マシュー・O・ジャクソン『ヒューマン・ネットワーク 人づきあいの経済学』にこんな一節があった。
改めていうまでもなく、報道機関は衰退している。
報道とはまったくべつの世界にいるぼくですら心配になるぐらいだから、相当やばいんだろう。
ある業界が衰退していくのは世の常といってしまえばそれまでだ。新しいテクノロジーが台頭すれば古いものは廃れる。昔は石炭産業は一大産業で多くの人が従事していたが、主要エネルギーが石油にとってかわられたことで衰退した。多くの炭鉱労働者が職を失った。当事者にとっては死活問題だったろうが、今になって「石炭産業を保護すべきだった」という人はいないだろう。
そろばんは電卓にとって代わられ、ワープロはパソコンにとって代わられ、パソコンはスマホにとって代わられようとしている。そのスマホだっていつかは廃れる。盛者必衰。
だから報道という産業が廃れるのもよくある話のひとつなのだが、他の産業とはちょっとちがうところもある。それは「報道それ自体の価値は下がっていない」ことだ。
数十年前に比べて現代はずっと多くのニュースが見られるようになった時代だ。昔よりも多く、早く、細かいニュースが手に入るようになった。世の中にはニュースがあふれている。情報量でいえば数倍、いやひょっとしたら数十倍になっているかもしれない。
にもかかわらず、新聞社、通信社、雑誌社などの報道機関の経営は厳しくなっているという。
これは「本が読まれなくなっているから書店がつぶれている」のとはわけがちがう。需要は増えている。供給も増えている。にもかかわらず業界全体は(金の点でいえば)縮小している。ふしぎな現象だ。
ふしぎといっても原因はわかっている。
なぜ報道機関は儲からなくなったのか。
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人々が報道に金を払わなくなったから。ではなぜ報道に金を払わなくなった。
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これまでは金を出さないと買えなかったようなニュースが無料で手に入るようになったから。ではなぜ無料で手に入るのか。
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無料でニュースを配ることで広告料が入るから。ではどこから広告料が入るのか。
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GoogleやYahoo!から。ではなぜGoogleやYahoo!はニュースサイトに金を出すのか。
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もっと多くの広告料を、各企業から得ているから。
ということで、金を払う仕組みが変わったわけだ。
ただ、仕組みが変わっただけで、ニュースに対して支払われる金額の総量は減っていない。それどころか昔よりずっと増えている。
あなたが以前に新聞に対して払っていた額が月に3,000円だとする。あなたは今は新聞の購読をやめて無料のネットニュースで情報収集をしている。あなたがネットニュースを読む間に1ヶ月に目にする広告に対して支払われている額は、3,000円どころではない。(金額換算して)ずっとずっと多くの広告を払っている。
だから無料ニュースを見るときは直接的にお金を払ってはいないが、間接的には対価を払っている。ネット広告を見た商品やサービスに対してお金を使うことで。
「ネットで広告を見ても実際には買わないよ」という人は何もわかっちゃいない。ネット広告を目にして行動を変えたことのない人はほぼいない。何の効果もないものに対して企業が莫大な金を払うとおもう?
有料の新聞や雑誌と無料ネットニュースの違いは、NHKを見るか民放を見るかの違いといっしょだ。
人々は昔よりもニュースを見るようになった。そして、ニュースに対して支払われる金額の総量もずっと大きくなった。
それなのになぜ報道メディアは儲からなくなったのか。かんたんな話だ。市場の総量が増えているのに各プレイヤーの取り分が減っているとしたら、答えはひとつしかない。
プレイヤーが増えたからだ。
はじめに引用した文章にも書いてあった。
「生みだすのがむずかしく再加工するのは簡単な「情報」というものから収入を得る道はどんどん狭くなっている」と。
そう、ニュースはコピーするのがかんたんなのだ。
ニュースは誰のものでもない。独占インタビューとかならまだしも、事故が起こったとか、政府が発表したとか、国会でこんな議論が交わされたとかの情報は、誰のものでもない。一文一句丸写しにするのはまずいだろうが、「円、24年ぶり安値を更新」のニュースを見て「円が24年ぶりに最安値を更新した」というニュースを作るのはオッケーだ。
報道業界のことはよく知らないけど、昔から他社の真似はおこなわれていたようだ。どこかの新聞社が特ダネをとり、その記事を見た他紙があわてて後追い記事を書く。だがそれは記者にとっては恥ずべきことだったようだ。なにしろ、他紙の真似をして記事を書いても新聞が配られるのは一日遅れ(夕刊で書いても半日遅れ)。情報の鮮度としてはかなり古くなっている。
ところがネットニュースの世界では、他メディアのニュースを見て急いで記事を書けば数分の違いでしかない。各ニュースサイトを並べて読んでいる人はいないから、その差はほぼないに等しい。
「現場に足を運んで取材して書いた記事」と「他のニュースサイトを見てちょっと切り貼りして書いた記事」のどっちが労力がかかるかは言うまでもない。それでほとんど差がない(場合によっては後者のほうがページビューが多くなったりもする)のだから、まともに取材するのがばからしくなるだろう。
いくらジャーナリズムだ記者魂だといったところで、ニュースが金にならなければどうしようもない。貴族でもなければ金にならないもののために時間と労力を割くことはできない。そして貴族は体制にとって都合の悪いニュースを暴きたくないだろう。
この先ジャーナリズムは金にならないんだよ。残念だったね。
……で終われば話はかんたんなのだが、困ったことに報道が衰退して困るのはぼくたち一般市民なのだ。国がぼくらのお金を良くないことに使ったり、悪いやつが悪いことを続けたり、市民を苦しめる法律ができたりして、困るのはぼくたちだ。
だから報道機関にはがんばってほしい。報道をしてほしい。
でも、タダでニュースが読める時代に新聞に金を払いたくない。理想はぼく以外のみんなが新聞社や通信社にお金を払ってくれることなんだけど、みんなが同じように考えているからそうはいかない。
どうしたらいいんだろうね。
ひとつ考えたのは、ぼくらがみんな記者になるということ。
たぶん職業記者はほとんどが食っていけなくなる。記者を専業でやっていくのはむずかしい。
その代わり、会社員や、フリーターや、学生や、無職の人や、公務員や官僚や政治家らが本業の合間に記者をする。たまたま事件や事故を目にしたり、不正の事実を知ったり、興味のあることについて調べたりしたことを、通信社に報告する。通信社はそのニュースを買いとって記事にする。幸い、ほとんどの人がカメラ付きの通信機器を絶えず携帯している時代だ。ちょっとした小遣い稼ぎになるのなら、ニュースを送ってくれる人は全国津々浦々に山ほどいるだろう。
限られた数の記者が取材をするよりも、よっぽど広くて深い範囲のニュースが集まるとおもう。現に今だって一部はそうなっている。Twitterでバズったツイートをした人のところには、ウェブやテレビのメディアの記者から「これを記事にしていいですか」と連絡が入る。ちがうのは、無料提供ではなく有料買い取りになるということだ。
もちろん問題はある。金目当ての偽ニュースが売られたり、あるいは誰かをおとしめるためのフェイクニュースが出回ったりすることだ。
でもそれは大した問題じゃないとぼくはおもう。だって現在でもすでに偽ニュースが大量に出回っているんだもの。そもそも完全に正しくて中立なニュースなんかどこにもないわけだし。政府広報だって嘘や誰かの意図を含んでいたりするわけだし。
だから真実も嘘も混ざっているけど、それでもこれがニュースですって言って一般市民から買い取ったニュースを流したらいいんじゃないかな。今までやってたこととそんなに変わらないとおもうけど。
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