2024年5月28日火曜日

【読書感想文】小泉 武夫『猟師の肉は腐らない』 / お金は便利なり

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猟師の肉は腐らない

小泉 武夫

内容(e-honより)
現代に、こんなに豊かな食生活があったとは!福島の山奥、八溝山地。電気も水道もない小屋で自給自足の暮らしを送る猟師の義っしゃんは、賢い猟犬を従えて、燻した猪や兎の肉に舌鼓を打ち、渓流で釣ったばかりの岩魚や山女を焼いて頬張り、時には虫や蛙、蛇までも美味しくいただく。先人からの知恵と工夫を受け継ぎ、自然と生命の恵みを余すことなく享受する、逞しくて愛すべき猟師の姿。


 農学者である著者が、友人である猟師を訪ねて行動をともにした記録。

 夏と冬に二回訪問し、それぞれ数日ずつ過ごしただけだが、とにかく濃密。数日間の記録を本一冊にしてもぜんぜん足りないとおもえるぐらい充実した日々を送っている。




 山奥の小屋にたったひとり(猟犬と一緒ではあるが)で暮らしている“義っしゃん”は、ほぼ自給自足の生活を送っている。


「家の中、暗かっぺ。今明るぐすっから」
 と言うと、義っしゃんは天井から吊るされているランプにマッチで火を灯した。俺は、この時代に未だ使われているランプをはじめて見たが、火がだんだんと力強く燃えて行き、その炎が燈芯全体に達すると、周りは思っていたより明るくなり、義っしゃんの顔の髭までよく見えるのであった。小屋の中を見回すと、俺はさらに驚いた。天井から囲炉裏にぶら下げられている自在鉤の上の方に、稲藁を束ねたものが括り付けてあり、そこには竹串を打たれた魚や、野鳥、蛇、蛙が刺されているのである。串に刺されたものが萎びて、表面が黒く煤けているのは、上ってきた煙に燻されて、燻製のようになったからであろう。肉類を保存するのに最も知恵のある方法である。俺が串刺しを興味深く見上げているのを見て、義っしゃんは、
「岩魚が多がっぺげんちょ、山女だとか鮠もいるぞい。蛙は赤蛙、蛇は蝮と縞蛇だ。下の方に刺してある羽をむしった鳥はない、鶫と山鳩と椋鳥なんだわい。鶉もいっぺ」
 と教えてくれた。

 午前十一時ごろ、義っしゃんと俺はドジョウ捕りに出発した。義っしゃんは、腰に魚籠を縛り付けたのは当然なのだが、田畑を耕すのに使う鍬を肩に担いでいる。魚捕りに行くのにどうして網でなく鍬を持っていくのだろう。山を下って行って、二十分も歩いたところで平地が出てきた。二年前の夏にドジョウ掬いをしたところで、俺は、蛇に手を咬まれた苦い思い出がある。小川は、以前よりもはるかに水量が少なく、Ⅲ岬には秋に刈り取られた稲の根の部分だけが一面に残っている。土は乾いた状態だったが、一番手前の田圃だけは、氷が薄く張っていた。義っしゃんは、その田圃の畔を歩き、水を引き込む坑のあたりまで行くと、「こっちへ来てみっせ」と俺を呼び、いきなり鍬を振り下ろして氷を割り、ひと塊りの土を掘り出した。そしてその土を手で崩しながら、
「ほら、いだっぺよドジョウだあ。そっちにも、こっちにもニョロニョロいっぺ」
 と言って、蠢くドジョウを手で摘み上げては泥付きのまま魚籠に入れるのであった。はクネクネと動いている。こんなに寒い冬なのに、元気のいいドジョウで驚いた。
 「ドジョウの奴めらない、泥の中で動がねで寝でだんだげんちょ、突然掘り起こされよ、おったまげで動きまわってんだわい。これない、ドジョウの土籠りっていってよ、まあ冬眠みてえなもんなんだあ」
 義っしゃんは、田圃の土を掘り返してはクネクネと動きまわるドジョウを次々に拾い上げている。

 冬のドジョウは土の中で獲るんだ……。田んぼの水を少しずつ抜いてドジョウを一箇所に集めておくと、そのへんの土を掘るといっぺんに獲れるんだそうだ。すごい漁だ。


 魚や野菜はもちろん、猪、蜂の子、蝗、甲虫の幼虫、蛇、蛙など、山にある様々なものを義っしゃんは獲って食料にしている。獲ってきたものを捌いて、調理して、保存食にも変える。納豆や酒も自分でつくる(酒の密造は違法です)。

 金銭を使うのは獲った猪やドジョウを町に売りに行って現金に換えて調味料などを買うぐらい。ほぼ自給自足+周囲の人との助け合いで生きている。


 いいなあ、こんな生き方。と、ちょっぴりあこがれもするのだが、でもぼくがここで暮らしたら一週間もしないうちに音を上げるだろうな。

 義っしゃんは毎日働いている。食べ物を獲りにいき、畑の手入れをし、調理し、保存食をつくる。たぶん毎日毎日何かしないといけないのだろう。それはきっとすごく充実した日々なんだけど、ぼくのようにめんどくさがりの人間は「今日は一日ごろごろしていたい」とか「作るの面倒だから外食で済まそう」とかおもってしまう。町の暮らしだとたまにはそういう日があってもいいけど、山だとそうはいかない。自然はいくら金を積んだって自分の都合で動いてくれないから、

「お金に縛られない暮らし」ってあこがれるけど、でもお金ってすごく楽なんだよね。物質だけでなく、労力とか時間とか快適さとか、いろんなものがお金で代替できてしまう。

 お金って便利だよなあ。

 他人に「ちょっとこれやってくれませんか」とお願いできるような関係は素敵だけど、でもそれは他人から頼まれたらよほどのことがないかぎりは引き受けないといけないわけだもんな。都市での生活に慣れると「だったらお金を払って解決したほうがいいや」とおもってしまう。


 たぶんぼくには山での暮らしはできない。だから大災害が起きて文明が滅んだときにはおとなしく死んでいくことにする。そのときにはきっと義っしゃんのような人が人類の遺伝子を未来へ残していってくれることだろう。




 猟師の生活も読んでいて楽しいが、グルメ本としても楽しめる。とにかく、ここに出てくる料理がみんなうまそうなのだ。

 その兎肉は筋肉だけで出来ているといった感じで盛り上がっていて、肉片のひとつを手に取ると、ずしりとした手応えがある。俺はそれを上下の前歯でガブリと噛みつき、そして肉を持っていた手を前に伸ばして喰い千切った。
「そこんどご、後ろ脚の腿肉のどこだがらちょっと硬いべげんちょ、食べてみっと味が濃いがらうめ。筋肉質のとこはどんな動物でもよ、いつも動かしてばっかしいっぺ、んだがら味が濃くてよ、とでもうめぐなんだわい」
 と義っしゃんは解説してくれた。噛むと鼻孔から瞬時に煙の匂いがスーッと抜けてきて、口の中では硬い肉が歯と歯に潰されてほこほこと崩れてゆき、そこから野生に育まれた動物しか持っていない濃いうま味がジュルジュルと湧き出してくるのであった。さすが野山を走り回っていた兎だけあって、余分な脂など付いておらず、義っしゃんが言った筋肉質のうま味ばかりが送ってくる。野生動物のこの部分は確かに美味い。なぜ味が濃いのかには理由があって、筋肉は休むことなく動き続けなければならない宿命ゆえに、常にスタミナの素となる良質のアミノ酸を備えておく必要がある。そのアミノ酸こそうま味の本体であるからで、全身これ筋肉、といった蛇や赤蛙を食べた時も、この野兎によく似て味が濃かった。これこそ野生動物にしか宿らない味の真髄なのだろうが、このことは鶏にも語れる。

 たぶん臭みとかもけっこうあるんだろうけど、野趣あふれた味を楽しめる人にとっては最高だろうな。いちばんいい食材を、いちばんいい調理法で、いちばんいいタイミングで食えるわけだもんな。

 以前観たあるテレビ番組で、超一流の料理人が南米に行き、市場で売っている獲れたての食材を、生で食ったり、塩で味付けだけして焼いて食ったりして、最高にうまいと言っていた。料理の神髄を極めたような人でも(だからこそ)、最終的には獲れたて+シンプルな調理法がいちばんうまいと言うのだ。凝った料理もそれはそれでうまいが、「獲ったばかりの魚をその場で焼いて食う」みたいな本能にガツンとくるうまさには適わないのだろう。




 たいへんおもしろかったのだが、気になった点がふたつ。

 ひとつは、義っしゃんが密造酒をつくっていることや銃刀法違反をしていることをあっさり書いてしまっていること。

 これがばれると警察に捕まるから秘密にしてくれと頼まれたので「秘密にする」と約束した、と書いているのだ。書いとるやないかーい!

 ま、いろいろとぼかしてはいるんだろうけど、それでも他人事ながら「これを書いちゃうのはどうなのよ」とおもった。


 もうひとつは、会話を借りて主張を展開していること。

 捕鯨は守るべき文化だ、農薬や化学調味料の使用は悪影響が大きい、昔の人の知恵はすごい……。

 そういう著者の「主張」を本にするのはいっこうにかまわない。ただそれを「著者と義っしゃんの会話」に混ぜて書くのが気持ち悪い。むりやり混ぜずに、会話は会話、主張は主張でちゃんと書けばいいのに。会話に混ぜることでその部分の不自然さが目立って、余計に説教くさく感じるんだよね。

 ま、おもしろい番組の間に挟まるスポンサーの広告のようなものとおもって読み流すしかないね。


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