2024年12月28日土曜日

2024年に読んだ本 マイ・ベスト10

 2024年に読んだ本の中からベスト10を選出。

 去年までは12冊ずつ選んでいたけど、今年は10冊にしました。

 なるべくいろんなジャンルから。

 順位はつけずに、読んだ順に紹介。


奥田 英朗

『オリンピックの身代金』



感想はこちら

 小説。

 昭和39年開催の東京オリンピック。その直前の東京を舞台にした、クライムサスペンス。

 息をつかせぬスリリングなストーリー展開も見事なのだが、感心したのは、小説内で描かれる「国民の命よりも体面を気にする国家の体質」が現実の2021年東京オリンピックでも発揮されたこと。見事な予言小説にもなっている。汚職にまみれた2021年東京オリンピックを知っている身としては、犯人がんばれ、オリンピックを中止にしろ! と犯人を応援してしまう。






マシュー・サイド

『多様性の科学
画一的で凋落する組織、複数の視点で問題を解決する組織』 



感想はこちら

 ノンフィクション。

 多様性は重要だよ、という話。べつに道徳のお話ではなく、多様な考えをする人が集まったほうがより優れた知見を導きだせるから、という現実的な話。

 とはいえ多様性を確保するのは容易なことではない。多種多様な人で議論をするより、学歴や職業や趣味嗜好が近い人と話すほうがずっと楽だ。

 また多様な人を集めても、“えらいリーダー”がいると他の人が自由にものを言えず、結局似たような意見ばかりが提出されることになる。

 また、多様な人が集まりすぎると、その中でグループが生まれてかえって多様性が失われることになるという。

 組織というものについて考えるのに実に有益な本。



武田 砂鉄

『わかりやすさの罪』



感想はこちら

 エッセイ。

「わかりやすさ」ばかりが求められる時代だからこそ、わかりにくいことの重要さをわかりにくく伝える本。

 物事がわかりにくいのは、伝え方が悪いからとは限らない。「自分の前提知識や理解が足りないから」「断片しか明らかになっていないから」「誰かが嘘をついていてどれが真実なのか誰にもわからないから」「シンプルな理由なんてないから」などいろんな理由がある。

「わかりやすいもの」は、虚偽や嘘であることが多い。〇〇が××なのは悪いやつがいるから、という陰謀論はすごくわかりやすい。2024年の兵庫県知事選でも多くの人が「わかりやすい説明」に飛びついてしまった。

 わからないものをわからないまま置いておく。脳にストレスをかけることだけど、意識しておく必要はある。



渡辺 佑基

『ペンギンが教えてくれた物理のはなし』



感想はこちら

 エッセイ。

 著者は、バイオロギング(生物に記録装置をとりつけてなるべく自然な行動を測定する方法)を使って野生生物の生態を研究している生物学者。

 生物について調べるためには物理学が必要なのだ。こういう複数の学問分野を横断する話は魅力的だ。

 マグロが100km/h近いスピードで泳ぐのはたぶん俗説だとか、鳥は早く飛ぶより遅く飛ぶ能力のほうが重要だとか、いろいろおもしろい知見があった。



小泉 武夫

『猟師の肉は腐らない』


感想はこちら

 エッセイ。

 著者が猟師の友人を訪問して山中に数日滞在した記録。あらゆる獣、小動物、魚、虫などを捕まえて食う描写がなんともうまそう。

 こんな生活いいなあ、とちょっとあこがれはするが、同時にぼくのような怠惰な人間にはぜったい無理だな、ともおもう。山の中で自給自足の生活を送ろうとおもったら毎日忙しく動きまわらないといけない。読書を通してお金のない生活を疑似体験をすることで、お金って便利だなと改めておもう。



『清原和博 告白』



感想はこちら

 インタビュー。

 ぼくの少年時代のヒーローだった清原和博。誰もが知るスーパースターだった清原選手は高校時代、プロ一年目と華々しい活躍を見せ、その将来を嘱望されていた。だが徐々に成績は低下し、かつて自信を裏切ったジャイアンツに入団するもおもうような結果は出ず、怪我にも苦しんだ。引退後は家族が離れてゆき、覚醒剤取締法で逮捕された。

「絵に描いたようなスーパースターの転落人生」だが、インタビューを読むと、清原和博という人は野球の才能に恵まれていたこと以外はごくふつうの人だったんだなとおもう。純粋でまっすぐな人だったがゆえに、周囲からの期待に応えられない自分にもどかしさを感じ、不安を取り除くために筋肉をつけ、酒を飲み、やがて覚醒剤に手を出してしまった。

 いろいろあったけど、やっぱりぼくにとってはスーパースターだ。



坪倉 優介

『記憶喪失になったぼくが見た世界』



感想はこちら

 エッセイ。

 バイク事故で一切の記憶を失った大学生とその母親の手記。一切というのはほんとに一切で、おなかがすいたらごはんを食べるとか、おなかがいっぱいになったら食べるのをやめるとか、そんなことまでわからなくなっていたのだという。もちろん言葉も。生まれたての赤ちゃんとまったくいっしょ。

 本人の記述もさることながら、お母さんの心中描写が胸を打つ。死なれるよりもショッキングかもしれない。

 記憶喪失後の生活に慣れてくると同時に、今度は記憶を取り戻してしまうことが怖くなる。そうかあ。そうだろうなあ。



浅倉秋成

『六人の嘘つきな大学生』


感想はこちら

 小説。

 就活の選考会を舞台にしたサスペンスミステリ。就活を舞台に選んだのはうまい。就活って異常なことがあたりまえにおこなわれる空間だからね。みんな嘘をつくし。

 さらに就活後にさらなる展開が待っている。すっきりと白黒がつく終わりにならないところも個人的に好き。世の中のたいていの出来事ってよくわからないままだからね。



逢坂冬馬

『同志少女よ、敵を撃て』



感想はこちら

 小説。

 いやあ、とんでもない小説だった。王道漫画のような手に汗握るストーリー。でも王道漫画とちがうのは、はっきりした正邪がないこと。みんなに正義があるしみんなが悪でもある。戦争という異常な空間で生きていくには狂っていないとだめなのだ。登場人物はみんな狂ってる。狂ってない人は死んでいく。

 デビュー作とおもえないほど精緻な取材にもとづいて書かれていて、戦記物としても冒険小説としても友情小説としても一級品。数年に一度の名作だった。



アントニー・ビーヴァー

『ベルリン陥落1945』


感想はこちら

 ノンフィクション。

 様々な証言をもとに、独ソ戦末期の様子を書く。ノンフィクションではあるが、数字などのデータは少なめ。証言を中心にまとめているので情景が浮かびあがってくる。

 教科書なんかだと、ナチスドイツはシンプルな悪だ。でも現実はそんなことない。ドイツ市民にも家族があり、生活があり、平和を望んでいる。ソ連軍もナチスに負けず劣らず残虐なことをしている。でも教科書に書かれるのはドイツが悪かったこと。勝者の歴史だけだ。

 読めば読むほど、戦争で負ける国ってどこも同じなんだなとおもう。都合の悪いニュースは報道せず、いいことだけを大きく伝え、美談で愛国心を煽り、一発逆転の無謀な作戦が採用され、愛国心を唱え威勢のいいことを言うやつから真っ先に逃げていく。日本と同じだ。

 戦争における生命の軽さがよく伝わってくる。



 来年もおもしろい本に出会えますように……。


2024年12月25日水曜日

【読書感想文】朝井 リョウ『武道館』 / グロテスクなアイドルの世界

武道館

朝井 リョウ

内容(e-honより)
「武道館ライブ」を合言葉に活動してきた女性アイドルグループ「NEXT YOU」。さまざまな手段で人気と知名度を上げるが、ある出来事がグループの存続を危うくする。恋愛禁止、炎上、特典商法、握手会、スルースキル…“アイドル”を取り巻く様々な言葉や現象から、現代を生きる人々の心の形を描き表した長編小説。

 かけだしのアイドルとして生きる少女を主人公にした小説。

 炎上やSNSでの批判を乗り越え、武道館ライブを目指すアイドルグループ。しかし主人公が幼なじみの男の子と恋仲になってしまい……。



 ぼくの話をすると、アイドルというものにはまるで興味がない。どっちかっていうと嫌いだ。

 特にぼくが音楽というものに興味を持ちだした90年代中盤は、アイドルなんてくそくらえという時代で、アイドルが好きとかいうより、そもそも女性アイドルがいなかった。

 ちょっと前はおニャン子とかがいて、90年代後半からはモーニング娘。が台頭してくるんだけど、ちょうどその間ってほんとに女性アイドルがいなかった。女性グループはあったけどSPEEDとかPUFFYとか「かっこいい女性」をめざしているような感じで、少女性を売りにしたようなアイドルグループは(少なくともメジャーには)存在していなかった。

 だから高校生になってはじめて、モーニング娘。という“いわゆるアイドル”を目にしたとき、とっさに嫌悪感をおぼえた。意識的に避けていたのをおぼえている。

 その理由が当時はわからなかったんだけど、今にしておもうと、その商品性が気持ち悪かったんじゃないかな。


 アイドルって「商品」感が強いじゃない。アーティストではなく、商品。その背後で糸を引いている大人の存在が強く感じられてしまう。

 もちろんロックシンガーだってシンガーソングライターだってその周囲にはたくさんの大人が商売として関わっているわけだけど、そこまで不自由な感じがしない。表現者としての意思を感じる。

 アイドルは、当人たちの意思よりもその後ろにいる“大人たち”の意思が強く感じられる。あと子役も。だから気持ち悪い。




『武道館』は小説なのでもちろんフィクションなのだが、ある程度は事実に即している部分もあるのだろう。

 読んで、あらためてアイドルはグロテスクな稼業だな、とおもう。

 他にある? 恋愛禁止なんて決められる職業?

 それってつまり、アイドルは365日24時間アイドルでいなきゃいけないってことだよね。

 テレビでは明るく振るまっている芸人が私生活では物静かだったり、怖い役ばかりしている俳優が実は優しい人だったりしてもいいわけじゃない。「イメージとちがう」ぐらいはおもわれるだろうけど、それで所属事務所から怒られるということはないだろう。

 でも、アイドルに関しては私生活にまで干渉することがまかりとおっている。

 まあ実際は「恋愛するな」ではなく「恋愛するならばれないようにやれ」なのかもしれないけど、今みたいに誰もが写真や動画を撮って広めることのできる時代だとそれも厳しいだろう。

 そのアイドルを嫌いな人たちが、彼女たちが不幸になることを願うならば、まだわかる。だがもっとひどいことに、アイドルのファンたちが、彼女たちが恋愛をし、ステップアップし、歳をとることを拒絶する。応援している人たちが足をひっぱる。なんともグロテスク。もちろんそんなファンだけではないんだろうけど。


『武道館』はアイドル業界の暗部を描きながらも、最終的には希望をもたせたエンディングを見せている。

 でも、特にアイドルに思い入れがない、どっちかっていうと懐疑的に見ている人間からすると、ずいぶんとってつけたハッピーエンドに見えてしまう。まあ、アイドルファンはそうおもいたいよね。なんだかんだあっても最終的にアイドルが幸せになっているとおもいたいよね。自分たちが若い女性の人生をつぶしたとはおもいたくないよね。そんな願望を都合よく叶えるラストにおもえてしまう。


 アイドル好きが読んだらまたちがった感想になるんだろうけど、まったく興味のない人間が読むと「やっぱりアイドル業界って狂ってんな」という感想しか出てこないや。


【関連記事】

【読書感想文】朝井 リョウ『スペードの3』 / 換気扇の油汚れのような不満

【読書感想文】朝井 リョウ『世にも奇妙な君物語』~性格悪い小説(いい意味で)~



 その他の読書感想文はこちら


2024年12月20日金曜日

【読書感想文】今和泉 隆行『考えると楽しい地図 ~そのお店は、なぜここに?~』 / おじさんは道が好き

考えると楽しい地図

そのお店は、なぜここに?

今和泉 隆行(著)  梅澤 真一(監修)

目次
第1章 これも地図?いろんな地図をみてみよう
(地図マスターへの第一歩!どんなときにどの地図をつかう?他)
第2章 おぼえるときは地図をみながら!地図のやくそくごとを知ろう
(上下左右ってどっち?方位をつかって方向をしめそう他)
第3章 そこってどこ?地図を読む練習をしよう
(これでは会えない!ざんねんなまち合わせ他)
第4章 まちの歴史もみえてくる?地図から土地の特色を読みとろう
(地形を一気にかえるスーパーパワー!火山のすごさを地図から読もう他)
第5章 正解は人それぞれ!地図を読んで自分なりの考えをまとめよう
(もしこのまちに引っこすならどこに住みたい?他)

 空想地図作家(存在しない街の地図を空想で描いてる人)である今和泉隆行さんが子ども向けに地図のおもしろさを伝える本。

 問題(ただひとつの正解があるとは限らない)と解説がセットになっているので読みやすい。

 地図に関する幅広い内容を扱っているのでちょっと地図に興味がある、ぐらいの子どもにはちょうどいい内容かもしれない。

 今和泉さんのファンでありこれまでに何冊か著作を読んでトークショーを聴きにいったぼくにとってはほとんどが既知の内容だったけど……。



 地図は魅力的だ。ぼくは地図好きとは到底言えないレベルだが、それでも地図は楽しい。

 誰しも、近所の地図を描いて遊んだり、オリエンテーリングで地図を見ながら宝探しをすることに喜びをおぼえた経験があるだろう。

 地図がおもしろいのは、ありとあらゆることが地図につながっているからだ。

『考えると楽しい地図』では、地図のおもしろさを伝える問題をバランスよくとりそろえている。

 地図を見て、ラーメン屋を開くならどこがいいか、図書館を作るならどこが向いてるか、ここから見える景色はどんなのか、川や火口の近くにはどんな施設があるか、自分が江戸時代の藩主だとしてらどこに築城するのがいいか……。

 経済、歴史、行政、地学、軍事、法律、あらゆることが地図と密接に関係している。

 城下町は敵に攻めこまれにくくするために曲がり角が多いとか、江戸時代は家の間口が広いほど税が高かったので古い町は今でも細長い敷地が多いとか、地図を見ると昔の生活が浮かびあがってくる。


 以前、あるラジオで「おじさんは道の話が好きだよね」という話をしていた。

 車で□□に行く、という話をしているとすぐにおじさんが寄ってきて、それだったらどの道を通るのがいい、ここで高速を降りて下道を通ったほうが早い、と言いだす、という話だった。

 たしかに。世のおじさんには道好きが多い。今まで生きてきた中で蓄えてきたあれやこれやがみんな道につながるから、歳をとると道を好きになるのかもしれない。


 今和泉さんのトークショーの中で「より正確な地図を書くためには地形の成り立ちを知る必要があるからプレートテクトニクスを勉強している」という話があった。

 そうやってどんどん興味の幅が広がっていくのはすごく幸せなことだ。知に対する興味が衰えない人は一生楽しめる。


【関連記事】

【読書感想文】平面の地図からここまでわかる / 今和泉 隆行 『「地図感覚」から都市を読み解く』

【読書感想文】手書き地図推進委員会『地元を再発見する! 手書き地図のつくり方』 / 地図は表現手法




 その他の読書感想文はこちら


2024年12月19日木曜日

小ネタ28 ( でかい顔の市 / おばけなんてないさ )

でかい顔の市

 日本三大「市のくせに県よりでかい顔をしている市」といえば、神戸市、横浜市、金沢市であることは全国民が知っているところだ(次点で仙台市)。

 奇しくも、神戸市には兵庫区があり、横浜市には神奈川区がある。「兵庫(神奈川)の中に神戸(横浜)があるんじゃない、神戸(横浜)の中に兵庫(神奈川)があるんだ」というために兵庫区(神奈川区)をつくったのだろう。あいつらならそれぐらいのことはやる。

 だが石川区はない。そもそも金沢市は政令指定都市ではない。

 金沢区はあるが、石川県ではなく、神奈川県横浜市の中にある。横浜はどこまでも貪欲だ。


おばけなんてないさ

 童謡『おばけなんてないさ』の一番の歌詞はみんなよく知っているように
「ねぼけたひとが みまちがえたのさ」だ。

 あまり知られていないが、あの歌は五番まであり、二番以降はAメロを二回くりかえす。

 二番は「ほんとにおばけが でてきたらどうしよう れいぞうこにいれてかちかちにちちゃおう」

 三番は「だけどこどもなら ともだちになろう あくしゅをしてから おやつをたべよう」

 四番は「おばけのともだち つれてあるいたら そこらじゅうのひとが びっくりするだろう」

 五番は「おばけのくにでは おばけだらけだってさ そんなはなしきいて おふろにはいろう」


 いい歌詞だ。世界の広がりがある。

 一番はただ今の心情を歌っているが、二番では「でてきたらどうしよう」と心配から空想になる。

 三番、四番はその空想を発展。「ほんとにおばけがでてきたら」「こどもなら」「つれてあるいたら」と想像の上に想像を重ね、ともだちになったおばけと歩く空想までしている。

 五番では「そんなはなしきいて おふろにはいろう」と一気に現実に引き戻される。夢オチみたいなものだ。ここだけ、前の章とのつながりが途切れているように感じる。

 だが、“おばけだらけだってさ” “そんなはなしきいて”を読むと、歌い手におばけの話をしてくれた者がいることがわかる。それは誰か。おとうさんやおかあさんとも考えられるが、ぼくは“おばけのともだち”じゃないかとおもう。おばけのくにの話を聴かせてくれるのはおばけだろう。

 つまり五番は現実に引き戻されたわけではなく、まだ空想の中にいるのだ。空想の中で空想のおばけから空想の話を聴いて、空想の中でおふろに入ろうとしているのだ。

 どこまでも広がってゆく空想。空想に終わりなんてないさ。


2024年12月17日火曜日

【読書感想文】村中 直人『〈叱る依存〉がとまらない』 / 叱らずに済む人は幸せである

〈叱る依存〉がとまらない

村中 直人

内容(e-honより)
「叱る」には依存性があり、エスカレートしていく―その理由は、脳の「報酬系回路」にあった! 児童虐待、DV、パワハラ、加熱するバッシング報道…。人は「叱りたい」欲求とどう向き合えばいいのか? つい叱っては反省し、でもまた叱ってしまうと悩む、あなたへの処方箋。


 人を指導する立場にある人がつい使ってしまう「叱る」。だが、指導される側を成長させるのにはほとんど役立たないことがわかっている。だがいまだに指導の現場では「叱る」は広く使われている。なぜなら「叱る」ことには(悪影響もあるとはいえ)効果があるとおもわれているから。




 著者は、「叱られることでがんばれる」「叱られることに慣れていないと社会に出てから苦労する」といった通念が誤っていると指摘する。

 では、なぜ「叱る」は多くの人に「効果がある」と誤解されてしまうのでしょうか?
 最大の要因は、ネガティブ感情への反応には即効性があることです。叱られた人(例えば子どもや部下)たちは、多くの場合、即座に「戦うか、逃げるか」状態になります。人間に限って言うなら、なんとか「逃げたい」と思う状態になることが多いでしょう。権力の不均衡がある中で、権力者に対して「戦う」ことを選択し続けるのは至難の業だからです。中には戦い続けるお子さんや部下もいますが、相当な「才能」の持ち主だと私は感じています。
 では「逃げる」とは具体的に何をすることでしょうか。一番手っ取り早いのは、言われた行動をしてみせることです。もしくは申し訳なさそうに「ごめんなさい。もうしません」と言うことです。それは「叱る側」の立場からすると、望んだ結果がすぐに得られたと感じる瞬間かと思います。「言っていることが伝わった。わかってくれた」とも感じるかもしれません。つまり相手が学んだと思うのです。また、その場に居合わせる第三者にも、わかりやすい「効果」を見せることができ、きちんと対応していると納得してもらいやすくなります。ここに「叱る」が効果的な方法だと誤解される原因があります。

 叱った相手が頭を下げて「ごめんなさい」と言った。こちらは「ああ、理解してもらえた」とおもう。だが相手は深く反省などしていない。「なんかこの人は怒っているからこれ以上刺激しないように頭を下げて嵐が通りすぎるのを待とう」とおもっているだけだ。

 これはよくわかる。ぼくはこれまでの人生で何千回と叱られてきたが、叱られている最中に深く反省していたことなんてほとんどない。反省したとしても「今度は叱られないようにしよう」とおもうだけで、行為自体を反省することはほとんどない。


 以前勤めていた会社でのこと。ぼくが最終退出者だったのだが、オフィスの電灯を消すのを忘れて帰ってしまった。

 翌朝、上司から怒られた。「昨日電灯つきっぱなしだったぞ」と。ぼくが悪いので「すみませんでした。気を付けます」と頭を下げた。だが上司の説教は止まらない。ミスがないように注意しなきゃだめじゃないかとか、電気代がもったいないとか、ねちねちと続けてきた。

 聞いている間、ぼくは反省などしていない。「今さらどうしようと消し忘れてしまった事実は取り消せないし、対策としては気を付けますとしか言いようがない。タイマーを導入してシステム的に消し忘れを防ぐことはできるかもしれないが、得られるものとコストを比較したら現実的じゃないしな」とおもうだけだ。

 ぼくが反省していない(いや最初は反省してたんだけど)ことが伝わったのか、上司の説教はさらにヒートアップしてきて、しまいには「火事になったらどうするんだ」なんてわけのわからないことまで言いだした。ぼくは「何言ってんだこいつ」とおもう。それが伝わり、上司はますます感情的になる……。

 いやー、実に不毛な時間だった。

 こういう不毛な時間を回避するには「深く反省しているふりをする」が最善の方法となる。いろんな組織に「怒りっぽい人」がいるが、その周りの人は「反省しているふり」ばかりがうまくなる。お説教を早くやりすごすために反省しているふりをする。叱っているほうは気分が「指導できた」と勘違いして気分が良くなり、味をしめてますます叱るようになる……。




「叱る」ことは意味がないどころか、指導という点では逆にマイナスの効果があると著者は指摘する。

 理不尽に耐え続けるということは、報酬系回路が活性化される「冒険モード」の機会を奪われ続けることも意味しています。危機からの回避や闘争は、「欲しい、やりたい」という心理状態とは両立しないからです。まして理不尽によって「諦め」を引き起こすことは、「欲しい、やりたい」という気持ち自体を奪うことです。そういった状態が続くと、人はそもそも「やりたいことが何かわからない」という状態になってしまう可能性が高くなります。

「冒険モード」とは学習意欲が高まった状態のこと。叱られることで学習意欲は低下し、やる気もなくなる。当然結果は悪くなるので叱る側はますます腹を立てて叱るようになり……という悪循環が生まれる。


 叱ることで得られるものは「相手を思考停止にさせる」ことだけ。

 だから「赤信号で飛び出そうとする子どもを叱る」のは効果がある。何も考えずに足を止めさせることができるので。

 ただしそこから「赤信号で飛び出そうとしたら車に轢かれるかもしれない。これからは交通安全に気を付けて行動しよう」という学びを得させることはできない。

 また、悪いやつが「いいからとにかくハンコを押せ!」というときも叱ることは効果的だ。思考停止にさせたほうがいいので。




 指導・教育をする上では効果がない(それどころか妨げになる)にもかかわらず叱る指導をしてしまうのは、叱られる側ではなく叱る側にあると著者は語る。

 しかしながら、その後の研究では、処罰行為は規範を維持するためだけのものではなく、相手にネガティブな体験を与えることそのものが目的となっているような悪意ある処罰(Spiteful Punishment)もまた、報酬系回路を活性化させると報告されています。つまり単に相手を苦しませるだけの行為でも、人は気持ちよくなったり、充足感を得たりすることがあるのです。また、怒りの感情が背景にあって、その行為がなんらかの復讐の機会となっている場合に、報酬系回路の活動がより高まるという報告もされています。みなさんも、意地悪な相手やずるをした人に、仕返しをすることで気持ちがすっと晴れた経験があるかと思います。  どうやら、他者に苦痛を与えるという行為そのものが、人にとっての「社会的な報酬」の一つになっているようです。私たちはこの事実をどのように受け止め、どう向き合っていくのかを真剣に考える必要があるのではないでしょうか。

 他人を叱ることが快楽をもたらすのだ。ネットの“炎上”もこういうケースが多い。やらかしてしまった人たちに無関係の人たちが群がり、非難の声を上げる。

 あれも「叱る」行為の一種だろう。自分とは関係のない出来事でも、叱ることが気持ちいいから叱ってしまうのだ。


 よく叱る人は、たいてい自分に問題があるとは考えない。「自分だってほんとは叱りたくない。叱られるようなことをするこいつが悪いんだ」という思考になる。

 だがそれは正しくない。あくまで原因は“叱る側”にあるのだ。酒自体が悪いのではなく酒を飲む側に問題があるのと同じく。

「何度言わせるんだ!」と叱りつづける人がいるが、問題は叱る側にあるのだから、自分が変わらないかぎり、叱る原因がなくなることはない。



 著者の書いてあることはよくわかる。

 ただなあ。現実的に、子どもを育てたり、多くの人を指導したりする上で、まったく叱らないというのは難しいんじゃないかな。

 進学校の高校教師が「叱らずに生徒指導をする」のはそんなに難しくないかもしれない。でも、いわゆる荒れてる学校、学習障害すれすれぐらいの子だらけの学校で「叱らない指導」はできないとおもう。

「叱らずに指導をする」ってのはある一定の知性や常識や意欲を持ちあわせている相手には有効でも、そうじゃない相手もいるわけで。野生のクマ相手に「話せばわかる!」と言ってもしかたないのと同じく、ある程度言葉が通じないと「叱らない指導」はできない。


 「叱る」は抑止力として予防的に用いることが基本です。つまり実際には叱らずに、予告だけするのです。実際に叱ってしまうと相手は「防御モード」になって、言い争ったり隠蔽しようとしたりする可能性が高くなります。ということは、実際に叱らなくてはならない状況を招いてしまった時点で、本来は「叱る人」の失敗だと考えるべきなのです。
 また、抑止のための「叱る」は、ただ特定の行動を避けるようになるという意味の効果しかなく、望ましい行動を身につけることにはつながりにくい点も忘れてはいけません。「何をしたら叱られるのか」を伝えると同時に、「どんな行動が求められているのか」「何を大事に考えるべきなのか」など、学んで欲しい具体的な事柄を伝えることが大切です。ただし、これらを「叱る」からの流れで伝えることはおすすめできません。ネガティブ感情で「防御モード」が活性化している時は、理解力が下がっていますし、攻撃的な気持ちになっているので素直に聞くことも難しいのです。

 これもなあ。ときどきほんとに「叱る」からこそ、抑止として使えるとおもうんだけど。原爆の怖さを知っているから核が抑止力になるわけで。


 著者は、人は叱られると「防御モード」になって思考停止・逃避・反撃に向かい、うまく褒められると「冒険モード」になって学習意欲が高まると書いてある。

 一般的な傾向はそうかもしれないが、例外も多い。

 たとえば叱らずに普通に話をしただけで「防御モード」になる人は大人でも子どもでもけっこういるんだよね。「なんでこれをしたの?」と(怒らずに)聞いても、攻撃されたと感じて言い訳や反撃をしはじめる人が。


 うちの長女がまさにそうで、こないだ風呂に入らずに寝ようとしていたので「お風呂入って」と言ったところ、「入ったし!」と怒りだした。一応確認したが、髪の毛も脱衣所もまったく濡れていない。そのことを指摘しても「乾かしたのっ!」とキレる。娘が洗面所に行ったのは5分ぐらいなのでその時間で髪と身体を洗って髪(肩を超える長さ)を乾かすことなんてぜったい不可能なのだが、それでも「入った!」と嘘をつく。

 さんざん話してもらちがあかないので、こっちも「おまえの嘘や言い訳なんかどうでもいいからさっさと風呂に行け!」と怒鳴って、半ば引きずるようにして風呂に行かせた。

 自分でも大人げない対応だったとはおもうが、この場合、他に方法ある?

 風呂に行かず、嘘をつき、嘘を指摘されたら逆ギレしてくる相手に対して「叱る」以外の対応ある?

 自分から風呂に行きたくなるまで何日でも何ヶ月でも待てばいいの?


 子育てしてたらこの類いの「子どもがすぐばれる嘘をつく」とか日常茶飯事だし、なんなら大人でもけっこういる。

 アドバイスされただけで「防御モード」になって牙を剥いて食ってかかってきたり、嘘に嘘を重ねて逃げようとする人間が。ぼく自身もそういう子どもだったのでよくわかる。

 無限の時間と忍耐力があれば辛抱強くつきあって心を開かせることができるのかもしれないが、現実的にそいつだけに向き合ってもいられない。

 ベストな方法ではないかもしれないけど、叱るしかないときってあるんだよね。

 叱らずに指導しましょうっていうのは「すべての国が武器を捨てればいいのに」っていうのと同じで、理想ではあるけど、現実的にはまずムリ。

 きっと著者の周りには、攻撃的な人や信じられないような嘘つきがいないのだろう。幸せなことだ。


 この本で書かれていることは理想論すぎるけど、「叱ることは快楽をもたらす」と知っておくことは大事だね。

 叱る前に「これは場をうまく収めるために必要な説教か、それとも自分が気持ち良くなるための説教か」と考えるようにしたい。できるかなあ。


【関連記事】

【読書感想文】怒るな! けれど怒りを示せ! / パオロ・マッツァリーノ『日本人のための怒りかた講座』

自分のイヤなところを写す鏡



 その他の読書感想文はこちら