京大的文化事典
自由とカオスの生態系
杉本 恭子
京都大学に関する様々なキーワードを読み解きながら、「京大」の特徴や歴史を説明する本。ちなみに学問の要素はほとんどなく、京大という「場」に関する話が大半だ。
著者は京大出身者ではなく、そのお隣の同志社大学出身。とはいえ学生時代はよく京大に出入りしていたらしい(京大吉田キャンパスと同志社大今出川キャンパスは自転車で10分ほどしか離れていないので京大内にもよく同志社の学生がいる。といっても女子ばっかりだが)。
ぼくは20年近く前、京大に通っていた。2001年入学。国立大学が大学法人化したのが2005年だから、京大が国立だった最後の時代を過ごしたことになる。
じっさい、今おもうとぼくが在籍していたのは「変わり目」の時代だった。
ぼくが1回生(関西では大学1年生のことをこう呼ぶ)のとき、A号館改修工事がおこなわれた。改修前のA号館はとにかく汚くて、夜中でも出入りし放題だったし、地下には学生が勝手に運営しているバーがあった。ぼくが属しているサークル(持久走同好会)の部室もA号館の地下にあった。「校舎の下に部室があってそこにコタツや漫画やファミコンがある」という夢のようなシチュエーションに惹かれて持久走同好会に入ったようなものだ。
地下部室では夜な夜な飲み会がおこなわれていた。飲みつぶれてこたつで寝る人もたくさんいた。今おもうとなんとすばらしい環境だろう。
今はどうか知らないが、ぼくが学生のときはキャンパス内にこたつを出している人がときどきいた。
冬の朝になるとこたつに入って寝ている酔っ払いの姿が見られたものだ。こたつには酒瓶や麻雀牌が散乱していた。
たぶん、目的があってやっていたのではないだろう。キャンパス内でこたつに入ること自体が目的なのだ。
ぼくも大学構内ではないが、公園にテントを張って友人たちと意味なく泊まったことがあるので気持ちはわかる。
だがA号館は改修工事できれいな建物になり、夜間は立ち入れなくなった。まあそっちがふつうなんだけど。
とにかくいろんなものがすごいスピードできれいになっていった。
時計台の下に薄暗い生協や床屋もあったがいつしか消えていた。代わりにこじゃれたレストランができた。
四回生ぐらいのとき、夜中に大学構内のテニスコートで遊んでいたら警備員に注意された。それまではそれぐらいのことで注意されたことなんてなかったのに(見つからなかっただけかもしれないが)。
百万遍(地名)の石垣取り壊しに反対して学生たちが石垣を占拠し「石垣カフェ」を作ったのがぼくが卒業する直前。
「唯一無二の京大」が「数ある大学のひとつ」になっていった過渡期にぼくは居合わせていたのかもしれない。
ま、大学から離れた今だからノスタルジックな思いに浸れるけど、在学中は食堂やトイレがきれいになるのは素直にうれしかったし、新しい教室での授業のほうが快適だった(古い校舎の大教室はめちゃくちゃ寒いんだもん)。
在籍中は、他の大学と比べて「なんて自由な大学だ」とおもっていたが、しかしそれでも昔と比べるとずいぶんお行儀のいい大学になっていたようだ。
この時代に学園闘争をやっていたのは京大だけではないが、教官たちまでもがそれに乗っかっていた(あるいは対抗していた)というのがおもしろい。
理学部の建物が学生たちに不法占拠した際(「きんじハウス」事件)、近くにいたサル学の教授がフィールドワーク経験を活かして出入りしている学生を個体識別して勝手に名前をつけていた……なんてエピソードも出てくる(ちなみにこのエピソードを語っているのが京大元総長の尾池和夫氏)。
学生だけでなく、教官や職員にも「外の世界とちがうこと」を楽しむ余裕があったのだ。
ぼくも、入学式の日に学部長から「大学に来るのは二流の学生です。一流の学生は大学に来ずに勝手に学ぶ」という話を聞いて面食らった。
一教官ならともかく、学部長がこんなことを大っぴらに言うのかと。
当時はまだ「学生には堕落する権利がある」という風土が残っていたんだなあ。
だがその余裕はどんどん失われつつある。
最大のきっかけは、さっきも書いたけど2005年の大学法人化だろう。
国から独立した存在だったのが、何をするにも国にお伺いを立てなくてはいけなくなった。京大だけでなく全国の国立大学が。
その結果、教職員は疲弊した。この十数年で日本の大学の国際競争力がぐんぐん低下したのは周知のとおり。
研究力が落ちただけでなく、大学側には学生と対話する余裕もなくなっていった。
これをおかしいとおもうかどうかは難しい。このへんの感覚って、大学自治、寮の自治を知らない人にはぴんと来ないとおもうんだよね。
「学校側の命令に従わない学生に対して、大学側が裁判所に訴えを起こす」
って、世間の人からしたら「それの何が悪いの?」って感じだとおもう。
私立高校とか私企業とかだったらあたりまえのことだろう。会社所有の寮に住んでいる社員に対して、会社が出ていくよう要求した。いつまでも退去しないので裁判所に訴えた。会社の対応におかしなことはない。
でも、大学ってそういうもんじゃないんだよね。東大ポポロ事件を知ればわかるように、大学というのは特殊な場だ。国家権力からは独立している。
学問の自由があるので、外の世界の法律が通用しないこともある。勝手に大学に入った警官を学生がぶん殴っても、無罪判決が出る(ポポロ事件の場合は最終的には有罪になったが)。それぐらい大学における学問の自由というのは強い。
だから「社員寮を立ち退かない社員」と「大学自治寮から退去しない学生」はぜんぜん違う。
にもかかわらず京大は裁判所への訴えを起こしたわけで、あまり話題にならなかったけどこれはかなりの大事件だ。
法的に問題はないのかもしれないけど、つまんねえ大学になっちまったな、とぼくはおもう。
それって長期的に見ると自分たちの首を絞めてることだとおもうんだけどな。大学にとっても、国にとっても。
尾池和夫元総長はこう書いている。
「役に立つ」ではなく「面白い」が研究の目的にならないと、大学の力は衰退していく一方だよ。
巻末の対談で、京大出身の作家・森見登美彦氏がいいことを言っている。
「京大ってこんな自由な大学なんですよ」って書くのってすごく野暮なんだよね。そう書いちゃったとたんに自由でなくなる。
そういうことをあえて口に出さないから自由でいられるというところはある。
「私おもしろいでしょ?」って言う人がおもしろくないのと同じで。
だからほんとは、こんな本出ないほうがいいんだよね。
「京大ってこんな文化があるんです」
って書いちゃったらおもしろくなくなる。縛りがかかってしまう。
でも残念ながら京大の自由さもおもしろさも過去のものになりつつある。だからこういう本が出たんだろう。有名人が死んだときに追悼番組をやるようなものだ。
自由な校風(ほんとはこういうこと書かないほうがいいんだけど)はもう死んだのかもしれないな。悲しいけど。
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