でも里親になれるんだから自分もなっていいんだ」と自信がつくよね。知らんけど。
子育てって、合理的に考えたらまったく「割に合わない」仕事だ。
肉体的にも精神的にも経済的にもコストはかかるし、当然ながら報酬なんてないし、行政からの支援なんてあってないようなものだし、子どもからはちっとも感謝されないし、おまけに労力をかけたからって望む通りに育つ保証はまったくない。
どう考えたって「やらないほうが得」だ。損得でいえば。
それでもたくさんの人が子育てをしている。ぼくも。
まあこれは本能に動かされてのものだし、人間が遺伝子の乗り物である証左なんだけど、やっぱり子どもを育てているとえも言われぬ全能感を感じられるんだよね。他ではぜったいに味わえない感覚。
子どもの頃は、存在しているだけでかわいいかわいいと言ってもらえる。ところが成長するにつれて「成果を出す」ことが求められるようになる。お利口にしていることや、がんばって勉強することや、仕事をすることや、社会貢献をすること。求められることはどんどん難しくなる。
特におっさんなんて、何もしなければ社会の敵みたいな扱いだ。
「自分は社会から求められている、かけがえのない存在だ」と自信を持って言える中年は少ないだろう。
ところが子どもを持つと、誰でも「誰かに必要とされる存在」になれる。小さい子どもはほとんど無条件に親を必要としてくれる。親が親であるという理由で。
血がつながっていなくても、仕事をしていなくても、育児放棄していたとしても、ただそこにいるという理由で子どもは親を求める。
親にしたら、こんな快楽はない。どんなだめな自分も存在を肯定してくれる人がいるんだもの。こんなことは赤ちゃんだったとき以来だ。
人は、赤ちゃんを育てているとき、赤ちゃんだったときの喜びをもう一度味わうものなのかもしれない。
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