仮説実験授業をはじめよう
『たのしい授業』編集委員会(編)
『仮説実験授業』を知っているだろうか。
ぼくは小学五年生のときに体験した。当時の担任が理科を好きな人で(保田先生お元気でしょうか)、理科の時間を使って仮説実験授業をやってくれた。
仮説実験授業では、教科書ではなく授業書なるものを使う。ぼくらが使ったのは『ものとその重さ』『月と太陽と地球』『もしも原子が見えたなら』といった授業書だった。原子なんて中学理科で習うものだから、五年生にしてはむずかしめの内容だった。
仮説実験授業は、問題、予想、集計、理由の発表、討論、予想変更、実験、実験結果といった流れで進む。
まず問題が出される。たとえば「はかりの上に水と食塩が乗っている。その後、食塩を水に入れて完全に溶かすと重さはどうなるでしょう? ア)増える イ)減る ウ)変わらない」といったように。
この時点で生徒たちはまず答えを予想する。相談はしない。で、答えを集計して公開する。
次になぜそうおもったのかを発表する。このとき、少数派から発表する。多数派が先に理由を言ってしまうと、少数派が自分の意見を言いづらくなるからだ。発表する人は挙手で名乗り出ることもあれば、教師が指名することもある。理由はなんでもいい。「こっちのほうがおもしろいから」でも「なんとなく」でもいい。
次に討論。「○○君はこう言ったけど、✕✕だからちがうとおもいます」など、意見、反論、補足などをおこなう。
仮説実験授業では予想変更も認められている。他人の意見を聞いて予想を変えてもいい。再度予想をして、集計する。
そして実験。かんたんな実験であれば生徒がそれぞれ手元でおこなうこともあるし、教師がみんなの前でおこなうこともある。実験・観測ができないもの(原子がどうつながっているかなど)は答えを発表する。
そして結果。予想が当たっていたか、感じたこと、疑問におもったことなどを書く。ただしこれは実験の結果であって、この時点では結論や普遍的な法則などは導きださない。なぜその結果になったのかの解説がないことも多い。
終われば次の問題。これを何回、何十回とくりかえす。『ものとその重さ』であれば、条件を変えた問題が次々に出題される。
当時はわからなかったが、今にしておもうとこの仕組みは実によくできている。
仮説実験授業は、考えるための授業である。誰もが考えることを要求される。予想、討論、予想変更。どの時点でも考える。実験結果が明らかになっても、結論や法則が伝えられないのもいい。わからないものはわからないままにしておく。だから考える。
全員参加なのもいい。予想は全員が手を挙げるし、理由の説明も求められる。うまく言葉にできない子は「なんとなく」でもいいが、とにかく参加することが要求される。
仮説実験授業では、活躍する子が他の授業とはちがった。正解をたくさん知っている子ではなく、間違っていても自分の意見を言える子や、場を盛り上げられる子が活躍する。むしろ間違いは討論を盛り上げるために必要不可欠だ。満場一致ではおもしろくない。仮説実験授業でいちばん盛り上がるのは「少数派の予想が当たっていたとき」だ。
ぼくが五年生のときのクラスには知的障害児がいた。五年生にもなると勉強がむずかしくなるので、算数のときなどは彼は特別学級に行っていた。けれど仮説実験授業には彼も参加していた。そして学年最後の文集で彼は「かせつじっけんがおもしろかった」と書いていた。選択肢の中から選ぶクイズのようなものなので、誰でも参加できるのだ。
ぼくは仮説実験授業で、討論のおもしろさや科学のおもしろさを知った。自分のイメージを他人に伝えるためにはどうしたらいいか、どういう話をすれば場が盛り上がるか、そして多数派が必ずしも正解ではないことも知った。
そんな仮説実験授業のやりかた、目的、事例、失敗例などを解説した本。
ぼくは教師でも塾講師でもないので仮説実験授業をやることはこの先たぶんないだろうけど、おもしろかった。
子どもは(大人も)たいていクイズが好きだが、仮説実験授業がクイズと異なるのは問題と正解発表の間に、集計、討論、予想変更があることだ。これがあるから頭を使う。
また、仮説実験授業ではブレインストーミングのようにどんな意見も否定されることはない(さすがに個人攻撃とかはだめだが)。
教科書では常に原因が求められるけど、世の中には「なんとなく」「そういうもんだから」としか言いようのないことはたくさんある。むしろそっちのほうが多い。
なぜ水は高いところから低いところに流れるのでしょう、と訊かれたって、ほとんどの子はそういうもんだから、としか答えようがないだろう。
なまじっか知識があれば重力があるから、万有引力があるからと答えるかもしれないが、じゃあなぜ重力があるのか、すべてのものが引き合うのかと訊かれると、最終的には「そういうもんだから」にいきつく。
だから「なんとなく」でもいい。逆に、なんでもかんでも原因や法則を求めてしまうほうが危険かもしれない。すべてに原因を求める人が陰謀論に飛びつくのだ!(これはこれで極端な意見)
とある教師が仮説実験授業をするとき、他の教師からこんなことを言われたそうだ。
班で意見をまとめる! これはいかにも学校教育に毒された人の意見って感じだよなあ。学校にいると多数決バカになってしまうんだなあ。多数決が正しいとおもってしまう、多数決が民主主義だと勘違いしてしまう。
多数決ってのは「他のあらゆる手段で解決できないけどどうしても決めなきゃいけないときの、最悪よりはちょっとマシな手段」でしかないのに、バカはそれを最善手だとおもってしまう。
だいたい科学を理解していたら「班で意見をまとめる」なんて発想が出てくるわけないよね。クラス委員を決めるんじゃないんだから、班で「塩は水に溶けない」と決めたら溶けなくなるとおもってるのかね。
科学は観測結果がすべて。それを導くために実験があり、実験をするために予想がある。「意見のすりあわせ」なんて何の意味もない。
仮説実験授業の討論はディベートではない。自分の意見が他人によって変えられることはあっても、ねじふせられるようなことがあってはならない。意見をねじふせていいのは、他者の意見ではなく、実験によってだけだ。
仮説実験授業の提唱者である板倉聖宣氏の話。
「予習はドロボウの始まり」。いい言葉だなあ。
今の小学校はどうだか知らないけど、ぼくが小学生の頃は(田舎だったこともあって)進学塾に通っている子はクラスの一割ぐらいだった。で、そういう子らは授業では活躍する。みんなが頭を悩ませるむずかしい問題にもやすやすと答えられたりする。
今にしておもうと「ただ先にやったから知っているだけ」でえらくもなんともないのだが、小学生は単純だから「あいつは頭がいい」という評価になる。
だが、仮説実験授業で活躍するのは進学塾に通っている子ではない。独自の意見を言える子、他人の話を聞いた上で補足や反証をできる子、とんでもなくばかなことを言いだす子などだ。どっちかっていうと協調性のないタイプのほうが活躍できる(ぼくもそのひとりだった)。朝礼でじっとしていられなくて怒られるタイプこそが仮説実験授業向きの子だ。
もちろんおとなしく先生の話を聞けるタイプの子もえらいが、そうでない子が褒められる時間があってもいい。ぼくの場合はそれが仮説実験授業だった。
この本を読んでいると、仮説実験授業をやった五年生のときのことがいろいろ思いだされる。仮説実験授業、またやりたいなあ。近所の子ども集めてやったろかな。
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