2018年12月27日木曜日

2018年に読んだ本 マイ・ベスト12

2018年に読んだ本は85冊ぐらい。その中のベスト12。

なるべくいろんなジャンルから選出。
順位はつけずに、読んだ順に紹介。

ジョージ・オーウェル『一九八四年』

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ディストピアものの古典的名作。
評判にたがわぬ怪作だった。

ストーリー展開自体は今読むとやや陳腐だけど、圧倒的な説得力を持ったディティールが引きこませる。言語をコントロールすることで思想を封じこめるという発想はすごくよかった。



高橋 和夫『中東から世界が崩れる』

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中東といえば石油とイスラム教、というのが多くの日本人のイメージだろう。ぼくもそうだった。
しかしこの本では宗教対立から離れた視点で中東を語っている。これがすごくわかりやすい。

特にイランの重要性についてはまったく知らなかったなあ。「イラン≒中華」説はおもしろい。



陳 浩基『13・67』

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香港の作家が書いたミステリ小説。重厚かつ繊細。

短篇ミステリを読んでいると、やがてイギリス・中国に翻弄される香港という国の変化が見えてくる。
腐敗しきって民衆の敵だった警察が徐々に市民からの信頼を得るが、やがて中国共産党の手先となってまた人々を締めつけるようになる。社会派エンタテインメントの傑作。



瀬木 比呂志・清水 潔『裁判所の正体』

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読んでいると憤りをとおりこして恐ろしくなってきた。ぼくはこんな前近代的な司法が治める国に住んでいたのか。

これを読むまで司法のことは信頼していたんだよね。政治や官僚が腐敗しても司法だけは良心にのっとって裁いてくれるだろう、と。
この本を読むと、裁判所が権力者を守るための機関になっていることがよくわかる。情けなくってため息しか出ない。はぁ。



春間 豪太郎『行商人に憧れて、ロバとモロッコを1000km歩いた男の冒険』

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たったひとりでロバと仔猫と鶏と仔犬と鳩を連れてモロッコを旅した記録。
あえてリスクの高いほうばかり選択してしまう人って傍から見ているとおもしろいなあ。

めちゃくちゃめずらしい体験をしているのに、気負いがなくさらっと書いているのが楽しい。事実がおもしろければ文章に装飾なんていらないということを教えてくれる。



矢部 嵩『魔女の子供はやってこない』

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2018年最大の驚きを味わわせてくれた本。
文章めちゃくちゃだし内容は気持ち悪いしストーリーは不愉快。なのにおもしろいんだから困っちゃう。

嫌な話が好きなぼくとしては最高におもしろかった。どうやったらこんな小説が書けるんだろう。奇才と呼ぶにふさわしい。



テッド・チャン『あなたの人生の物語』

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これまた驚かされた小説。
かなりの量の小説を読んできたのでもう驚くことなんてないと思っていたが、この想像力には脱帽。
「ぶっとんだ発想」と「ディティールまで作りこむ能力」ってなかなか両立しないと思うのだが、テッド・チャンはその両方の才能を併せもつ稀有な作家。



山本 義隆『近代日本一五〇年』

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明治以降の日本の科学は戦争とともに歩んできた。
案外それは戦後も変わってないのかもしれない。

著者は、日本がかたくなに原発を放棄しようとしないのは、軍事転用するためではないかと指摘している。核兵器禁止条約に署名しないのも、将来的に核兵器を保有するためだと考えればつじつまが合う。
だからこそ「負けフェーズ」に入った原発を捨てられない。先の大戦で、負けを認められずに大きな犠牲を出したときと同じように。



岸本 佐知子『なんらかの事情』 


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翻訳家によるエッセイ集。いや、エッセイなのか……?
どこまで本当なのか、どこから嘘なのか。気づいたら引きずりこまれている空想の世界。
こんな文章を書けるようになりたいなあ。



セス・スティーヴンズ=ダヴィドウィッツ『誰もが嘘をついている』

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人はすぐ嘘をつく(おまけに嘘をついている自覚もないことが多い)ので、アンケート結果は信用できない。前の大統領選でも、事前のアンケートではトランプ氏が圧倒的劣勢だった。
だが行動は嘘をつかない。人々のとった行動をビッグデータにして分析すれば未来も予想できる。
医療も変わる。医者の仕事のうち、「診断」は近いうちにコンピュータの仕事になるだろうね。



高野 秀行『アヘン王国潜入記』

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これを読むとアヘンを吸ってみたくなる、困った本。
カンボジアのワ州という村に滞在した記録なのだが、おもしろかったのは村人たちの死生観。
独特なんだけど、彼らのほうが生物としては正しくて、われわれのように「個の死をおそれる」「他人の死を悼みつづける」ほうが異常なのかもしれないと思わせる。



堤 未果『日本が売られる』

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タイトルは大げさでもなんでもなく、日本のあらゆる財産が売られつつある。
水、農業、自然、教育、福祉、そして我々の生活。売っているのは国。つまり政府。
「今だけ、カネだけ、自分だけ」の先にあるのは貧しい暮らし。今の政治体制が続くかぎり、この傾向はどんどん加速していくんだろうな。



来年もおもしろい本に出会えますように……。


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2018年12月26日水曜日

【読書感想文】史上最低の「衝撃のラスト」/小林 泰三『殺人鬼にまつわる備忘録』

殺人鬼にまつわる備忘録

小林 泰三

内容(Amazonより)
見覚えのない部屋で目覚めた田村二吉。目の前に置かれたノートには、「記憶が数十分しかもたない」「今、自分は殺人鬼と戦っている」と記されていた。近所の老人や元恋人を名乗る女性が現れるも、信じられるのはノートだけ。過去の自分からの助言を手掛かりに、記憶がもたない男は殺人鬼を捕まえられるのか。衝撃のラストに二度騙されるミステリー。

「記憶が数十分しかもたない主人公」と「他人の記憶を書き換えることができる悪役」の対決を描いたミステリ。

んー、最後まであんまりわくわくしなかった。
「記憶が数十分しかもたない」はともかく「他人の記憶を書き換えることができる」はもうなんでもありだからなー。無敵すぎて。

その無敵の能力者にとっては「記憶が数十分しかもたない」人物だけは相性が悪い、というのがこの話の妙らしいんだろうけど、いやいやそんなに相性悪くないし。記憶を書き換えられるほうが圧倒的に強い。
そのへんの「強すぎる設定」がじゃまをして、とうとう最後まで入りこめなかった。

「記憶を書き換えられる上に人を殺すことをなんとも思わない人物」と対峙するなら、やることはふたつしかないじゃない。
「とにかく逃げる」か「記憶を書き換えられる前に暴力で制する」か。
なのに主人公は頭脳戦で戦おうとする。記憶が数時間しかもたないくせに。ばかすぎる。

それから設定上しょうがないんだけど、主人公の記憶がもたないので、何度も同じことをくりかえす。同じことばかり書いている。
これがまだるっこしくてしょうがない。ここをもっとうまく処理してほしかったな。



あとひどかったのが「衝撃のラスト」ね。

〇〇と思っていたのが実は××だった、ってことが最後に明らかになるんだけど、××がはじめのほうにちょろっと出てきただけなので「誰だこいつ?」ってなる。
読みかえせば「あーこんなやついたっけ」とわかるんだけど、しかし××がまったくストーリーにからんでいないから「で、それがどうしたの?」って思うだけ。

今までに「衝撃のラスト」の小説をいくつも読んできたけど、その中でもダントツでゴミみたいな「衝撃のラスト」だったな。



この作者のデビュー作『玩具修理者』は丁寧な構成のいいホラーだったんだけどな。
『殺人鬼にまつわる備忘録』はダメダメミステリだった。

ぼくは後味が悪い小説は好きだけど、「よくできていて後味が悪い」小説が好きなんだよね。これはただただ不愉快なだけ!


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2018年12月25日火曜日

【映画感想】『シュガー・ラッシュ:オンライン』

『シュガー・ラッシュ:オンライン』

内容(Disney Movieより)
 好奇心旺盛でワクワクすることが大好きな天才レーサーのヴァネロペと、ゲームの悪役だけど心優しいラルフ。大親友のふたりは、アーケード・ゲームの世界に暮らすキャラクター。
そんなふたりが、レースゲーム<シュガー・ラッシュ>の危機を救うため、インターネットの世界に飛び込んだ!そこは、何でもありで何でも叶う夢のような世界――。しかし、思いもよらない危険も潜んでいて、ふたりの冒険と友情は最大の危機に!? 
果たして<シュガー・ラッシュ>と彼らを待ち受ける驚くべき運命とは…。

(『シュガー・ラッシュ:オンライン』のネタバレを含みます)

劇場にて、五歳の娘といっしょに鑑賞。

うーん、おもしろかったかと訊かれたらまあおもしろかったんだけど、ぼくは好きじゃないな。
というかディズニーがこんなの作っちゃだめでしょと言いたくなる作品だった。

世俗的すぎるというか。いや、率直に言おう。低俗だ。
ゲームの世界を舞台にした前作『シュガーラッシュ』でも、「ん? これは子ども向けなのか?」と首をかしげてしまうシーンが多かったけど、今作はインターネットの世界が舞台ということでもっとひどい。

ポップアップ広告が出てきてクリックしするとあっという間にべつのWebサイトに連れていかれるとか、検索エンジンに単語(「バレエ」とか)を打ちこむとものすごい勢いで検索候補(「バレエ教室」「バレエシューズ」「バレエダンサー」とか)を出されるとか、「インターネットあるある」がそこかしこにちりばめられているんだけど、ぼくには理解できるけど五歳の娘はさっぱり理解できていなかった(パソコンやスマホをさわらせないようにしているので)。

あげくにラルフが動画投稿サイト「BuzzTube」に動画を投稿して金を稼いだり炎上したりするという展開は、あまりにも時代性が強すぎてたしなみがない。
いやディズニーにそういうの求めてないから。何年たっても変わらないおもしろさを期待してるから。

さらに、予告篇でも話題になったプリンセス大集合のシーン。
白雪姫、シンデレラ、オーロラ姫、ポカホンタス、ムーラン、ジャスミン、アナ、エルサ、ラプンツェル、モアナ、メリダといったディズニーの歴代プリンセスが一堂に会してくっちゃべっている。
うちの娘はこれを観るために映画館に行ったようなものだ(プリンセスだけでなく、バズ・ライトイヤーやベイマックス、ニック・ワイルドといったキャラクターも出演している)。
ぼくも歴代プリンセス勢ぞろいに、「おおっ、豪華キャスト!」とテンションが上がった。
だが、その内容には失望した。

プリンセスたちが愚痴をこぼしたり、「プリンセスが夢を語るときはスポットライトが当たって歌いはじめるのよ」なんて台詞を当のプリンセスに言わせたり、メリダが話した後に他のキャラクターに「彼女だけべつのスタジオの制作だから」と言わせたり(『メリダとおそろしの森』はピクサースタジオ制作)。
とにかくセルフパロディや内輪ネタがひどい。
一時的なウケを狙いにいくあまり長い時間をかけて築いたブランドを棄損していることに気づいてんのかな(ちなみに劇場でもぜんぜんウケてなかった)。
もう一回言うけど、ディズニーにそういうの求めてないから

無関係の人が「ディズニーランドのキャラクターの中の人が……」と言う分にはおもしろくても、当のキャラクター自身が着ぐるみ脱いで「ほら着ぐるみでしたー!」ってやってもぜんぜんおもしろくない。
こっちはわかってて騙されてんのに、ディズニー自身がその夢を壊したらダメ。

ぼくは「宝くじなんて買えば買うほど損するだけだよ」という意見だけど、宝くじ売り場のおばちゃんがそれを口にしてはいけない。
それを言っちゃあおしめえよ、というやつだ。



何もディズニーに変わるなといっているわけではない。
逆説的だけど、ずっと同じように愛されるためには、ずっと同じでいてはいけない。
だが変わるということは、それまで築いてきたものを破壊することではない。古きを残しつつもその上に新しさを構築することだ。

『アナと雪の女王』があれだけヒットしたのは、「女性はすてきな男性に愛されることが幸せ」という古い価値観から脱却したことが大きな要因だろう。
だがアナやエルサという存在は、オーロラ姫やアリエルのような「王子様に守られるかよわいプリンセス」を否定しているわけではない。新しい価値観を提示しただけだ。
だからこそ、旧来のディズニーファンにも受けいれられたし、新たなファンを獲得することにもつながった。

『シュガーラッシュ・オンライン』も新しい価値観の提示に挑戦していた。
パーカーを着たプリンセスがいてもいい、危険なダウンタウンで命を賭けたカーレースに興じるプリンセスがいてもいい。
その試み自体はすごくよかった、だがヴァネロペというキャラクターの夢と対比させるために、歴代プリンセスを茶化す必要はなかった。
「女性がもっと働きやすい社会にしよう!」というメッセージ自体は大賛成だ。だが、専業主婦という存在まで否定すべきではない。



『シュガーラッシュ・オンライン』はおもしろかった。特にラストのプリンセスたちがそれぞれの強みを生かしてラルフを助けるシーンなんて最高だ。ディズニーファンなら昂奮することまちがいない。

だが、同時にディズニー史に残る失敗作でもある。
ディズニーにとってはこの映画によって得たものより失ったもののほうが大きかったんじゃないだろうか。長期的に考えれば特に。

一言でいうなら「悪ふざけが過ぎる」映画だった。ディズニーがまた迷走期に入らなきゃいいけど。


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2018年12月24日月曜日

【コント】マンション入居者採用面接


「はい、次の方お入りください」

 「よろしくお願いいたします」

「ええっと、ではまずうちのマンションに入りたいと思った理由を教えてください」

 「はい、私が御邸を志望いたしましたのは、マンションの経営方針に共感したためです。『安心とくつろぎを与える住環境を提供することで人々の暮らしを豊かにして社会の発展に貢献する』この方針が私の目指す住人像にふさわしいと考えたため、ぜひとも御邸のお力になりたいと思い、志望いたしました。このマンションに住むことによってかねてからの夢であった"角部屋の住人"という目標を実現したいと考えています」

「そうですか。ですがその条件でしたらうちのマンションでなくてもいいわけですよね」

 「いえ、駅近、日当たり良好、オートロック、セパレート、角部屋。これらの条件を満たしている御邸に住ませていただければと思っております」

「新入居者の方には、最初は一階からスタートしてもらうことになります。角部屋に住めるようになるのは、その方の能力にもよりますが、だいたい十年ぐらいはかかります。その覚悟はありますか?」

 「はい」

「なるほど。ちなみにあなたがうちのマンションに入ることで、どういった貢献ができるとお考えですか?」

 「はい、私は大学時代、スキーサークルで会計担当をしておりました。金銭の管理はもちろんですが、メンバーとの交渉や説得も要求されるポジションです。はじめはなかなか会費を払ってくれない会員もいましたが、根気よく話をすることで無事に会費を徴収することができました。また年末のスキー合宿では宿泊施設との交渉をおこない、宿泊費を値引きしてもらうことに成功しました。こうした私の経験が、御邸での住人トラブルの解決やリフォーム時の交渉に役立つものと考えております」

「そうですか。ちなみに他にはどんなマンションを受けていらっしゃいますか」

 「本町駅周辺を中心に、主にデザイナーズ系を何社か受けております」

「さしつかえなければ具体的なマンション名を」

 「グリーンハイツ様、パークライフ様、エトワール様です」

「なるほど。その中で弊邸は第何希望ですか」

 「第一希望です」

「ありがとうございます。ええっと、あなたは一般入居者ではなく総合入居者希望ですよね。ご存知のこととはおもいますが、マンション都合により転居していただく可能性があります。駅の南口にあるサンクチュアリ2号棟でのお住まいをしていただくことは問題ありませんか」

 「はい、御邸がそう判断したのであれば従います」

「何か質問はございますか」

 「そうですね、出産・育児に関する制度についてお聞かせいただければと思います」

「うちのマンションでは四階以下に子育て世帯用の部屋を設けております。ですので子どもが生まれた場合はそちらに越していただくことになります。お子さんが大きくなりましたら、本人が再転居を希望する場合は再び五階以上でばりばりやっていただくことも可能です。じっさいにこの制度を活用している女性入居者もおります。弊邸ではマンションをあげて女性の居住をサポートしておりますので、長く住みやすい環境かと思います」

 「ありがとうございます。安心しました」

「他に何かありますか」

 「質問は以上です。最後になりましたが、私がもし貴邸に入居したあかつきには、必ずやこのマンションを町内一の高層マンションにできるよう努力してまいる所存です!」

「はい、ありがとうございました。では本日は以上です。選考の結果は二週間以内に書面をもって回答させていただきます。もし二次選考に進まれましたら、そこでオーナーと家賃や敷金、部屋の広さなどの話をさせていただくことになります。それでは本日は弊邸の入居者採用面接にお越しいただき、ありがとうございました」

2018年12月21日金曜日

【読書感想文】「壊れた蛇口」の必要性 / 穂村 弘・山田 航『世界中が夕焼け』


『世界中が夕焼け』

穂村 弘 山田 航

内容(e-honより)
穂村弘の「共感と驚異の短歌ワールド」を、新鋭歌人・山田航が解き明かし、穂村弘が応えて語る。瞬間凍結された120首を、言葉の面白さがわかるあなたへ。

短歌のことはよくわからない。
ぼくが読んだことのある歌集といえば、穂村弘さん以外には俵万智さんや笹公人さん、あとは伊勢物語を読んだぐらい……。って考えたらけっこう読んでるほうだな。現代人にしたら。

でもやっぱりよくわからない。
歌集を読んでも、三分の一ぐらいは「何が言いたいのだろう」と首をかしげる。
残りの三分の二だってはっきりわかるわけじゃなくて「たぶんこういうことを伝えたいんじゃないかなあ……」と思うぐらいだ。
みんなそういうものなんだろうか。
短歌って、わかる人にはちゃんと伝わるものなんだろうか。知識のある読み手が触れれば
「なるほど、こういう着想をこう膨らませて、さらにはこんな技巧を凝らして、××における苦悩と××を抱えながら生きる我々の××を××を通して××しているのだ!」
みたいにズバっと読みとけるものなんだろうか。



で、『世界中が夕焼け』である。

穂村弘氏が過去に発表した短歌(歌集はもちろん、歌集未収録の作品も)を、山田航氏が読みとき、それに対して穂村弘氏がまたコメントをつけるという形態の本だ。
元は山田航氏が自身のブログ(トナカイ語研究日誌)で「穂村弘百首鑑賞」と題してやっていた評論らしい。

この山田航さんという人は、歌人であり、さらには現代短歌評論賞を受賞しているぐらいの人なので、短歌の読み手としては一流といっていい。
そんな一流の読み手による解説なのだが、これを読んでぼくは安心した。

「なーんだ、やっぱり短歌ってよくわからないものなんだ」

山田航さんが「この歌にはこういう意図が込められているのだろう」と書いていて、それを受けて穂村弘さんが「そうじゃなくてこういう意図で詠んだ歌です」みたいなばっさり否定していることがよくある。

あーよかった。やっぱりわからないんだ。
現代短歌評論賞を受賞するような人ですら読みまちがえるんだ。
作者の意図なんて正しく伝わらないものなんだ。そりゃそうだよね、三十一文字で複雑な心情を表すんだもの、ディスコミュニケーションは当然起こる。
読み手によって受け取り方が変わる、だからこそ短歌はおもしろいんだろう。



って書いちゃうと山田航さんが読みまちがえてばっかりだと思われてしまうかもしれないけど、そんなことはないですよ。
当然ながら作者の言いたいことを見ごとに言い当てている指摘も多い。

言い当てているにせよ、まちがっているにせよ、この「他人が評論」→「それに対して作者が回答」という形式はすごくいい。
短歌の作者に「自分がつくった短歌について解説してください」と言っても、なかなかうまく説明できないだろう。照れくささもあるだろうし、野暮ったさもある。「この短歌はここが妙味なんですよ」なんて自己解説するなんてかっこ悪すぎる。
そもそも完全に説明できるなら短歌で表現する必要がない。短歌でしか表現できないから短歌を詠むのだから。

しかし他者の眼というフィルターをいったん通すことで、自然に解説に入れる。
「そうなんですよ。ただもっというと、こういうことも背景としてあるんです」
「いやそれはちがいますね。これが伝えたかったんです」

短歌評論にかぎらず、この形式はどんどんとりいれたらいい。
批評ってどうしても批評家のほうが強くなってしまう。批評家のほうがえらそうというか。
だから 作品 → 批評 → 批評に対する作者のコメント まであるとフェアでいいと思う。喧嘩になりそうだけどね。でもそれはそれで楽しい(傍で見ているほうとしては)。



 ゆめのなかの母は若くてわたくしは炬燵の中の火星探検

という歌に対する山田航さんの解釈に対する穂村弘さんの返答(ややこしいな)。
自分を絶対的に支持する存在って、究極的には母親しかいないって気がしていて。殺人とか犯したりした時に、父親はやっぱり社会的な判断というものが機能としてあるから、時によっては子供の側に立たないことが十分ありうるわけですよね。でも、母親っていうのは、その社会的判断を超越した絶対性を持ってるところがあって、何人人を殺しても「○○ちゃんはいい子」みたいなメチャクチャな感じがあって、それは非常にはた迷惑なことなんだけど、一人の人間を支える上においては、幼少期においては絶対必要なエネルギーです。それがないと、大人になってからいざという時、自己肯定感が持ちえないみたいな気がします。僕はわりと過剰にそれを与えられたところがあるので、全能感が非常に強いんですね。そうすると、逆に挫折感も強くなるんだけど。だって全能なはずだと思っているのに、現実には自分が乗り越えられないことばっかりなわけで、そうすると、いちいちびっくりする。子供の頃にその種を埋め込まれるみたいなことがありました。だから、むしろ母親に対して邪険な態度を取ったりしましたね。だってそれとは別に自分の価値を生成しないと、社会は自分にお金をくれないし、女の子は自分に愛をくれないし、そのスキルや価値が証明されなくても無償の愛情をくれるのは親だけだから、それは邪魔なものに変わるでしょう、ある時から。自分を守っていた引力圏が今度は邪魔なものになる。動物の場合はもっと本能的にそれが起きるけど、人間の場合、ずっとその引力圏に留まろうと思えば留まれてしまうから、そうすると危険な感じになりますよね。でも、そうはいっても、実際、経済的に自立したり、母親とは別の異性の愛情を勝ち得たあとも、母親のその無償の愛情というのは閉まらない蛇口のような感じで、やっぱりどこかにあるんだよね。この世のどこかに自分に無償の愛を垂れ流している壊れた蛇口みたいなものがあるということ。それは嫌悪の対象でもあるんだけど、唯一無二の無反省な愛情でね。それが母親が死ぬとなくなるんですよ。この世のどこかに泉のように湧いていた無償の愛情が、ついに止まったという。ここから先はすべて、ちゃんとした査定を経なくてはいけないんだという(笑)。
この感覚はよくわかる。自分が親になったことで特に。

母親は赦しの存在だ。

ぼくの妻も、娘に対して甘い。
ぼくなんかは娘が駄々をこねたときなんかは「置いていくよ!」と言って、ほんとに立ち去る(もちろん安全な場所だけでだが)。
だが妻は「置いていくよ」と言っても置いていかない。娘が「待って!」というときはぜったいに待つ。
結果、娘はぼくの言うことには比較的したがってくれるが、「おかあさんの『置いていくよ』は嘘だ」と気づいているので、言うことを聞かない。

こういうことについて、ぼくは妻に対して不満に思っていた。
「『置いていくよ』と言ってるのに待ってあげてたらなめられるじゃない」と。

しかし最近は、いやこれはこれでいいのかもしれないと思うようになった。
社会的規範を守らせようとする父親と、なにがあっても最後は味方になってくれる母親。両方の存在があることで、自己肯定感と社会意識の両方を持った人間に育つのかもしれない。


ぼくの父は、祖母が死んだとき大泣きしていた。祖父が死んだときは泣いていなかった。
父親の死がつらくなかったわけではないと思う。
やはりあれは「世界中を敵にまわしても少なくともひとりは自分のことを守ってくれる」という【壊れた蛇口】を失ったことによる涙なのだろう。
これからはほんとにひとりで生きていかなくちゃならないという感覚。泣くのも当然だと思う。

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