2022年8月5日金曜日

【漫才】やらない理由

「今度オペラのコンサートがあるんだけど、一緒に行かない?」

「オペラ? オペラってあのオペラ? 歌うやつ?」

「そう、そのオペラ。オペラって名前のチョコレート菓子もあるけど、そっちじゃなくて歌劇のほうのオペラ」

「オペラのチケットがあるの?」

「いや、まだない。おまえが行くんなら一緒に買ってあげるよ。S席でいい? 1枚19,000円」

「オペラってそんなにするの!? いや、いい。行かない行かない」

「じゃあA席にする? それともB席?」

「いや席の問題じゃなくて。オペラに行かない」

「えっ……。なんで?」

「オペラに興味がないから」

「なんで興味がないの?」

「そもそもちゃんと観たことがないから」

「なんで観たことがないの?」

「なんでって……。ええっと……。いや待て待て。オペラを観たことがないことに理由がいる?」

「いる」

「それはおかしいよ。何かをやることに理由を求めるのならまだわかるけど、やらないことに理由なんてないよ」

「そうかなあ」

「じゃあ聞くけどさ、おまえがポルトガルに行ったことないのはなんで? って聞かれても特に理由はないだろ。それと同じだよ」」

「おれポルトガル行ったことあるよ」

「あんのかい!」

「いいだろあったって」

「いやそれはいいけどさ。でも今は『行ったことないであろう場所』の例えとしてポルトガルを挙げたんだから、あったらダメなんだよ。じゃあウルグアイでもパラグアイでもいいけど、おまえが行ったことない場所に行かない理由を訊かれて……」

ウルグアイもパラグアイも行ったよ」

「あんのかーい! なんであるんだよ。世界中放浪してる旅人かよ」

世界中放浪してる旅人だったんだよ」

「もう! そういう話してるんじゃないんだよ! じゃあ、えっと……おまえはパラピレ共和国に行ったことないよな?」

ない。それどこにあんの?」

「今おれが考えた架空の国! おまえはパラピレ共和国に行ったことがないな? でも行ったことないことに理由なんてないだろ? そういう話だよ」

「行ったことないことに理由はあるよ

「は?」

おまえが考えた架空の国だからだよ。ほら、正当な理由あるじゃん」

「ああもう! じゃあなんでもいいや、おまえがやったことなさそうなこと。え~っと、おまえが学生時代にラクロス部じゃなかった理由は?」

「声楽の練習してたから」

「アイスホッケー部じゃなかった理由は?」

「声楽の練習してたから」

「じゃあおまえがクルージングをしない理由は?」

「そんな金があるならオペラ観にいきたいから」

「じゃあおまえが昨日おれの家に来なかった理由は?」

「オペラ観てたから」

「今おまえがマリファナ吸ってない理由は?」

「この後オペラ観るときに落ち着いた気持ちで楽しみたいから」

「全部即答できんのかよ! ていうかマリファナ吸わない理由はもっとあるだろ……。
 しかも全部オペラが理由なんだな。なんでそんなにオペラ好きなの?」

「えっ……。改めて言われたら、なんでオペラ好きなんだろう。なんでオペラ観にいくんだろ。冷静に考えると、オペラの何がいいのか、よくわかんないな……」

「やらないことすべてに理由はあるのに、やることに理由ないのかよ!」


2022年8月4日木曜日

年寄りは嫌い、若い子は条件付きで好き

 あのですね。みなさん、年寄りは嫌いじゃないですか。

 いや、いいんですよ。誰も聞いてませんから。嘘つかなくたって。お年寄りは大切にしないといけないとか、おじいちゃんおばあちゃんは国の宝ですとか、そんな嘘つかなくたって。

 いいんですよ。みんな嫌いなんですから。八十歳の人だって、百歳の人を見て「いつまで生きてんだ」とおもってるにちがいないんですから。

 そりゃあ自分の親戚とか、親切なご近所さんとか、高齢タレントとかは好きかもしれませんよ。でもそれはあくまで個別的例外でしてね。まあ一般には年寄りは嫌いなんですよ、みなさん。

 大丈夫ですよ、やましさを感じなくたって。昔から若い人は「年寄りはさっさとくたばりやがれ」っておもってたわけで、その若い人だった連中こそが今の年寄りなわけなんですから。

 もちろん今の若い人たちだってそのうち年寄りになって嫌われます。みんな若いうちは年寄りを嫌って、自分が年寄りになったら若い人から嫌われるんです。水が高いところから低い方に流れるのと同じぐらい、ごくごく自然のことなんです。


 考えてもみてくださいよ。

「お年寄りは大切に」とか「おじいちゃんおばあちゃんには優しくしましょう」とか言うわけですけどね、なぜそんな言葉があるかというと、ついつい嫌悪してしまうからなんですよ。

 だってそうでしょう。ほんとに大切なものには「大切にしましょう」なんて言わないでしょう。

「我が子は大切にしましょう」とか「美人・イケメンには優しくしましょう」とか「紙幣は大切な財産です」とか言いますか。言わないでしょう。あたりまえのことは言わないんです。


 ま、そういうわけで、みんな年寄りを嫌い(たぶん年寄り自身も親しくない年寄りは嫌い)ということで満場一致を見たわけでここから本題に入るわけですが、みなさんに訊きたいのは「人は若い人を好きなのか?」ってことなんですよね。

 何言ってるんだ、人間が年寄りを嫌うのは太古の昔からの自然の摂理なんだから、ということは若い人は(相対的に)好きに決まってるじゃないか、と言いたくなりますよね。わかります。

 たいていの人は若い人を好きです。若い人はいいです。アイドルも若い人ばっかりだし、「若い子においしいご飯を食べさせてあげたい」というのは自然な欲求です。「年寄りにご飯を食べさせてあげる」だと介護になっちゃいますもんね。これは欲求じゃなくて労働です。

 ただ、ここでひとつ気を付けないといけないのは「若い人を好き」ってのはあくまで「自分より低い地位に甘んじているかぎり」という条件付きってことです。


「若い子においしいご飯を食べさせてあげたい」という人は少なくないですが、「その若い子があなたよりもずっと多く稼いでいるとしたらどうですか?」あるいは「その若い子があなたの直属の上司だとしたらどうですか?」という質問をしてみましょう。

 それでも胸を張って「若い子がいっぱいご飯を食べているところを見るのが好きだからごちそうしてあげたい!」と言える人は、まあいないでしょう。

 結局、若くない人たちは、「若い子」は「自分より地位が低くて金のない子」だとおもっているし、またそうあることを望んでいるわけなんですよ。

「がんばる若い子を応援したい」なんて言う人が応援したいのは貧乏で権力のない若者だけであって、在学中に起業して年収数億円の若い子やプロ野球選手になって華々しく活躍している若い子ではないんですよね。


 そうです。ペットと同じです。

 犬や猫が好きな人だって、その犬や猫が自分より大きくて力も強くて、さらに自分がいなくても生きていける存在だったら、これまでと同じようには愛せないでしょう。

 若くない人が「若い子」に向ける目はペットに向けるものと同じです。だから学生社長として成功を収めている人は「若い子」には含まれないんです。ネコはかわいがるけどトラはペットにしたくないんです。


 ところで政治家って年寄りばっかりですよね。国会議員の平均年齢は五十歳を超え、政治家が四十代でも若手だ最年少だと騒がれます。我々はやれ「老害だ」とか「年寄り議員はさっさと引退しろ」とか言います。まるで年寄りの政治家を嫌っているように見えますけど、そんな年寄りを選んでいるのは我々です。我々がほんとに嫌いなのは若い政治家なんです

 我々は、自分より若い人に権力を与えたくないんです。ペットですから、自分たちの代表になんかしたくない(ペットを「家族」と言う人はいっぱいいますけど、でもペットを世帯主にするのはイヤでしょ?)。だから選挙で若い人は選ばないし、そもそも出馬もさせない。政治家がじいさんばあさんばっかりなのはそのせいです。みんな若い政治家が嫌いなんです。

 年寄りに従うのはイヤだけど、若いやつに従うのはもっとイヤ。若いやつを高い地位につけるぐらいならまだ年寄りのほうがマシ。みんなそうおもってるわけです。


 政治家が若返りを果たすには、我々が「自分より金を持っている若い人にでも平気で食事をおごってあげる」ぐらいの度量を持つ必要があるわけですよ。

 ちなみにぼくにはもちろん、そんな懐の深さはないです。


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2022年8月3日水曜日

【読書感想文】奥田 英朗『真夜中のマーチ』/エンタテインメントに振り切った小説

真夜中のマーチ

奥田 英朗

内容(e-honより)
自称青年実業家のヨコケンこと横山健司は、仕込んだパーティーで三田総一郎と出会う。財閥の御曹司かと思いきや、単なる商社のダメ社員だったミタゾウとヨコケンは、わけありの現金強奪をもくろむが、謎の美女クロチェに邪魔されてしまう。それぞれの思惑を抱えて手を組んだ3人は、美術詐欺のアガリ、10億円をターゲットに完全犯罪を目指す!が…!?直木賞作家が放つ、痛快クライム・ノベルの傑作。


 大金を手に入れるために主人公たちが東奔西走するコン・ゲーム小説。

 恐喝を企て、それが失敗すると窃盗を試み、それも失敗すると仲間を加えて再び窃盗を試み、また失敗すると今度はさらに仲間を増やしてもっと大金の強奪を企て、それもまた失敗すると今度は……と、めまぐるしく展開が変わる。目標は「大金を手に入れる」だが、失敗するごとに目標となる金額はどんどん膨れあがっていき、最終的には10億円をめぐって詐欺師・中国人マフィア・ヤクザを含め4チームが攻防をくりひろげる争奪戦となる。

 細かいリアリティは捨てて、疾走感を優先させたような小説。メッセージ性も哲学も倫理観もかなぐり捨ててとにかくエンタテインメントに振り切ったこの感じ、嫌いじゃないぜ。

 



【以下ネタバレ含みます】


 息もつかせぬ展開で、終盤はハラハラドキドキだったが、最終的にはこぢんまりしたハッピーエンドに着地してしまったのがちと残念。ここまでド派手な物語をくりひろげてきたのだから、最後は想像以上の大成功を収めるか、あるいはすべてを失うぐらいの大失敗か、それぐらいのラストを期待していた。

 あれだけドンパチやったり命を賭けて危ない橋を渡ったのに、最終的に手にするのがひとり三千万円とちょっと。ううむ。もともとはぐれ者のヨコケンはともかく、サラリーマンだったミタゾウや裕福な暮らしをしていたクロチェからしたら割に合わなくないか? 人生を変えられるほどの額じゃないぞ。

 個人的には、もっともっとアホな展開でもよかったとおもうな。

 小説で読むよりも映画にするほうが向いている小説かも(実際ドラマ化されたらしい)。


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2022年8月2日火曜日

イヤイヤ期にはおうむ返し


 悲しいお知らせではあるが、次女がイヤイヤ期に突入してしまった。 

 次女は長女に比べて気性がおだやかで、一般的にイヤイヤがひどいとされる二歳(長女も二歳がひどかった)を無事に乗り切ったので「この子はイヤイヤ期がないんだ」と安心していたのだが、そんなことはなかった。ただ遅れて来ただけだった。ちぇっ。


 一度機嫌をそこねると、あれもイヤ、これもイヤ、とまったく話が通じなくなる。おまけに三歳なので、長女のときより言葉も達者だ。あれやこれやと言葉を尽くして駄々をこねる。

 しかし長女ですでに経験しているので、こちらはわりと冷静にできる。

 ぼくがよくやる対処法は「次女の言葉をおうむ返しにする」だ。


 次女が「ごはんたべたくない!」と言えば、「ごはんたべたくないなー」と言う。

「おとうさん、まねせんといて!」と言われれば、「まねせんといてほしいなー」と言う。

「まねしないでっていってるでしょ!」と言われれば、「まねしないでっていってるなー」と言う。

 当然、次女はますます怒る。

 妻や長女からも注意される。「そういうことするから余計に怒るんやで」と。

 わかっている。ぼくもわかっている。火に油だということは。


 それでもぼくが怒っている次女の真似をする理由は、ふたつある。


 ひとつは、怒りの矛先をそらすため。人間、同時に複数の対象に怒ることはできない。まねをしてわざと怒らせることで、当初の「ごはんたべたくない!」を忘れさせることができるのだ(まあできるときもあるしできないときもあるのだが)。


 もうひとつは、ぼく自身の平静を保つため。かんしゃくを起こしている子どもに何を言っても無駄だ。まともな会話など成り立つはずがないのだ。なんとかとりなそうとすれば、こっちの腹まで立ってくる。

 そうなったらもう泥沼だ。三歳児が怒り、大人も怒り、三歳児が泣き、大人は怒りが鎮まらない。何も言いことはない。

 だったら、三歳児の怒りを鎮めるのは無理でもせめてこっちぐらいは平静を保たねばならない。そのための方策が「ひたすら相手の言うことをおうむ返しにする」である。

 イヤイヤ期の幼児に腹が立つのは、まともなコミュニケーションがとれないからだ。あれもイヤ、これもイヤ、すべてイヤ、イヤだからイヤ、イヤなことがイヤ。
 ところがはなからコミュニケーションをとる気がなければ、何を言われても腹が立たない。なんせこっちは「言われたことをおうむ返しにするロボット」なのだ。


 子どものイヤイヤ期にお困りの保護者の方、「すべておうむ返し」はなかなかおすすめですよ。あんまり事態は好転しないけど、少なくとも悪化はしないから。


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怒りのすりかえ

力づくで子育て

2022年7月28日木曜日

【読書感想文】『ズッコケ発明狂時代』『ズッコケ愛の動物記』『ズッコケ三人組の神様体験』

   中年にとってはなつかしいズッコケ三人組シリーズを今さら読んだ感想を書くシリーズ第十一弾。

 今回は31・32・33作目の感想。

 すべて大人になってはじめて読む作品。


『ズッコケ発明狂時代』(1995年)

 夏休みの自由研究のために発明にチャレンジするハカセ。一獲千金を夢見てハチベエやモーちゃんも発明に夢中になるが、厳しい現実を知って諦めかける。そんな折、壊れたテレビと電卓をつないだ装置の付近に雷が落ち、それを機に「未来の番組が見られるテレビ」が誕生する。これで金儲けを試みる三人だったが、なんと三人組死亡のニュースが流れてきて……。


 テーマは決して悪くないのだが、これは前半と後半がまったくべつの話だよなあ……。『ズッコケ発明狂時代』といっていいのは前半までで、後半は『ズッコケ三人組と未来テレビ』だ。置いていたガラクタにたまたま雷が落ちて未来が見られるようになっただけで、まったく発明じゃない。机の引き出しから未来のロボットが出てきたのを発明という人はいないだろう。

 前半の「理論立てて考えるハカセよりも先に、適当な気持ちで手を出したハチベエやモーちゃんのほうが発明品を完成させる」あたりのハカセの心の動きの描写もいいし、後半の「自分たちの死亡を知らせるニュースを見てしまい、回避するために全力を尽くす」もおもしろい。『バック・トゥー・ザ・フューチャー』や乾くるみ『リピート』を彷彿とさせるサスペンス展開になっている。

 未来のニュースを見られるようにはなったが、バタフライ効果(とは作中で書かれてはいないが)により必ずしも実現するわけではない。未来テレビ通りの結果になることもあれば、そうでないこともある。なので三人組は助かるかもしれないし、助からないかもしれない……。この塩梅がいい。緊張感がある。

 当然ながら三人組が死亡してバッドエンドになることはないのだが、そこで終わらせずにラストに「未来テレビで観た競馬の結果」が実現するかどうかという展開を持たさているのもニクい。そしてその結末が作中で明かされず読者の想像にゆだねられるところも。

 改めて考えると、中期作品にしてはかなりの佳作といっていいだろう。それだけに、テーマである「発明」から離れてしまったのがかえすがえすも残念。



『ズッコケ愛の動物記』(1995年)

 捨て犬を拾ったモーちゃん。もらい手が見つからないので、工場の跡地で飼うことに。噂を聞きつけた子らが、飼えなくなったリスザルやニワトリやウサギやヘビなどを持ちこみ、それらもあわせて飼うことに。さらにハカセがイモリやトカゲを捕まえてきて飼育をはじめる。ところが土地の持ち主に見つかって動物たちを連れて出ていくように言われ……。


 今の子、都会の子はどうだか知らないけれど、数十年前に郊外で育った子どもなら「動物を拾って困る」は一度は経験したことがあるんじゃないだろうか。

 ぼくは三度経験した。一度は学校に犬が迷いこんできて、学校で保護したとき(昔の学校ってそんなことまでしてたのだ)。その犬は結局我が家で飼うことになった。十数年生きた。

 二度目は、父親が仔犬が捨てられているのを発見して拾って帰ったとき。家族で八方手を尽くして、どうにか貰い手を見つけた。

 三度目は、ぼくが友人たちと遊んでいるときに捨て犬を発見した。それぞれの親に訊いたり、近所の家をまわって「犬飼いませんか」と訊いてまわったりしたが、結局貰い手は見つからず。泣く泣く、元の場所に戻した。翌日その場所を訪れると、「ここに犬を捨てた人へ。あなたの身勝手な行動によって一匹の犬が殺処分されることになりました。動物を飼うなら責任を持ってください」という怒りの貼り紙がしてあった。元々は別の人が捨てたのだが、あれこれ連れまわしたあげく結局元の場所に戻したぼくらは、自分が責められているような気になった。いまだに苦い思い出だ。


 また、我が家ではいろんな動物を飼っていた。犬に加え、文鳥、ハムスター、スズムシ、カメ、トカゲ、オタマジャクシ、カブトムシ、クワガタムシ、アリ、カマキリ、アリジゴク、カミキリムシ、カタツムリ……(後半は全部ぼくが捕まえてきたやつだ)。

 子どもにとって「動物を飼う」というのは身近にして大きなイベントだ。そして「最初はがんばって世話をするけどだんだん面倒になってしまう」のも共通する体験だろう。ぼくが捕まえた小動物たちも、ほとんどが天寿を全うする前に死んでしまった。


 前置きが長くなったが、『ズッコケ愛の動物記』はそんな動物を飼うことをテーマにした話だ。身近なテーマなので親しみやすいが、身近である分、はっきりいって退屈だった。まさに動物を飼いはじめた子どもと同じように、読んでいるほうも飽きてしまうのだ。子どもが親に隠れて動物を飼っても、その先は「死なせてしまう」「逃がす」「逃げられる」のどれかしかないわけで、いずれにしてもあまり楽しい未来は待っていない。さすがにそれではかわいそうとおもったのか、『ズッコケ愛の動物記』では「家で引き取る」という道も用意するのだが、それはちょっと反則じゃねえかという気がする。それができるんなら最初から家で飼えばいいじゃねえか。

 また、ニワトリの処遇だけが最後まで決まらず、ニワトリをかわいがっていた田代信彦が行方不明になるところがクライマックスなのだが、その結末も「ニワトリが何羽がいる神社に置いてきた」というなんとも微妙な決着。「神様がニワトリを放す場所を用意してくれた」とむりやりいい話っぽくしているが、いやあ、勝手にニワトリ放してきちゃだめでしょ。

 たぶん小学生が読めばそこそこ楽しめるんだろうけど、あまりに展開が平凡すぎてぼくには退屈だったな。ズッコケシリーズ史上もっとも波風の立たない作品だったかもしれない。




『ズッコケ三人組の神様体験』(1996年)

 神社の秋祭りで手作りおみこしコンテストが開催され、三人組たちもおみこしを手作りして賞金十万円を狙う。また秋祭りでは数十年ぶりに稚児舞いが復活し、ハチベエが踊ることに。ところがこの稚児舞い、踊った子の頭がおかしくなるといういわくつきの舞いだった。実際に、ハチベエが徐々に変調をきたし……。


 これはなかなかおもしろかった。中期作品にしてはよくできている。地域のお祭りという日常生活の延長から、徐々に摩訶不思議な世界に引き込まれていく感じがいい。神や精霊と交信するシャーマニズムに踊りはつきものだし、神事としての舞いには子どもの脳に異常をきたすといわれても納得してしまう説得力がある。

 この作品が書かれた前の年である1995年には、地下鉄サリン事件を筆頭とする一連のオウム騒動がテレビをにぎわせていた。子どもの間でも「サティアン」だの「ポア」だの「グル」だのといったオウム用語がおもしろ半分に飛び交い、スピリチュアルなものの危うさが受け入れられる土壌もあった。

 超常現象を扱いながらも、不思議な体験が事実だったのかそれともハチベエの見た幻覚だったのかはわからない。これぐらいがいい。『ズッコケ妖怪大図鑑』や『ズッコケ三人組と学校の怪談』は、明確に超常現象を書いちゃってるからなあ。具体的に書くほうが嘘くさくなっちゃうんだよね。

 またオカルト一辺倒にならないように「手作りおみこしコンテスト」というもう一本の軸を用意しているところも重要だ。これにより三人のバランスもとれるし、また神がかりの異常さも際立つ。個人的にはズッコケシリーズの心霊系の作品はハズレが多かったんだけど、これはその中では一番かも。


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