2022年10月25日火曜日

【読書感想文】浜田 寿美男『自白の心理学』 / 自白を証拠とするなかれ

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自白の心理学

浜田 寿美男

内容(e-honより)
身に覚えのない犯罪を自白する。そんなことはありうるのだろうか?しかもいったんなされた自白は、司法の場で限りない重みを持つ。心理学の立場から冤罪事件に関わってきた著者が、甲山事件、仁保事件など、自白が大きな争点になった事件の取調べ過程を細かに分析し、「自分に不利なうそ」をつくに至る心のメカニズムを検証する。

 冤罪は起こる。何度も何度も起こっている。考えたくないけど。

 死刑判決が出るような大きな事件でも何度か起こっているし、小さい刑も含めればその何十倍も起こっている。冤罪だったと判明しているだけでも何件もあるのだから、判明していない(当事者しか真相を知らない)冤罪事件はもっともっとあるのだろう。

 冤罪を生む要因はいくつもある。そのひとつが「嘘の自白」だ。


 犯人が「私はやってない」と嘘をつくのはわかる。でも、犯人でもない人が「私がやりました」と自白することは理解できない。我が子が真犯人なのでかばうために……とかならまだ理解できないこともないが(共感はできない)、それ以外で嘘の自白をするとは考えられない。

「人間は己にとって不利になる嘘をつかない」という思いこみがあるからだ。だから、自白をしたらそれは無条件で正しいと思いこんでしまう。一度嘘の自白をしてしまうと、その後の取り調べや裁判でひっくり返すことはむずかしい。

 だが、人間は往々にして嘘の自白をしてしまう。己にとって不利になる嘘をつく。

【自白の心理学』は、過去に起こった様々な「嘘の自白」の事例をもとに、なぜ嘘の自白をしてしまうかを探った本。




 嘘の自白をしてしまう理由として、ふつうまず考えるのが「拷問によって無理やり言わされた」だろう。

 たしかに戦後すぐぐらいまでは取り調べで拷問がふつうにおこなわれていたらしい。この本にも取調室での拷問の例が挙げられている。ただ、戦前の小林多喜二のように命にかかわるような拷問は戦後はほとんどなくなった(はずだ)。社会の眼が厳しくなったこともあって、殴る蹴るの拷問は今ではほとんどおこなわれていない、とおもいたい。まあ出入国在留管理庁の連中はどうかわからないが……。

 だが、拷問をされなくても、嘘の自白をしてしまうことは往々にしてあるらしい。

 もちろん拷問による自白も、被疑者の精神的な脆弱さ、あるいは一時的な変調による自白も、ケースとしてはありうる。しかし個々の冤罪事件を洗ってみると、こうした理由で説明できる例はむしろ少ない。現実には、拷問もなく、被疑者当人に知的な問題もなく、さらには一時的にせよ精神的な変調をきたした形跡もないのに自白して、のちにそれが虚偽だったと判明する事例のほうが、はるかに一般的なのである。
 うその否認は自然、うその自白は例外的という素朴な思いこみでみれば、よほど特別な事情がないかぎりは、自白を真実のものとして信用することになる。日々、事実認定の仕事に迫られている裁判官や検察官の意識も、大半はその域を出ない。うその自白を見破ることができず、冤罪をとめどなくくりかえす原因の一つがここにある。
 うその自白は自分の利益にならないどころか、逆に自分を悲惨な状況に追いこむ。そのことがわかっていて、それでも人はそのうそに陥ってしまう。容易には信じがたいことかもしれないが、それはおよそ例外とはいえない人間の現実なのである。このうその自白の謎を解き明かすことが、本書の課題である。

 考えてみれば、逮捕→取り調べだけでもふつうの人からしたら十分拷問に近い行為だ。

 国家権力によって拘束される、自由で行動することが許されない、取調官以外と連絡をとることができない、身に覚えのないことをおまえがやったんだと言われる、どれだけ弁明しても信じてもらえない、おまえのせいで多くの人に迷惑がかかるとなじられる。そしてこのストレスフルな拘留が何日も続く。

 どれひとつとっても、日常生活ではまず味わうことのない強いストレスとなる。それをたてつづけに食らうのである。真犯人ならある程度心の準備もできるだろうが、無実の人間からするといきなり別世界に放りこまれるようなものだ。まともな判断ができる人のほうが少数派だろう。


 特に軽犯罪だったら「何か月もがんばって、自分の言うことをまったく信用しようとしない取調官と向き合うよりも、嘘でもいいから自白をしてここから逃げだしたい」とおもってもまったくふしぎはない。

「逮捕された状態で何日も拘束されて取り調べを受ける。どれだけ無実を訴えても認めてもらえる保証はない」と
「無実の罪を認めて有罪となる。家に帰れるし、執行猶予もつくから刑務所に入ることもない」だったら、後者のほうが得と考えてもぜんぜんふしぎはない。

 だいたい証拠不十分で放免されたとしても、何も得るものはないわけだもんな。長く拘留されて、周囲の人には「逮捕されたやつ」とレッテルを貼られ、多くのものを失うことはあっても何も得られない。無実の人間からすると、逮捕されただけでどっちに転んでも大損だ。




 日本には推定無罪の原則というものがあり、逮捕されたとしても刑が確定するまでは無罪の人として扱われる。……というタテマエなのだが、じっさいはというとまったく守られていない。

 警察や報道機関は逮捕された時点で実名を公表するし(身内には甘いけど)、世間も「逮捕されたってことはあいつは悪いやつだ」と扱う。

 特にひどいのが取り調べにあたる警察。

 疑惑が確信へと走り出す。そして確信はその権力性とあいまって、証拠を引き寄せ、いわば自己成就する。この流れを遮る歯止めはなかったのだろうか。少なくとも警察や検察は捜査の専門機関であって、素人集団とはわけがちがう。世間の信頼はそこにあるはずである。しかし捜査の現実はしばしばこの期待を裏切る。
 被疑者は無実かもしれないという可能性を少しでも考えていれば、自白のうそをあばくことはできる。ところがわが国の刑事取調べにおいて推定無罪は名ばかりで、取調官は被疑者を犯人として断固たる態度で調べるというのが常態になっている。実際、警察官向けのあるテキストには、こう書かれている。
 頑強に否認する被疑者に対し、「もしかすると白ではないか」との疑念をもって取調べてはならない。(増井清彦『犯罪捜査一〇一問』立花書房、二〇〇〇年)

 ひっでえ……。

 推定無罪を守る気なし。これじゃあ、冤罪が生まれるのも当然だ。個々の警察官の問題ではなく、組織そのものの問題だ。


 日本は刑事事件の検挙率が高いそうだ。治安がいいということでもあるが、裏を返せば「証拠不十分でも検挙されてる」ことなのかもしれない。

 そして証拠不十分の場合に重大な決め手となるのが自白だ。「自白は証拠の王」なんて言葉もあるという。

 しかし、『自白の心理学』を読むと、自白のみを証拠として採用するのはすごく危険だとおもう。特に、本人が後から否定した自白に関しては証拠として採用すべきじゃないとおもうな。




 甲山事件という事件がある。1974年に障害者施設で2人の園児が死亡した事件だ。そこで勤務した保育士が逮捕されたのだが、不起訴となる。後に再逮捕され、殺人罪で起訴。

 証拠が不十分であること、事故である可能性が高いことにより一審で無罪判決。検察側は控訴するものの、高裁では控訴棄却。最終的に無罪が確定するまで、なんと25年かかった。

 無罪の人間が25年も争ったという事件だ。


 起訴の決め手となったのが、保育士の自白だ。保育士は警察官から犯人だと決めつけられ、長期に渡る過酷な取り調べの結果、自白をしている。

 だが。

 どうにか思い出そうと必死になって、ほとんど強迫的な意識にかられている姿が、供述調書の行間から浮かび上がってくる。そして逮捕から一週間がたった四月一四日の供述調書には、こんな奇妙な供述まで出てくる。
 この一五分間ぐらいの間の記憶はどうしても思い出せないのです。その時間ごろ、ちょうどS君が連れ出されたころになりますが、いろいろのことを考えると、私が無意識のあいだにS君を殺してしまったような気がいたします。
 子どもたちは清純で天真爛漫です。嘘をいうとは思いません。私がS君を連れ出したのを見ている子どもがあれば、それは本当のことだと思います。
「空白の一五分」を追及されて、記憶がすっかり混乱しているうえに、女児の目撃供述を突きつけられて、自分で自分のことが信じられなくなっていることがわかる。

「この一五分間ぐらいの間の記憶はどうしても思い出せないのです」「私が無意識のあいだにS君を殺してしまったような気がいたします」

 これを有効な自白証拠とみなすのは誰が見ても無理があるだろう。言わされている感がすごい。この言葉だけでも、どれほど無茶な取り調べがおこなわれたかが想像できる。

 否認してがんばっても無実だとわかってもらえる可能性はない、それどころかこのままだと取調べの場から逃れられないし、いつまで警察に留め置かれるかわからない、そうだとすれば否認しつづけるほうがよほど危険にも見える。ここで、否認することの利益が不利益に、自白することの不利益が利益に逆転する。
 あるいは被疑者は、自分を責めている当の取調官にむかって救いを求める気持ちにすらなる。このことも一般には知られていない事実である。どんなに弁解しても耳を貸してくれない取調官に苛立ちを覚えながら、それでもなお対決するのは容易でない。それどころか理不尽で、嫌悪感をすら覚えるその相手に、自分の処遇が握られているのである。その相手に迎合し、またときおり見せる温情に不本意にすがってしまうことがあったとして、それを責められるだろうか。敵とすべき相手に籠絡されるなんて、という人がいるかもしれない。しかしそんなふうにいえるのは第三者の後知恵でしかない。無実の被疑者にとって取調官は敵ではなく、良くも悪くも自分の処遇を左右する絶対的な支配者なのである。

 警察の世話になったことのない善良な市民であるほど、こんな取り調べに太刀打ちすることはできないだろう。

 万一冤罪で逮捕されたら、完全黙秘、優秀な弁護士に依頼するぐらいしかできることはなさそうだ。




 この本には袴田事件についても書かれている。袴田事件は、なんと50年以上も争われている事件だ(現在も未決着)。

 もちろんぼくには、死刑判決を受けた袴田さんが真犯人なのかどうかは知るすべもない。

 ただ、この本を読む限り、少なくとも拷問の末に袴田さんが口にした自白はまったく信用に足るものではないことだけはわかる。矛盾だらけなのだ。


 問題は、取り調べ官がむりやり自白させることもそうだけど、裁判所がその自白を証拠として採用しちゃうことだよな。

 裁判で語った内容より密室の取調室で言わされたことが優先されるなら、なんのための裁判なんだってことにならないか?




「10人の真犯人を逃すとも1人の無辜を罰するなかれ」という言葉がある。

 まったくもって同感だ。「1人の無辜」は自分かもしれないのだ。「10人の殺人犯が捕まらない世界」よりも「10人の殺人犯が捕まるけど自分が冤罪で逮捕されるかもしれない世界」のほうが悪いに決まっている。

 にもかかわらず、冤罪は生みだされつづけている。


 これはもう警察官の努力の問題じゃない。ミスは必ず起こる、という前提に立った制度設計をしていないことが原因だ。

 取り調べを録画・録音するだけでだいぶ冤罪は防げるはずなのに。


 最近知ったんだけど、過去に紅林麻雄という警察官がいた。この人はとんでもないやつで、「拷問王」と呼ばれるほど苛烈な取り調べで知られ、数々の冤罪事件を生んだそうだ。

 で、この男がどんな刑罰を受けたのかというと、何にも受けていない。左遷されただけ。違法な拷問をくりかえし、何人もの善良な市民の人生を狂わせた。それなのに逮捕すらされていない。

 はっきりいって、殺人犯よりこの男のほうが数倍凶悪だ。

 こういう輩を放置して、取り調べの録画・録音もいっこうに導入しようとしないのだから、警察は冤罪を防ぎたくないのだとおもわれてもしかたないよなあ。冤罪をゼロにしちゃったら検挙率が下がって成績が下がるもんなあ。


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