がん入院オロオロ日記
東海林 さだお
小学五年生の誕生日、リクエストしていた誕生日プレゼントとは別に、母から二冊の文庫本をプレゼントされた。一冊は北杜夫『船乗りクプクプの冒険』、もう一冊は東海林さだお『ショージ君の男の分別学』だった。
どちらもめっぽうおもしろかった。それまでのぼくが読んでいたのは児童文学、祖父の本棚にあった星新一、母の本棚にあった椎名誠『岳物語』や群ようこ『鞄に本だけつめこんで』などで、「おとなが読んでいる本はまじめでむずかしいもの」とおもっていた。
ところが北杜夫氏のユーモア小説とショージさんの軽妙なエッセイは、その認識をひっくりかえしてくれた。ぜんぜんむずかしくない。ちっともまじめじゃない。そしてめっぽうおもしろい。
ショージさんのエッセイの何がすごいって「これぐらいなら自分でも書けそう」とおもってしまうところなんだよね。小学生のぼくはやってみたよ。東海林さだお風エッセイ書いてみたよ。もちろんぜんぜん足下にも及ばなかったよ。かんたんそうに書いてるけどすごいんだよなあ。
すっかりショージさんのとりこになったぼくは、彼のエッセイ集を買いあさった。うちで購読していた週刊朝日の『あれも食いたい これも食いたい』も欠かさず読むようになった。
今では積極的に買い集めることはなくなったが、実家に帰れば『あれも食いたい これも食いたい』を読むし(週刊朝日も休刊なんだってね。さびしいなあ)、ときおりエッセイ集も買って読む。
そんな三十年来の東海林さだおファンなので『がん入院オロオロ日記』という書名を見て「ショージさんもついに危ないのか!? 今のうちに読んでおかなきゃ!」とあわてて読んだのだが、この本が出されたのは2017年のことで、それから六年たった今でももちろんショージさんは元気に活躍されている。ああ、よかった。
『がん入院オロオロ日記』というタイトルなので心配したのだが、このエッセイを読むかぎりあんまりあわてふためいてしてない。タイトル通り、ちょっとオロオロしているだけだ。トイレが見つからなくてオロオロ、とか、どの改札から出たらいいかわからなくてオロオロ、とかその程度のオロオロだ。
これでこそショージさんのエッセイだ。
ショージさんの文章に、激しい感情は似合わない。恥ずかしいとか、うらやましいとか、もったいないとか、なんとなく得した気分とか、「小市民的な感情」はよく書かれるんだけど、心の底から憤るとか、大爆笑するとか、世を憂うとか、そういう強い感情はまず描かれない。これこそが長年愛されている秘訣なのだろう。
そんなわけで、がんを宣告されて、命がけの手術をすることになっても、オロオロしているだけだ。もちろん内心では慟哭とか悲嘆とかあったのかもしれないけど、そんなものはおくびにも出さない。
病院の中や入院患者のことを、いつものごとくユーモラスな目で観察している。
病院は大人を捨てるとこ。なるほどね。
たしかに入院中の生活って、保育園での生活に似ているかもしれない。自分がいつ何をするかを決める権限はまったくない。決まった時間にご飯を出され、決まった時間に片づけられ、決まった時間にお着替えをし、決まった時間に移動させられ、決まった時間にお風呂に入る。人によってはトイレの時間まで決まっていたりする。
今日は何をしようかな、と考える必要もないし、「今日のスケジュールは……」と確認する必要すらない。時間が来たら看護師さんが教えてくれる。
何を着るかも考えない。用意された服を着る。
何を食べるかも考えない。用意された食事をとる。
およそ判断力というものが必要とされない。ぼーっとしていても「何をしたらいいか自分で考えて動かなきゃだめだぞ! 指示を待ってちゃだめだぞ!」と怒られたりしない。むしろ指示通りに動くことが求められる。
ぼくはまだ入ったことがないけど、たぶん刑務所の生活もそんな感じなんだろう。
保育園と病院と刑務所はけっこう似ているのかもしれない。
がんで入院した話ばかりかとおもったら、入院エッセイは少しだけで、ほとんどはいつもの東海林さんのエッセイだった。
のほほんとしているようで、ときおり切れ味鋭くえぐったりするのもショージさんのエッセイの魅力。
初詣の話より。
ほんと、そうよね。
お守りやお札には有効期限がある。で、一年後に奉納しに来い、ついでにまた新しいやつを買え、と言ってくる。
よく考えたらおかしな話だ。なぜ一生ものじゃないんだ。なぜ一年更新なんだ。「長年使ってるうちにだんだんと効き目が減ってくる」ならわかる。電化製品みたいに「最近この御守り調子悪いな。もうずいぶん使ったもんな。そろそろ新しいの買おうかな」ってなるのなら。
でも、ぴったし一年で期限が切れるってことはどう考えても人為的なものだ。「有効期限はきっかり365日です。一日でも過ぎたら無効です」なんて神様、みみっちすぎてまったく信用できない。
最近サブスクなる言葉が流行ってるけど、神社の商売はサブスクの元祖かもしれない。
冒頭のがんの話もそうだけど、勃起不全とか認知症とか、テーマがずいぶん後期高齢者寄りになっている。ショージさんも老いたなあ、とちょっと寂しくなった。
『ミリメシはおいしい』『流行語大研究』なんて、雑誌かなんかを見て書いたようなおもしろみのないエッセイだったし。
さすがにもう若い頃のように好奇心を刺激してくれるエッセイは書けないか……とおもっていたら、ガングロカフェなるものを訪問する『ガングロを揚げる』があった!
これこれ、こういうのを求めていた。
ショージさんといえば食べ物がエッセイが有名だけど、こういう訪問記もおもしろいんだよね。すごくめずらしい場所に行くんじゃなく、ちょっと変わった趣向のレストランとか、野球場とか、芸者遊びとか、パックの旅行とか、日常の延長のようなルポ。
「メイド喫茶やガングロカフェは芸者遊びといっしょ」という考察もおもしろい。
たしかになあ。大の大人が高い金を払って幼児遊びのようなくだらないことをする、という点では同じだよなあ。
巻末の、岸本佐知子さんとの対談『オリンピック撲滅派宣言「スポーツって醜いよね?」』もおもしろかった。
岸本佐知子さんといえば東海林さんと並ぶほどのエッセイの名手。このふたりが対談しておもしろくならないはずがない。
リュージュやボブスレーは地球の重力の話であってお前の力ではない、水泳の高飛び込みがあれこれ動きをつけるのは電車の車掌がアナウンスに変なアレンジが入れるのと一緒、冗談で競技を作ってもまじめな人たちが本気の競技にしてしまう、など鋭い視点が光る。
中でも、岸本さんの「ドッジボールは暴力行為を正当化している」という言い分はおもしろかったなあ。
たしかにそうだよね。ボールを直接敵にぶつける競技って他にないよね。結果的にぶつかることはあっても、人めがけておもいっきりボールを放つ競技はぼくの知るかぎり他にない。バスケットボールとかアイスホッケーなんて格闘技に例えられることもあるぐらい激しいスポーツだけど、それでも敵にボールやパックをわざとぶつけたりはしない。
ドッジボールだけが、相手めがけておもいっきりボールを投げることが認められている。いや、認められているどころか推奨されている。
そんな野蛮なスポーツが、よりによって全国の小学校で低学年の子たちにやらせているわけだから、ずいぶんな話だ。
いや、野蛮だからこそ子どもたちが好きなのかな。原始的な攻撃性をむき出しにできるから。こえー。
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